環境工学と環境システム工学の立体構造

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・環境設備工学の教育は如何にあるべきか?・

 1.協議会の主旨

 本誌89年の研究年報の研究展望において筆者は「建築設備の方向」と題して冒頭、就職の活況に触れて「言ってみれば選り取り見取りの売り手市場の大盛況、一方では悪花繚乱の政界スキャンダルに一体我が国のこの無類の景気の基盤とは何なのかと、よく言われるように確固不動の官僚組織だけでなく、中国や韓国のように反抗運動が再発するでもなくひたすら楽しみつつ働き、働きつつ楽しむための絶好の環境に生まれ、唯々諾々とそれに適合して来た大学生たちの従順な性格によるのではないかと思い始めたものである。にも拘らず、と言うべきか当然の結果というべきか、建築設備の底辺から最先端までの技術を実質的に支えている建築設備業に進路を得させることは今年も不可能であった。何故当然かといえば、一つには上述の売り手市場の状況下で「下請け」企業を選ぶことへの抵抗感、今一つは、そしてこれがもっとも本質的な問題であると筆者は考えるが、建築学科の建築設備業界への人材補給基地としての限界である」と嘆じ、そしてこれからの建築設備(広義)の方向として「環境システム工学」の教育研究体系の提案を行った。

  5年後の今日、見事にその反動が政治・経済の場で具現し、就・求職の力関係も一変し、懸案の建築設備業界への人材流出も幾らかは好転したものと思われる。しかし政治・経済の停滞はこのままであってはならず、人材育成の為の根本的な技術体系・教育体系が改善されない限り、いずれ経済が活況を取り戻した折には元の木阿弥、となることは目に見えている。

 一方、教育制度改革の流れに視点を当てると、旧帝大系を中心に大学院重点化が難産しつつも実現に向かっており、大学科の方向性は建築学科を巡っても慌ただしく、関連学科、特に土木との統合を契機に各種の新しい、しかし紛らわしい、時には羊頭狗肉とさへ思える学科名が考案されている。筆者の所属する名大では建築学科と土木工学科との統合のもとに「社会環境工学科」を新設し、その中に「建築」と「社会資本(旧土木)」の2コースが設けられた。全国の一連の動きを見ると、優秀な人材確保を目指す土木系の柔軟、或いは画期的な発想が目立つ。建築系は建築家イメージからくる人気に支えられて「建築」の名称を死守している例が多い。

 しかしこのことは建築エンジニアリング系にとっては必ずしも最良の選択とは思えない。それは年々エンジニアリング系への志望割合が低下ないし停滞しているからである。21世紀の環境とエネルギーを背負う役割を演じなくてはならない、テーマ山積の環境系にとっては極めて重大な問題である。再び名大の例をとると、従来の「建築設備T〜V」を「環境システム工学T、U」および「設備工学」とし、前者は建築環境制御のメカニズムをパッシブ・アクティブの両面からシステム工学的視点から講義、後者は建築・都市・産業における設備エンジニアリングの基礎・応用工学を境界領域的に講義する、とした。

 しかしこの例においてさへ、単に建築内部における改造に過ぎず、21世紀に実体化する爆発的な広域的生活環境悪化と個人環境の向上意欲との葛藤に対応すべき、筆者の主張するところの民生・生活工学の視点からの関連総合学としての新領域樹立ではない。筆者の求めるものはかかる領域に目的意識を持った学生を集める旗印であり、建築設備の領域を包含しつつもそれを超越した広領域を目指したい。

 さて、我国の建築教育の歴史的発展過程から見ると、「設備」が建築計画、環境工学に包含ないし密着した形で展開してきたが、今や対象が規模的には建築から個々の人間へ、そして建築から地域・都市・地球へ、領域的には建築設備から都市基盤設備・各種産業設備へと拡大してきた。これに対し、環境設備に関する技術・学問の主たる担い手は機械工学系から建築系へと推移し、問題の拡大に応じて医学系、情報制御・電気系、エネルギー・化学系などへと関与者の幅が現実に拡大しつつある。新しい環境設備工学の領域を「環境システム工学」と名づけたとして、広領域化の主張と建築教育さらには大学院重点化との調和、学部教育の在りかた、入試制度と議論の種はつきない。本研究協議会では、かかる研究者・技術者集団の性格と教育体系の在り方について、大学と実務社会、国の内外の現状分析を含めて幅広い見地から討論を行い、21世紀社会に備えたい。

