箱根湯本も小田原も帰りの電車は混雑していた。
電車のなかで邪魔にならないよう、デカい輪行バッグを抱えて車両の隅っこに立つ。
撫子は来るときもすべて鈍行で来たと言う。
これが新幹線を使わないよう言われたのは小3の時だった。当然、飛行機も医者の許可がなくては乗れない。そこは守って自転車で一日100キロ走るという矛盾をやった。
地元に戻ったらすぐに精密検査にしょっぴかれる。
お互い口数少なく、気まずい電車に揺られること1時間、乗り換えでようやく座れた。
さっきまでの混雑と打って変わって、地元まで運んでくれるこの見慣れた列車はガラガラだ。俺が座席の一番端に輪行バッグを腕で支え座り、撫子は前にリュックを抱いて人形みたいにおとなしく俺の横に座る。
無言のまま三駅過ぎた。
誰も乗ってこなかった。
自分で言えと東堂に言われた言葉が喉にひっかかったまま、窓ガラスの形に電車の床におちる光をじっと見た。
「ごめんね」
横からそう聞こえた。その声は川のそば、夕暮れの帰り道で聞いた。東堂の旅館でも何度も聞いた。
「もういい」
「…東堂くんにもちゃんとお礼とお詫びしないと」
「あいつにはカチューシャでも送っとけばいいっショ」
「いくないよ。東堂くんの好きなもの、知ってる?」
「自転車」
「そうだけど、そうではなくて」
「女の話」
「巻ちゃん」
「山」
真面目に応じる気のない俺から答えを聞き出すのをあきらめて、撫子はまたおとなしくなった。こっちの気も知らないで。当然か、言ってないから。
「…おまえ、さあ」
日焼けしてか泣きすぎてか、赤い目がこちらを向いて、俺は輪行バッグを抱えるほうへ視線を逃がした。
「もうあんま東堂と連絡とんなっショ」
「練習、教えてくれる人がいなくなってしまう」
「もし医者がいいつって、ロード続けるなら俺が教えてやる…ショ」
「すぐいなくなるのに」
「別に東堂だって遠いだろ。直接じゃないなら同じッショ」
「国際通話って、高いって」
「いまはネットで顔見ながらしゃべれるやつとかいくらでもあんの、タダで」
「そうなの?パソコンあんまりうまくなくてもできる?」
「できんじゃね」
「お母さんのパソコンでも?」
「つか、俺のパソコンやる。もうSkype入ってるし、向こうで新しいヤツ買うから」
「すごい、本当に」
「本当」
「エッチな画像入ってない?」
「入ってるから消してから渡す」
久しぶりに撫子の笑う顔を見た。まだ心の底からというわけにはいかないけれど。
「よかった」
ふいに撫子は顔を前に抱えたリュックに伏せた。
「飛行機、乗れないから」
くぐもった声でそう聞こえた。
グローブ型に赤く日焼けした左手がスカートをきつく握って、しわを作っている。
その手に右手を重ねた。
「100キロ走ったんだろ」
それ以上言えないかわりに手に力をこめる。
撫子は顔をあげず、俺は車両に人が乗ってきても手をはなさなかった。
住み慣れたあの町まであと16駅
ぼく、小野田坂道と言います。
そして今、巻島さんが電車でぼくの目の前の席に座っていて、きれいな女のひとのててててて手を握って、おやすみ中です。座席の横にあるのは巻島さんのものじゃない輪行バッグで、女のひとはサイクルジャージを着ています。お互いに頭と肩をあ、あず、預け合っておやすみ中です。
車掌さんのやる気のないアナウンスが次の駅の名前を読みました。
巻島さんの最寄り駅です。
車掌さんもっと大きな声で言ってください!でないと、巻島さんたちが起きる気配が全然ありません!あ、どうしよう駅につく、ぼくが声をかけないと、で、でも、そんな、この状況でできませんっ!
わああっっ、もうドアが開くぅうう!助けてくださいっ鳴子くん、今泉くん、田所さん、金城さんっっっ!
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