<ブラボー、クラシック音楽!−オリジナルCD#2>
{オリジナルCDより}モダニズム#2
({From the original CD} Modernism-2)

−− 2014.05.20 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■【ブラボー、クラシック音楽!】第58回例会(2009年10月7日):5周年
    『モダニズム音楽入門−2』
    〜 エリック・サティの異端と先駆 〜

【ブラボー、クラシック音楽!】
第58回例会(2009年10月7日):5周年

『モダニズム音楽入門−2』
〜 エリック・サティの異端と先駆 〜


ik Satie



5周年特別企画:サティ『グノシエンヌ』全曲生演奏
(ピアノ演奏:小川恵子

司会と曲目解説:エルニーニョ深沢

『モダニズム音楽入門−2』(5周年記念盤)収録内容  (Total 79:17)

・語りと<第3部>のピアノ生演奏は2009年10月7日【ブラボー、クラシック音楽!】でのライヴ録音。他の楽曲はCDより採録。
・2009年11月14日第1版、11月24日第2版製作(プロデューサー:エルニーニョ深沢)。

 当記述の中でジャケットのページを記述している部分は無視して下さい。オリジナルCDのジャケットから原稿を起こして居る為、その様な記述が偶(たま)に出て来ますが、最早この稿には「ジャケットのページ」という概念は有りません。但し、△nのp×××という表現には他の参考文献のページを示して居ますので、これは有効です。
 即ち、
       p××× : オリジナルCDのジャケットのページ → 無視
    △nのp××× : 他の参考文献のページを示す     → 有効
と成ります。

 ■プロデューサー・ノート − エルニーニョ深沢
 私が主宰する「クラシック音楽を楽しむ会」−【ブラボー、クラシック音楽!】は、2004年10月1日(金)に第1回例会を立ち上げて以来、この度の09年10月7日(水)の第58回例会で5周年を迎えることが出来ました。「無事」に迎えたと言いたい所ですが、台風接近の風雲急を告げる中で行われました。
 振り返れば色々と紆余曲折が有りました。当初は上述の如く第1金曜日開催でしたが、木に替わり今は第1水です。会場も現在のミロホールが3番目です。第1の会場が閉鎖され第2会場を探す際に3ヶ月のブランクが空き、この時が最も大変な時期でした。しかし乍ら趣味人口の少ないクラシック音楽の会を5年間も継続して来れたのは、偏に会の皆さんやスタッフ各位のご協力の御蔭であると感謝致して居ります。
 その5周年は<モダニズム#2:エリック・サティの異端と先駆> −印象派以後の新傾向の音楽を私はモダニズムと呼びます(末尾の○1を参照)− というテーマでエリック・サティ特集を組みました。斜に構えて物事を見る彼の”捻くれた曲”を私が好きという極めて単純な理由からですが、ピアニストの小川恵子さんにサティの『グノシエンヌ』全6曲の生演奏を正式に依頼したのは今年(09年)の年初でしたが、打ち合わせを進める内に5周年が良かろうと成りました。
 ところで、サティの音楽では『ジムノペディ第1番』がテレビCMなどで流される事は有りますが、彼の曲が意識的に傾聴される場である演奏会場で真っ当に採り上げられる事は少なく、況してや『グノシエンヌ』全曲演奏などは聞いたことが無い程です。つまりサティは音楽史の中での位置付けが定まらず、又実際にその音楽は捉え所が無く、得体の知れない毛虫同様に気味悪い存在として無視或いは異端視されて来ました。それ故に今回のサティ特集、取り分け『グノシエンヌ』全曲生演奏は「歴史的企画」であると多少は自負して居りますが、それが当日に嵐を呼んだのでしょう。その画期的な生演奏を収録した当CDは『モダニズム音楽入門』シリーズの第2作であり5周年記念盤です。
 さて、現在は巷に音楽が溢れ返り、それはエジソンが発明した録音再生技術の賜(←これについては当会の<モダニズム>シリーズ中で特集する予定)ですが、BGMや客引き用に聞き捨てられる「意識されない音楽」の何と多い事か。実はサティが標榜した「壁紙の音楽」「家具の音楽」こそはその先駆であり、『グノシエンヌ』の小節線を取り払った記譜法は現代音楽の前衛諸氏が好んで描く図形楽譜の先駆だったのです。これがテーマ中の「異端と先駆」の題意であり、今回の企画はサティを過小評価の穴から解放する試みでした。サティよ、羽搏け!
 しかし毛虫的なサティが羽化しても所詮は蝶には成れず相変わらず気味悪い蛾に成る訳で、羽搏けば周囲に鱗粉を撒き散らす余計に厄介な存在に成る事は必定ですが...。

