父:勇 と母:千代 の出会い | |
勇は、岐阜県岐阜市元町の篠田家の三男として1904年に生まれた。 千代は、岐阜県稲葉郡鏡島村(現岐阜市鏡島)の浅野家の長女として1911年に生まれた。 その後、勇の姉と千代の叔父が結婚し、両家は親戚関係になった。 勇は海軍兵学校を受けたが身長が足りず断念、しかし海への憧れは捨てきれず半年後に高等商船学校に入った。 この半年の間、かっての小学校の恩師であった鏡島村小学校の校長に請われ、代用教員として勤務した。 両家が親戚であったこと、千代の地元の小学校に勇が勤務し始めたことで、両人は顔を合わせることが多くなり、やがて叔父達の仲介により結婚した。 千代は、温和しく控えめで礼儀作法の行き届いた古風な女性で、勇は強く惹かれていったようである。船乗りであった勇は家を留守にすることが多く、海外から千代宛に送られた手紙(ラブレター)が多く残されていたが、いつの間にか消失した。 |
戦前の様子 | |
勇は日本郵船の神戸支店に勤務していた。神戸港は日本の貿易の中心であった。
千代の父は郷土で織られた織物を神戸の貿易商に卸す仕事をしていた。 |
このような関係で二人は1932年に結婚して神戸の住宅街に新居を構え、千代は時には外人も含む多くの人との付き合いで知識・教養を身につけていった。従って勇の航海中でも寂しさを覚えることはなかった。 筆まめな勇は、外国航路で見聞を広げるとともに千代に頻繁に便りを送った。 | |
1933年に長男:和郎が生まれ、1935年に次男:正郎が生まれると千代は郷里へ帰ったが、勇が帰国して陸上勤務になる度に神戸へ行き、短期の時はホテルに、長期の時は借家に住んだ。 岐阜へ帰って、市内の西鍵屋に居を構えた。そして1938年に長女:達子が生まれた。しかし翌年に次男:正郎が病死し、家相が悪いと云われて、中鍵屋に転居した。新居は門構えのある母子四人には広すぎる家であった。 1940年に三男:政明が生まれた。叔母(母の妹)を始め、よく来客があり泊まって行った。 勇は帰国すると、親戚を訪ねたり家族を連れて温泉旅行などをした。近所の家族を招いてすき焼きパーティもした。 戦前の最も落ち着いた平穏で恵まれた日々であり、我が家族にとって二度と来ない短くとも幸せなひとときであった。 太平洋戦争を間近にした1941年6月、勇は海軍に応召した。 |
戦中・戦後の様子 | |
1941年12月8日太平洋戦争が始まった。
3隻の駆潜艇からなる第13駆潜隊は、翌1942年5月18日に呉市 川原石港を出航し、瀬戸内海を東進、
鳴門海峡は防潜網が敷設してあるので、その手前で汐待ちのため一時仮舶、
翌19日午前10時満汐時に海峡を通過、紀伊水道を経て本州南岸を航行、青森 大湊湾 川内港および千島列島北東端の幌筵島に寄港してキスカ島へ向かった。
2ヶ月後の7月15日、グラニオンの雷撃により13駆潜隊は1隻を残して壊滅し、勇は家族のことが気がかりの中に戦死した。 | |
開戦時、和郎は木之本国民学校の2年生であった。
当日の朝、先生は冒頭に日本はアメリカ、イギリスと開戦し、未明に真珠湾を爆撃、南方ではプリンスオブウエールスという戦艦、レキシントンという航空母艦を撃沈したと興奮気味に黒板に絵を描きながらまくし立てた。そして米ルーズベルト大統領や英チャーチル首相がとても悪いやつだと云ったことを覚えている。
学校は軍国主義一色となり、毎月初めには全校生徒が隊列を組んで、岐阜市中心部にある神社に戦争必勝祈願のお参りをした。町内毎に分団が編成され、行事や活動を行った。兵隊さんの慰問の絵や作品を作った。ポスターも「銃後を守れ」「撃ちてし止まん」などのタイトルで描いた。先生も戦争を賛美し、鬼畜米英に勝つためには----と云う話を盛んにした。皇室崇拝の話も多く天皇は荒人神であり、誰かが「天皇陛下」と云ったら直立不動の姿勢をとりなさいと教えられた。
教科書も戦時色の濃い内容になり、とくに修身や国語は日露戦争や武士の時代の戦記物が多く、歴史は神話に始まり、神武天皇を開祖とする御歴代天皇や教育勅語、開戦詔書を暗記させられた。堅物の先生に至っては、軍人勅諭(五箇条のご誓文)を覚えさせられた。映画館も戦争物が多く、終わり頃には特攻隊ものがよく上映された。