(以上、建築雑誌1994.7記載、研究協議会主旨説明と同文)

 

 2.建築設備の担い手の変遷

 いま建築設備の担い手は、少なくとも大学教育においては建築主導、と言うよりむしろ建築のみとなっている。空気調和・給排水衛生は別としても電気設備はどうかとなると甚だおぼつかないが、少なくとも教育カリキュラム上は建築学並びにその係累学科(設備工学科など)以外に建築設備ないし設備工学が含まれることは殆ど無い。

 設備工学というに最もふさわしいのはむしろ化学工学であるかも知れない。しかしここでは"化学"という言葉に制約されて化学プラントの枠を出られなかった嫌いがある。いにしえ、ボイラー・冷凍機等が機械工学の花形であった時期にはその応用としての建築空気調和は機械系出身者が時代をリードしたけれども、何れも戦前のことである。水道屋の工事範囲である給排水設備に至っては、汚水浄化等理化学系からの研究はあったとしても、日本では恐らく建築設備が登場するまで学問の光を浴びなかったに違いない。

 第2次世界大戦の前後に日本に本格的な暖冷房技術が渡来、展開し普及した。その役割を担ったのは満鉄と各地の米軍基地、前者は暖房、後者は冷房において。満州に進出した日本が極寒の環境に接して満鉄技術陣が内地とは次元の異なる暖房技術体系を展開した。地域の気象条件が人生に最も必要な技術を体系化していく好例である。戦後に沖縄進駐軍関係工事を担当した技術陣は、調湿・換気を重視するアメリカ式の本格的な空調と給排水衛生の精神を徹底的に叩き込まれた。当時、雨後の竹の子の如く発生した設備工事会社の多くはその恩恵に浴している。この時期、高級技術者は武装解除によって職場を奪われた航空系技術者などの軍需部門から大量に民需部門に流れてきた。(規模と性格が異なるけれども、近時アメリカにおける宇宙産業の縮小、冷戦構造の解消による民生部門への頭脳流出に譬えられよう。)

 かくして戦後の建築設備業界は、空調においては戦前派の機械系、終戦前後の混成技術系が経営首脳と技術展開の主役を演じ、戦後派の機械系がこれを支えつつ展開する間に、昭和30年頃から高等教育(大学以上)経歴者は次第に建築系に入れ替わっていく構図が見られる。ここに経済の急速度の成長にあいまって、機械・電気その他の工学系は殆どすべて生産主体に、建築系が生活主体に、という役割分担が明確になった。その中で建築設備という、民生建築における機電工学的エンジニアリング技術はその重要な役割に関わらず、常に傍流を歩まねばならなくなった。建築付帯設備という、当時の建築系設備技術者にとって最も忌まわしく思い起こされるこの表現の中にそのすべての現象が含まれている。

 

 3.建築家教育と建築教育

 日本以外では殆どの国が建築教育は建築家教育なりとしている。社会に認知され得るような建築家は4年やそこらの大学教育、しかも日本のように1.5〜2年の教養課程や多量の建築エンジニアリング教育が入り込んでいた大学教程の範囲内で育つはずがない。多くの国では大学教育以前の教程や、他学科に比して長い大学教程、さらには社会実習を経てからの再教育、などを折り込んだ長期のカリキュラムを組むことによって建築家を育てあげる。この場合、建築設備は機械を主とする他の工学系、時には暖房換気または空調学科の出身者がコンサルティング事務所を開設して設備設計を担当する。彼等には建築教育の基礎はもともとなく、業務経験を積みながら覚えていく。しかし彼等は建築家とは対等の関係にある。もちろん対象が建築である以上、建築家がオーガナイザーであることに間違いはないが、建築家もまた構造や設備技術の意義を十分にわきまえ、その意見を尊重する教育を受けている。

