♯ヒコさん心の一曲−屋嘉節(沖縄民謡)
♪懐しや 沖縄 <ナチカしや ウチナ>
戦場に なやい <イクサバに なやい>
世間 御万人ぬ <シキン ウマンチュぬ>
苦さ みそち <クラさ みそち>
苦さ みそち <クラさ みそち>
◎懐しい 沖縄は
戦場に なって
世間の 人々は
苦しんで おられる
苦しんで おられる
・太平洋戦争で、国内唯一の地上戦となった沖縄戦は、住民を巻き込んだ悲惨な戦いでした。
アメリカ軍の艦砲射撃は、昼夜問わず打ち込まれ、地上のあらゆる物を吹き飛ばしました。
人々は「鉄の暴風」の中を、洞窟や亀甲墓に逃げ込みますが、明日をも知れぬ命を、
「艦砲ぬ喰えーぬくさー(艦砲射撃の食い残し)」と、ブラックユーモアで呼びました。
・那覇、首里が陥落した後、日本軍と住民には、島の南部での生き地獄が待っていました。
6月23日の牛島司令官の自決をもって、十数万もの犠牲者を出した沖縄戦も終結となり、
沖縄戦を生き残った人々には、島の各地に設けられた収容所での捕虜生活が始まりました。
屋嘉村収容所で、誰からともなく歌われ始めたのが『屋嘉節』の原型となりました。
♪哀れ 屋嘉村ぬ <アワれ ヤカムラぬ>
闇の夜ぬ ガラサ <ヤミのユぬ ガラサ>
親居らん 我身ぬ <ウヤウらん ワミぬ>
泣かん 居ちゅみ <ナかん ウちゅみ>
泣かん 居ちゅみ <ナかん ウちゅみ>
◎哀れ 屋嘉村の
闇の夜の からす
親のいない わが身を
泣かずに おれようか
泣かずに おれようか
・仲吉さんは、戦中の勤務地台湾から沖縄へ戻り、終戦直後を捕虜収容所で送った人です。
住居は、アメリカ軍のテントで、一家族又は二家族が同時に暮らした事もあるそうです。
軍作業では、トラックに乗って那覇や首里へ行き、戦場の後片付けをさせられたそうです。
作業中、子供の頭蓋骨を拾った時は、涙が止めどもなく流れたと仲吉さんは話してくれました。
・終戦直後の沖縄では、アメリカ軍人による強姦や強姦殺人が、毎日の様に発生していました。
仲吉さんも作業帰り、軍人の運転するトラックで何処へ連れていかれそうなったそうです。
助けを求める声に、日本人のトラックが横付けしてくれたので飛び移り、命は助かりましたが、
飛び移った際に頭を強打し、後に難聴ととなり、補聴器が手放せない生活を送る事となりました。
(1131-2010/3/6記)
*民謡の歌詞は、地域で若干違う場合もあります。
*著作権の関係で音や歌詞等は載せる事はできません。
機会があれば原曲を聞く事をお勧めします。