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第13駆潜隊軍医長報告

軍医長報告の入手の経緯
 2009/3/13の朝日新聞の記事「心結ぶ戦地の花」を見た広島市の大魚(おおうお)さんが、 「第13駆潜隊軍医長報告」を送ってくださいました。
 大魚さんは、駆潜艇27号(篠田艇)で戦死した少年通信兵の中野 栄さん(当時17才)の甥ごさんです。 大魚さんは19年前に、駆潜艇26艇(松島艇)の機関科員だった日高さんと出会い、叔父が戦死した時の状況を知り、 「第13駆潜隊軍医長報告」を受け取ったそうです。
広島市 大魚(おおうお) 正人 平成21年3月26日(木)
冠省
 昨日、3月14日付けの朝日新聞社の新聞記事「キスカ沖に散った夫 あれから67年」を拝見しました。
 私は、同記事に書かれている駆潜艇27号に少年通信兵として乗り組み、米国潜水艦グラニオンに雷撃された際に戦死した中野 栄の遺族(栄の姉《旧姓中野 文代》の長男)に当たるものです。 グラニオンの艦長がエイブリー少佐であることや、 グラニオンが日本の貨物船に砲撃されたらしいことは存じていましたが、 深海に眠るグラニオンが発見されたことや、 エイブリー少佐のご子息のこと、 27号艇の艇長のお名前は初耳でした。 非常に詳細な記事に深い感動を覚えました。 私の叔父中野 栄(17)は篠田艇長より20歳も年下、また艇長室の隣の通信室に勤務していたので、篠田艇長に随分かわいがって頂いたんだろうなと思いました。 そして、篠田艇長のご遺族の方が、もし「27号駆潜艇が雷撃された具体的状況」をご存じなかったら不仕付けながらお知らせしたいと思い、ペンを取りました。
 私は戦後の昭和21年生まれのものですが、19年前にひょんなことから、「南西太平洋で魚雷艇などの小艇に乗っていて戦死した」とばかり思っていた叔父中野 栄が、「実はキスカ湾外で米国潜水艦グラニオンの雷撃を受け、昭和17年7月15日、午前11時33分(日本時間)に戦死していたこと」を詳細に知ることができました。
 ここにその具体的な資料を複写して同封します。
  • 一、第27号駆潜艇の被雷撃時の状況(第13駆潜隊軍医長報告)
     第26号艇に乗船していた軍医長堀田 康哉氏(19年前は仙台市医師会会長)の手記
  • 二、中野 栄の海軍履歴、中野 栄の戦没状況(二つとも公文書)
  • 三、同型艇の第25号艇の全景 (雑誌「丸スペシャル」より)
  • 四、キスカ湾内に停泊中の第13駆潜隊(25号、26号、27号)の遠景写真   
 この他に資料として、当日第26号艇の機関科で勤務しておられた日高 利正さんの書簡があります。
草々


一、第27号駆潜艇の被雷撃時の状況(第13駆潜隊軍医長報告)
仙台市医師会/会長 堀田 康哉 平成2年9月20日
第13駆潜隊 軍医長報告     堀田 康哉

I [キスカ方面の状況]
(1) 敵のキスカ攻撃はミッドウェー作戦以後である。
(2) 初空襲はS17.6.12からと記憶している。
(註)コンソリデーテットB24  5機来襲
高度 2000 m位   1機撃墜
                 2機撃破
(3) 初空襲以後 間断なき空襲が繰り返された。(夜間 殆どなし)
(4) 日増しに敵潜の攻撃が目立って来た。
 さて、ご質問の件、次に述べることにする。 現場を知らぬ小林氏が評論家的立場でいとも簡単に発表された印刷物「平穏」は至極残念軽率と云わざるを得ない。  次に小生の現場の実態状況を逐次述べることにする。             

II [当日の天候と状況]
(1) 日時・・・・S17.7.15  11:33 AM頃 (現地時間)
(2) 天候・・・・曇天、雲低し 霧(mist)なし
(3) 波浪・・・・2〜3

