第二十二話 臆病な気持ちと誤解



=T=

「バッチリッ!」

 シャンッとタンバリンを鳴らしながら嬉しそうな顔をする遥を中心に、演奏を行っていた健斗たちも笑顔を浮かべる。

 確かに上手くなったよな? ここに来て三日目。今までセッションを組んだ事のないメンバーでここまで音が合うようになったというのは、かなりの進展だと思うよ。特筆すべきは急遽キーボードをやつ事になった深雪さんで、セミプロといってもいいマスターや莉奈さんたちの音に遅れる事なく付いてきているのは驚きだ。

 クーラーの効かないスタジオ内は蒸し風呂のようになっており、各々タオルで汗を拭っているが、みんなのその顔はどことなく気持ち良さそうな顔をしており、本人は気がついていないだろうが、健斗もそんな心地良さそうな顔をしていた。

 マスターから曲風を覚えておけと言われてCDとスコアーを貰っていたけれど、実際にこうやってやるのっていいなぁ。今のテクノポップと違って軽薄な感じがしない。だからといってロックのようにノリノリの音楽でもないのにノル事の出来る音楽がYMOなんだな? コピーをしていると本当に楽しく出来るよ。

「じゃあ、後もう一本頭から流してから休憩するか」

 タンクトップを汗でびしょ濡れにさせているマスターがそう言うと、一息ついていたメンバーはそれぞれ自分のパートに戻る。

「パパ、何で締めるの?」

 急遽パーカッション役(他に出来る楽器がない)を買って出た遥は、再びタンバリンをシャリンと鳴らしながら、ギターのコードの調整をしているマスターに視線を向ける。

「ラストは『東風』だな? ライブでもラストに持っていこうかと思っているんだ」

 キーボードのゆったりとしたソロから入り、その後にドラムがリズムを刻んでゆくこの曲は深雪のお気に入りの曲の一つらしく、キーボードの音を調整していた深雪は嬉しそうな顔をし、その様子にマスターも嬉しそうな顔をするが、その隣でチューニングしていたマキは機嫌悪そうに頬を膨らませてマスターを睨みつけている。

 ハハ、この合宿に来てマキさんの意外な一面を見たような気がするよ? クールな大人の女性というイメージだったけれど、ことマスターに関してはヤキモチ焼きで意外に可愛らしい一面を持っている女性なんだな?

 苦笑いを浮かべながら健斗はモニター(全体の音を聞く)するためのヘッドフォンを耳につけると、それまでデレッとしていたマスターの表情が引き締まり、それを合図に深雪のキーボードがゆっくりと流れ始め、健斗がそれに合わせるようにチチチとシンバルを鳴らし始める。



「だぁっ、あっついぃ」

 練習を終えた頃、健斗の着ているTシャツは頭から水をかぶったようにずぶ濡れになっており、練習を見ていた美音が小走りにタオルを持って健斗の元に歩み寄る。

「お疲れ様でした、先輩」

 ニッコリと微笑みながらタオルを渡してくる美音は、涼しげな顔をしていながらも、着ているTシャツは汗のせいでその色を濃くしていた。

「さんきゅ。暑かっただろ?」

 既に汗を吸いきれなくなったタオルを肩からはずし、美音の持ってきてくれた新しいタオルで顔を拭いながら健斗が美音に視線を向けると、ブンブンという音が聞こえそうな勢いで首を横に振りニッコリと笑顔を浮かべる。

「ウウン、健斗先輩の知らない一面を見る事ができてちょっと嬉しいです、それに……」

 不意に頬を赤らめる美音に健斗はキョトンとした顔をしていると、スタジオの入口から胸がはみ出てしまいそうなタンクトップを着たマキと、手伝いに行っていた琴音が顔を見せる。

「暑い時はこれが一番! キンキンに冷えているよ」

 そう言いながらメンバーに配っているのは北海道限定のビールで、その缶からは水滴が垂れ落ちており、見た目だけでも冷えているというのがわかる。

「やったぁ〜! 練習の後はやっぱりこれに限るよね? これがあるから辛い練習が我慢できるっていうものよ!」

 我慢しきれなくなった遥は、まるでそれに飛びつくように突進すると、呆気に取られた様な顔をしている琴音の手からひったくるとアッという間にプルトップを開け、一気に黄金色をした液体を喉の奥に流し込み、至極の表情を浮かべている。

「まったく遥ったら……あんたのパートなんてそんなに疲れるようなパートじゃないでしょ? それよりも疲れているのは……ケンちゃん、ホイ」

 自らもプルトップを引き美味そうにビールを飲む莉奈は、床に置かれた缶を取り上げるとそれを健斗に向けて放って、慌ててそれを健斗がキャッチする。

「バンドの中で一番運動量が多いのがドラムでしょ? 未成年かもしれないけれど、もう、モノの良し悪しの分別は自分でつける事が出来なきゃ……飲めない事は無いんでしょ?」

 ウィンクする莉奈の顔と、手の中でひんやりとした感覚をもたらすビールを交互に見る健斗の顔を、隣にいた美音は少し攻める様な顔をして見上げているが、正直に言えばアルコールは高校時代に悪友たちと何度も飲んだ事があり、先ほどから激しく感じる喉の渇きに耐え切れなくなると、手に持つビールのプルトップを引き、苦味を感じさせるその液体を一気に渇きを訴えている喉に流し込む。

