「お世話になりました」

別館の門前で、昨日と色違いのパステルピンクのサイクルウェアに身を包み、は深々と頭をさげた。帰るときの私服を忘れたらしい。
巻ちゃんは「慣れないことするからショ」とバカにしたが、その巻ちゃんが着るTシャツは、昨夜その身ひとつで汗だくになって駆けつけて翌日の着替えを忘れた巻ちゃんにオレが貸したものだった。
洗って送り返すとカタいことを言う巻ちゃんに、「かまわんよ、オレからの餞別だ」と男前に笑んで見せる。

「いらない」
「照れるな」

ビッと指さすポーズをやってやったら、巻ちゃんは素直に受け取った

箱根峠に触れることなく、の挑戦は終わった。
今日は練習させることはできないと伝えると、は予想していたのだろう、静かに受け入れた。
オレと目が合うと感情をかみ殺して微笑む顔を作って見せるが、へたくそだ。

「そんな顔をするな。また来るんだろう。お越しの際は当館をごひいきに」
「医者がいいって言ったらな」

巻ちゃんの横で「はい」とうなずけなかったのかわりにいじわるぶって巻ちゃんが言った。自転車以外仕方のないやつだなとため息はそこそこに、オレはのロードをたたんでおさめた輪行バッグをの肩から引き受けた。

「駅まで送ろう」
「…」

肩にやりかけた輪行バッグを巻ちゃんがなにも言わずにひったくって行った。

「…本当に巻ちゃんは自転車以外、アレだな」
「なにが。さっさと行くッショ。電車が混む」
「ありがとう」

が言うと「…なにが」と振り向きもせずに返した。
あー、もー。



相模湾へそそぐ早川を越え、まっすぐ駅へ向かおうとする巻ちゃんを道々で引き止め土産を買わせた。
先に持たせた我が家秘伝の味噌に加え、温泉まんじゅう、鈴廣のかまぼこセットを持たせ、何度も何度も写真を撮り、「やめろ、暑いし気持ち悪ィからくっつくなっショ!」と巻ちゃんと二人ワーギャーやっているとき、オレは一度だけをうかがった。
土産物屋を両脇にしたがえ徐々に登りゆく国道1号の、カーブで見えなくなったその先をはじっと見つめていた。
引き止めすぎてキレられたのが3回を数え、オレは箱根湯本駅の改札で強く手を振った。

駅を出て、国道をまたぐ通路を通り、地上に降りる。
峠へ向かう方向へ国道を少し行って、あの道で左にそれれば早川へかかる橋の向こう、我が家がある。
観光客でいつだってにぎやかなこの道は、オレにとっては何百回何千回と歩いた道だ。
まだゆるい坂道を、自分のサンダルを見ながら登ってみる。
後ろから一台の見知らぬロードレーサーが国道1号線を駆け上って行った。
連なるように背にゼッケンをつけた透明色したロードレーサーがいくつもオレを追い越した。
慌てて坂の上を見上げたがロードレーサーの姿などなく、観光客と車だらけのいつもの坂道だ。
もっと手を振ればよかった。
仲間とライバルたちと駆け抜けたあの暑い日が確かにここにあったことがもう奇跡だったみたいに恋しかった。



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