 一方、コンサルティングエンジニア側にしてみれば建築は一つの応用対象に過ぎず、彼等の技術は都市・産業の各分野に及ぶであろう。そういう意味で基本的に何ら建築家に諂う必要はないのである。問題があるとすれば、建築教育を受けていないために建築に関する常識的知識・感性を保有しないことであろう。それは建築家の負担となり、それでこそ建築家にバランスのとれた計画が可能なように十分な修練期間が設けられるのである。

 これに対して日本の建築教育はひとり建築家を育てるのみでなく構造・設備の設計技術者はもちろん、建築行政家・施工技術者の温床でもある。従って建築にかかる万般の教育を広く浅く授けるのが目的で、専門技術は大学院課程および社会へ巣立ってからの企業内実務教育に委ねられる。建築に関する諸技術・諸知識を総合的にバランス良く教育しようというわが国の建築教育は、うまく行けば理想的であることには間違いない。残念ながら環境工学の学問分野が広域化・細分化されるとともに設備技術が高度化・複雑化するにつれ、当初は目立たなかった、あるいは初動期の故に見過ごし得たこの教育体系の欠点が次第に顕在化し、今や限界に達している、というのが筆者のテーゼである。

 

 4.設備教育における日本型建築教育の限界

 上に述べた欠点とはどのようなもので、何故に現れたのかを以下に考察する。

(1) 教育年限の不足

 建築家教育においてさへ4年以上を必要とする教育年限がわずか実質2年で広範囲の教育をバランス良く効果的に行えるはずが無い。もっともこの点に関しては、大学院重点の傾向と社会人再教育制度の育て方如何によっては解決の見通しがある。

(2) デザイナー落ちこぼれ意識

 どの専門であれ、民族問題のような社会問題であれ、少数派は多数派の迫害を受ける。大学の建築学教育が上述のような建築教育ではなく建築家教育であるとの誤解に基づいて入学してくる学生達にとってみれば、建築デザインの道を捨てて環境・設備に走ることは一種の落ちこぼれ、とまではいかなくとも逃避であるようなの印象を与えてきたと思われる。事実そうである場合もあれば、全く反対に、デザイン能力の有無にかかわらず環境・設備に生きがいと意義を見いだし、その道へ進んでくれる学生達もかなりいることは確かであり、そこに我々環境設備系教師の冥利の尽きるところがあった。しかし世の実績が示すとおり、平均的にはかなりの少数派であり、世間の要求する度合いを大きく下回る。なお、構造技術系はその耐震技術の日本における特徴的必然的な歴史的発展過程に基づき、むしろ多数派と言われるくらい多くの教授人を大学内に配置しているから、事情は全く異なっていたけれども、最近は環境・設備系と同様の状態に陥っているといわれる。

(3) 受験生の目的意識欠如

 1978年に私が大学に来てから最近まで、交代で受け持った建築学総論の講義の終わりに、入学してきた学生に受験動期をアンケートしたことが幾度かある。講義において環境・設備の重要性をかなり吹込んだ後であっても、それを意識して建築学科に来たと言う者は皆無に等しく、講義を聞いて初めて興味を抱いたという者が1〜2割であったかと記憶している。

 結局このような意識のもとに入学生の中から設備技術者を輩出させるなどとは土台無理なのである。さらにもし仮にそうなったとしたらどうであろう、デザイン系から澎湃として設備亡国論が立ち上がることは目に見えている。そして確かにそういうことになったとしたら、わが国の建築家教育そのものは大変なことになるであろう。

 ということは、ことの発端からして環境意識・エネルギー問題・生活工学に目的意識をもった学生が集める場が無いことが問題なのである。そしてこのことは環境・エネルギーが人類生存の観点から最も重要な視点の一つになっている現時点において、初等・中等教育における教育内容とともに、教育体系上の大問題であると思う。

