特別霊場 善光寺 御開帳記念参拝

2009年5月25日参拝

 

長野善光寺は天台宗と浄土宗により管理されている。宗派が浄土宗であり善光寺の前立本尊が7年ごと(満6年)の御開帳ということで、法然25霊場参拝関連で菩提寺一行参拝の機会を得た。

特に信仰に厚いわけでもなく、善光寺のいわれも知らなかったし時節柄乗り気ではなかったが、そこはそれお付き合いということもあり、又百聞は一見にしかずということもあり参加した。

絵の中央の大きな柱には白い紐が金の糸につながりその金の糸は阿弥陀さんの右手につながっている。この阿弥陀様は本物の身代わりで前立ち本尊とされている。その前立ち本尊が普段は宝物殿か何かにおられ、一般には見ることも拝むこともできないが7年ごとの御開帳のときは本堂に安置され、金の糸により(途中から紐)大きな柱に結ばれ、その柱を触る事により阿弥陀さんを直接触った事になりご利益があるとされている。(この辺は善光寺の公式ホームページで正確なことを調べてください)

 

この大きな柱(回向柱)を触るのに1時間から4時間待ちの行列ができている。信仰心のないものにはとても我慢ができませんが、そこはよくしたもの、観光会社を通じてセットされるこの種の企画、宿坊の案内により行列を横目で見てスイスイと内々陣まで直行、ありがたいお話まで聞ける。裏口はどこにでもある。

それにはそれが必要。写真から先祖の回向、みやげ物まで、あれよあれよといううちに財布の中身は飛んでいく。(別に自由ですから度胸があれば断ればよいのですが・・・)

それはさておき、浄土宗のえらい尼さんからお説教を聴き、今回もそのときだけは、貧瞋癡(とんじんち)(むさぼり、いかり、おろかさ)から開放される。が、直ぐに凡夫に戻るのですが。

 

信仰というものは疑えばきりがなく効果もご利益もない。意味を知るためには何十年もお寺や、山に閉じこもり悟りを開くしか道はない。

単純に、困ったときに心の支えとする何かがほしいがため、信仰にすがるのであろう。