3年生の1942年7月15日に父:勇はキスカ島沖で戦死した。公報は11月に入った。 学校では戦争遺児として何かと気遣ってくれた。 | キスカ島への途上、 青森県大湊で撮影.】 |
敗戦が濃厚になると、防空頭巾の製作・着用、防空壕の造設、隣組の防火演習、竹槍の製作・訓練などをやらされた。運動会では高学年は白虎隊の遊技、騎馬戦、女子は長刀の舞など勇ましい種目が多かった。そのうちにこの地方の連隊の中隊規模の兵隊が、学校に駐留してきた。教室の一部が占拠され、運動場も兵隊の教練と共用された。
空襲が激しくなったので祖父の招きにより、5年生になった春休みに、一家は中鍵屋から千代の実家のある鏡島村に疎開した。学校は遠くなり、電車通学となった。 妹:達子が入学し、1ヶ月程私と同じ木之本国民学校へ通ったが、1年生では無理で やむなく田舎の鏡島国民学校へ転校した。やがて電車のレールが軍に供出され、徒歩の遠距離通学となった。 6年生の8月に岐阜市一帯は空襲を受け、市内は殆ど焼けた。幸いに我が家は助かった。そして15日の終戦を迎えた。その時 誰もが感じたことは「もう空襲はないぞ」と云うことであった。それからはのびのびと裏の長良川へ泳ぎに行ったことを覚えている。 | |
学校では焼け跡に旧軍隊から回ってきたゴッツイ机や椅子を並べ、授業が始まった。空襲により焼き出されたりして、同級生は半分に減っていた。教科書の軍国主義的な文章は、墨で塗り潰すよう命令された。やがて冬を迎え、朝 登校すると机に雪が積もり、授業はこの清掃から始まった。真冬を前にようやくバラックの校舎が出来たが、
窓は筵を垂れ下げて風雨や日光をしのぐ粗末な建物であった。旧制中学進学希望者は、優先的にこの校舎で受験勉強が始まったが、電灯がないので夕方暗くなると授業は切り上げになった。「蛍の光 窓の雪♪♪」とはこのことか。
終戦後のインフレで、文房具が日に日に高くなっていった記憶がある。それに戦中にも増して、食糧難となった。母の実家付近は農家が少なく、農家が多い川の向こう側へ渡って、食料と物々交換をした。交換する物がなくなると、母は3人の子供を学校へ通わせるため、必死に働いた。昼間は行商など、夜は内職をした。 旧制中学へ進学した長男の和郎も戦争遺児の奨学資金を貰いながら、今で云うアルバイトをして、家計を助けた。タバコの紙巻き、キャンデーの包み、竹の物差しの目盛り刻み、 小学生の家庭教師、等々。 | (窓にガラスがない)】 |
最近の家族 | |
次男の正郎は前述のように4才で病死したが、長女の達子、3男の政明は長男の和郎と少し年が離れていたこともあって、父の記憶は殆どなくとも、あまり淋しさを感ずることなく順調に成長した。
和郎は理数系が得意でエンジニアを目指し、油圧技術のspecialistとなり、後年 IHIが提携した外資系のDenison Hydraulics Japan(後に Parker Hannifinと併合)に出向し、73才でリタイアした。1男1女と孫2人。 達子は高校の音楽課程を経て幼稚園の教師となり、夫は県立高校の校長を永く勤め、叙勲を受けた。 同じく1男1女と孫2人。 幽かな父の想い出を脳裏の隅に抱く達子は、父のことを忘れることなく、最近の出来事にも関心を寄せている。 しかし今までにアルバムを見たり、 周囲の人からの思い出話を聞いたりして創造された自分の中の父のイメージを大切にしたい、 そのままそっとしてほしいと言う思いが強いようである。 政明は経済の方へ進み、税理士となり勤務していた事務所を養子となって引き継いだ。1男2女と孫5人。 末っ子の政明は、父が逝ったという不幸の中にも、周囲の愛情を一身に集め明るく育った。 母の千代は98才になるが、食欲があり元気で、時々ショートステイへ宿泊し、91になる妹や友達と交流している。7人の孫や9人の曾孫が訪ねて来るのを楽しみにしながら、新聞、読書、古い着物の再利用のため解体などをしている。 | (左から)達子の夫、和郎、達子、 千代の妹、政明、政明の妻 (前列)和郎の妻、千代 |
人の広がり | |