(4) 教授陣登用の制約と人材不足

  これに拍車をかけるのが設備教授陣の人材不足である。これには二様の意味があって、その第一は学位と論文業績を重視し過ぎるがために該当者が求められない、と言う事実である。そのために助手・助教授というふうに学内で昇格してきた人材は研究業績はあっても実務経験を欠くために実のある設備教育ができない。そのために資格審査が殆どないに等しい非常勤講師に頼らざるを得ない。その実態については本協議会において別途報告されるので参照されたい。

 第二には、斯くして登用された非常勤講師は無報酬に近く、また学生の研究指導をすることができないから、その割当て時間の中でいかに超人的な力をして下さったとしても、頑張れば頑張るほど学生は理解し難く離れていくということになり、実の入った教育を期待するのは土台無理というものである。また、実務設計に長けた者が必ずしも大学の設備教育に適しているとは言えない。逆に、設備設計教育ならば好適であると思われてもそのような場を設けたカリキュラムは数多くない。

(5) 知識の偏り

  環境・設備系コースを選んだ大多数の学生は卒業後設備工事(多くはゼネコンで)に携わることになる。彼等は論文指導の先生の専門によって、いわゆる音・光・熱・空気・色そして給排水・空調・地域エネルギー等のいずれかに詳しいけれども、熱力学・流体力学・自動制御などの知識を身に付けて現場で考える応用力を身に付けている者の割合は極めて小さい。これらはエネルギー・熱媒搬送・物質搬送・状態変化など、アクティブな手法を主体とする各種設備の専門基礎工学として重要な役割を演じている。

 しかし建築伝熱、換気通風を主体とする建築環境工学の学問では余りにもパッシブを重視し過ぎて、時に、アクティブ手法を建築出身者にあるまじき方法論であるとして邪道視する向きが無いでもない。それはひとつには設備技術者があくまでアクティブでしか物を考えない、まして建築出身者が、と言う傾向に対する反動・反感であろう。いずれにしても現在の建築教育制度のもとに世に出ていく設備技術者はその出発点において、設備屋としてはあまりにも知識の偏りというハンディキャップを負っているのである。 

 

5.建築環境工学と設備

 以上、筆者の論旨を辿ってこられたかたは、その記述の中において建築環境工学と設備との関係があいまいであることを見抜かれたに相違無い。時には後者を前者の対立概念として用い、時には現行の概念設定に基づいて前者に包含されるものとして述べている。建築設備を含めて(建築)環境工学の概念構築をする、とした斎藤平蔵・小木曽定彰以来の考え方に筆者は必ずしも反対を唱えるものではない。しかしこの概念設定は、その概念の掲げる理想を教育の場においても実現できるはずであった、省エネルギーへの意識の高まりの時代を経て20年、未だに建築教育に何らの変化の兆しの認められない今日、すでにその役割を終えたと主張したい。

 解せないのは、かつて北海道大学における建築学と設備工学の併立、神戸大学における建築学と環境計画学との併立と言った、筆者に言わせれば極めて前向きのこれら一連の動きが何故にさらに全国的に展開せずに頓挫したのか、行政側と大学側にそれぞれ固有の原因が無かったのか、明らかにされねばならないだろう。

 いずれにしても建築環境工学は建築環境物理言い替えればパッシブの論理に最重点を置くというのが、どうやら歴史的にも肌触り的にも最適解のように思われてくる。建築意匠・計画学から意匠設計へ、構造工学から構造設計へ、と言うのと同じ流れで建築環境工学から設備設計(と言うより筆者は後述するように環境システム設計と唱えたいのであるが)へ、と言うのはどうもその接続性が薄いのではないか、と考えるに至った。全二者と違ってその間の飛躍が余りにも大きいのである。構造の学問と構造設計の間にどれほどの異質の技術体系が入り込むかと言えば殆ど何も無い。ただ建築の形態が具体的に与えられるだけである。設備はと言えば、熱力学が入る、その具現としてのヒートポンプが、ボイラーが。流体力学が入る、その具現としてファン・ポンプが入る、配管工学・水理学等が入る。そして制御工学が、その具現として自動制御が、ビルオートメーションが、予測の理論が必要となる。これはもう常識的な意味での建築環境工学と異質のものと言わずして何と言えようか。