 ■サティへの誘い − エルニーニョ深沢
 先ず、エリック・サティ(Erik Satie)の略年譜を次ページに付して在りますので適宜参照して下さい。

 (1)サティが生きた時代
 サティが音楽活動した1885年頃〜1925年のパリは「世紀末〜ベル・エポック(belle epoque)〜前衛(avant-garde)」という芸術上の諸運動の中心地で、彼もその影響を大きく受けて居ますが、彼の音楽は突然変異的で捉え所が無い一面が有ります。しかし敢えて一言で括れば、全てにアンチテーゼを掲げたダダイスム(※1)に諧謔的「遊び心」の個性が付加された音楽と私は捉えて居ます(○1)。この時代は、有らゆる面で旧来の価値観が崩壊し新しい価値観・利害・秩序に向けて世界史の軌道が大きく転回した時代です。この「時代の曲がり角(=ターニング・ポイント)」での軋轢の力がサティという突然変異の捌け口を生じたと考えられます。

 (2)ジャズの様にサティを聴こう
 私を含め多くの人が”ベートーヴェンはエライ”という出発点から学校で音楽教育されて来たと思います。そして学校ではエリック・サティなんて全然習わなかったという人が多いと思います。まぁ、その様に固定観念の鋳型に填め込む事を世間では”教育”と呼ぶ訳ですが。
 サティを聴くには鋳型の鎧を取っ払って下さい。先入観を持たずに、ジャズでも聴く様に、出来ればサティと同時代の画家 −クレー/デュシャン/ピカソ/ロートレック/ユトリロ(←サティはユトリロが10歳の時その母親と恋愛)等− の画集など見乍ら、そしてコーヒーなどを飲み乍ら。お酒は尚宜しい、お酒なら「林檎のブランデー」が最適ですよ、その訳は最後に明らかにしましょう!(p12を参照)
 私は若い頃からモダンジャズに親しんで居ましたので、例えばモダンジャズ界で私が好きなセロニアス・モンクの音をとことん切り詰め純化させる手法とサティの音楽 −彼は「音のクリーニング」と呼んだ(△1のp246)− との間には親近性を感じます。そう言えばモンクも”変人”として可なり異端視されて居ましたね。
 さあ、次に移り曲を聴きましょう。この点については後で論じる(p10を参照)ことにして(←このフレーズはサティの文章のパロディーです(△1のp132))。

