<ブラボー、クラシック音楽!−オリジナルCD#3>
{オリジナルCDより}モダニズム#3
({From the original CD} Modernism-3)

−− 2014.05.20 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■【ブラボー、クラシック音楽!】第60回例会(2009年12月2日)
    『モダニズム音楽入門−3』
    〜 前衛(アヴァンギャルド)の勃興と無調の確立 〜

【ブラボー、クラシック音楽!】
第60回例会(2009年12月2日)

『モダニズム音楽入門−3』
〜 前衛(アヴァンギャルド)の勃興と無調の確立 〜
司会と曲目解説:エルニーニョ深沢

  

『モダニズム音楽入門−3』収録内容  (Total 79:56)

・語りは2009年12月2日【ブラボー、クラシック音楽!】でのライヴ録音。各楽曲はCDより採録。
・2009年12月10日第1版、12月14日第1.1版製作(プロデューサー:エルニーニョ深沢)。

 当記述の中でジャケットのページを記述している部分は無視して下さい。オリジナルCDのジャケットから原稿を起こして居る為、その様な記述が偶(たま)に出て来ますが、最早この稿には「ジャケットのページ」という概念は有りません。但し、△nのp×××という表現には他の参考文献のページを示して居ますので、これは有効です。
 即ち、
       p××× : オリジナルCDのジャケットのページ → 無視
    △nのp××× : 他の参考文献のページを示す     → 有効
と成ります。

 ■プロデューサー・ノート − エルニーニョ深沢
 このCDの「語り」の部分は【ブラボー、クラシック音楽!】第60回例会(2009年12月2日) −テーマは<モダニズム#3:前衛(アヴァンギャルド)の勃興とその前後>− のライヴ録音です。モダニズム音楽(末尾の○1)の現在迄の進展の中で、以下の理由から当CDの「前衛の勃興」が最大のクライマックスです。
 20世紀の音楽は1910年頃に”革命”が起こり以後約20年間は前後の音楽と「不連続な段差」で隔絶して居ます。革命の推進者は「前衛(アヴァンギャルド、(avant-garde))」と呼ばれた諸派 −原始主義/前衛的民族主義/騒音主義/機械主義(未来主義)/神秘主義/十二音主義など− で、中でもストラヴィンスキー(原始主義)シェーンベルク(十二音主義)が両翼です。前者は革命の進軍ラッパを鳴らし後者は革命を永続化する理論を静かに構築しました。その結果「音楽の脱欧入汎」(←「汎」は「汎世界」の意味)と「無調音楽」(←長調・短調という調性が無い)が齎され、以後現在迄クラシック音楽の主流は大なり小なりこの方向に展開されて居ます。
 そこで、この20年間を「前衛の時代」と呼ぶことにしますが、日本では大正デモクラシーが芽生えた大正時代(1912〜26年)と同時期です。日本が明治の欧化政策で「入欧」を果たした時、本家西欧の最前線の芸術は洗練の行き詰まりから「脱欧」に向かって居たという後進日本の”認識のズレ”は押さえて置くべき事実です。
 ところで、私は20世紀前期のバレエ音楽の割合の多さを随分前から不思議に思って居ました。ストラヴィンスキーの『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』の三大バレエ、ラヴェル『ダフニスとクロエ』、サティ『パラード』、ファリャ『三角帽子』、プーランク『牡鹿』などなどですが、実はそこにはバレエ界の大物が存在したのです。その人物こそロシア・バレエ団の総帥セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Pavlovich Dyagilev, 1872.5.19〜1929.8.19、露、表紙の諷刺画)です。裕福な生まれの彼は家庭で美術やピアノを習得し大学で法律を学び、パリに出て前衛的美術誌『芸術世界』を発刊し、ロシア人の画家・作曲家を売り出し、ムソルグスキーの『歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」』の上演で名を揚げ、遂に1909年にニジンスキー/パヴロヴァ/カルサヴィナらロシア帝室バレエの精鋭を集めてロシア・バレエ団 −フランス語風にはバレエ・リュス(Ballets Russes)− を結成しました。以後29年に死ぬ迄パリを中心にバレエを上演し続け多数の作品と芸術家を世に出しました(△1)。パトロン兼興行主として”大衆に受ける前衛”を目指した彼こそは「前衛の時代の仕掛け人であり推進者」でした。因みに、本格的に音楽を学んだ彼は楽譜を読める人で、振付師のニジンスキーとは”ホモ達”でした。
 当日は革命を担った前衛諸派の曲を一気に掛けましたが、前後の時代との対比が出来る様に革命以前のベル・エポックの曲と革命後の新古典主義の萌芽的曲も合わせて聴きました。当CDも当日の例会と同じ構成ですので「不連続な段差」の大きさを”聴感”して下さい。

