山を走る


◆トレイルランニングの視野

山を走ってみてもっとも印象的だったのは、そのスピード感だ。これは、私が速いという意味ではない。小走り程度であっても「走り」である以上、歩きとは根本的に速度が違うのだ。子供の頃から何度も歩いた石尾根をはじめて走ったときに、このことを強く感じた。行く手に見える鷹ノ巣山や雲取山が、ぐんぐん近づいてきた。それまでの山行で得てきた距離感とはまったく違っていた。まさに「これまでの物差しでは測れない」スピードだった。

スピードが出る分、視野は狭くなる。車の運転と同じで、意識は前方により強く集中する。ひとつとして同じ箇所のない路面の変化に瞬時に対応するため、とくに真剣に走っているときなどは、周囲の景色の変化にはほとんど気を配っていないこともある。
しかし、それは、「何も見ていない」ということとは違う。確かに山をゆっくり歩いているときとくらべ、多くのものは見ていないかもしれない。でも、いくつのものを見たかということだけがすなわち山を多く楽しんだ指標である、ということではないように思う。奥多摩の山々を荒い呼吸で走ってきて、ふと立ち止まったときに目に飛び込んでくる新緑の森の佇まい、杉木立の暗がりの入り口に、ぱっと鮮やかに黄色く色づいた落葉樹の幼木・・・、多くのものを見ていない分、それらは心に一段と強い印象を刻んでいく。心身が限界まで追い込まれたとき、その印象はさらに強くなる。五感で感じる風、寒さ、森の匂いと一体となって、体に刻み込まれる感じがする。昨年の日本山岳耐久レースでの苦しい後半部、満月の月明かりや吹き荒れる風、日の出山からの夜景に強く心を奪われたのは、たぶん私ひとりではないはずだ。

人間が一回の山行で得られる印象の量は、おそらく歩きも走りも変わらない。その質が違うだけなのだと思う。



Nem&Sam