 ●エリック・サティ(Erik Alfred Leslie Satie, 1866.5.17〜1925.7.1)の略年譜

1866    5月17日、ノルマンディー地方カルヴァドス県オンフルールに生まれる。
      (父アルフレッドは海運業者、母ジェーンはスコットランド人。初名は Eric)
 70, 4歳 父が海運業を辞めパリに移住。72年に母死亡しエリックは生地の公立小学校寄宿舎に。
 79,13歳 父は出版業を始め、ピアノ教師ユージェニと再婚。
      継母ユージェニがエリックをピアノ特訓し、同年エリックはパリ音楽院に入学。
 86,20歳 『3つの歌』を父の出版社から刊行、『オジーヴ』作曲。軍隊に入るも翌年除隊。
      薔薇十字団のJ.ペラダンを愛読。<この頃からベル・エポックの幕開け>
 88,22歳 復学せず「黒猫」のピアニストに。『3つのジムノペディ』を作曲。
 89,23歳 パリ万博でインドネシアや東欧の音楽に開眼。『グノシエンヌ第5番』作曲。
 90,24歳 ペラダン率いる薔薇十字団分離派の作曲家に。『3つのグノシエンヌ』作曲。
 91,25歳 「黒猫」の経営者サリと喧嘩、「釘」に鞍替えしドビュッシーを知る。
      『薔薇十字団の最初の思想』『星たちの息子』『グノシエンヌ第4番』作曲。
 92,26歳 ペラダンへ公開絶縁状。Erik に改名。<アール・ヌーヴォー様式の流行>
 93,27歳 ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドンと恋愛するも破綻。
      『ヴェクサシオン』(840回の繰り返し)作曲。<エジソンが映画を発明>
 94,28歳 ジュール・ボアの戯曲の為に『天国の英雄的な門への前奏曲』を作曲。
 98,32歳 モンマルトルからアルクイユに転居し貧困生活。カフェ「釘」に徒歩で通う。
1900,34歳 シャンソン『お前が欲しい』『エンパイア劇場の歌姫』などを作曲。
 03,37歳 ドビュッシーの忠告を皮肉り『四手ピアノ曲「梨の形をした3つの小曲」』を作曲。
 05,39歳 スコラ・カントルムに入学し対位法を学ぶ(08年に卒業)。
 06,40歳 『パッサカリア』『壁紙としての前奏曲』を作曲。
 09,43歳 アルクイユで「宗門に属さない信徒教会」の創立に参加し慈善事業に尽力。
      <キュビスムが台頭、ディアギレフがパリでロシア・バレエ団を結成>
 14,48歳 台本・音楽・主演で『喜劇「メデューサの罠」』試演。
      <第一次世界大戦勃発、ベル・エポックの終焉。翌年「一般相対性理論」発表さる>
 16,50歳 <チューリヒにダダイスム起こり世界に波及>
 17,51歳 5月18日、『バレエ「パラード」』をロシア・バレエ団が初演し大スキャンダルに。
      ドビュッシーと決別(翌年ドビュッシー没)。
      <ロシア革命、デュシャンの『泉』(逆さ便器)がセンセーション>
 18,52歳 『交響的劇作品「ソクラテス」』作曲。<ツァラ「ダダ宣言」>
 20,54歳 コクトーが、サティを師とするミヨー/プーランクらを「フランス六人組」として支援。
      バルバザンジュ画廊で”家具の音楽”を実験。
 21,55歳 コミュニストの結社に入党。<シェーンベルク十二音技法考案、ドイツでナチス党結成>
 23,57歳 サティを師と仰ぐソーゲらがアルクイユ派を結成。<国際現代音楽協会第1回大会開催>
 24,58歳 コクトーと喧嘩別れ。11月ダダイストと『バレエ「本日休演」』及び幕間映画を共作。
 25,59歳 前年暮れから肝硬変。肋膜炎を併発し7月1日夜、聖ジョゼフ病院で死去。
      3日、アルクイユ墓地に埋葬。

 ■<曲目解説>:[n]はトラックNo.

  [3] サティ『ピアノ曲「ジムノペディ第1番」』

 この曲の題名は古代スパルタの祭典ジムノペディアに由来し、1888年に『ピアノ曲「3つのジムノペディ」』として発表された曲集の第1曲目です。嫌気が差していたパリ音楽院を86年に休学し歩兵連隊に志願入隊するも馴染めず故意に風邪を引いて除隊され、復学せずパリの一角に一人住まいを始めカフェ「シャ・ノワール(黒猫)」に入り浸って居た時の作品で、日本では彼の作品中最も有名で環境音楽が流行る切っ掛けに成りました。第1番と第3番はドビュッシー編曲の管弦楽版(95年頃編)が在ります。
 「黒猫」は文芸趣味のロドルフ・サリが1881年に開店した欧州型キャバレーで、サリの司会でシャンソンが歌われ影絵芝居やパントマイムなどが演じられ、芸術家が集い創造の拠点に成りました。後の時代の人が懐かしさを込めて「ベル・エポック(佳き時代)」と呼んだパリの象徴的存在で、スタンランが描いたアール・ヌーヴォー様式のポスター(表紙の黒猫の絵)は小粋です。同時代のロートレックの「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」や「ディヴァン・ジャポネ(日本の長椅子)」のポスターも有名です。
 サティは翌89年から「黒猫」の第2ピアノ奏者として雇われましたが、91年には経営者サリと喧嘩し追い払われました。如何にもサティらしいですね。