 ■20世紀前期の「前衛の勃興とその前後」 − エルニーニョ深沢
 先にリリースしたCD『モダニズム音楽入門−1』の解説書で1860〜1910年頃の音楽状況とモダニズム諸派を概説し、CD『モダニズム音楽入門−2』でダダイスト(※1)のサティを特集しベル・エポック中期のシャンソンやロシア・バレエ団で初演した『バレエ音楽「パラード」』を紹介しました。
 この章では、その続編として「前衛の勃興とその前後」について概説しますが先にこの時代の見取図を提示し、この図に沿って次の節から説明して行きます(←時代区分が重なり合って居る期間は移行の過渡期であり、又中心地パリと他地域との時間差です)。

    《「前衛の勃興とその前後」(1885年頃〜1939年)の見取図》
  ・1885年頃〜1914年:ベル・エポック(belle epoque)の時代
    第一次世界大戦勃発(1914年)で終焉
  ・1910年頃〜1930年頃:前衛(avant-garde)の時代
    政治:第一次世界大戦(1914年〜18年)とロシア革命(1917年)
    科学:一般相対性理論(1915年)と不確定性原理(1927年)
    文芸:前衛の勃興
      反権威 → 既存の価値観の解体・破壊 → ダダイスム(1916年)
      反キリスト教 → オカルト的秘教
      西欧中心主義の否定 → 「脱欧入汎」思想 → 原始主義
        音楽:旋律の否定 → リズム、打撃音、雑音・騒音   → 無調
      純音楽的立場:和声と音列の開拓 → 神秘和音や十二音技法 → 無調
      ディアギレフのロシア・バレエ団(1909年〜29年)
  ・1925年頃〜1939年:新古典主義(neoclassicism)の時代
    破壊(=戦争や前衛運動)への反動 → 安らぎ、穏健、単純明快
     → 美術:エコール・ド・パリ(Ecole de Paris、パリ派)の時代

 (1)ベル・エポック(1885年頃〜1914年)の終焉
 フランスのパリに於いて文化・芸術が上品に花開き後の人が懐かしさを込めて「ベル・エポック(佳き時代)」と呼んだ時代は世紀を跨いで居ます。上流階級はサロンに、大衆はカフェや文芸酒場(=西欧型キャバレー)に集い、そこから芸術を生み出しました。「シャ・ノワール(黒猫)」や「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」の時代とも言えます。第一次世界大戦勃発(1914年)で終焉しました。

 (2)前衛の時代(1910年頃〜1930年頃)
 この時代は世界史的に政治・経済・科学技術・文化など有らゆる分野でパラダイム・シフトが起こり「価値観の変革」が要求されました。つまり「時代の曲がり角(=ターニング・ポイント)」だったのです。1914年の第一次世界大戦は「政治と経済的利害の衝突」、17年のロシア革命は「階級の衝突」で社会的価値観の変革を迫りました。一方、15年の一般相対性理論(アインシュタイン)や27年の不確定性原理(ハイゼンベルク)は科学的価値観の変革を迫りました。文芸の分野でも同じです。モダニズム音楽の扉を開いた印象主義は”ドアマン”の役目を終え衰退し、時代の空気に敏感な新進芸術家達が既存の価値や権威の否定・解体・破壊に向かい、大戦中の16年にダダの運動(※1)を起こしました(→表紙の”逆さ便器”の写真は、17年にダダの旗手デュシャンが「泉」と題して世間にパラドックスの挑戦状を叩き付け20世紀前衛の到来を告げた有名な作品です)。西欧での最大の権威はキリスト教で、彼等は真っ先に反キリスト教に向かい異端的オカルト思想や神秘主義が生まれます。又、西欧中心主義を否定し「脱欧」に向かい対極の価値としてアフリカやアジアなどを持ち出して「脱欧入汎」、文明に対し原始を対置、こうして原始主義が生まれます。原始主義音楽はメロディーを否定し原始の荒々しいリズムや打撃音・騒音・デタラメを是とし西欧の洗練を”音の塊”で圧し潰す試みをしました。一方、純音楽的に和声と調性の可能性を追究した立場から十二音主義の無調音楽が生まれました。
 以上が前衛が勃興した時代的背景と音楽状況ですが、前衛芸術家だけでは直ぐに”金詰まり”ますが、彼等を支援したパトロンがp1に紹介したロシア・バレエ団総帥のディアギレフ(表紙の諷刺画)で、彼はバレリーナの如くに多数の新進作曲家を自らの掌(たなごころ)の上で踊らせて世に送り出しました。こうして前衛音楽がロシア/東欧/アジア/南北アメリカなど世界各地に拡散(=「入汎」)し、西欧中心部以外の民族音楽の発掘に寄与し「音楽の機会均等」を成し遂げた点は前衛の大きな成果です。

