数と感覚


 個人の主観的な体験は言葉以外では伝達不能である。この問題に関して、量子力学の創始者の一人であるシュレーディンガーは「精神と物質」(1)という著作の中で、黄色の光を例にとって以下のように述べている。自然科学によってもたらされた外界に関する描像やモデルには感覚的性質が全く欠けているので、物理学者に黄色い光とは何かと尋ねても、不十分な回答しか得られない。黄色の光は波長590nmの電磁波である。ところが、波長760nmの赤色の光と、波長535nmの緑色の光を、混ぜ合わせても混合色の黄色となり、これは波長590nmの単一色の黄色と全く同じものと感じられ、区別がつけられない。これは物理学からは説明できないし、生理学者でも黄色の感覚がどこから生じるのかは、説明できないだろう。この状況は、当時と比べて大きく神経科学が進歩した現代でも、あまり変化はしていない。黄色を感じるときに発火する神経細胞が同定できても、黄色の感覚そのものについては何も説明できない。もしも黄色を感じるときに発火する全ての神経細胞の位置とタイミングが完全に詳細に解明されたとする。それから大脳の全神経細胞に番号を付け、時間も詳細に区切ってデータにしたとする。これは膨大な数字としてのデータであるが、このデータには黄色という感覚そのものは一切含まれない。そのため私が感じる黄色の感覚そのものと、他人が感じる黄色の感覚そのものが同じものであるのかどうかは確かめようがないのである。これはシュレーディンガーが、別の著書(2)で述べているように、他人が同じものを見ているという事を確認するには、言葉に頼るしかないのである。これは色以外の聴覚、痛覚、触覚、味覚、嗅覚などの感覚についても同様である。例えば味覚を例にとると、他人がどんな味を感じているのかは全く分からないのであり、同じカレーを味わっても辛すぎるという人もあり、辛さが足りないという人もあり、同じみそ汁でも味が濃すぎるという人、薄すぎるという人がある。これでは食品を化学的に分析しても、個人がどう反応するかは予測のしようがない。しかも味覚は言葉でしか伝えられず、味覚そのものは他人に伝達できない。

 これと類似の状況は、生物学においては他にも認められる。動物はその一生において多くの体験をし、原生動物であるゾウリムシですら原始的な学習能力も持っている(3)。ところが哺乳動物が一生のうちで感じたことや体験したことは、直接的には伝達できず、次の世代に伝えられるのはDNAだけである。すなわち感覚は直接的に伝達できない。哺乳動物の親が子に狩りの仕方を教えようとする場合を考えてみる。子は親のやり方を観て真似ていくしかない。そして何回も試行錯誤を繰り返して、子は狩りの仕方を身につけていく。これは観察を通じた間接的な伝達である。それに対して、全ての生命が正確に大量の情報を伝達する媒体はDNAであり、これは直接的な情報伝達手段である。ところが人間はDNA以外に言語という伝達手段を持った。さらに言語を記録する文字も発明した。数字や楽譜も文字の一種と考えることは可能である。これらはコンピューターで扱えるデジタル情報である。つまりアナログ的な体験は直接は伝達できず、言語やDNAのような自然数と同型のデジタル情報のみが直接的に伝達される。これを神経細胞にも当てはめてみる。人間の大脳の1個の神経細胞は、約数千から一万の神経細胞からの入力を樹状突起に受けている。樹状突起では非常に多数の入力を受けて、アナログ的に加算が行われており、複雑な処理がなされていると考えられる(4)。ところが処理の結果は、発火するかしないかの二者択一であり、活動電位という形でデジタル化されて軸索を通じて出力される。すなわち神経細胞も活動電位というデジタル情報しか出力できない。