  [5] サティ『ピアノ曲「天国の英雄的な門への前奏曲」』

 サティの深層には秘教に引かれる神秘主義が在り、軍に入隊した1886年(20歳)頃からオカルト的秘密結社として名高い「薔薇十字団」道士ジョゼファン・ペラダン(△2のp65〜73)の著作を読み始め、「黒猫」でペラダンと遭遇し、遂に90年にペラダンの分派「聖堂と聖杯のカトリック薔薇十字団」に入団し公認作曲家と成り『ピアノ曲「薔薇十字団の最初の思想」』(91年作)や、ペラダンが企画した第1回「薔薇十字展」の為に『薔薇十字団のファンファーレ』(92年作)などを作曲します。実は生演奏の『ピアノ曲「グノシエンヌ」』の第1〜第3番は入団直後の作品です(90年作、p8で詳述)。
 ところが作曲に口出しするペラダンに我慢為らず、92年に雑誌編集長宛に公開絶縁状を送って脱会しました −これも彼らしい行動− が、この絶縁状に Eric では無く Erik と署名し以後 Erik で通します。
 しかしサティの神秘主義は尚も継続し翌93年に「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」を自宅に創設し自ら司祭としてパンフレットを発行し”布教”しましたが信者は彼一人でした。尚、この年(27歳)に私生児ユトリロ(当時10歳)の母にしてモデル上がりの画家シュザンヌ・ヴァラドン(26歳)と生涯一度の恋愛をしますが破綻しました。
 そして今度は事も有ろうにペラダン(=神秘的カトリシズム派)と対立するジュール・ボア(=急進的魔術派) −『悪魔主義と魔法』の著者ボアは悪魔主義者と呼ばれた− に接近し、ボアの戯曲の為に94年に書かれたのが『ピアノ曲「天国の英雄的な門への前奏曲」』です。戯曲は「イエスが詩人を説き、聖母マリアをエジプトの女神イシスに置き換えよ、と告げる」という驚嘆する内容です。

  [7] サティ『バレエ音楽「パラード」』(現実主義的な1幕のバレエ)

 曲は次の6つの部分
  (1)コラール 〜 赤い引き幕の前奏曲
  (2)中国人の手品師
  (3)アメリカ人の少女
  (4)定期船ラグタイム
  (5)アクロバット
  (6)マネージャー達の踊り 〜 フィナーレ
から構成されます。
 内容は、旅芸人の一座が公演前の客引きの為にパリのミュージックホールの前でパラード(=英語のパレード(parade)、見せびらかしの呼び込みのこと)を行なう、というもの。登場人物は中国人手品師、アメリカ人少女、2人のアクロバット、訓練された馬1頭、3人のマネージャー。
 筋書きは、マネージャー達が公演前に大声で通行人に呼び掛け、手品や少女の馬乗りやアクロバットでパラードを繰り広げると、パリっ子達はパラードを本公演と思い込み喝采しますが、パラードが終わると皆散って仕舞い、入場者は一人も無し。マネージャー達はかっかりするが狂った様に踊り幕。

 仕掛人ジャン・コクトーから1915年に作曲を依頼され、ロシア革命が勃発した1917年の5月18日にパリのシャトレー座で初演された『バレエ「パラード」』は、台本:コクトー、舞台装置・衣装・引き幕:パブロ・ピカソ(右の写真が引き幕)、音楽:サティ、バレエ:セルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ団(振り付け:レオニード・マシーヌ)という稀代の「奇人変人たちの”狂演”」(=とんでもない共演)でした。
 更にこの初演プログラムにはアポリネールが加わり、『パラード』を「一種のシュールレアリスム」と評して居ますが、この語が使われた最初の記録とも目されて居ます(△1のp84〜85)。
 初演に於いて観客は「客をバカにするにも程が有る」と怒り出し、幕の前に挨拶に出たコクトーは林檎やオペラグラスを投げ付けられ”コクトーの目論見”通りに一大スキャンダルと成りました。ナンセンスな前衛バレエは騒動を引き起こし新聞沙汰に成った事で充分に売名効果を発揮出来た訳で”成功”でした。
 この曲でサティはドラム/拍子木/サイレン/タイプライター/ピストル/宝籤用の回転機/空き瓶などを用い騒音主義的効果を出し、更に彼独特の同じフレーズの「繰り返し」も併用しナンセンスさを強調して居ます。
 ところで20世紀初頭のモダニズムの音楽の勃興はロシア・バレエ団の主宰者ディアギレフを抜きには考えられません。彼は作曲家のパトロンでありモダニズム音楽の推進者でした(○1)。尚、ピカソの最初の妻オルガ・コクローヴァは同バレエ団のバレリーナで、この結婚もコクトーとピカソの生涯に亘る交流も、そして表紙に掲載したピカソ作のサティの肖像画(1920年作)も、全て『パラード』が切っ掛けという重要な作品です(○2)。

