あれから何周も走り続け、ついに日が暮れコースはほぼ見えなくなった。
ナイター用のライトはついていない。
ホームストレートにさしかかってきた撫子に「それで本当に最後だ」と声をかけ、コース脇で待つ。
あのロードバイクが止まるとき、まだ撫子が涙をこぼしていたら抱きしめてやったほうがいいんだろうか。
いかん、なんだかドキドキしてきた。
抱きしめるにあたり臭くないかと肩の匂いをチェックした次の瞬間、撫子はコース上で突然ブレーキをかけスっ転んだ。
びっくりして駆け寄ると、起き上がった撫子の胸に大きなペンダントがついている。
蛾だ。
それに気づいた撫子は短い悲鳴をあげて錯乱し大暴れした。
ジャージの裾をばさばさ揺らすが小田原の蛾はしぶとい。胸のあたりに貼りついたまま微動だにしない。かといって手で触ることもできず撫子はその場で足踏みし、ぐるぐる回りジャンプして、ゾンビに襲われたみたいな声をあげている。
い、意外と元気だ。
「や、やっ、とって、じぬ!とって、あ゛ーっっ」
「え?オレ?ちょっと待て、落ち着け!止まるんだ、でないと、その」
胸にさわってしまいそうだ。
言葉は出ず撫子に届かない。あれだけ走ってまだ跳ね回るその元気があれば、峠最速伝説いけるんじゃないかという気さえする。
と感心している場合ではない。
これは女子がかわいこぶって怖がっているヤツじゃない、声が野太くなる感じの本気の嫌がり方だ。
「や、う!やっ、や、とって、巻ちゃん!」
叫び、レーシングウェアのジッパーを一気におろした撫子は、ジャージを地面へ叩きつけた。
「なっ!」
日が暮れてようやく冷却がはじまったコースに撫子はしどけなく倒れこむ。
その後ろ姿にオレ、東堂尽八(18)はくわと目を見張り、唾を呑んだ。
日はすっかり暮れたのに、オレの目はいまの一瞬で超進化を遂げ、か弱いタンクトップ一枚に守られた柔肌が織りなす絶景を、克明にその記憶に刻んでいた。
ハッと我に返ったのは、全国の健全な男子高校生から讃えられるべき偉業だった。
撫子の肩になにかかけてやらねばと自分のジャージのジッパーを半ばまで降ろしたところで、自分も汗だくだったことに気がつく。
他にかけられそうなものは手近に見つからず、しょうがなく地面に転がっていた撫子のジャージをひろってなるべく肌色を見ないようにそうっと肩にかけてやった。
その胸の位置に、まだ大きな蛾がついていた。
「「ぎゃーーー!!!」」
ジャージが二度目宙を舞った。
二人してコースに倒れこみ、びっくりしすぎて笑いが込み上げてきた。
「やめ、東堂、くん、これ以上、笑い、すぎたら、胸に穴、あく、死んじゃう」
なんとなくどこか悪いんだろうと想像はつけども、胸をおさえしばらく笑い続けた撫子のその言葉が、真実言葉どおりの危険をはらんでいたとは、その時のオレに想像しろというのが無茶な話だ。
蛾はようやくいま、撫子のジャージから離れて夜空に跳んで行った。
***
暴れてどっとつかれた
夜は危ない。今夜の宿まで送って行こうと、ホテルの名前を尋ねると撫子はコインロッカーにおさめていた荷物の中からケータイを取り出した。
「この時期ってどこもいっぱいなのね。パソコンで予約できればよかったのだけれど機械とすこし相性がよくなくて」
タウンページから調べたの、などと苦笑しながらケータイの画面を開いた。
「確か小田原駅から15分くらいのカプセルホテルで、ケータイにメモを」
「なに?」
「あれ」
「おいちょっと待て、うら若き女子高生がひとりでカプセルホテルとは看過できんぞ」
「あれ、電源」
「おいったら」
「…」
「聞いているのか。…ケータイがどうかしたのか」
撫子のケータイの画面は真っ暗だ。
「貸してみろ」
電源ボタンを長押ししても、ウンともスンとも言わない。
「ふむ。電池がきれているだけか、故障か…、まあいずれにしても、カプセルホテルはこの東堂尽八が許さん」
今から別の宿を探そうにも、お盆の箱根は最繁忙期だ。
値はつりあがり、それでも満室になるのが常。あるいは奇跡的に空いていたとしても親の同意書なしで、高校生ひとりの宿泊はできないと断られるだろう。
この時間ならまだ電車もあるが、汗だくでくたくたの体で自転車を抱えて今から千葉に帰すのではそれこそ心配だ。
「ならば、撫子」
立てた親指を自らへ向けた。
「オレんち、来るか」
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