 このように生命はデジタル情報しか直接的に伝達できない。ところが感覚はデジタル情報ではないので、他者に伝達するには言語化するしかない。コンピューターにおいて文字はコードで表せるので、言語はデジタル情報である。そして人間は、言語で感覚を表現するために多くの単語を開発し、表現形式としても小説や詩や俳句などを開発してきた。このように感覚と言語の関係は理解できるのであるが、言語はデジタル信号を伝えているだけで、感覚自体を伝えているのではない。このような他者に伝えられない感覚自体をクオリア(5)と呼ぶ。このクオリアこそが感覚の中核となっていると考えられる。それを最初に挙げた辛さを例にとって考えてみる。カレーの辛さはカプサイシンを中心とする化合物によるものであり、香辛料の配合の仕方によって、カレーに含まれる成分は異なっている。次に化合物の量によって辛さは段階に分けることが可能である。店によっては10段階以上に分けているところもある。さらに反応に個人差は大きいが、Wever-Fechnerの法則の法則によって、化合物の量の対数に比例して感覚神経細胞は発火する。それによって脳のどの細胞が発火しているのか、もしも許されるのなら脳細胞に電極を挿入して確認することも可能である。少なくとも、大体どのあたりの細胞が発火するかは、脳機能画像で確認できる。また感覚を引き起こしたカレーを、化学的に分析して成分を明らかにすることも可能である。ところがこのように感覚を数値化するために、徹底的に精密な測定をしても、クオリアすなわち感覚自体は結果に含まれない。辛さのクオリアを強いて言語化すれば、すごく辛いカレーを食べたときに感じる、あのヒリヒリするような辛さの感覚そのものである。つまり感覚のうちで数値化可能な部分を、どこまでも削ぎ落としていくと、最終的にクオリアが残ると思われる。このようにクオリアは数値化できないので、ガリレオ以来の物理学中心の科学の対象にはならないで放置されてきた。ところが我々の感覚の中核は、間違いなくクオリアなのである。果たして本当にクオリアは数値化できないのであろうか。もしも出来ないのであれば、数とクオリアの関係はどうなっているのであろうか。次の科学の大きな目標は、数とクオリアの関係を解明することであろう。

 ここで元に戻って、自然科学に感覚的要素が欠けている理由を考えてみる。人間の脳からの出力は、主要なものは筋肉の動きである。これはデジタル信号としての性質を持っている。脊髄のα運動ニューロンのたった一つの活動電位で筋肉は収縮するのであり、筋肉の収縮はデジタル的である。そして筋肉の収縮によって生じた空気の流れによって音声が作られる。音声はデジタル的に解釈され、音声と文字から成る言語もデジタルである。このように人間の脳からの出力は全て自然数の形である。また脳への入力も、活動電位に変化されているので、全て自然数の形である。つまり人間は、自然数に基づいた世界認識を共有することはできる。ところが感覚の核となるクオリアは、個人の中枢神経の外には出力できないので、真の意味では他者と共有できない。これが科学が感覚的性質を欠いている原因と考えられる。むしろ科学は感覚的性質を排除して、すべてを数によって表現することによって成立する。このように我々が他人と共有できる科学的世界観には、必然的に感覚的性質が欠けてしまう。にもかかわらず、我々は感覚を通じてしか外界から情報を得られない。これは大変な矛盾であり、実験や観察から得られたデータも、元は感覚から得られたものに基づいている。これについてシュレーディンガーは著作の中で、紀元前5世紀のデモクリトスの言葉を引用している。デモクリトスは知性と感覚を論争させる。知性いわく「表面上には色がある、表面上には甘味がある、表面上には苦味がある、しかし実のところ原子と空虚あるのみ」と。これに応酬して感覚いわく「おろかな知性よ、われからお前の論拠を借りてなお、われらに打ち勝とうと望むのか。お前の勝利は、お前の敗北」と。