 ングング……かはぁ〜っ! 美味い! 遥さんじゃないけれど練習の終わった後に飲むビールは最高かもしれないぜ。

「ヘェ、健斗クンって結構いける口なんじゃないの? あたし知らなかったなぁ」

 その様子を見ていた深雪は既に二本目のビールの口を開き、どこか嬉しそうな顔をして健斗の顔を見据えており、その表情に悪寒のようなものを感じる。

「まぁ、一応男ですから、たしなむ程度は……」

「でも、お酒は二十歳を過ぎてからでしょ? 健斗はまだ二十歳になっていないじゃないのよ」

 恐らく美音のために持ってきたのだろう、ジュースの缶を持った琴音が意地の悪い顔をしながら健斗の顔を覗き込んでくる。

「仕方がないだろ? 男っていうのは色々とした付き合いがあるんだよ……」

 口を尖らせながら言う健斗に、琴音は一瞬凍りついたような表情を浮かべる。

 ん? どうしたんだ?

 そんな琴音の表情に怪訝な顔をする健斗に気がついたのか、すぐにその表情を取り繕ったように元に戻し、わざとらしく目を眇めるとその顔を近寄らせる。

「ヘェ〜付き合いねぇ……でも、未成年者が飲酒するというのは不良よね? そう思わない? 不良の健斗の事を美音ちゃんはどう思う?」

 いきなり琴音に話を振られた美音は、口に含もうとしていたジュースを慌てて離して困ったような、考えているような不思議な表情を浮かべる。

「ヘッ? エッと……でも……そのぉ……」

 完全に動転している美音に、琴音はホッとため息を吐き出すと呆れたような表情を健斗に向け、もう一度ホッとため息を吐き出す。

「ヘェヘェ、アバタもエクボなのかしらねぇ……『健斗先輩がいいのならいい!』なのかしら?」

 冷やかすように言う琴音の言い草に、美音は恥ずかしそうに顔をうつむかせてしまう。

「そういう琴音はどうなんだよ」

 話題を琴音に振ると、背後からジュースのような色取をした缶を取り出すが、明らかにその飲み物は健斗の事をなじる事ができない物だ。

「エヘヘ、あたしはこれだよ」

 プシッとプルトップを開き、口に含むのはいわゆる缶チューハイである。

「人の事言えないだろ? それだってアルコールが入っているんだ、琴音も未成年だろ?」

「まぁまぁ、硬い事をいわないでよ。カラオケに行って飲まない事ないでしょ? あたしだって由衣たちとカラオケに行けばちょっとは飲んじゃうよ」

 ペロッと舌を出しおどけた様な顔をする琴音。

「このまま打ち上げに突入ね? 今日は飲むぞぉ〜っ!」

 既に酔いがまわった様な顔をした遥が宣言すると、どこからともなく合いの手が入り、スタジオ内にあった飲み物があっという間に消費される。



=U=

「夜風が気持ちいいなぁ……」

 宴会然となっているリビングを抜け出した琴音は、アルコールによって火照ったその顔を海から吹いてくる潮風に晒す。

 ほろ酔い気分っていうやつなのかな? ちょっと気持ちがいいかもしれない……。

 ノースリーブのルームワンピース姿の琴音は、近くにあった岩に腰を下ろし、ホッとため息を吐き出しながら、海に浮かぶ漁火に視線を向ける。

 そんなに多くは見えないけれど、ここからもイカ釣り船が見ることできるんだぁ。でも、漁火通りから見る漁火が一番綺麗だったなぁ……。水平線に漁火が点々と光って、その光が波に揺れている幻想的な光景……。

 ボンヤリとした視線を、見るとも無しにイカ釣りの光に向ける琴音は今度は深いため息を吐き出し、ポケットの中に入っていた文庫本を取り出す。

 ……逢いたい……あなたのその空の下で……かぁ……切ないよなぁ遠距離恋愛って、逢いたい時にその人は近くにいてくれないかぁ。でも、近くにいても逢う事ができないのと……どっちがいいのかしら? まだ近くにいて逢えない方がいいのかしら? でも、それも辛いよ……。

 再び深いため息を吐き出す琴音は、パラパラと文庫本をめくり、しおりの挟まれているページに辿り着くと、明るい月明かりに照らしだされた文字の羅列に視線を動かす。

 ――遠くに行ってしまう彼に、私は勇気を振り絞って告白をする事に決めた。彼の気持ちは私にはわからないけれど、自分の気持ちを彼に伝える事がいまの私に出来る最大の勇気でしかない。伝えずに離れてしまう事が私には一番辛い。

 既に物語は佳境に入ってきており、単純に主人公の女の子に感情移入していた琴音は、不意に当てはまる人物を思い出す。

 あれ? こんな話聞いたような気がする……離れる前に気持ちを伝えておきたいって、最近聞いたような気がする……なんだったっけ?