 しかし、誤解しないでいただきたい。異質であっても近い親戚であることは間違いない。そして音・光・熱・空気・色と言った建築環境工学を挟んで設備と計画・意匠は対極あるいは三角関係にある。

 具体例を挙げよう。名古屋大学では学部・大学院を通して教育・研究に中原信生が設備・制御・エネルギー、坂本雄三が熱・空気・都市環境(物理)、辻本誠が火災・リスク・消火、久野は生理心理・光(音)・都市環境(心理)を担当している。幸か不幸かどれを見てもいわゆる建築環境工学直系といった色彩が薄い。その中で辻本は避難をキーワードにしばしば計画のグループと研究指導を共有し、久野は環境評価をキーワードにこれまた計画のグループと共同研究を行ってきている。筆者の同僚であった計画系のY教授は、時と場合によって、久野などは計画系みたいなものだと口走ることが有ったほどである。中原は設備演習を通してオフィス等のプランニングの指導を行い、またグループ内を横につなぐべく、坂本と未利用エネルギーや輻射冷房、辻本と蓄熱槽、久野と室内環境指標や変動風空調等の共同研究を行ってきた。さらに辻本は防災のキーワードによって構造系の教授と共同の講義とゼミを受け持ち、いまや環境系というより防災系といった方が通りがよいくらいである。これは畢竟、筆者が設備サイドを死守していることに加えて彼等に建築教育の利点が体得されているからであろう。因みに坂本を除く3人がこれまでの戦後の建築教育体系のもとで建築環境工学のもとに業績を展開し、教室ではオーバーロードを覚悟で環境・設備系の計画・意匠、構造・材料系との三系鼎立を強く主張し実行してきた。

 ここで言いたかったのは我々のPRではない、それぞれが従来の建築環境工学と一味違う、いま環境システム工学と名前を変えるに至ったような新しいベクトルを求めながら、その中でも建築教育に幅広く携わっていくことができることを示したかったのである。 

 

6.環境システム工学と建築学

 設備が人気の無い原因の一つにそのネーミングが有る、と言うのは大方の考えの一致するところである。「建築設備」と言い、「Building Equipment」と訳し、どうもおかしい、と思っているところに、イギリスで「Building Services Engineering」と言う用語に対面し、成程、と思ったものの、これでも何か足りない。

 私達が扱っているものは人体に譬えれば心臓循環器系統・胃腸消化器系統・脳神経系統・気管呼吸器系統など人間が生物として生き、そして人間らしく生きるための源泉としての生理心理システムのすべてなのである。そしてそのシステム技術は建築のみでなく、産業システムから都市システムへと適用対象が広がってゆくときの共通の原理・手法である。そのような内容のものが「設備」でも「Building Services Engineering」でも有り得ず、ましてや「Building Equipment」などは完全にイメージ外れである。

 このような類推過程からみてもそれは建築造形とは異質のコンセプトと広がりを持つものである。一方、人類の誕生とその歴史的な展開はまさにかかる生命維持の諸器官が人体にしかるべく配置され、地上で活発に活動せしめたと同時にその高級な思考過程を産み出し得た源泉はまさに神の造形である人体構造そのもの、人体内の器官配置計画そのものであろう。この視点から見ると最高の造形物を完成するためには意匠計画・構造・環境システム計画におけるプロジェクトチームの最高度の協調が無ければならないのは言うまでもない。そこに必要なのは協調による統合であって主導権の奪い合いではないことを銘記すべきである。

 以上のような観点から筆者らは「建築設備」に代え「環境システム工学」を用いることとし、折からのカリキュラム改正にあたって名大ではそれを講義名とた(別により専門的教育のための「設備工学」を設けている)。本協議会の打合わせの場で松本教授が神戸大でも同様のネーミングを用いていると話された。同じような内容に対するネーミングであるかどうかは別としても、人間・環境・エネルギーのダイナミックスを多様な規模単位とシステム対象に応用できるようなシステム工学と言う意味である。我々の関与する環境システムはパッシブとアクティブの両面の協調のもとに形成されねばならない。何れを主とし何れを従とするといった勢力争いが有ってはならない。