朝日新聞の浅倉記者が書いた記事 「心結ぶ戦地の花 (2009.3.13)」 は、広島在住の遺族の目に留まり、67年経ってやっと日本の関係者の広がりを見た。 勇の27号駆潜艇乗組員の遺族から朝日新聞経由で和郎に連絡があった。遺族は27号艇の少年通信兵:中野 栄氏 (当時17)の姉:文代の息子:大魚正人氏で、広島に住んでいる。彼の母も中野家も、中野 栄の戦死の年月日は知っていたが、場所を知っていなかった。彼は母の話から、「叔父は東シナ海方面で、魚雷艇のような小さな艇に乗っていて敵の攻撃を受け戦死した」というイメージをずっと抱いていた。 戦後の1946年生まれの彼が真相を調査した結果、19年前(1990)に 「叔父 中野 栄は、キスカ湾外で米潜水艦グラ ニオンの雷撃を受け、1942年7月15日、午前11時33分(日本時間)に戦死していた」 ことを詳細に知ることが出来た。 勇より20才も年下で、艇長室の隣の通信室に勤務していた有り様が目に浮かぶ。 二人の引き合わせなのか、この度の両家の出会いが互いの情報を共有することとなった。 それにしても戦死後48年もの間、戦死場所が遺族に伝わらなかったとはおかしな話で、 英霊も浮かばれなかったことであろう。 |
【中野文代 (栄の姉)、 |
キスカ島で従軍した人が結成した「キスカ会」(後述)から、大魚氏は26号艇の機関士:日高利正氏を紹介された。
日高氏はキスカ会で、第13駆潜隊がGrunionに雷撃された状況が曖昧なまま伝わっていることを知った。
しかし自らも当時機関室にいたので、26号艇に同乗し見張りの任務に就いていた同隊の軍医長:堀田康哉氏に雷撃当時の真相に
ついて尋ねた。当時仙台市の医師会会長であった堀田氏が、当時の状況を纏めた報告を日高氏は受け取り、そのコピーが大魚氏から朝日新聞経由で和郎に送られて来た。それは松島艇長の手紙の内容を裏付けるものであった。
(→第13駆潜隊軍医長報告)
関係者の消息が明らかになったが、今は故中野氏の姉:文代(大魚氏の母)を始め、日高氏、堀田氏も故人となった。 | 堀田康哉 第13駆潜隊軍医長】 |
(キスカ会)
1943年7月29日キスカ島から奇蹟の撤収をした5200名の戦友の霊に、生存者が感謝の誠を捧げるために、 1964年に結成し、毎年慰霊祭を行って来た。 当初は600名以上の会員であった、 高齢化が進み第41回(2004年)には会員244名となり出席者も僅か12名となった。 |
あとがき | |
まもなく68回目の勇の命日、7月15日がやってくる。五十回忌の問いあげから更に17年の歳月が流れた。
(→亡父の五十回忌法要を迎えて)
和郎と妻の陽子は毎朝 仏壇に手を合わせ、毎月 墓参りをして新しい花を供え、自分たちがこの世に生かされていることに感謝し、父の冥福を祈っている。しかしこの60年余りの間に亡父に対する思いは当然ながら変化し、今は最も大切な人を失った悲しみよりも、歴史の中の一つの出来事として捉え勝ちになる。
昨年10月、グラニオンが発見されたと米海軍省が発表した記事を見て以来、和郎の周りに多くの情報が入り
記憶は再び67年前を蘇らせた。
松島艇長の手紙にもあるように、父:勇は氷降る北の海に、 今は敵も味方もなく世界人類の平和と家族の幸福を祈りつつ、 馬鹿な戦争をしたもんだと微笑んでいることと思う。 幼くして父を戦争で失った悲しみはもとより、戦中・戦後の困難な時代を思い起こすとき、 今はなんと恵まれた平和な時代であることか。今改めて、この経験を貴重な歴史の教えとして、 折に触れ子や孫に語り伝えて行かねばと思いつつ、本文を綴った。 | |
上:占領下のキスカ湾を描いた絵.
日高さんによると中央の3隻が第13駆潜隊(篠田艇、杉野艇、松島艇)とのこと。 下:慰霊巡拝団 1978年. | |
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"海軍部隊 玉木海軍少将以下: 1,132名",
"駆逐艦 朧(おぼろ) : 250名", " 〃 子の日(ねのひ) : 188名", " 〃 霰(あられ) : 50名", " 〃 霞(かすみ) : 13名", " 〃 不知火(しらぬい) : 3名", " 〃 初春(はつはる) : 2名", "潜水艦 イ.二四 : 103名", " 〃 イ.九 : 101名", " 〃 イ.三一 : 95名", " 〃 イ.七 : 71名", " 〃 ロ.六一 : 60名", " 〃 ロ.六五 : 19名", "駆潜艇 二五号 : 85名", " 〃 二七号 : 81名", " 〃 一四号 : 3名", " 〃 一五号 : 5名", "輸送船 鹿野丸 君川丸 : 3名", |