 見直すように琴音は文庫本のページを遡って見るが、その違和感に対しての結論が書かれているわけでは無いが、見直す事によってさらにその違和感が強くなる。

 確か主人公の女の子と彼が出会うのは漫画研究会よね? そこで会った一つ上の先輩に彼女が恋をしていくと言う話……これって……。

「うぉ〜い、琴音。こんな所にいたのか?」

 背後からの声に琴音は慌てて文庫本を閉じながら振りかえると、そこには赤ら顔をした健斗と、Tシャツにハーフパンツという格好をした美音が並んで立っている。

「うん、ちょっと風に当たりたかったから……健斗たちは?」

 タンクトップにショートパンツという格好の健斗は、酔っているのであろう少しふらついた足取りで琴音の隣に来ると、砂浜の上にドカッと座る。

「ん? ちょっと酔っ払っちゃったから酔い覚まし」

 気持ち良さそうに潮風に当たる健斗の横顔に琴音は胸を高鳴らせるが、それをこの二人に悟られるわけにはいかないため、顔を背けると出来るだけ冷静を装うように口を開く。

「もぉ、未成年のクセにお酒なんて飲むからよ? あたしは酔っ払いが大っ嫌いなんだからね? お店でよくいるけれど、そういう人って最低ぇって思うわよ」

 ベェッと舌を出す琴音に対して、健斗は頬を膨らませながら異論を唱える様な顔をしている。

「あのなぁ、そう言う琴音だって飲んでいたじゃないかよ。お前だって未成年だろ?」

「あたしはそんなにベロベロに酔っ払っていないモン、美音ちゃんだって嫌でしょ? 酔っ払いの健斗の相手をするなんて」

 いきなり話を振られた美音は驚いた様な顔をしながら、振ってきた琴音の顔と憮然とした顔をしている健斗を交互に見つめ、答えに窮したように視線を泳がせていると、琴音の手に持たれている文庫本でその視線が止まる。

「琴音さん……それ」

 白い月明かりを反射させているような美音の指がその文庫本に向くと、砂浜に座っていた健斗もその指先に視線を向ける。

「エッ? あぁ、これ? 面白くっていつも持ち歩いて、時間がある時に読んでいるの」

 少しくたびれ始めた書店のブックカバーをポンと叩く琴音に、健斗は意地の悪い顔をする。

 一気に読んでしまうのが勿体無いような気もするのよね? でも、早く読まないと、

「なんだよ琴音ぇ、まだ読み終わっていないのか?」

 そう、読み終わったら健斗に貸してあげる約束をしていたから、文句を言われる事になるわよね? そういえば、この話……。

「ゴメンってばぁ、もうちょっと待ってよ。ねぇ、美音ちゃんはこの小説を読んだ?」

 そうこの物語の内容が、美音ちゃんや健斗から聞いた話によく似ている。仮に主人公の女の子が美音ちゃんで、彼女が思いを寄せる先輩を健斗に当てはめると、二人から聞いている高校時代の事にピッタリと当てはまる。

「ヘッ? あ、あたし……ですか?」

 どこか動揺したような態度の美音に、琴音は心の中で首を傾げる。

「うん、なんとなくこの物語の内容が……健斗と美音ちゃんの二人のお話に似ているなって思っていたのよ……もしかしてこの作家さんと知り合いとか?」

 素直に感じた事を琴音が美音に伝えると、それまで動揺していた美音の動きが完全に沈黙し、顔をうつむかせてしまいその表情は見る事ができない。

「そうなの? それは初耳だなぁ……ちょっと見せて」

 そんな美音とは正反対に、健斗は琴音から文庫本を借り受けるとその内容をパラパラと読み始め、やがてその顔が強張ってゆく。

 健斗? どうしたの? 一気に酔いがさめた様な顔をして……。

 明らかに困惑した様な顔をしている健斗に、琴音はキョトンとした顔を覗き込ませる。

「……健斗先輩……」

 波音に消されてしまいそうな美音の声が困惑した顔をしたままの健斗と、キョトンとした顔のままの琴音の耳に聞こえてくる。

 なんだって健斗はそんな険しい顔をしているの? それに美音ちゃんも……。

 文庫本を開いた状態で固まってしまったように身動きしなくなった健斗と、まるで怒られるのを覚悟した幼子のように目をギュッとつぶっている美音の顔を交互に見る琴音は、ただ首を傾げる事しかできない。

「…………『水無月果林』って……美音ちゃんが初めて使ったペンネームだったよね?」

 重々しく口を開く健斗は、口調こそ穏やかだが問いただすような雰囲気でそう言い、ゆっくりと美音に視線を向けると、視線の先にいる美音は身体をピクリと硬直させ、諦めがついたように少し日に焼けて赤くなっている首をコクリと縦に振る。

 ちょ、ちょっと? 水無月果林ってこの本の作者よね? と言う事は美音ちゃんがこの本の作者さんと言う事なの?

「そっか……やっぱりデビューしたんだ……すごいじゃないか」

 優しく言う健斗であるが、第三者である琴音にもわかるほどその言葉にはトゲがあるようにも感じ、思わず健斗に視線を向けるが、その顔もうつむかされており琴音からはその表情をうかがい知る事ができない。

 なんだって素直に喜んであげないの? 健斗ってそんなに心の狭い男だったの?