 [10] サティ『ピアノ曲「壁紙としての前奏曲」』

 1906年(40歳)の作です。前年に突然スコラ・カントルムに入学し3歳年下のルーセルに師事して対位法を学び直す奇行に出た後の作品で、「家具の音楽」に至る実験的な曲です。

 [12] サティ『管弦楽「県知事の私室の壁紙」』(家具の音楽)

 サティを敬愛し良き理解者であった作曲家ダリウス・ミヨー(1892〜1974)の文を引用しましょう。サティは「人から意識的に聴かれることの無い音楽、”家具の音楽”というのはどうだろう」とミヨーに言いました(△1のp148)。ミヨーはこの考えを支持し幾つかの曲を寄せ集めてバルバザンジュ画廊で休憩時間に実験したのが1920年の”家具の音楽”のイベントでした。しかし結果は失敗で、サティは観客に向かって「歩き回って!、音楽を聴くんじゃない!」と絶叫したそうですが、人間が演奏を始めると観客は忽ち音楽を”傾聴”して仕舞いました。
 ミヨーは続けます。「それにも拘わらず、サティはワシントンのユージン・マイアー夫人の求めに応じて、もう1曲”家具のリトルネルロ”を書き、その手書きスコアは私を通して夫人に届けられた。だが、この『県知事の執務室のための音楽』を充分活用する為には、彼女はそれを録音させた上で何回も繰り返し掛けるべきだったのだ。」と。
 この『管弦楽「県知事の私室の壁紙」』(家具の音楽)こそがミヨーが触れていた『県知事の執務室のための音楽』で、マイアー夫人から委嘱され1923年に作曲されました。私はミヨーの文章を読んで以来、是非聴いてみたい曲の一つでしたが近頃やっとCDを入手出来たので聴いたら、単純なフレーズが馬鹿馬鹿しい程繰り返されて居たので嬉しく成りました、これでこそサティです!
 ミヨーは「未来がサティの正しかったことを証明することに成ったのである。」と高らかに宣言しました。そうです、BGM(背景音楽)は現在”当たり前”であり風景の一部です。しかしBGMは無機的な再生装置から流れ出て初めて「意識されない音楽」に成り得る訳で、サティとミヨーの画廊での試みが失敗したのは、生身の人間が演奏したからでした。
 同じフレーズを840回繰り返す『ピアノ曲「ヴェクサシオン」』(1893年作) −ヴェクサシオン(vexation)は「苛め」「侮辱」という意味− の”音の苛め・侮辱”も無機的にBGMとして流されれば気になりません。蓋(けだ)し、サティは「大衆は退屈を欲している」と言い放ちました(△1のp113)。
 サティの埋もれて居た先見性の”卵”は漸く1950年代後半頃からジョン・ケージらに依って掘り起こされ現在は”毛虫”(p1を参照)に成って家具の周辺を徘徊して居ます。
  {尚、当日は「家具の音楽」として他に『錬鉄の綴れ織り』『音のタイル張り舗道』の2曲を掛けましたが、CD収録時間の制約の為この2曲は割愛しました。}

 [14] サティ『シャンソン「お前が欲しい(ジュ・トゥ・ヴ)」』
       (作詞:アンリ・パコリ)
 [15] サティ『シャンソン「ランピールのプリマドンナ(エンパイア劇場の歌姫)」』
       (作詞:ドミニック・ボノー & ニュマ・ブレ)

 サティは1891年にカフェ「シャ・ノワール(黒猫)」を”彼らしく”追い出され(p4を参照)、別のカフェ「オーベルジュ・デュ・クルー(旅籠屋「釘」)」に拾われました。そして98年(32歳)に郊外の工場地帯アルクイユのアパート(=通称:4本煙突)に引越し「終の栖」とします。
 彼はシャンソン歌手のヴァンサン・イスパやポーレット・ダルティの為に50曲以上のシャンソンを書きましたが、この2曲は特に良く知られた曲です。2曲共1900年に作曲され、『お前が欲しい』は前年から伴奏者を務めているイスパの為に書かれたワルツです。『歌姫』はダルティの為に書かれ、「エンパイア劇場」はロンドンのピカデリー地区の有名なミュージックホールの名です。
 ベル・エポック(佳き時代)の洒落た味わいをお楽しみ下さい。