 当時の技術水準で、どうやってここまでの洞察に到達したのか、デモクリトスの先見性に驚くばかりである。このデモクリトスの問答は、現代においてより重要な問題となり、ますます輝きを増している。仮に数と感覚が完全に対立するものであり、科学が完全に感覚を排除するものであれば、数と感覚は互いに独立したものとなり、両者の連絡は途絶えてしまう。これはある意味において心身二元論であり、心と神経系の関係が説明できない。そのため数と感覚の関係を解明することは、今後の科学の重要な目標と考えられる。この問題の中で、比較的考え易い問いとして、連続性が感覚に属するのか否かについて検討する。前ページでは、連続的な運動も連続的な直線も脳内で作られたものであると述べた。これは運動の連続性についても、空間と時間の連続性についてもである。連続についての中のカニッツアの三角形を見れば明らかなように、二次元におけるエッジも脳内で作り出したものであり、この例では三角形には物理的な実体は全くない。いかに物理的に測定しても三角形は導き出せない。この例では三角形が存在している証拠は、他人が言葉で「三角形が見えた。」と言っていることと、自分の感覚しかない。同様にアニメーションの原理を見れば明らかなように、アニメーションにおいて運動は一切存在しない。アニメーションを物理的にいかに測定しても運動は導き出せない。ただ自分の感覚として運動が見えること、他人が「動いている。」と言ったことしか証拠はない。こうして考えると、連続は明らかに感覚に属しており、個人の中枢神経の外に出力出来ないはずである。ところが科学は連続性を利用する。そう考えると連続は一種のクオリアと考えられるが、数で近似できる特殊なクオリアということになる。連続からユークリッド空間における長さという概念が生じる。これは数とは異なった概念である。そのためユークリッド原論(6)では、ユークリッド空間における一般的な直線の長さを量と呼んでいる。その上で単位となる長さを1として、数を以下のように定義している。

第7巻 定義

  1. 単位とは存在するもののおのおのそれぞれがそれによって1とよばれるものである。
  2. 数とは単位から成る多である。

 このように数を定義することによって、直線の長さを数に結びつけることが可能となる。最初に単位となる長さを決めることにより、その自然数倍の長さを数とすることができる。次に有理量は適当な自然数をかけて数に変換できる。さらに無理量は有理量で任意の精度で近似できる。感覚から生じた長さという量は、このようにして数値化できる。ところが、いかなる精度で数値化しても残るものこそが純粋な連続のクオリアである。これは境目のない滑らかな感じであり、われわが世界を見たときの鮮やかな感じを作っている。その本質を解明するにはエッジの抽出の図1から図4までの画像において、人間の脳内でビットマップ画像がアナログ画像に変換されるという点が重要である。図3は遠くから見るとアナログ画像に見え、図4は人間の視力ではアナログ画像であるが、コンピューターのディスプレイの画像は、本質的にビットマップ画像であり、アナログ画像は脳が作り出したものである。本当は網膜が光を検出する原理が光電効果であるので、どんな画像も最初はビットマップであり、アナログ画像はそこから脳によって作り出される。その過程は現時点の神経科学では、まだ明らかにされていない。この問題こそが、デモクリトスの問答の中心であり、今後の研究が待たれる。この問題を解明するための糸口として、見せる芸術である絵画について考察する。単位面積あたり一定以上の画素数があれば、ビットマップ画像も人間の眼で見ればアナログ画像に見える。この原理を利用した絵画の技法が視覚混合(7)である。19世紀フランスの印象派の画家たちは、太陽の光をそのまま描き出そうとして、できるだけ虹の七色を用いた。確かに光は七つの色を混ぜ合わせると、太陽の白色光となる。ところがパレットの上で七色の絵具を混ぜ合わせると、出来上がる色はだんだん暗くなっていく。そのため印象派の画家たちは、なるべく絵の具を混ぜないで、純粋なままで使おうとした。それでは中間色をどうやって表現するのか。それには混ぜるべき色を、小さなタッチで画面に並列するという方法を用いた。そうすると少し離れて見ると色が混ざって中間色に見える。この方法を色彩分割または筆触分割と呼び、視覚混合の一種である。さらに視覚混合を究極まで進めたのがスーラ(8)である。スーラの点描技法ではタッチは点になっている。こうなると現在のコンピューターのディスプレイの原理とほとんど同じである。コンピューターでは画素は数値で表される。つまり点描技法は、画素を完全に数値化し、見る人の脳内でクオリアを作り出してもらうことを目標とする。それによって人間が外界を見たとき時と同じようなクオリアを与えられる絵画を目指す。確かに理論的には、網膜の視細胞は赤、黄、緑の光に対応する三種類であるので、三色の理想の絵具があればすべてを表現できるはずである。ただ技術的には困難があり、点描技法は主流の技法とはならなかった。しかし原理としては、イメージを上手にデジタル化して表現し、見る人にクオリアを生じさせるという考えは正しいと考えられる。この考えでは画家が数とクオリアをつなぐ役割になるが、これを点描以外の絵画全般についても考察する。脊髄の一個のα運動ニューロンが支配する筋線維の集団を運動単位と呼ぶ。運動単位の大きさは筋肉によって異なり、例えば外眼筋では一個の運動ニューロンは、一個の筋線維を支配するが、ヒラメ筋のような大きな筋肉では、数百から千の筋線維を支配するものもある。そして運動ニューロンの一個の活動電位は、一個の運動単位と動かすことになる。画家は絵を描くときに、絵筆を持つ手の筋肉の運動単位を操作する。おそらく上手な画家ほど、運動単位を自由に選択できたに違いない。そうであれば名手ほどデジタル的に描いたということになる。その意味では、点描でない画家も、数とクオリアの相互変換を行っている。

