「東堂くん、忘れ物?」
身振り手振りと表情による長い攻防の末、オレは他校の、恋人でもなんでもない女子と二人きりの部屋に鬱々として戻った。
撫子は布団にうつ伏せになってノートに何か書きつけているようだった。
「諸事情あってもうちょっとここにいることになった。オレはしばらくテレビを見たら自分の部屋に戻るから気にせず寝てくれ」
「…さっきよりも疲れているみたい。熱があるんじゃ」
「気にするな、ホントに。ところでそれは日記か?」
「これはその、…練習日誌」
ぎくりとしたあと、なぜだか撫子ははにかんだ。
「ほう、泉田みたいなヤツだな。うむ。感心だ」
「まえに金城くんが少しだけ見せてくれたのを見よう見まねで」
「そうか。邪魔して悪かった、ゆっくり続けてくれ」
不自然さのない流れで、開け放たれていた襖を閉じ、女子が寝転がる寝室に背を向けた。
居間の座椅子に腰をおろしてポケットをさぐれば、ケータイの時計は夜9時を示している。
さっさと巻ちゃんに連絡を入れたいが、おせっかいな叔父はそろそろどこかへ行ってくれたろうか。
念のためあと10分待ってからこっそり外に出ることにして、つけたテレビではトイ・ストーリーの映画がちょうどぴったりはじまったところだった。
これはラッキーだ。
「撫子、撫子、トイ・ストーリーやってるっ」
思わず大声をかけてからしまったと口をふさぐ。
こっそり部屋を抜け出す作戦を忘れていた。
襖の向こうはしんと静まっている。
耳をすますがなんの音もしない。気になり細く襖を引くと、撫子は布団に突っ伏していた。
ついに具合を悪くしたかと慌てて飛び込んでしまったが、日誌を書く格好のままですやすやと眠っているだけとわかってほっと胸をなでおろす。
見る気はなかったが練習日誌の文字が目に入った。
日付 天気
練習項目
達成度
反省点
うまくいった点
明日の練習の目標
手書きの小見出しごとに、きわめて真面目な、感情を排除した文章で綴られている。
なるほど、総北主将の見よう見まねとは本当にそのとおりのようだ。
書き終わったページの厚みはノートの4分の3を超えている。
今日の分の日誌の最後の項目
明日の練習の目標
そこで文字は途切れていた。
ちがう。
浮かんだ予感を打ち消した。
ここで力尽きてうたた寝しただけだ。
ただのマヌケな構図なんだ、これは。
けれど、
どれだけがんばっても目標に届かないと思い知った日をオレだって知っている。
山神といわれるまでになったクライマーのこのオレが、中学までオールラウンダーになりたかったなんて誰も知るまいが、これまで積んできたものを捨てて切り替える瞬間のギアのあっけないほどの軽さを、誰にも言わずオレは死ぬまで覚えているだろう。
今にも手から零れ落ちそうだったシャーペンをそうっととりあげ、それ以上読まずにノートを閉じた。
まったく、高3の夏とはいろいろあるものだ。
疲れきって眠る肩まで夏掛けを持ち上げ、明かりとテレビを消してオレは部屋を離れた。
電話をかけようとケータイを開いたのとほぼ同時に、着信があった。
巻ちゃんだ。
向こうからかけてくることなど滅多にない。
本当なら心が躍るところだが、用件は言われなくたってわかってしまった。
通話ボタンを押したオレは、今まで聞いたこともないせっぱつまった巻ちゃんの声を聞くことになる。
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