「――――ずっと断っていたんです……でも……」

 月明かりの中でもわかるぐらいに美音の表情は蒼ざめており、さっきまでは桜色をしていた唇は、ギュッとかみ締められて血色を失っている。

「別に美音ちゃんのせいじゃないよ。美音ちゃんがプロとしてデビューしたのは実力なんだし、俺としても作家さんと知り合いだなんて鼻が高いよ」

 嘘だ。健斗は嘘をついているよ、本音は違う。なんで? なんで健斗はそんないじけたような事を言うの? こんなのいつもの健斗じゃないよ。

 視線は砂浜に落としたまま、勤めて冷静を装うように話す健斗の言葉に、琴音は違和感を覚え気がつくと険しい視線を健斗の背中に向ける。

「そんな……たまたま話があたしの所に来ただけで、先輩にだって……」

「それは無いよ……だって美音ちゃんの作品の方がよく出来ている。だからこうやってプロになる事が出来たんじゃないか? それに比べれば俺の作品なんて、いつも落選ばかりだ」

 すがりつくような美音の言葉を遮る健斗は顔をあげる。その顔には笑顔こそ浮かんでいるものの、その笑顔には力がなくどこか物悲しさを感じさせるような、そんな笑顔だった。

「そんな、先輩の作品だってあたしすごく好きだし、あたしの作品が先輩の作風にかなり影響を受けているのは先輩だってよく知っているはずです! だから、あたしの場合はたまたま出版社の人の目に留まって……」

 既に大きな瞳には涙を浮かべている美音に対し、琴音は同性と言う同情だけではなく、みっともなくいじけているような健斗に対して腹立たしさを感じる。

「健斗! あんたみっともないわよ? せっかく美音ちゃんが才能を認められてデビューする事ができたというのに、あんたは素直にそれを祝福できないの? ヘクサイ(格好悪い)男ね? なんだか美音ちゃんの才能に嫉妬していじけている最低男みたい」

 湧き上がる怒りに流されるままに琴音は健斗に対して文句を言うと、それまで力ない笑顔を浮かべていた健斗の瞳がつりあがる。

「うるせぇっ! 琴音には関係ないだろ! どこがいじけているって? 別にいじけてなんていないし、美音ちゃんの才能に嫉妬なんかもしていない、琴音にそこまで言われる筋合いは俺には無いだろ? 放っておいていてくれっ!」

 いつにない激しい健斗の感情にさすがの琴音も気圧され、ふてくされたように別荘に戻ってゆく健斗の後姿を見送る。

 なんだって健斗はあそこまで怒るの? わけわかんないよ……アイツはそんなに了見の狭い男じゃないのに、なんだってそこまで感情を露にしたんだろう。

 小さなため息を吐き、闇夜に消えた健斗に向けていた視線を砂浜に座り込んでしまっている美音に向けると、その整った顔は涙でビショビショに濡れていた。

「……美音ちゃん、そんな所に座っていると汚れちゃうから、ここに座りなよ……」

 腰を浮かせ一人分座る場所を確保した琴音は、そこをポンポンと叩きながら、優しい声を美音にかけると、フラフラとしながら美音は立ち上がり、琴音の促した場所に腰を下ろす。

 完全に憔悴しきっているわね? 無理もないか、大好きな先輩にあんなに酷い事を言われたんだから……でも、何か思い当たる節でもあるのかなぁ、彼女にも……。

 うつむいた顔をあげる事のない美音の肩を琴音がポンと優しくたたく。

「ねぇ、美音ちゃん、なんで健斗はあんな酷い事をあなたに言ったのかな? もしもよかったらあたしに教えてくれない? アイツは無意味にあんな事を言う男とは思えないのよ」

 語りかけるような口調の琴音に、ようやく美音がその涙に濡れた顔をゆっくりと上げ、瞳を潤ませたまま琴音を見据える。

「……琴音さん……」

 大きな美音の瞳にぶわぁっと涙が浮かび上がり、湛えきれなくなったそれは一気に頬を伝い落ち、砂浜に黒い染みを作る。

 やっぱり何かあるのね?



=V=

「あたしが先輩の小説を初めて読んだのは、高校の同人誌に書かれていた『ゆめ』という作品なんです。それまであたしはファンタジー物の小説にしか興味なくって、書く作品もみんなそういう作風でした。でも、あの作品であたしの作風が一気に変わったのは間違いありません」

 ボソボソと波音にかき消されながらも美音はゆっくりと話し出す。

「恋愛物とかラブコメというのは、漫画やアニメだけの世界で、小説でそれを表すのなんて無理だと思っていたし、ライトノベル作家を志望していたあたしからすると、その作風はちょっと異形でした……でも、読んでみると、その物語の中に自分が入り込んでしまっている事に気がついたんです。まるで自分がヒロインになったようなそんな感じがして……」

 そっか、それで彼女の書いた作品はすんなりと物語の中に入り込む事ができるんだ。

 感心した様な顔をしている琴音には視線を向けようとしないで、美音は漁火の見える暗い海をまっすぐに見つめている。

「その話を先輩にしたらすごく喜んでくれて、こんな事を言ったら失礼とは思うんですけれど、まるで小さな男の子が褒められて喜んでいるようなそんな顔をしたんです」

 それまで固かった美音の表情が一瞬ほころぶ。

「その頃から先輩と小説の話をするようになって、いつも話しながらいつの間にか互いの夢の話に変わってしまって、気がついたら辺りが暗くなるまで話している事もあったんです」

