東堂尽八の実家は箱根七湯のなかで最も古い箱根湯本に位置し、さらに湯本のうちでも老舗とあらわして憚るところのない歴史深き高級旅館である。
昼間は観光客でにぎわうが、日付けが変わるころには取り囲む峰々に守られて静謐の水底にひたされたように鎮まる場所だ。

その静けさを打ち破る大きな足音を聞いて、は目を覚ました。
体力を使い果たした体は糸が切れたように動かない。
襖の隙間から布団に細く一閃差し込んだかと思うと、その光は一気に広がった。
逆光の中に異様に細くて長い手足の影を見る。
東堂が慌てた声で巻ちゃん、と呼んだのを聞く。
ここにいるはずがない
影は迫り、光で収縮した目が正体を見極められないうちに、伸びた手がの腕を両側から掴んで引き起こした。
息をのむ。

「このっ、バカッッ!!」

浴びせられた罵声に、思考が頭の後ろへ吹き飛んだ。

「どんだけ心配したと思ってんだっ!おばさんなんか真っ青んなって警察呼ぶところだったんだぞ!!」

巻島裕介は汗をかき、いかりきった肩で息をしている。
強く掴まれた腕の痛みも感じず、全身を硬直させて巻島の形相を見上げる。

狭くなった視界の端に東堂の姿を見、隠してきた悪事のすべてがすでに暴かれていることを悟った。

家族に偽り、医者には言わず、金城の親切を利用して罪なき巻島をダシに、何も知らない東堂に片棒をかつがせた。
目的はなんだ。
自分が嫌いだったからだ。無理と言われたことを、それでもやりたいともがき足掻いて傷ついて重く苦しむことがないように心にトンネルをあけたのはずっと昔のこと。遠足も体育も修学旅行も運動会も進学も、無理なことが増えるたび穴は広がる。やりたかったことをできなくて平気と笑ったことに嘘はない。本当に痛くない。心のむこうへ通してしまうから痛みはないのに、
18歳になってようやく気がついた。
このトンネルの存在は激痛だ。
いつか自分の体よりも大きくなって身動きがとれなくなる。
だからはやってみることにした。無理だと取り上げられないようにこっそり練習して、そして「いつか」できるようになる。そうしたら家族はきっと喜ぶだろう。そうしたら巻島の卒業式の日に彼も走り抜けた箱根神社の大鳥居の下で両手を空に突き上げた写真をおくってやろう。そうしたらはもうなんだってできる気がしていた。
けれど「いつか」は急に来た。
3月じゃない、あと11日しかない。
修学旅行も学年も距離も「無理」も、(わたしは動けないままチギられる)
震えあがり歯を食いしばり汗を散らして目を血走らせ、優しいひとすべてに嘘をついた
すべて自分のための独りよがりの暴走だ。挑戦とかいう輝かしい言葉で飾り立て、とんでもないことをした。それなのに
できない
無理だった
誰ひとり喜んでなどいない
この醜くひしゃげたみじめな姿のいったいどこに、なりたかった自分があるというのだ。世界から消えてなくなりたい。

「…息、平気か」

心が静止する。
右の目からひとすじ、涙だけ落ちた。
巻島を見上げたまま震えかけた唇を固く引き結び、奥歯を噛み締める。
歯を噛む強さで頬が震える。
閉じられない目が高度をさげてゆく。
すべての罪悪感がざんざんと喉の奥からあふれ来て、ゆがみ切った顔をゆっくり下へむける。
強く抱きしめる腕があった。
肩と頬と手のひらとでの頭をおさえて、浴衣の背にあてられた手は燃えるように熱くわずか震えてさえいるのに、撫ぜていた。
心臓が握りつぶされる痛みを感じた。
肺に穴が開くより心にトンネルをくりぬくより今が一番痛い。
は、汗で濡れた巻島のTシャツの背に、グローブ型に焼け焦げた十本の指をひきつらせた。

「平気ならなんか言えショ」
「もう、どうしたらいいか、わからない」

謝るべきだと思っていたのに、心はそう叫んでいた。



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