 従来の「建築環境工学」を「環境システム工学」と呼び変えてもよい。しかし、前者は後者と建築とのプロジェクト担当と考え、主としてパッシブな建築物理、人体生理心理を扱い、アクティブシステムのと境界を、あるいは協調のあり方をテーマとする、とした方が無難なように思われる。もしプロジェクトが生物ならば「生物環境工学」、都市ならば「都市環境工学」とすればよい。そしてそのようなプロジェクトを組むために必要な基礎的な環境原理・エネルギー原理と、アクティブシステムの工学、制御・保全の工学ならびに各種環境調和システム(設備)の研究教育の分担を環境システム工学が担当する、とすべきである。 

 

7.学部学科の再編

 筆者が16年前に大学というところに来て驚いたのはその保守性と大国主義であった。それは営々としてつながる人材のはけ口の確保、ならびに大学間及び大学と社会との活発な人材交流の困難の二点が主因である。後者について言えば、筆者のように実務社会から大学に参入する者があっても、働き盛りの現役中に大学から実務社会に「下海(シャーハイ)」することは日本では皆無に等しい。何れの側もそれを望まないとすれば、役割分担が十分に機能しているか、それを不可能にしている体質的欠陥が、大学人か企業側の何れかに、あるいは両者にあるかの何れかであろう。

 さて、筆者は大学行政・文部行政については全く不勉強で、さらにそれと社会の要請とのつながりがどうなっているのか良く分からない。先輩教授が言う。あるときは、社会からの声(多分陳情のことか)が上がってこないから社会的要請とは考えられない、と文部省が仰せだ、と聞いた。あるときは、これからは「環境」などという名称は陳腐、何でも「情報」を冠せないと文部省は首を縦に振らない、と聞いた。あるときは高度成長時に全国津々浦々に雨後の竹の子のごとく建築学科が設立され、時の建築学会長が今後何十年間は建築系学科の増設の必要なし、と文部省と約束したのが建築無視の原因らしい、と聞いた。譬えそうとしても、時代の変化を無視してそんなことがいつまでも守られるはずはないから常識的にはまさかとは思う。あるときは文部省は建築学科と土木学科をまとめて大学科にしたがっている、ある大学ではそのとおりになったが何ら、一緒になったメリットは発生せず、却って受験生を惑わせるに留まった、とも聞いた。しかし一方では豊橋技科大のごとく特色ある統合がなされた、と言う話も伝わる。

 多分、私が不満と驚きを以て聞いた上の話のどれもが、一面の真実と一面の誇張・悔恨意識が含まれているのであろう。しかし行政にしろ学術にしろ、朝令暮改と言われないほどの見識を以て適時適役、時代に対応できなければ何の行政ぞや、大学自治ぞやと言いたい。

 紙数も尽きてきたので結論を急ごう。主題提出者の環境・設備教育に対する教育体制再編への期待・遠望は以下のごとくである。 

(1) シナリオ1 建築学科存続の場合

 建築学科とは別に工学部内に「環境システム工学科」を作る。建築設備は同学科から建築学科に出向いて講義をすればよい。同学科では建築学は概論として講義され、将来建築設備のプロジェクトに組み込まれても基礎的な建築知識を必要かつ十分に体得している人材を育てる。これによって3で述べた従来の欧米方式に伴う欠点を取り除く。

 建築学科では従来の「音・光・熱・空気・色」的建築物理・生理心理を主体的に担当する。もちろんその中に建築設備プロパーの教育・研究者を含むも良し、従来通り建築設備ないし環境システム工学指向の学生が輩出するのも結構である。その一部は環境システム工学専攻の大学院教育を受けることになろう。 

(2) シナリオ2 建築学科が他学科と併合して新しい環境系を作る場合

 例えば名大においては建築・土木が併合して新しく社会環境工学科という大学科を作っている。このような場合はその系はまさに英語の「Civil Engineering」日本語では「市民工学」「民生工学」「社会(環境)工学」などと呼ぶべき市民生活のための工学を対象とすることができるはずである。