 (3)新古典主義の時代(1925年頃〜1939年)の幕開け
 第一次世界大戦が人々を疲弊させました、そして戦争こそ”大量破壊”そのものです。現実の破壊にうんざりした大戦後の大衆は既存の価値の”破壊”を唱える過激なアヴァンギャルド達に背を向け、心身の快癒と平和を求めベル・エポックを懐かしみ、「穏健で単純明快」な芸術を望みました。こうして1925年頃から”破壊”への反動として急速に伝統様式へ復古し、以後第二次世界大戦開始の1939年迄、音楽家は新古典主義(プロコフィエフ/ショスタコーヴィチ/ミヨー/プーランク/コープランド)の時代、美術ではシャガール/モディリアーニ/藤田嗣治ら外国人作家がパリで伸び伸びと個性を発揮しエコール・ド・パリ(=パリ派)と呼ばれた時代を迎えました。

 ■<曲目解説>:[n]はトラックNo.

(1)ベル・エポック末期
  [2] R.アーン『歌曲「クローリスへ」』(作詞:T.ヴィオー)
  [3] R.アーン『歌曲「リラに来る鶯」』(作詞:L.ドーファン)

 レイナルド・アーン(Reynaldo Hahn, 1875.8.9〜1947.1.27、ベネズエラ)はユダヤ系ドイツ人の父とスペインのバスク人の母の末子としてベネズエラの首都カラカス生まれです。大富豪の一家は彼が3歳の時にパリに移住し上流社交界入りし、彼はピアノとボーイ・ソプラノの神童としてナポレオン3世の従妹マティルダ公女のサロンに6歳でデビューしました。モーツァルトをこよなく愛しピアニスト及びモーツァルト指揮者として成功した彼は、時代の潮流のモダニズムには背を向け擬古主義を貫きました。多方面の作曲が在る様です −彼もロシア・バレエ団の『青神』(1912年作)を作曲− が自身美声の持ち主だったので歌曲が特に秀でて居ると思います。『クローリスへ』(10年作)はバロック時代の詩人の歌詞に合わせたバロック様式、『リラに来る鶯』(13年作)は当世風、何れも師マスネ譲りの甘美なメロディーでベル・エポックのサロンの香気を今に伝える珠玉の逸品です。

(2)前衛・その1 − 原始主義/前衛的民族主義/騒音主義/打楽器主義
  [5] ストラヴィンスキー『バレエ音楽「春の祭典」』(抜粋)

 イーゴル・ストラヴィンスキー(Igor Fyodrovich Stravinsky, 1882.6.17〜1971.4.6、露)は「旗手」として前衛の片翼を牽引した20世紀の大作曲家ですが、彼を世に出したのはディアギレフです(p1を参照)。代表作とされる三大バレエ音楽 −『火の鳥』(1910年作)、『ペトルーシュカ』(1911年作)、そしてこの『春の祭典』(1913年作)− は何れもロシア・バレエ団の委嘱で書かれ同団で初演され、若きストラヴィンスキーの出世作に成りました。共にロシア生まれで第一次世界大戦と祖国の革命という激動を潜り抜けて異国のパリで舞踊芸術を共同制作して居た二人には、以心伝心の通い合うものが裡に在りました。
 自ら台本を起草した『春の祭典』は1913年5月29日にパリのシャンゼリゼ劇場にてニジンスキーの振り付けで初演され劇場史上最大の騒動と大スキャンダルに成りました。古代ロシアの原始信仰の大地母神に捧げる「生け贄」と「大地への口付け」や「祖先の呼び出し」という全く以て反キリスト教的主題を礼賛する内容と、不協和で野生的な強烈なリズム主体の音楽は非常にアナーキズム的です。今回は「春の兆しと乙女達の踊り」「賢者の行列」「大地の踊り」「生け贄の踊り」を抜粋しました。
 しかし曲の緊迫感は来たるべき第一次世界大戦やロシア革命を予感させ、迸り出る荒々しい「原始のエネルギー」はモダニズムに新たな方向付けを与え既成の価値観の変革を唱える前衛の大きな推進力に成りました。ストラヴィンスキーが点火した原始主義の炎は直ぐに前衛的民族主義/騒音主義/機械主義へと燃え広がり、1930年代前半迄に多くの追随者を生み、この曲で彼は”音楽の革命児”に成りました。音楽史的な影響力の大きさから観て『春の祭典』を20世紀で最重要な楽曲と言っても過言では無いでしょう。