 [18]〜[23] サティ『ピアノ曲「グノシエンヌ」』全6曲
    (5周年特別企画:ピアニスト小川恵子さんの生演奏)

 演奏は番号順に第1番〜第6番ですが、作曲年順に並べると第5番(1889年作)、第1番〜第3番(『3つのグノシエンヌ』として90年作)、第4番(91年作)、第6番(死後発見、97年作とされるが94年説在り(△1の詳細年譜))です。最初の第5番を除き小節線・拍子記号を撤去した記譜法は現代の図形楽譜の先駆です。
 題名の「グノシエンヌ(Gnossiennes)」はサティの造語ですが、英語に gnosis([霊的]認識、霊知)という語が在る様に「精神の奥深い部分での悟り」の様なものを指すと思われます。更に言えば、この曲の作曲年代はサティが薔薇十字団の神秘思想に深く傾倒し入団した時期と重なります(p4を参照)ので、キリスト教異端派のグノーシス主義(Gnosticism)を暗示してる事は先ず間違い無いでしょう。グノーシス主義は主に東方に伝わり現在でもキリスト教異端派の地下水脈を形成して居ます。
 私が最初に『グノシエンヌ』に興味を覚えたのは第1番を聴いた時で、何とも名状しがたい”収まりの悪さ”と”気持ち悪い後味”が残ったからです。何でこんな”気持ち悪い曲”を態々作曲するんだろう?、と不審に思い第2・第3番と聴き進んで行ったのです。ところが段々深く聴いて行く内に少しずつ”気持ち良く”感じられて来たから不思議です。これはヤバイぞ、サティのマインド・コントロールに嵌まって仕舞うぞ!、と思わず警戒した程です。
 そんな私でも第4〜第6番を聴いたのは極最近の事で、最初期の第5番は普通ですが第4・第6番はやはり”気持ち悪い曲”だったので、何故か逆に安心しました。その様な状況ですので全曲のライヴ演奏を収録した当CDは非常に希少な逸品と言えます。
 こうして全曲を何度も聴き込ん行くと『グノシエンヌ』の底流にはグレゴリオ聖歌の様な中世的な響きの「隠し味」が存在する事に気付かされ、同様の響きは特に他の神秘主義の曲にも濃厚です。実はサティは中世の旋法を独学する為にソレムの修道院を訪れました(△1のp231)が、ここにはドビュッシーも行って居ます。
 ドビュッシーがサティへの献辞中に記した「今世紀の最中(さなか)にさ迷い現れた心優しい中世の音楽家エリック・サティ」(△1のp244)という表現程サティの音楽を的確に言い当てた言葉は他に在りません。

  {以上の曲目解説:エルニーニョ深沢}

 ■演奏者の紹介 − 小川恵子(おがわ けいこ):ピアニスト

  大阪音楽大学音楽学部器楽学科ピアノ専攻卒業。
  「フランス印象派音楽と絵画の出会い」等、各種演奏会に多数出演。
  ムラマツリサイタルホール新大阪、神戸クレオール、神戸世良美術館にて、ソロリサイタルを開催。
  ワルシャワ・フィルのコンサートマスターとの2度のピアノトリオ共演を始め、管楽器・声楽の伴奏や、連弾やエレクトーンとのユニットを組む等、近年はアンサンブルにも力を注ぐ。
  第9回全日本ソリストコンテスト入選、第22回国際芸術連盟新人オーディション合格、第3回長江杯国際音楽コンクール第2位、第11回堺ピアノコンクール奨励賞、第18回日本クラシック音楽コンクール近畿地区奈良本選好演賞。
  ピアノを谷村宏子、山浦菊子、不二樹紀子、上野真の各氏に師事。又、エドワルド・デルガド、瀬田敦子、杉谷昭子各氏の指導も受ける。ピアノ及び作曲・即興法を大久保剛、高垣純の各氏に、チェンバロを通彫子氏(故人)に師事。
  現在、大東楽器(株)京橋支店ピアノ科講師。社団法人全日本ピアノ指導者協会(PTNA)指導者会員。音楽検定1級(洋楽系)。

    ◆後日の小川さんの感想
 生演奏前の小川さんのコメントはCD([17]トラックに収録)で聴いて戴くとして、後日に感想を寄せて戴きましたので、以下に掲載します(右は5周年で演奏中の小川さん)。

