第十九番 

法然寺/京都嵯峨

2006年11月5日参拝

 

余り熱心に参拝したためか予定時刻より遅くなり、秋の夕日はつるべ落としのごとく着いたときには薄暗く帰りにはどっぷりと暮れていました。夜間の撮影を絵にしたものです。

ここの住職の話がなかなか面白く時間があればもっと聞きたかったところです。浄土宗普及になくてはならなかった人物熊谷直実(1141-1207)の物語でした。浄土宗は法然上人が経を説き、布教の財力を支えたのが熊谷直実です。

さて、この熊谷直実という人物ですが源平合戦で実績を上げたのが有名です。熊谷直実は武藏国熊谷(埼玉県熊谷市)の源氏の武家に生まれる。父親と早く死別し当時武家として生きていくためには母子家庭では認められなかった。そこで、親類の武家屋敷にあずけられた。しかし、その武家屋敷にもたくさんの子供がおりほとんど下人のように使われた。食事には、その家の子供達が食べ終えてから残っておれば土間の筵の上で食べさされた。もし、残らなければ食事にありつけなかった。そんな厳しい環境の中で性格はゆがみ人一倍富、財に対する執着心が生まれる。幸いにも身体は大きく頭脳明晰であったことから成人してからは技量を発揮し戦いには活躍した。それに伴って財も蓄え、さらに世の中の情勢を判断するに、平氏にあらずんば人にあらずの時代到来を察知し、源氏から平家に鞍替えする。敵を知り己を知れば百戦危うからずの通りもともと源氏であったため源氏の手の内は熟知しておりさらに活躍し巨大な富を蓄積して言った。最初の源平合戦で頼朝が負け逃走探索の折自分も元は源氏であったことから頼朝を助け。そうこうしているうちに清盛も死去し平氏不利となるや頼朝の誘いもあって再び平氏を裏切り源氏となって戦い大きな戦功をたて益々財を蓄えることになる。子供のころからの反骨精神で大きな財を蓄える事となったが、当時16歳の平敦盛を討ったことから無常を感じるようになり多くの人をあやめてきた自分を責め死のうと思ったが、死ねば地獄行きが怖かった。そんな折、法然上人と出会い、こんな自分でも極楽往生出来る道があることを諭され仏門に入って熊谷蓮生と名乗り全財産を浄土宗普及にささげた。・・・らしい。