 あぁ、この娘は本当に健斗の事が好きなのね? 同性のあたしでもドキッとするような素直な可愛らしい笑顔を浮かべている。

「先輩たちが卒業する直前に、卒業記念の同人誌を作ってOBのツテで出版社に送ったんです。そうしたら出版社からあたしと先輩にオファーが来て、課題作品を書いて送ったんですが、先輩の作品は落選して、あたしの作品を出版したいって……」

 可愛らしい笑顔が一気に鳴りを潜め、再び瞳に涙が浮かび上がるのがわかる。

「でも、それって健斗のひがみじゃないの? やっぱり健斗がいじけて……」

「違うんです! その時出版社の人と、あたしと先輩三人で話をさせてもらったんです。その時出版社の人が言うには『二人とも甲乙付け難いんだけれど、現役女子高生の作品という付加価値を付けたい』という事だったんです」

 その時の事を思い出したのか、美音は唇をかみ締める。

「何よそれ……二人ともいい作品だけれど、女子高生だから美音ちゃんの作品を使うっている事なの? その方が本を売りやすいから? ふざけている!」

 フツフツと浮かび上がってくる怒りに、琴音は拳を震わせる。

 そんな事を言われたら健斗だって怒るよ。作品の良し悪しで決めるのではなくその作家の付加価値だけで出版を決めるなんて、作家を馬鹿にしている。

「ハイ、だからあたしもその話を断りました……」

「断ったの? 断ったのになんで?」

 そう、美音ちゃんの作品は、現にいまあたしの手元に出版されて置かれている。

「…………遠いんです……東京と函館は……来年受験だから親もバイトなんてさせてくれないし、でも、先輩にどうしても逢いたかったんです……」

 美音の瞳からは大粒の涙が月明かりにキラキラと輝く。

「――なるほどね? 旅費を稼ぐために……なのね? でも、よくそんな酷い事を言う出版社と契約したわね? あたしだったら理由はどうあれ断るけれど」

 いくら好きな人に逢いたいからといって、一度そんな酷い事を言ったような出版社と契約が出来るわよね? ちょっと嫌な感じかもしれない。

 顔をしかめる琴音に気がついたのか、美音はパタパタと手を振り否定の態度を取る。

「違うんです、その本の出版社は違う出版社なんです。先輩と一緒に行ってくれたOBの人がその出版社にあたしの事を売り込んでくれて、それで話がとんとん拍子に進んで……」

「出版されたという事なのね? じゃあ、健斗があんな事を言ったのは、美音ちゃんが一人でその酷い出版社と契約してデビューしたと勘違いしたんだ……ったく、粗忽者なんだから」

 深いため息を吐き出す琴音だが、そのため息の意味は呆れてのものよりも、健斗の悪態をついた意味がわかったというものが大きく占めていた。

 確かにそういう誤解をすればああいう態度に出てしまうわよね? あたしもちょっと言い過ぎたかもしれないなぁ……アァモォッ! 反省!

「でも、なんで美音ちゃんは誤解だって健斗にはっきり言わなかったの? あいつだってただの馬鹿じゃないんだから言えばわかるでしょ?」

 心の中で反省しながらも、琴音は美音に恨みがましい事を言う。

「ハイ……そうなんですが……」

 うつむきつつも琴音の事を上目遣いに見上げる美音の視線に、さっきの話を思い出し、琴音は顔を赤らめる。

 そうだ……話の途中であたしが健斗に文句を言ってしまったから、美音ちゃんは否定する事ができなかったんだ……という事はあたしのせいでもあるのね? やっぱり反省。

 落ち込む琴音に美音はクスッと頬を緩める。

「……琴音さんと健斗先輩って仲がいいですよね?」

「ヘッ? あたしと健斗が?」

 不意の質問に琴音は声を裏返しながら顔を真っ赤にすると、美音はすべてが納得いった様な顔をして視線を海に向ける。

「ハイ。あたしはここに来て健斗先輩の意外な一面をいっぱい見ました。その中でもっとも意外だったのは先輩の琴音さんに接する態度です」

 ニコッとした顔を琴音に向ける美音。

「先輩って結構モテるんですよ?」

「ヘッ?」

 いきなりの台詞にキョトンとした顔をする琴音に、美音は楽しそうにケラケラと笑い出す。

「でも、先輩ってあまり女子と関わり合うのが苦手だったみたいですね? でも、あたしが函館に来て一番ビックリしたのは、琴音さんの存在でした」

 笑顔をなくし、まっすぐに見据えてくる美音の視線に琴音は思わず怯んでしまいそうだったのだが、どこか目を逸らしてはいけないような、そんな雰囲気が二人の間に流れる。

「あたし?」

「ハイ。健斗先輩が琴音さんに対する態度を見て、あたし正直ビックリしました。先輩がこんなに女の子に対して気軽に話をしている姿というのは初めて見ました。しかも、あんなに親しそうに話をして……はっきり言って嫉妬しました……」

 険しい視線の美音に対し、琴音はとぼけるように視線を逸らしてしまう。

「だって、別にアイツとあたしはなんでもないし、アイツは美音ちゃんの事が……」

「それはどうですかね? あたしの勘って結構当たっていると思うんです……琴音さんはきっと健斗先輩の事が好き。そして……たぶん健斗先輩も……」

 寂しそうな顔をしながらも、毅然と顔を見据えてくる美音に対し、慌てたような感情とは裏腹に、琴音は自分の心の奥底でなぜかホッとした感情にとらわれる。

 なぜ断言が出来るの? 確かにあたしの感情はそういう方向に向かっているような気が自分でもするけれど、健斗までがあたしの事が好き? それはどうなのかしら?