  [7] バルトーク『バレエ音楽「中国の不思議な役人」』(抜粋)

 ベラ・バルトーク(Bela Bartok, 1881.3.25〜1945.9.26、ハンガリー)はマジャール人(=ハンガリー人の自称)で人種的にはアジア人に近く出生が既に「脱欧」です。彼は後進国の生まれ故に辺境ロマン主義から出発しピアニストとして活躍しましたが、コダーイと共に祖国の民謡研究を行い民族主義に目覚め、更に西欧のモダニズムに触れ前衛的民族主義を独自に開拓した人です。
 この1幕のパントマイム用の『中国の不思議な役人』(1919年作)は彼の前衛時代の代表作ですが、無頼漢達が少女に中国の役人を誘惑するエロティックな舞踊をさせる、という内容はハンガリー当局から”不健全”とされ生前は上演を禁じられて居ました。今回は冒頭部の「導入部」と「開幕」を抜粋しましたが、随所に聴かれる強烈なリズムと不協和音はストラヴィンスキーの影響であり、更に無調への指向が窺えます。

  [9] オネゲル『交響的運動第1番「パシフィック231」』

 この曲は1923年に作曲され25年にパリで初演され大評判に成りましたが、若きアルテュール・オネゲル(Arthur Honegger, 1892.3.10〜1955.11.27、スイス)は機械文明に未来を見た一人です。パシフィック号とは当時アメリカ大陸を横断する大型蒸気機関車で「231」とは「前輪2、中輪3、後輪1」という車軸の数です。重さ300トンの大型機関車が何台もの列車を牽引し時速120kmで大平原を疾駆する姿と轟音は圧倒的迫力です。「私は機関車を熱愛する」と公言して憚らなかった彼は正に「血湧き肉躍る」思いで作曲したに違い有りません。この曲も原始主義の延長線上の騒音主義や機械主義の曲と解釈出来、機関車の駆動輪のリズミックな”運動”と”音の塊”を受け留めて下さい。同じ延長線上に『交響的運動第2番「ラグビー」』(28年作)が在ります。
 オネゲルは所謂「フランス六人組」 −サティを担ぎ上げ反ロマン主義・反印象主義を掲げたミヨーやプーランクのグループ− の一人ですが、J.S.バッハを尊敬し次第にドイツ的構造性に接近し、後年は新時代の映画やラジオの音楽も作曲しました。

 [11] モソロフ『交響的エピソード「鉄工場」』

 アレクサンドル・モソロフ(Aleksandr Vasilyevich Mosolov, 1900.8.11〜1973.7.12、露)の世に知られた唯一の作品がこの『鉄工場』(1928年作)です。ロシア革命を赤軍の兵士として過ごした彼は、機械文明と共にプロレタリアートたる労働者にも未来を見て居ました。元々は新生ソ連の工業化を讃えた『バレエ「鉄鋼」』(1927年作)の一場面の音楽で、工場の中で労働者達が働き金属音が軋む様を表したこの曲は機械主義の代名詞として世界各地で演奏されました。
 しかし以後の彼は苦難と忍従を強いられました。彼の機械主義は「社会主義リアリズム」を推進するソ連当局から”自然主義的”と批判され民謡研究に転向するも、遂に反ソ連活動を理由に逮捕され白海湾の強制労働に長期間送り込まれました。