 次にこの考え方を、音楽にも適用するために、聴覚認知(9)に関して考察する。耳に入ってきた音は、通常は多くの周波数の音を含む複合音である。音は鼓膜で捉えられ、内耳の蝸牛に伝達される。蝸牛において音は周波数に分けられ、神経細胞の活動電位に変換される。そこから一次聴覚野にまで伝達されるが、その時点でも情報は周波数別の活動電位の形である。つまりデジタル情報になっている。しかし我々が聴くのは、クオリアを持つ楽器の音や人間の声であり、アナログ情報である。そのためには一次聴覚野のデジタル情報から、脳内で旋律を作る必要がある。この過程は十分には神経科学的に解明されていないので、ゲシュタルト心理学を用いて研究されてきた(10)。ゲシュタルトとは、知覚におけるひとつのまとまりを意味する。ゲシュタルトを形成するための原理は、視覚においてよく研究されており、主要なものだけをあげると、近接、良い連続、類似などがある。最初に類似を聴覚に当てはめると、通常は同じ音色の成分が同じグループに帰属するように群化される。次に良い連続として、音の高さや大きさの変化は急激でなく滑らかなものが群化される。このようにして聴覚の要素は群化され、一次聴覚野のデジタル情報から、クオリアを持つ連続的な旋律が形成される。ここで作曲家の役割を考えてみる。作曲家は音楽を聴いて、それを音符にすることが可能である。逆に音符を見て、頭の中でメロディを奏でることが出来る。音符はコンピューターによって完全に数値化できる。そうすると作曲家は数とクオリアを相互変換する能力があり、両者をつなぐ役割をしているのではないか。それは絵画における画家の役割と同様である。このような数とクオリアの相互変換こそが、人間の芸術の中心を担っているに違いない。またデモクリトスの問答は、数と感覚の相互変換についての問答と解釈できる。この分野は、これまで科学による解明は不十分であったが、今後は重要な研究課題となると思われる。

参考文献
(1) E.シュレーディンガー:精神と物質,中村量空訳,工作舎(1987)
(2) E.シュレーディンガー:わが世界観,橋本芳契監修,中村量空・早川博信・橋本契訳,筑摩学芸文庫(2002)
(3) 宮川博義・井上雅司:ニューロンの生物物理,丸善(2003)
(4) 櫻井芳雄:考える細胞ニューロン,講談社(2002)
(5) 茂木健一郎:脳とクオリア,日経サイエンス社(1997)
(6) ユークリッド:ユークリッド原論,中村幸四郎・寺阪英孝・伊藤俊太郎・池田美恵訳,共立出版(1971)
(7) 高階秀爾:続名画を見る眼,岩波新書(1971)
(8) 米村典子:スーラ,六耀社(2002)
(9) B.C.J.ムーア:聴覚心理学概論,大串健吾監訳,誠信書房(1994)
(10) リタ・アイエロ:音楽の認知心理学,大串健吾監訳,誠信書房(1998)


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