「それは無いんじゃないかな? 健斗はきっとあたしに対するイメージは最悪だと思うよ? さっきの一件もあるし……健斗があたしの事を好きなわけ……無いよ」

 自分では気が付いていないのだろうが、琴音のその言葉は完全に涙に濡れており、それを証拠付けるように大きな瞳からは涙が溢れ出している。

 なんで? なんであたしが泣かなければいけないの? 仮に、本当に仮によ? あたしが健斗の事が好きだとしても、でも、あたしはもう恋愛なんてしたくない……。

 こぼれ落ちる涙を指で拭う琴音を、美音は何もいわないでただ見据えている。

「――それ、本音?」

 小さいながらもはっきりとした美音の声に、琴音の心は激しく揺さ振られる。

 本音? 本音よ……ね? 健斗があたしの事を好きなはず無い。ウウン、好きになられては困る……だって、健斗は美音ちゃんの彼氏なんだから、あたしの感情が入る余裕なんて無いはず。あたしは、彼の事を好きになってはいけない……。

「本音じゃないよね? 琴音さん……あなたは健斗先輩の事が好きなんでしょ? そして、健斗先輩もたぶん琴音さんの事が好きだと思う……」

「な、なんでそう言い切れるの? だって健斗はあなたの……」

 彼氏。その一言がどうしても口から出てこない。

「だって、健斗先輩って琴音さんの事を『琴音』って呼ぶでしょ? それに琴音さんだって健斗先輩の事を『健斗』って呼ぶ……これってお互いにお互いの事を良く知っているから呼べる事なんじゃないのかしら? 悔しいけれど、あたしはいまだに『美音ちゃん』としか呼んでもらえない。何度も先輩にお願いしているんだけれど……呼んでくれない」

 真っ直ぐに見据えていた視線を足元の砂浜に向ける美音の表情は、どこか負けを認めたような横顔を琴音に見せる。

「だって、アイツとの初対面のインパクトが酷かったからじゃないの? あたしはセミヌードを見も知らないアイツに見られるし、アイツだって……」

「それは違うと思いますよ? 先輩が琴音さんに対して信頼を置いているのは間違いないと思うし、琴音さんだって健斗先輩に対して信頼を寄せているんじゃないですか? お互いに信頼関係が会うから琴音さんは健斗先輩の事を『アイツ』なんて呼ぶんだと思いますよ?」

 琴音の言葉を遮るように言う美音は、まっすぐに琴音の顔を見据える。

「美音ちゃん……」

「――――あたしいますごく後悔しているんです……もっと早く先輩に告白して、函館に来る前にカレカノの関係になっていなかったのかという……でも、カレカノの関係になっていたらきっといまの状況はもっと辛い事になっていたかもしれませんね?」

 力ない笑顔を浮かべる美音から琴音は視線を逸らし、波に揺れる漁火の光に向ける。

「……美音ちゃんが心配する事ないよ……」

 小さな声ではあるが、琴音の声はしっかりと美音の耳に届く。その声はきちんと美音に対して伝えるという気持ちがこもっているようだった。

「琴音さん? なんでそんなはっきりと言い切る事ができるんですか?」

 真っ暗な海に向いている琴音の瞳はさっきまでのものとは違い、どこか力がない様にも見え、それだけでも美音の心配を誘発させるには十分だった。

「……あたしには好きな人がいたの……残念ながら過去形なんだけれどね?」

 ポツリポツリと語り始める琴音の口調は、いつものような自信に満ち溢れ力のあるようなものではなく、それは力を失った瞳と同じように弱々しいものだった。

「高校に入ってすぐ友達の知り合いを通じてある会社の事務員のバイトを始めたの。そこで出会った人に一目惚れしちゃったのよね?」

 薄く笑みを浮かべる琴音の横顔に、美音は黙って話を聞く。

「東京にある本社から配属されてきた人で、営業課長のエリートで背が高くって二枚目、それなのに全然鼻にかけたような所が無くって、すごく気さくな人で、当然ながら他のOLさんをはじめ、男性社員からも慕われるような人だった」

 思い出すように話す琴音の瞳には涙が浮かび始めている。

「あたしも中学を卒業して間もなかったから、恋に恋していたのかもしれないわよね? 気がついたら寝ても覚めても彼の事を考えている自分に気がついて、『あたしはあの人に恋をしている』って気がついたらもうダメね? 次の日には彼が帰るのを待ち伏せして告白したの」

 自嘲気味な笑みを浮かべる琴音に対して、美音にも思い当たる節があるのか、小さくコクリとうなずくと、琴音はホッとした様な顔をする。

「よかった、馬鹿にされるかと思っていたよ。いま考えてみると恐れを知らなかったんだと思うわよね? 若さ故って言うやつなのかな? 今だったらきっとできないよね?」

「どうなったんですか? その人に告白して……」

 決して美音は興味本位で聞いてきている言葉では無いというのは、彼女の心配そうな表情から察する事ができ、琴音は再び視線を正面に向ける。

「……OKだった……彼も、あたしに好意を寄せていると言ってくれた。その時はまるで天にまでも昇ってしまうのではないかと言うぐらいに浮かれたわ? だって相手は十歳も年上で、しかも東京のエリートサラリーマン、そんな人がこんな地方都市の田舎娘に好意を寄せてくれるなんて思ってもいなかったもん……」

