○鎌倉資堂講
多くの講は、○○成田講と地名や業種等の下に講を付け名乗りますが、鎌倉は資堂講 と付きます。
資堂講と言う名称は、旧本堂1858年(安政5年)現釈迦堂(重要文化財)建立に際し、多額の建設資金を奉賛した事により資堂の名をい授けられた講です。以来成田山では、その篤い信心に対し、毎年3月5日から3日間、十ヶ座十万遍修行を奉修し、資堂札という特別祈願の御札を各地の資堂講にお授けしています。昭和43年発行新修成田山史によれ ば昭和43年全国(全世界)の講社1904社の内、資堂講と名の付く講社はわずか7社、埼 玉県5社、千葉県1社、東京では鎌倉資堂講1社しかありません。当時、本堂建設には
実に12年と言う歳月と数万両という費用がかかったので、わずか7社の志納金では賄えるはずも なく、全国から多額の志納金が集まったはずです。何故7社だけに資堂講の名が付いた かは残念ながら不明です。
資堂講の名ですが、江戸期の講を集めた成田山の講中記
文化2年 文化10年 文政4年8年13年2年 慶応4年
それぞれの講中記には、残念ながら見つける事はできません。
ただ、地名ではない講名が現れるのは、一部を除き慶応4年の講中記からです。
当方の記録が残っているのは文久元年からですが、村の者が何人かで参拝していたのが本堂建立の話で志納金を募り、村の講として組織が出来たとして考えるのが無理がなく、本堂建立が安政5年なので安政期創立としているのではないかと思われます。ただ何時から資堂講と名乗るようになったのかは定かではありません。一番古い記述は
永代資堂講
木札弐拾五枚
年々三月五日聢相渡可申候以上
慶応二年寅年 1862
五月二十七日
武州
葛飾郡鎌倉新田
御連中
とあるので 慶応年間にはすでに資堂講として活動していたと思われます。
別の考え方としては、
成田山は明治初年でも本堂建設資金で十八万両の借財があったと伝えられていますので、それまで講として活動していた、鎌倉講が慶応になってから、本堂建設資金として二十五名の者が奉賛し、資堂講の名を頂いたと考えることも出来ます。
釈迦堂