「はー…」

巻ちゃんはを抱きしめてしばらくした時とはまた違う長い息をついた。

「やべー…、沁みる…ショ」

うちの離れの三棟にはそれぞれ小さ目だがひょうたん型に岩で囲った露天風呂が付いている。目隠しに藁をうすく葺いた天蓋には、半月が素知らぬ顔してのんびり浮かんでいる。

は今頃、布団のうえに正座して巻ちゃんのケータイ越しにお母さんに叱られている。
叱られている間に、オレたちはひとっ風呂浴びてくることにした。正確にはオレが無理やり巻ちゃんの風呂についてきた。
の体のことを聞いたときには、宿までの帰り道でやけにしんどそうだったのを思い出し肝を冷やしたが、幸いにもの肺は本当に「平気」らしかった。あの口はもう嘘を言わない。
オレからはがここに来るまでの経緯を話して聞かせた。
巻ちゃんはきっといろいろを思っていたがなにも口には出さず、囲う岩の隙間をじっと見つめていた。
は巻ちゃんのこと絶対好きだぞ、と親切に言ってやったりはしない。
死ぬほど心配して真夜中に箱根まで駆けつけるようなこのクモ男が自分で言って、自分で知るべきだ。

「それにしても驚いた。あの時間からでも千葉から箱根まで来れるのだな。はっ!まさか、ここまでロードで来たのかっ!?」
「んなわけないっショ。電車のほうがよっぽど速い」
「うむ、それもそうだな。電話であのあせりようだったから、てっきり自転車で千葉からここまで激チャリしてきたかと思ったぞ」

巻ちゃんにとってはあせった様子をオレに聞かれたことは記憶から抹消したいことなのだろう。返事は返らず、ひょうたん型の温泉の奥の方へ行ってしまった。機嫌を損ねてしまったか。
髪は女子みたいにまとめ上げているが肩幅があきらかに男子な後ろ姿が月を見上げ、

「…最初、ロード取り行った」

とぽつり、言った。

「父さんに引き止められて、ちゃんと最短経路調べろって。そしたら車でも自転車でもなくて電車が一番速かった」
「…そうか」
「悔しかったから俺が行くっつった。おばさんはショックで動けなそうだったし。あいつは俺のことをすごいって言うけど別に全然すごくない。思うとおりの自分になんてなれてないショ。できないことばっか、バカなままどうしたらいいかわからない。同じだ、同い年のヤツだいたい」
「そうだな」
「じゃあおまえがあいつにそう言ってやれショ」
「自分で言え」

それきり会話は途絶えた。
巻ちゃんはずっと月を見上げている。

「なあ巻ちゃん」

返事はなかった。

はきょう100キロ走ったぞ」

ながく返事はなかった。
ながく待って湯気の向こう、巻ちゃんが見上げているのは月じゃなくて連なる箱根の山並みだと気がついた。












***



もう夜中の1時半を過ぎている。
今日一晩は巻ちゃんもうちに泊まっていくことになった。
浴衣に着替えて二人室内に戻ると、寝室の電気もつけないまま布団の上に座っていたがおずおずと振り返る。日焼けすると肌が赤くなる体質らしく、もともとおでこと頬骨と鼻のあたまを赤くしていたが、さらに目まで泣きはらして痛々しいったらなかった。
なのに、とめていた髪を降ろして顔を隠すしぐさは妙に色っぽくていい。
突然、巻ちゃんがオレの前に立った。
右によけてみたら、巻ちゃんも同じ方向に来た。
何がしたいのかわからず首をかしげると、巻ちゃんは寝室の襖を静かに閉じてから、

「見んなっショ」

と、言った。

オレの顔は猫になる。

「やいやいやい、やい巻ちゃん!顔が赤いぞ巻ちゃん!」
「うるさいっショ。これは温泉入ったからッショ」
「この初々しさ、付き合ってないというのは本当だったようだな」
「ハ、ハァ?なんの話っショ」
「いやなんでもない、こっちの話だ。いやむしろそっちの話だ」

何言ってんだこのカチューシャとぶつくさ言いながら巻ちゃんは改めて寝室の襖をあけた。

「疲れたからもう寝る」
「川の字か!」
「東堂、おまえ最近カチューシャのつけすぎで頭悪くなったんじゃねぇーの、受験大丈夫か」
「カチューシャの悪口を言うのはよせ」
「おまえいつからカチューシャになったの」

お母さんに叱られてだいぶ凹んでいると見えるの横では、せめてこちらがギャアギャアやっていないと空気が重い。そのどさくさで布団を二組居間のほうへ引っ張りだす作戦だろう。荒北、いや、よしきた、と目で合図し合い、巻ちゃんが寝室の明かりをつけた。
と二人きりで眠るわけにはいかなかったが、実家の部屋に戻って母親や姉に勘付かれるリスクはできる限り負いたくなかった。巻ちゃんもこっちの居間で寝てくれるというなら万事解決だ。さすが巻ちゃん!

「修学旅行みたいで楽しいな巻ちゃん!もう、しばらく一緒に走れないと思うとさびしいがオレたちのこれまでの名勝負と未来のことを夜明けまで熱く語りあおうではないか。ワッハッハ、これで巻ちゃんがロードで駆けつけていたなら、サファリパークと名高い夜の箱根峠に今すぐこぎ出していたところだった。普通にイノシシが出るぞ!」

猫背気味の背をバンと叩くが、巻ちゃんは電気をつけたきり反応がない。

「ん?どうした」
「これ、なに」

巻ちゃんが指さす先には布団がある。

「布団だ」

二組、1ミリの隙間もなく。

「これは違う巻ちゃん誤解だ」
「まだなんも言ってないっショ」
「顔が怖い!こ、これは前のキャンセル客の分の支度でこうなってああなってだな、ともかく巻ちゃんが心配するようなことはしていない。数日前この箱根ですべての力を使って語り合った友の言葉を、信じられないというのかっ!」
「カチューシャはいつも女子の話ばっかしてるッショ」
「せめて名を呼べ巻ちゃん!」

完全にオレのことを疑った目で見る友の信頼を取り戻すには、もう一人の証人が必要だ。

からもなんとか言ってやってくれ」

すがるように助けを求めると、は精根尽き果てたしどけない姿をゆるゆると振り向かせ、巻ちゃんと目が合うとすぐにそらした。眉根を寄せて声は震える。

「…巻ちゃん、ごめ、なさ…っ」

証人が罪悪感でいっぱいいっぱいでこっちの話を全く聞いていない可能性を失念していた。

「尽八てめえになにしたっショオ!?」

襟首をひねり上げられ始まった取っ組み合いの末、死刑だ!と叫んだ巻ちゃんにカチューシャをへし折られた。
その後、尽八を殺しちまったと急に冷静になった巻ちゃん(オレ死んでません)に改めて事情を説明し、無事、誤解は解けた。
昼の練習と泣き疲れでいつのまにかが寝入っていたので音をたてないよう布団一組と、押入れからもう一組を引っ張り出し、居間に述べた。

「あーもー、無駄につかれたショ」

巻ちゃんが布団に倒れこみ、抱えた枕の下から三連コンドームが発見されたあとの騒動は、割愛する。



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