【第4回】

 

第113号(2009.7.1発行)

ササユリ

 
【掲載文】  

遠い昔、大八車(だいはちぐるま)が牛に引かれて、犬も一緒に一家そろって山田の田植えにマッタケ山やくぬぎ林の曲がりくねった山道をゆっくりと進みます。土手の野芝もきれいに刈られ、沢の水で満水になった田んぼが鏡のように濃い新緑と澄み切った初夏の空を映し出しています。田植えの間、子どもは小魚を取ったりしのべ竹で笛を作ったり、牛の番をしたりして過ごします。昼のお茶はグミやサカキの葉っぱをいぶし現地調達です。田植えが終わる頃には、子どもが両手で抱えられる程度のササユリが()れました。そこは止々呂美への街道、(みつ)()(たに)です。いつの日かの旅立には、この桃源郷のような思い出を道連れにできたらと思います。

 
【説明文】  

私が小学校に入るか、その近辺の昭和25-30年頃だったと思います。今の東ときわ台から箕輪止々呂美へ抜ける道の途中、そこは「光ヶ谷」(ミツガタニ)と呼ばれている場所です。今も少し田んぼが残っており耕作されている方もおられますが、当時は今の「トンボ池」と呼ばれている耕作放棄地のもっと上の方から、止々呂美付近に至るまで小さな沢沿いに田んぼが連なっていました。

当時、我が家もその場所に田んぼがありお米を栽培していたのです。今でこそ車で5−6分の距離ですが、当時は弁当持ちで行き来していました。道は凸凹の大八車が通れるほどの幅員のある山道で、両側はマッタケの取れる松林とクヌギ林でした。秋の刈り取りは、刈り取った稲を、春の田植えは牛の餌である草を持ち帰るため牛に大八車を引かせて行きます。行きは空荷のため子ども達は大八車に載せられていきます。何せ、ショックアブソーバーなどはない第八車は道の凸凹をもろに受け尻が痛かったのは覚えています。光ヶ谷に着くと、子供心にも綺麗な景色だったのを覚えています。田んぼは谷間にあるのですから、思い思いの形をした階段状になり、その土手は、綺麗に刈られ野生の柴がはえ、春の水を張った田んぼは鏡面のように輝き、又、刈り取りの季節には周囲の早い紅葉(当時の稲刈りは10月だった)と黄金色の稲のコントラストが見事です。

昼食は楽しみの一つです。田んぼで火をたき、すすけたやかんを木の枝からぶら下げ、沢水を沸かしその中に、シャシャキ(ヒサカキ)や野生のグミの葉を焚き火であぶったものをいれ色と香りを出したお茶を入れ、ご飯はメンツ(飯櫃とは、炊いた飯を移す容器で、楕円(だ‐えん)形をしている----ネットから)と呼ばれた長楕円形をした木で作くられた弁当箱に入れられ、おかずは秋なら付近の山でマッタケやきのこ(旬は過ぎているが、まだ残っている雑茸などがある)、春なら山菜・野セリなどを採集し間に合わせていた。沢で子ども達が取った小魚なども食した。作っている稲はイノシシの被害から守るため、「毛」と呼ばれる(正式な品種は知らない)穂の粒の1つ1つから2-3センチの針のような毛がついた品種が植えつけられており、イノシシが食べようにも、口の中がモジャモジャして嫌ったのだろう。家に持ち帰りハサと呼ばれた稲木に天日干ししてから、唐竿と呼ばれる棒でその毛を取り除いていました。当時、現在のようなシカ被害はなく、被害を受けるのはイノシシだけでした。

6月後半(昔の田植えは遅かった)、そのような山の谷間の田植え時は、どこからともなく春風に乗ってプ〜ンとササユリの香が漂い、いくらでも採集できました。

今で思えば子どもの目線で見た光景は桃源郷のような記憶に置き換えられて記憶に残っていますが、当時は食うや食わずの生活でそんなのんびりの生活ではなかったでしょう。でも、大切な何かがあったように思います。

今でも、時々当時の夢を見ます。すばらしい光景です。そのような思い出がこのササユリにこめられています。