「尽八っちゃん、それはあたしらがやりますから」
「いや、美人にこんな重いものを持たせるのは忍びない。これは翡翠の間だったな」

仲居さん達が申し訳なさそうに顔を見あわせる。
持っていこうとした膳をひょいと別方向に奪われた。

「パチ、手伝いはいいからおまえはガールフレンドのとこ行ってやんな。さっきまかない下げに行ったらガチガチだったぞ。どうせキャンセルの部屋だってのに」
「タケ叔父ちゃん、あれはそういうのじゃないと言っているだろう」
「馬鹿言え、彼女でもない女の子連れて来たってんならそれこそほっぽり出して本館に突き出すぞ。いいいから今すぐ行って仲よくしてな」
「あら、あの離れにはいったかわいい子、尽八っちゃんのお連れさんだったの」
「え?なになに?その話おばちゃんたちにも聞かせて」
「だから違」
「おーっと邪魔だ邪魔だ、こっちは忙しいんだからあっち行ってろ。しっし」

叔父にひじで押しのけられ、かとおもいきや戻ってきて耳打ちしてきた。

「アレは枕の下だ。本館の母ちゃんと姉ちゃんたちには黙っといてやっから」

きばれよ!
と背中を叩かれ、旅館の従業員用の作務衣までひっぺがされ、オレは裏から追い出された。

ペダル回すよりドっと疲れた気がする。
離れへ長く続く飛び石を渡る途中、ここに来るまでのことを思い出した。
はついてくるのがつらそうだった。
心配になって一旦コンビニに立ち寄ったが、本人は平気だと笑う。これの平気はあてにならないと、ちょっと前から知っていた。 へとへとでうちの実家の旅館に着き、家に電話をかけるかと尋ねるとは首を横に振った。両親は出張でいないからと。親にも秘密で来たわけだ。
仔細はわからないが、確実に言えるのは、あの清楚でおとなしそうな見た目とは裏腹にという娘はいま“禁じられた挑戦”をしているということだ。
あいつが平気と言おうが言うまいが巻ちゃんには早めに連絡しておくべきだろう。
ポケットをさぐる。

「ケータイ…、なかで充電してるんだった」

離れの明かりが見えてきた。






、開けるぞ」
「東堂くんっ」

湯上りでホクホクしていたはオレを見るなり青ざめ部屋の隅に座ると、三つ指ついてこうべを垂れた。額や鼻の頭、頬がやけどしたみたいに真っ赤になっている。

「あの、本当にありがとうございます。それにごめんなさい。こんな大きいお部屋で、露天風呂に、豪華なお食事まで」
「別にかまわんよ。さっきも言ったがうちの実家だ。直前のキャンセルが出てな。支度した部屋も食事も無駄になるところだったからちょうどいい。代金も気にするな。ちなみに食事は豪華な奴ではなくただのまかない飯だ。豪華な方は裏方たちが喜んで食べた」
「そ、そうなの、ですか」
「なんで敬語」
「とてもおいしかった、です。きのことお味噌が特に。ごちそうさまでした」
「うむ、良い舌だ。うちの味噌はみやげとしても人気があるやつだからな」

三つ指つくはおいといて、自分のケータイを充電コードから取りあげた。横には、電池切れでなく故障と判明したのケータイがぽつねんと置いてある。
オレがテレビをつけ座椅子に腰を下ろしてもはまだはじっこにいて、怯えた目でこちらを見ている。
とって食ったりはしない、そう言いかけてやめた。
見慣れたうちの浴衣なのに、ラフにまとめ上げた髪の後れ毛がうなじにかかる姿を見ると妙に落ち着かない心地になる。ビビっている様も取って食ってほしいというアピールの一つなのではないかと都合のいい妄想ばかりわいてくる。
こいつ、あの口振りだと巻ちゃんのことが好きそうだったが、ひとつの無駄もなくロードを転がす姿と熱心な指導で、このハコガクイチのイケメンクライマー、東堂尽八のことを好きになってしまったのではあるまいか。

ならばいっそ話がはやい!

他校のかわいい女子と思うから変にドキドキするのだ。
オレのいちファンとしてだったらいつものとおりウィットに富んだトークでも披露して喜ばせてやればいい。それだけのことだ。

「テ、テレビでも見るか」

ウィットどこいった。
ああ、くそう、こうなったのも全部叔父の妙な入れ知恵のせいだ!






憎らしくもお盆期間のスペシャル番組はどれも退屈で、むやみやたらな騒がしさがこの離れの静けさを助長するばかりだった。二人いるのに誰もいないみたいだ。
だんだん居づらくなり、いたずらに庭など案内してみることにした。
風情のある場所だと褒めてはくれたが相変わらずはおとなしく、オレのトークの切れもいまひとつだった。

「そっちはその、どうなんだ」

ぼんやり池の鯉を眺めるの横で、オレは必要以上の勇気を使って会話を切り出す。

「ええと、だからだな。まあ落ち着け。うむ、そう、巻ちゃんとは同じクラスなのか」

はぽかんとしている。

「うむ!そうか、学年が違うんだったな」

そうだったそうだったとわざとらしく頭をかいて、オレはいま自分の一挙手一投足が気に入らない。口ごもって下を向いた自分の顔が水面に映り、水鏡から目をそらした。

「高校は別の学校なの」

の声と表情にすこし柔らかさが現れたのは、巻ちゃんというキーワードを出した効果だろうか。それとも柄にもなく慌てるオレを思いやってのことだろうか。
庭を散歩する老夫婦を慮って、そばにいないと聞こえないほど抑えた声でが言うから、そばに立ったまま聞いた。引き続きそわそわする。