 【ブラボー、クラシック音楽!】5周年、誠におめでとうございます。3周年に続き、記念すべき例会にて演奏させて頂いたことを、とても名誉に思っております。
 今回は、サティの『グノシエンヌ』全曲、と言う、めったと無い機会を頂け、理解の難しい楽曲ではありましたが、当日は、不思議で、しかし心地よい浮遊感を、会の皆様と共に味わう事が出来たように思います。
 奇妙でありながら、聴いていて、そして弾いていても「癒される」のが、サティの音楽の魅力かも知れません。

        (09年10月9日)

 ■故J.コクトーに捧ぐ「唯一無比のサティ論」 − エルニーニョ深沢
 さて、どうやら私の「唯一無比のサティ論」(△1のp9)を展開する頃合いです。

 (1)サティの眼差し
 山羊鬚と金縁鼻眼鏡と山高帽に覆われた顔、よれよれのビロード黒服に黒ネクタイ、それに黒蝙蝠傘という”貧乏紳士”の出で立ちで、エリック・サティ(Erik Satie)はアルクイユの”4本煙突”のアパートから仕事場であるモンマルトルのカフェ「オーベルジュ・デュ・クルー(旅籠屋「釘」)」迄、とぼとぼと徒歩で通ったと言います。
 右は1909年(43歳)のサティの写真ですが、09年は彼がアルクイユで「宗門に属さない信徒教会」の創立に参加し地域の慈善活動を始め、県知事から文化功労賞を貰い、『アルクイユ=カシャンの将来』誌に記事の連載を始めた年です。
 彼は1898年にモンマルトルから郊外アルクイユの”4本煙突”に転居し、そこが気に入った様で「終の栖」としました。「アルクイユの町の周りの全てのものは、とても物悲しく、哀れっぽい。それはまるで青白く美しい狼のように、私を感動させ、私を満足させてくれる。」(△1のp248)と彼が語るアルクイユは、現在でも町工場の多い下町です。
 ところで、この写真の風貌は私に怪盗ルパン(Arsene Lupin) −モーリス・ルブランの小説の主人公で、リュパンが仏語に近い− を連想させて仕舞います。ルパンの帽子はシルクハットですが、この怪盗紳士がパリの街を徘徊したのがサティと同じ19世紀末〜20世紀初頭です。しかもサティがオンフルールでルブランがルーアンと、共にノルマンディー地方の生まれです。
 この鼻眼鏡の奥の眼差しを窺うことは出来ませんが、サティの視線の先に在ったものには興味をそそられます。

 (2)唯一無比の論#1 − サティはダダっ子である
 「ダダっ子」とは私の造語です。結論を先に種明かしすれば、即ち
    ダダっ子 = (ダダイスト + 駄々っ子) / 2
という数式で表されます。「ダダっ子サティ」の解明はこの式の証明から始まります。
 サティがダダイスト(※1)であった事は、彼がデュシャンやピカビアやマン・レイなどのダダ運動の中心人物と付き合い『バレエ音楽「本日休演」』(1924年作)などの作品を彼等と共作し、又彼の曲がダダイスト達の集会で良く演奏された事実から明らかです。
 しかしサティという人間は一つの輪の中には身を置かず、どのグループとも常に「一定の距離」を保ちます。ダダを脱皮しシュールレアリスム(※1)を起こしたアンドレ・ブルトンがダダの総帥トリスタン・ツァラと決定的対立に至った際の、「サティは”裁判官”を務めたが、彼は騒動全体を茶化して居る様に見えた。」という証言(△1のp115)は、サティの天邪鬼な”駄々っ子”振りを示して余り有るものです。

 (3)唯一無比の論#2 − サティは琳派である
 サティの音楽に多い同じフレーズの「繰り返し」は、しばしばアンディ・ウォーホルが遣ったマリリン・モンローの顔の繰り返しを以て説明されます。確かにその通りですが、何でも外国を引き合いに出して事足れりとする所が日本人の深層心理に横たわる欧米コンプレックスです。右下の絵をご覧下さい。これは尾形光琳(1658〜1716)の有名な『燕子花図屏風』ですが、同じ図柄がリズム感を出し乍ら繰り返されて居るのがお判りでしょうか!
 元禄の華を生きた光琳は京都の「雁金屋」という屋号の呉服商の生まれです。呉服のデザイン −現在の洋服のデザインもそうですが− は基本図形が縦横に繰り返されるものが多いのです。光琳の時代は基本図形を型紙にして繰り返しを生成したのですが、子供の頃からそういう手法に馴染んで居た光琳は、その手法を”当たり前”の事として屏風絵に応用したのです。彼の作品には他にも「繰り返し」の手法が良く見られるのみならず、代表作『紅白梅図屏風』での見事なデフォルメはウィーン世紀末の極致であるクリムトに先行して居ます。
 故に私は、サティは琳派の後継者であると見做して居ます。