III [当日の模様]
 当日(S17.7.15)敵潜掃蕩打ち合わせの為 25号、26号、27号の三艇はキスカ湾内に集合、当日早朝小生司令艇25号艇より26号艇に移乗 諸準備完了、掃蕩作戦行動開始 湾外に出る。帰投予定正午12:00 小生終始見張りを兼ねてBridgeに在り。作戦概ね完了。帰投キスカ湾口に向かう。臨戦準備を解き、見張るだけとなる。11:00AMキスカ島近し。

IV [以下 現況を述べることにする]
 湾口間近となる。小生昼食を摂る為、士官室に入り椅子に安坐し乍ら雑誌(講談クラブ?)を手にとる。  
(1)7.15 11:33AM 突然ドスンと云う大きな音響を耳にしたので、直ちにBridgeに走る。 不安に駆られ乍ら甲板より左舷を見る。
  (註)小生空襲と判断するも魚雷攻撃 座礁 衝突 艇内事故なるや原因は皆目不明。
(2)25号艇の全長の約半分以上を海面上に望見せしも、瞬時にして水中に没す。艇首なるや艇尾なるや不明。


  (註)本26号艇との距離約500m、爆発 火煙等全く見ず。
(3)右舷を見るに約500mの距離に27号艇あり、煙突から陽炎のような空気の揺れを望見した。 尚、何となく27号艇全体の大きな振動があるように見受けられた。
(4)直ちに舵を右にとり(面舵)、本26号艇は状況確認の為、27号艇に接近を試みる。 すると、全く突然眼前に紅赤な絨毯を広げたような幕が見られ、 それも瞬時に消失、然も海面には何も存在しなかった。 更に近接、海面を検するに相当広範囲にどす黒い煤が拡がっていた。 その他浮遊物は何もない。
(5)本艇26号は、25号・27号両艇の沈没(轟沈)の原因に疑問を抱き乍ら直ちに状況判断の為、舵を左にとり(取舵)キスカ湾口に向かう。
  (註)逃げたのではなく飽くまで状況判断確認の為。
(6)魚雷発見、本26号艇尾左舷30°。
この時点で始めて25号、27号両艇の事故は敵潜魚雷攻撃なること確認出来たのである。小生Bridgeより雷跡を確認 艇は直ちに面舵をとったが、この時居合わせた機関科の准士官?(美髭を貯う氏名忘却)が慌てて、取舵一杯魚雷は艇尾の死角に入り視界より去る。 小生命中を覚悟屈位をとりしばし瞑目やがて魚雷は艇尾を通過 キスカ島海岸の砂浜に打ち上ぐ。
  (註)魚雷の直径53cm。
機関科准士官の咄嗟の好判断で本26号艇は難を免れたのである。
(7)この時点で初めて、25号、27号両艇の轟沈は敵潜の魚雷攻撃によるものと断定、直ちに反転掃 蕩作戦に入る。併し25号、27号両艇の沈没直後だけに爆雷攻撃には抵抗があったと云うのが真相である。

V [コメントと纏め]
(1)湾口とか海峡等では必ず威嚇投射が必要である。               
  (註)@ 小生 常に爆雷の威嚇投射を従来主張してきた。
     A 帰投時 湾口近くで威嚇投射をしておけば、このような事故は完全に避けられたと思う。 明らかに作戦ミス、一文惜しみの銭失いの感強し。
     B 東京湾口、マラッカ海峡、バシー海峡、フィリピンの諸海峡等 数うるに暇なし、 大西洋の真只中での被害は極めて僅少である。
(2)26号艇が魚雷攻撃を受けた時点で始めて事故原因が判明し、それまではいかなる原因で25号、27号両艇が沈没したのか原因理由が皆目不明であった。    従って直ちに爆雷攻撃など出来るはずがないし、ましてや敵前逃亡的な批判がもしあるとすれば、それは現状認識欠く全く無責任な発言と云うべきである。
以上 記憶を辿り乍ら現場での状況を御報告申し上げる次第です。
                   


残暑猛烈健康にご留意あり
快食、快眠、快便、快談、快笑 五快は健康の大元。
小生すこぶる快適な毎日を過ごしております。
来年の再会を楽しみに。

二、中野 栄の海軍履歴、中野 栄の戦没状況(二つとも公文書)

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(参考)松島艇長の手紙と堀田軍医長の手記 対照表