「歩いて30分くらい。総北高校よりも家から近いから」
「そうだったのか」
「うん」
「てっきり同じ高校だから総北の金城から連絡が入ったとばかり思っていたが」
「金城くんは、去年の夏休みに病院で会ったの」
「去年、夏?」

それって福が怪我させた例のアレではなかろうかと、ひとり、冷や汗をした。

「診察の曜日が同じでね。2週連続待合室で一緒になって、総北の制服だったからずっと気になっていたんだけど、3週目にロードバイクを駐輪場にとめているのを見たらテンションが上がってしまって」

思わず「巻島くんを知っていますか」あの強面くんにそう声をかけてしまったそうだ。
そうして知り合った金城から秘密裏に巻ちゃんの学校や部活での様子を仕入れていたのだという。

「隠密行動が多いな」
「直接聞くと教えてもらえないもの」
「わかる」
「…でも、2月くらいから一度もメールしていなかったから、急に東堂くんの連絡先を知っていますかなんて聞いて、きっと金城君には気味の悪い思いをさせてしまった」

は申し訳なさそうにうつむいた。

「そうでもないと思うぞ。オレの連絡先を欲しがる女子は多い。千葉にもハコガクイチの美形クライマー東堂の名が知れ渡っているのだと総北の主将も改めてオレに感服し、畏敬の念をいだいたに違いない。それだけだ」

苦笑がフフとふきだして笑顔にかわった。よかった。
それにしても、これが金城にコーチを頼まなかったのは、ロードは無理だと周りが口を揃えるだけのの状態を彼も知っていたからなのかもしれない。
いよいよ明日は走らせられない、自転車練習場を出るときには決めていたことだった。
にはまだ言っていない。

「東堂くん」
「うん?」
「きょう、練習に付き合ってくれてありがとう。これまでも練習メニューをみてくれてありがとう。それに、こんなに素敵な旅館のお部屋を貸してくれて」
「なに、たいしたことではない。オレのことを好きになってしまいそうというのなら止めないけどな」
「東堂くんのおじさまとおばさまにもお礼を言わせてください」
「見事なスルーだ。だがそれは不要だ。少々事情がある。深刻で重大な事情だ。礼は後日オレから伝えておこう」

不思議そうにしたがそれ以上は問い詰められず、は努めて元気ふうにぐうっと上に伸びをした。腕を区切る日焼けのあとがまだ赤い。

「きれいなお庭だからもう少し見てまわりたかったけれど、明日のためにもう寝ないと」
「…」
「明日もよろしくお願いします」
「…ああ」

からんころんと下駄をならし部屋に戻っていく。

その足が回す全力のペダルは巻ちゃんの出国に間に合わない。
明日オレは教えない。
間もなくオレは密告する。

オレの行動はおそらく正しいが決して明るくはない心地で離れまで戻った。






「寝室はこっちだ。寝室の明かりは入ってすぐ左、間接照明がいらないならこのつまみを絞れば消える。目覚まし時計は鏡台のと…」

できるだけ早く立ち去ろうと、簡単に部屋を説明しながら寝室へ続く襖を開く。
布団が二組、一ミリの隙間も作らずセッティングしてあった。
あのくそ叔父

「キャンセルの人はカップルだったのね」

オレの肩越しに覗き込んだは気恥ずかしそうに笑った。

「う、うむ」

ちょっぴり猛烈な動悸がする自分を見事に制し、をビッと指さした。

「ではな。おやすみ」

オレにはちゃんと実家の部屋がある。
すべての煩悩を断ち切る勢いて力強く踵をかえした、その矢先

「東堂くん、待って」

胸が高鳴る。

「明日も9時から練習開始でいいのかな」
「あ…ああ、そうだ。だからよく寝ておくがいい」
「おやすみなさい」
「…うむ」
「また明日」
「明日な」

真面目と不埒に属する複数の感情が入り混じり、オレはいまどんな顔をしているか自分でもよくわからない。
ため息しつつ離れの玄関を出た直後、ドンと鉄壁にぶつかって玄関に跳ね返される。
見上げれば鉄壁の正体は叔父の胸板だった。
叔父は仁王像の顔で立ちふさがり、腕組みし、あごで戻れと示した。
ここでしゃべるとに聞こえてしまう。
以降、オレたちは身振り手振りと表情で会話した。



東堂家の男たるもの、女の子に恥をかかせるような真似をするんじゃあない

いやあれは本気で違う

叔父さんも初めては高三だった

そんなこと聞いてないし聞きたくもなかった

おまえの母さんと姉ちゃんたちにはパチは学校の寮に帰ったと伝えてある。今戻ったら逆にあやしまれるぞ

なにメンドクサイことしてくれてんだよ!

腹くくれ、尽八。叔父さんが言うのもなんだが、あの姉ちゃんたちにバレたら最後、明日には箱根温泉協会じゅうに広まるぞ



<<  >>