 この場合、例えば土木(名大では、社会資本工学と改名をした)、建築、環境システム工学という小学科ないしコースが設けられるべきである。(名大ではそうではなく、社会資本と建築のコースに別れ、従来通り建築の中に環境・設備コースがある。名称との整合性いかんも含めて、これはまさに大学の保守性の留まるところと言うべきであろう。)応用の仕方はすでに尽くしているのでこれ以上の冗舌を避ける。 

(3) シナリオ3 建築学部を構想する場合

 日本的アカデミック風土の中で建築学部が成立する土壌は皆無に等しい。あるとすれば名前を変えて社会工学、社会環境学、建築都市工学、などといった統合的または新規性のある名称でなければ大学の保守性・大国主義の容認するところとはなるまい。仮にこのような建築学部が成立し、名前通りの市民と地球のための工学であるとすれば、そのヒンターランドである風土は既に現状とはかなりの体質変化を達成していると考えられるから、「環境システム工学」はもちろんその中の一学科として成立するし、多分もっと違う形も考えられる。そのような規模も領域も拡大した建築学体系(たとえネーミングが建築であったとしてもそれは対象を建築物のみに留まっていてはならない、建築ーアーキテクチュアーを生物・都市・環境まで拡大した広い意味に解釈する)の中において始めて、日本型建築教育が花開くときであろう。もちろん教育年限は医学部並みに延長されるであろう。その形に付いて色々と推測を逞しくすることは可能であるが、夢のまた夢となりすぎるのでこれ以上の言及を避けよう。 

 

8.外国の動向

 今回の協議会にあたって、横山教授・渡辺講師が引き続いて述べられるアンケート調査が行われたが、筆者としてはこの際海外情報に付いて調べておこうと思いつつ、ついにアンケート調査にまで至り得なかった。替わりに最近気付いたことを述べておこう。以下は、1989年より筆者がIEA(国際エネルギー機関)の建築・社会の省エネルギー(ECBCS)研究開発部門の国際共同研究、Annex16(BEMS)、17(Emulator)、25(BOFD)の各分科会に日本側の研究代表者として参加ないし傍聴して得た経験と印象からの報告である。 

(1) 建築学系へのエンジニアリング部門の参入

 先に述べた建築家教育を旨としてきた欧米の建築教育は、逆に建築家の眼を持った環境エンジニアの不在に現代社会への対応が困難になってきたことに気付く。このことについては以前から欧米のエンジニアグループからはその欠点をよく聞かされ、日本は良い、と上辺だけから見て屡々羨ましがられたところである。下図に示すように、MIT(マサツーセッツ工科大学)では建築の中に建築技術研究部門を設置するとともに、他の機電系学科と研究協力している。オクスフォード大の技術科学部(Dept. of Engineering Science)からラフバラ大に移籍したある教授は土木建築工学科(Dept. of Civil & Building Engineering)に在籍して引き続きAnnexテーマを研究課題としている。このように一部に建築系学科にエンジニアリングが参入し始めているのは特筆すべきであろう。 

 

(2) 空調工学の市民権

 主として北欧・中欧の寒い地方にあっては、暖房の有無が生命を支配するために熱供給事業は公益性が高く、また、暖房・空調のためのエネルギーが国のエネルギー戦略の鍵となる、ということもあって、暖房技術は立派な市民権を得ている。これらの国がインテリジェント化の波によって冷房・空調に多量のエネルギー消費が予想されるとき、これらのシステムの最適化、最適運営は国益上、また国際政策としても重要な位置を占めることになることを強く認識したものである。これらの国では設備工学あるいは環境システム工学(名称はさまざまであろうが)は建築学科とは分離し、しかし独立した教育・研究領域を確立している国が多い。この点については、旧ソ連・ドイツの影響の強かった中国も同じ線上にある。

  ただ付け加えておきたいのは、このような国からしてもなお、建築学に設備エンジニアリングを包含する日本型の建築教育は形としては理想的であると、しばしば羨望の眼をもって語られることが多い、ということである。 

