私の知り合いから聞いた不思議な話から始めます。彼の昔の彼女は沖縄のユタの血筋でした。ユタは、先祖供養、死者儀礼、家庭内の祭祀、その他占いなどをする沖縄の巫女です。彼女は二回不思議な体験をしたのです。一回目は心斎橋の交差点でした。突然時間が止まったのです。自動車も自転車も静止し、全ての物体が静止しました。歩いている人も脚を上げた形のままで静止ししていました。彼女は驚いて体を動かそうとしましたが、自分自身も静止していて、体は全く動きません。眼だけが動いたので周囲を見回しました。そうすると群衆の中の若い女性が、一人だけこちらを見ていました。お互いに目が合って瞬きしたとたんに周りが動き出したのです。彼女はその女性を追おうとしたのですが、その女性は群衆に紛れていなくなってしまいました。二回目はアメリカで観光船に乗っていたときです。やはり時間が止まったのです。その時彼女は海を見ると、波が完全に静止し水しぶきまでが止まって見えたのです。それは北斎の冨嶽三十六景の神奈川沖波裏にそっくりだったので、彼女は北斎も同じ体験をしたに違いないと思いました。それから周りを見回すと、車椅子に乗った白人の老人と目が合いました。そしてお互いに瞬きしたとたんに周りが動き出しました。彼女からこの話を聞いた後、彼は彼女と別れてしまい、彼女が今はどうしているのか全くわからないとのことでした。
この話を聞いて私は、すぐに北斎の冨嶽三十六景を見ました。すると神奈川沖波裏以外にも瞬間を捉えた作品がありました。駿州江尻です。これは突風の瞬間を描いた作品で、頭巾姿の女の人の懐紙が空に舞い上り、旅人の笠も飛ばされています。これも時間が止まった体験をしないと描けない作品です。私は確信しました。北斎も彼女も同じ体験をしたに違いない。そうするとこの話は生理学的に説明可能なはずだと思いました。そこで考えると、人間の運動の中で最も速いのは、眼球運動の中でもサッケードです。最高で千分の一秒に一度の速度で眼球を動かすことが可能です。なお眼球は球体なので、運動速度は角度で表します。サッケードは意識できない場合も多いのですが、我々が物を視る場合には重要です。そこで私は考えました。もしも千分の一秒が意識できたらどうなるのだろうか。それほど意識の流れが速くなれば、世界は止まって見えるのではないだろうか。仮にそのような意識が可能であったとします。もしもそうであっても、手足の筋肉は大きいし、脳からの距離も遠すぎて、ゆっくりとしか動かせそうにありません。ところが外眼筋は非常に小さい筋肉ですし、眼球自体の大きさもピンポン球程度ですので、眼球は速い動きが可能です。そのため人間に特殊な時間感覚の意識状態があったとしたら、その時は眼球運動だけが可能というのは非常に理にかなっています。また、彼女の特殊な意識状態は2回とも瞬きによって終わっています。それは眼を閉じるための眼輪筋が大きくて速度が遅いせいだとすると、これも理にかなっています。こんな事を空想して、北斎には波は止まって見えたのではないかと考えました。そうでないと、何しろあの当時は写真はなかったのですから、あんな高速シャッターの写真のような波は描けないのではないでしょうか。もしかすると特殊な時間感覚の意識というのは、意外に一般的なのかも知れないという気もします。例えば死にかけた体験をした人が、その時は非常に時間が長く感じられたという話があります。また夢を見ている間には急速眼球運動がありますが、夢の中ではほんの数分間に人間の一生が終わってしまう場合もあります。
こう考えると全ての物が静止して見えたのは、時間が止まったのではなく、意識の流れが速くなったと考えられます。それならば逆に、我々の通常の意識の流れに対して、動きの遅すぎる物体は静止して見えるのではないでしょうか。例えば人間は太陽の動きを、運動として認識することが出来ません。明らかに太陽は東から昇って西に沈むのであり、間違いなく動いています。ところが太陽をじっと見続けても、人間は運動を認識できません。これは植物の運動でも同じで、人間は成長期の向日葵が太陽の方を向いて移動するのを知識として知っています。ところがそれを運動として認識することは出来ないのです。このような植物の運動については、ダーウィンの「植物の運動力」という著作では、一般的な植物の成長に伴う回旋運動が基本的な植物の運動であると述べられています。つまり通常の植物も成長しながら運動しているのですが、遅すぎて人間が認識できないだけなのです。こうして考えると、人間は一定の範囲の速度の運動しか、運動として認識できないことに気づきます。例えば大陸も移動していますし、地形も変化していますが、どちらも遅すぎて人間には認識できません。全ての物は運動しているのですが、人間が運動として認識するのは、その一部だけです。
どうしてそうなるのでしょうか。それは人間が光を検出する機構に原因があります。網膜の原理はデジカメと似ていて、どちらも結果的には写真のような静止画しか得られません。デジカメでテレビ並みの動画を得る場合、1秒間に30枚の静止画を撮っているだけです。それを再生して人間の眼で視ると動画に見えるのです。つまり動画は静止画から脳内で作られているのです。その機構については研究されていますが、脳内で複雑な計算が必要なことは確かです。それは非常に大変なことなので、脳は一定範囲の運動しか検出しないように進化したと考えられます。そのため、脳は多くの物を静止していると見なすのです。
ここでゼノンのパラドックスのうちで、飛ぶ矢のパラドックスを解説します。飛んでいる矢はどの瞬間をとっても、その瞬間には静止している。それゆえ、あらゆる瞬間にそれは静止しているのであるから、飛んでいる矢は実は静止している。こんなことを言い出すのであるから、おそらくゼノンも北斎や彼女と同じ体験をしたのではないかと考えてしまいます。このパラドックスの解決は、今までの議論に従えば、静止というのは人間の視覚認知が創り出したもので、実は動いているということになります。ゼノンは長さ0の点としての時間に矢は静止しているというのですが、実は時間は止まらないのです。なぜなら静止は人間の認知が創り出したものだからです。少なくとも天空の月や星が静止して見えるのは、人間の脳がさぼっているだけなのです。
このページでは色々な空想を交えて議論しましたが、この結論部分は正しいと考えられます。例えば蝿は1秒間に200回羽ばたきますが、人間の脳には速すぎて認識できません。同様に植物の成長に伴う回旋運動のような遅い運動も、脳は捉えることが出来ません。そのため多くの場合、網膜などの視覚認知機構が創り出す静止画を、そのまま静止として認識してしまうということです。最後におまけですが、北斎の冨嶽三十六景における富士の稜線の角度に注目してみました。富士は遠方から見ると非常になだらかな山で、稜線は緩やかな傾斜を持っています。ところが近づくにつれて急角度になり、尖った山に見えます。ところがこれは人間の視覚の特性が創り出した錯覚と考えられます。本当は近づいても大きく角度は変わらないはずです。試しに私はデジカメで写真を撮ってみましたが、写真では近くへ行ってもあまり急角度にならず、直接眼で見た場合は急角度に見えます。そして北斎の冨嶽三十六景では、近くに行くほどに富士の稜線は急角度になります。もしも興味がおありでしたら、富士の写真集と角度を比べてみて下さい。