「じゃあ結果オーライと言う事ですよね? それから付き合うようになったんですか?」

 どこかホッとした様な顔をした美音が琴音の顔を覗き込むと、先ほどまで浮かんでいた涙が幾筋も頬を伝い、足元の砂浜を濡らしていた。

「うん、会社ではバレないようにしていたけれど、休みの日とかは二人でデートしたり、ドライブしたり色々遊んだわ……」

 頬を伝う涙を拭いながら琴音は気丈に美音の質問に答えるが、美音は聞いてはいけない事を聞いていると言う自虐の念にとらわれているのだろう、口を手で覆い、大きな瞳をさらに大きく見開き、視線を忙しなく動かす。

「でも、秘密にしている事って必ずバレるものなのよね? 彼と函館山で夜景を見ているのを会社の人に見つかってしまって、その後はお決まりのコース……一介のアルバイトであるあたしはクビになって、社員である彼は東京の本社に戻って行った……」

 力のない笑みを浮かべて美音に視線を向けてくるが、美音は何か納得のできないような顔をして琴音の顔を見据えてくる。

「なんで? なんで会社はそんな酷い処分をするんですか? 確かに会社内での規律は必要かもしれませんが、お互いの愛し合う仲を切り裂くまでの権利は無いはずです。なんで彼を東京に戻す必要があったんでしょうか? そんなの不条理です!」

 珍しく怒りを露にする美音に、琴音はフルフルと首を横に振る。

「それがあったのよ……彼を東京に戻さなければいけない理由がね?」

 相変わらず力ない笑みを浮かべているが、その瞳からは止め処もなく涙が零れ落ち、次の言葉は嗚咽のこもった涙声だった。

「彼は……彼には……奥さんがいたのよ…………東京に……」

 完全な涙声で聞き取り難かったものの、はっきりと美音の耳には届いていた。

「それって……不倫?」

 意外な琴音の告白に、美音は素直に驚いた顔をし、口はそれっきり開いたままになり、声を発する事すらできずに、パクパクと酸欠の金魚のように動かす事しかできなかった。

「…………結果からすると……そうなる……よね? でも……あたしは……そんな事知らなかったし……彼も……そんな事言っていなかった……」

 浜辺に打ち付ける波の音と、既に鳴き出している秋の虫の音に混じって、琴音の嗚咽が周囲に広がり、美音も口をつぐんでしまう。

「その会社を紹介してくれた知り合いの人から、後になって聞いたんだけれどね?」

 どれぐらいの時間が経ったのだろうか、かなり長い時間琴音の鳴き声が続いていた事だけは確かだったが、美音は帰るわけでもなく落ち着くまでずっと横に座っていた。

「彼、東京で高校生とか中学生にお金を払って……いわゆる援助交際をしていたらしいの。それが会社でバレて函館に飛ばされたらしいのよね? 彼の奥さんが、重要な取引先のお嬢さんらしくって会社もやめさせる事ができなかったみたいで……」

 泣き腫らした目を海に向け、少し落ち着きを取り戻した琴音の言葉に美音は息を呑む。

「それからよ、何も信用する事ができなくなったし、男の人の言う事なんて絶対に信じないと思ったのは……でも、さっき美音ちゃんが言った事は間違っていないと思うよ」

「あたしの言った事?」

 キョトンとした顔をする美音に琴音は顔を向けると、さっきとは違った笑みを浮かべる。

「うん、確かに健斗って他の男の子とは違うし、あたしの中でも大きな存在になりつつあるというのは認めるよ。でも、あたしは決めたの。もう恋愛はしないって……あんな辛い思いをするぐらいなら、恋なんてしない方がいいって、そう思ったんだ……だから、美音ちゃんがあたしと健斗の事を心配する事は無いよ……」

 サバサバした様な顔をしている琴音に対して、美音は明らかに怒りを抑えるように震えている自分の拳を見つめる。

「それって違うよっ!」

 いきなり立ち上がり語気を荒くする美音を、琴音は驚いた様な顔をして見上げる。

「違うって、美音ちゃん?」

「恋なんてしないなんて絶対に嘘! 現に琴音さんは健斗先輩に対して恋をしているんじゃないの? なんで自分に対して嘘をつこうとしているの? そんなの詭弁だよ!」

 いつの間にか涙を浮かべている美音をなだめようと琴音が手を伸ばすが、美音はその手を払いのけて、敵を見るような目で琴音を見据える。

「そんな、嘘だなんて……」

「確かに男に騙された琴音さんには同情するよ、でも、好きになった気持ちまでも誤魔化すなんてそんなのおかしいし、健斗先輩やあたしの事を馬鹿にしているとしか思えない」

 美音ちゃんたちの事を馬鹿にしている? あたしが?

