♯沖縄島巡りの旅--南波照間(パイパティローマ)(波照間島)
・琉球王朝時代、「南に南波照間(パイパティローマ)という楽園が存在する」
という言葉が、波照間島の人々の心を捉えながら、広まってゆきました。
「よし、俺は南波照間に行くぞ!」と、船出してゆく者まで現れました。
しかし、「南波照間にたどり着いた」という者の記録は残っていません。
・「この島で生きている限り、この悲惨な生活から抜け出せない」という思いが、
南波照間幻想を生み出し、実際に島抜けする人を生み出してゆきます。
琉球王朝時代、島で生まれた人間は余程の理由がない限り、島で一生を終えました。
しかし、真偽も確かめず島抜けする人が出る程、島の生活は厳しかったのです。
・島津侵入(1609年)以降の八重山は、人頭税と強制移住に苦しめられました。
人頭税(1637年〜明治36年)は、宮古と八重山地方にのみ課せられた租税制度で、
15〜50歳の男女は、等しく頭割りで納税の義務を課した厳しい納税制度でした。
その上、在地役人の個人的な収奪もあり、島民の生活は悲惨を極めました。
・時が移り、昭和の時代になっても、島チャビ(離島苦)という言葉は生き続け、
食料の問題、自然災害の問題、交通の問題等、離島の対応はいつも後回しでした。
私が観光客として波照間島へ訪れた時、島の人々の表情はとてもおだやかでした。
しかし、南波照間を信じ船出した島人がいた事も、この島の歴史の一つなのです。

◎この海の向こうに「南波照間がある」と島人は信じました。

◎色鮮やかな波照間島のサンゴ礁です。
(009-2010/08/21記)