(3) 機電系研究者の参入

 BEMS(Building and Energy Management System)、BOFD(Building Optimization and Fault Detection/Diagnosis)や空調の動的シミュレーションのレベルになってくると、建築の動的特性とシステム制御特性、その結果としてのエネルギー消費特性と室内の快適性評価(評価関数が与えられたとして)などは、機電系(熱工学、制御系を含む)の研究者には非常に興味深く真新しいテーマのようである。彼等の殆どは建築教育は受けてはおらず、また建築設備の設計経験もない。建築独特のあいまいさの洗礼を受けてはいないという点が欠点でもあり利点ともなる。方法論を理詰めで展開していく時にこれは利点となり、実システムへの応用性の判断という局面で正当に判断できないという欠点が現れる。

 IEA-Annex研究分科会における彼等の研究態度は真剣そのもので、我々が経験的に見過ごしてきた現象に本格的に取り組んでいる。一方では我々建築教育を受けた者、あるいは空調設計体験者ならば常識として知っていることに首をひねっているなど、時には滑稽な点が無いでも無いが、そのような研究討論の中から今まで気付かなかった新しい問題点、本質的に重要な課題に気付かされ、これまでの不勉強に大いなる反省が求められるという体験が屡々である。

 とは言え、我田引水ながら、これらの研究分科会において実務経験者の集まりである日本の研究チームの役割もまた大きく、彼等の不得意な分野を大いに補いつつ有意義な共同研究を展開していることも付け加えさせていただく。 

 

おわりに

 筆者はこれまで21年の実務経験と16年半の大学の教育研究を体験し、その間終始建築設備の立場からの省エネルギー・公害防止・最適管理制御を追求し、その終盤にはBEMS/BOFD、都市の未利用エネルギーの活用などの国際的・国家的プロジェクトに参入する機会を得た。全体を通して設備の仲間には建築系が、また大学卒以上が必ずしも多数派ではなかった。しかし何れにしろ、テーマに携わる仲間達と中立公平に立ち回るためには、エネルギー・環境・人間の最適共存を目的とする環境システムを作り上げる、と言う目的意識が必要であった。またそのためにはどうしても自らも所属する弱小組織である環境・設備に肩入れをせざるを得ない。

 そういう筆者の長年の体験から凝縮したテーマが「環境設備工学の教育は如何にあるべきか?」という本協議会の主題であり、協議会デー間として採用していただいたことに、また司会・主題解説等をお引き受け頂いた方々に心から感謝申し上げる次第であります。これは、1978年の「設備技術者問題」(環境工学委員会建築設備分科会建築設備技術者問題小委員会主催シンポジウム)、1982年の「建築環境工学教育の現状とあり方」(大会研究協議会)、そして1991年の「建築環境工学・建築設備教育の現状」(東海支部環境工学委員会設備分科会主催シンポジウム)(いずれも資料集あり)等で提起・討論された「建築設備技術者像」「環境工学教育像」「建築設備教育像」の続編でも総集編でもある。今回とくにこれらを纏めた「環境システム工学体系」を提示することは敢えて避け、代りに上述の3回の研究協議会や教室内での議論の中で、設備技術者問題と環境工学・建築設備教育について筆者がその都度提示してきたイメージ図を纏めて載せておきたい。これとは別に本日も主題解説をしていただく紀谷教授はかねてから環境設備学体系の提案をされている。これらを併せて題材とし、よろしく本日の討議を展開していただくようお願いするとともに、それぞれの方の業務の場でも引き続き現実問題として討論・思索を重ねていただきたいと思う次第である。

 

図2 建築設備技術者と建築士制度私案

図3 環境の基本要素と学域

図4 建築学の領域

図5 環境工学の領域と建築設備

図6 環境工学と環境システム工学の立体構造

図7 建築学科における環境設備の教育体系例(名古屋大学・旧)

図8 建築学科における環境設備の教育体系例(名古屋大学・新、1994年現在)

 

 

 

 

 

 

 

 

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