「ちょ、ちょっと? 美音ちゃん?」

「……琴音さんだって健斗先輩の事をよく知っているでしょ? そんな酷い事をする男に見えるんですか? 健斗先輩が昔のそんな男と同じに見えるんですか? 違いますよね? 琴音さんはさっき健斗先輩が自分の中で大きな存在になり始めているって言ったじゃないですか」

 涙を拭う事もしないで話す美音の言葉に、琴音は何も言えなくなりうつむいてしまう。

「琴音さんは恋愛におびえているだけなんです、過去の出来事を思い出してしまうから、だから人を好きになりたくない、好きになっても自分で気がつかないふりをしているだけ、自分の抱いた気持ちに嘘をついているだけなんです」

 一気に言い切った美音は目に浮かんだ涙をグイッと拭うと、琴音の手を取る。

「――あたしが初めて読んだ健斗先輩の小説『ゆめ』の中で、あたしが心を打たれた一説なんですけれど、その言葉にすべてが詰まっているような気がするんです」

 その一説を思い出すように美音は視線を星のきらめく夜空に向けると、さっきまでの怒りのこもった声ではなく優しくつぶやくように語りだす。

『人は恋愛をして大きくなっていくのかもしれない。人を好きになるのは自然の摂理であり、それを誤魔化すというのはもったいない事である。例えそれが異性であれ、同性であれ同じ事、それは友情という形に変化をしたり、愛という形に変わったりするのは当然の事だ。例え辛い道のりになるとわかっていても、自分が作った好きという気持ちには嘘をつきたくない』

 自分の作った好きという気持ち……それに嘘をつく……。

 考え込む琴音に美音はニコッと微笑む。

「あたしはこの一説を思い出しながら先輩に告白しました。遠距離恋愛になるかもしれないし、もしかしたら失恋しちゃうかもしれない。でも、自分の気持ちに嘘はつきたくないんです」

 強いな美音ちゃんって……。

「もしかしたら後者になってしまうかもしれませんが、でも、それであたしの気持ちが変わるわけじゃあありませんから。例え先輩が琴音さんの事が好きだとしても、あたしも先輩の事が好きという事実に変わりはありませんよ? 歌にあったじゃないですか『求め続けるのが恋、与え続けるのが愛』って、まだ愛に変わっていないのならあたしにもチャンスがあるはずです」

 ムンと力を込める美音に、琴音はやっと心のそこから微笑む事ができる。

「アハ、そんな事を言っても健斗の事だからわからないよ?」

「そうなんですよね? 意外に先輩って鈍いからわからないかも……」

「アハハ、本当にね? 超鈍感男だからね? 健斗って」

「――悪かったな、超鈍感男で」

 いきなり背後から声をかけられ、思わず顔をつきつけ合わせていた琴音の美音は抱き合ってしまい、恐る恐る振り返ると、どこかバツの悪そうな顔をした健斗が立っていた。

「け、健斗?」

「健斗先輩? いつからそこに?」

 さっきの話を聞かれたのかと思い、琴音と美音は顔を見合わせるが、当の健斗は首をかしげ相変わらず不機嫌そうな顔をして鼻先をポリポリと掻いている。

「いつって、いま来た所だよ……あまりに帰りが遅いから……そのぉ」

 照れくさそうに視線を合わせようとしない健斗に、琴音と美音は同時にホッとため息を吐き出すと、どちらからともなく笑顔を膨れさせる。

「ひょっとして心配してくれたのかなぁ〜」

「まぁ、そんな所だ…………そのぉ……美音ちゃん、さっきはゴメン、ちょっと大人気なかったよ、琴音も、あたるような事を言ってゴメン」

 月明かりでもわかるほど顔を赤くした健斗はペコッと二人に向って頭を下げると、二人はお互いの顔を近寄らせヒソヒソ話をする。

「言ったでしょ? 先輩って不器用だから素直になれないって……」

「ホント、不器用ね? 悪い事なんて絶対にできないタイプ」

 二人は呟きあうと、踵を返して健斗の腕に飛びつく。

「もぉ、先輩、悪いと思うなら市内に戻ってからの観光ガイドをよろしくね?」

 左腕にからみついた美音は、驚いた顔をした健斗の顔を見上げる。

「そうね? その時はあたしもご相伴に預かって、美味しいお店めぐりなんてどうかしら? 当然全部健斗のおごりという事でぇ」

 まるで弾けるような笑顔を浮かべた琴音は健斗の右腕にしがみつく。その表情は、いままで足かせにされていたものがすべて取り除かれ、心の底から楽しそうな顔をしている。

「ちょ、ちょっとなんだよ、いつから二人はそんな仲良しになったんだ? いったい二人の間に何があったというのだ?」

 女の子二人に抱きつかれた健斗は、困惑した様な顔をしているが、どこかホッとした様な顔をしており、二人を見る視線は穏やかだった。

「あら? 女の子にそんな事を聴くなんて野暮と言うものよ?」

「そうですよ? あたしと琴音さんの間にはしっかりとした絆ができたんです」

 そう、美音ちゃんとはこれからも仲良くやっていけると思う。ある意味ライバルになるかもしれないけれど、それはよきライバルであって負けても悔いは無いわね?

「あぁ、健斗いまエッチな想像したでしょぉ、目尻が垂れたぞぉ」

 目を眇めながらの琴音の一言に、健斗は素直に体をビクつかせる。

第二十三話へ。