 (4)唯一無比の論#3 − サティの遊び心は「カルヴァドスの林檎」である
 p2に記した様にサティの音楽には「遊び」が潜んで居ます。特に1896〜1915年は俗に「ユーモアの時代」と言われ、皮肉たっぷりで奇抜な題名や発想記号が多数出現した時期です(△3のp203)が、それ以前の「神秘主義の時代」の『グノシエンヌ』の”気持ち悪さ”(p8を参照)も彼の遊びと挑発に感じられます。
 他人を気味悪がらせて喜ぶのは正に”駄々っ子”の本領ですが、「個人的には、私は良くも悪くもない人物である。」(△1のp133)などという諧謔的・韜晦的な言い回しは

  善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵笑はず 閻魔叱らず

と戯(おど)けて見せた式亭三馬に相通じるものが有ります。つまりサティの諧謔的「遊び心」は江戸の狂歌師や戯作文学作家と共通のダンディズム(○3)に他なりません。では、この「遊び心」は何処から発するのか?
 彼が生まれたカルヴァドス県は「林檎のブランデー」事「カルヴァドス」の産地ですが、どう遣って大きな林檎を瓶の中に入れるのか?!、大いに不思議です。あれは林檎の実が小さい時に木から切り離さず瓶の口から入れ、瓶を林檎の木に吊るし大きく成長させてから切り離し、原酒アルコールを加えるそうです。
 「ダダっ子サティ」の機知と「遊び心」の源は「カルヴァドスの林檎」に在る、と私は信じて疑いません!
  {この論考を、サティを唯一無比と評した山師的才人ジャン・コクトーに捧げます}

−− 完 −−

【私のWebサイト】(以下のタイトルをネット検索して下さい)
○1:「「モダニズムの音楽」概論」。私が使う「モダニズムの音楽」の定義とその概論。
○2:「2007年・ピカソの絵画盗まれる」。ピカソとコクトー/ディアギレフ/サティとの出会いについて。
○3:「[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成」。江戸時代のダンディズムについて。

【脚注】
※1:ダダイスム/ダダイズム(dadaisme[仏], dadaism[英])とは、(ダダ(dada)は、創始者のトリスタン・ツァラが敢えて無意味な語を選んで命名)第一次世界大戦中の1910年代にルーマニアの詩人ツァラを中心にスイスに興り、ヨーロッパ各地やアメリカに広まった文芸・芸術上の破壊的な新運動。個人をドグマ/形式/掟の外に解放する為に、既成の権威/道徳/習俗/芸術形式の一切を否定し、自発性と偶然性を尊重。意味の無い音声詩/コラージュ/オブジェ/フォトモンタージュ/パフォーマンスなどを生み、何でも芸術に成り得ることを証明。後、この運動はシュールレアリスム(超現実主義)に吸収された。詩人ではブルトン(=シュールレアリスムの創始者)/アラゴン/スーポー/エリュアール、美術ではアルプ/デュシャン/エルンスト/ピカビア/マン・レイらが居る。略称はダダ。

【参考文献】
△1:『音楽の手帖 サティ』(秋山晃男編、青土社)。現在の日本でサティに関する最高の文献。
△2:『薔薇十字の魔法』(種村季弘著、河出文庫)。
△3:『西洋音楽史 印象派以後』(柴田南雄著、音楽之友社)。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):「モダニズムの音楽」について▼
「モダニズムの音楽」概論(Introduction to the 'Modernism Music')
ピカソ/コクトー/ディアギレフ/サティの不思議な関係▼
2007年・ピカソの絵画盗まれる(Picasso's pictures were stolen, 2007)
江戸ダンディズムとは▼
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)
5周年の活動記録▼
ブラボー、クラシック音楽!−活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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