 [14] プロコフィエフ『交響曲第3番』第4楽章

 一般に『交響的童話「ピーターと狼」』(1936年作)で知られるセルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev, 1891.4.23〜1953.3.5、露)が、こんなに激しい曲を書いた事実は余り知られて居ません。ユダヤ人大地主の家に生まれ母親が敷いた音楽家への軌道上を素直にひた走ったプロコフィエフは早くから天分を発揮し、13歳でペテルブルク音楽院に入学しリムスキー=コルサコフに師事、在学中に本格的な『交響曲ホ短調』や『ピアノ協奏曲第1番』を発表して居ます。
 卒業作品の『ピアノ協奏曲第2番』は学院の創立者の名を冠するルビンシュタイン賞を獲得し1914年に母親から褒美のロンドン旅行をプレゼントされ、何とロンドンでロシア・バレエ団の『春の祭典』に接し祖国の先輩ディアギレフとストラヴィンスキーの活躍に勇気と希望を得ました。彼は早速ディアギレフの知遇を得て『バレエ音楽「アラーとロリー」』(1914年作)を作曲しますが、余りにもストラヴィンスキー的な為にディアギレフは不採用としました(→彼は後にこの曲を改編し今日『スキタイ組曲』(15年作)として聴くことが出来ます)。ロシア・バレエ団では『道化師』(21年作)、『鋼鉄の歩み』(27年作、工場労働者と農民を主題にした唯一のソヴィエト・バレエ(△1のp110))、『放蕩児』(29年作、ロシア・バレエ団最後の新作演目)が上演されました。
 さて『交響曲第3番』(1928年作)ですが、この曲は前年作の『歌劇「炎の天使」』と密接な関係に在り、カバラの秘法に通じた中世の魔術師アグリッパが登場するオカルト的な歌劇から素材を引用し不協和音が軋みます。祖国の革命の為に半亡命状態でパリやアメリカを徘徊した時代のプロコフィエフは原始主義や前衛的民族主義に深く傾斜したアヴァンギャルドの一人でした。
 1933年にソ連に帰国した後は穏健な作風に転じ今では新古典主義を代表する作曲家と見做されて居て、後年は時代を反映し映画音楽も書き、先に挙げた子供向けの『ピーターと狼』は”解り易い”のでソ連当局からも歓迎されました。
 因みに、彼は独裁者スターリンと同日に死亡した為に衆人に知られず世を去りました。

 [16] ヴァレーズ『打楽器音楽「イオニザシオン(電離)」』

 エドガー・ヴァレーズ(Edgar Varese, 1883.12.22〜1965.11.6、仏)はフランス人とイタリア人の混血でパリに生まれスコラ・カントルムとパリ音楽院に学んだ後、1906年に合唱団「民衆の城」結成・指揮で活動開始し印象主義のドビュッシーを知り、08年ベルリンに移り後期ロマン主義のR.シュトラウスの知遇を得、15年アメリカに渡ります。初期はこの二先達の影響下の作風でしたが初期作品を廃棄及び戦火で焼失、第一次大戦直後から騒音主義に転じ27年アメリカに帰化、この『イオニザシオン(電離)』(1931年作)で打楽器主義を確立。この曲は13人の奏者が30数個の多国籍な打楽器と2個のサイレンを奏する合奏曲で、西洋音楽史上初の打楽器合奏曲 −アフリカや南アジアでは昔から”当たり前”− として名高い曲で、収録音源は1933年世界初演(於ニューヨーク)の超貴重な録音です。因みにタイトルの「電離」とは、宇宙空間の電離気体(=プラズマ)は星のスペクトル観測の際の広帯域ノイズを齎す事から、ノイズ(=雑音)を暗示して居ます。
 彼は第二次大戦以後は電子音楽や空間音楽 −1958年ブリュッセル万博での425個のスピーカーを使用した『電子音楽「ポエム・エレクトロニック」』(57年作)は有名− に突き進み、十二音技法とは対極の方法論に拠る”緻密な騒音主義”は現代音楽の前衛派に多大な影響を与えました。
 以上がストラヴィンスキーに端を発した”音の塊”の音楽ですが、これらとは全く別の立場から純音楽的に新和音や無調音列の開拓をした”静かなる変革”が在りました。それはモスクワやウィーンで同時進行して居たのです。

(3)前衛・その2 − 神秘主義/十二音主義
 [18] スクリャービン『ピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」』

 アレクサンドル・スクリャービン(Aleksandr Nikolaevich Skriabin, 1872.1.6〜1915.4.27、露)は唯一人で調性が曖昧な「神秘和音」 −「C・F#・Bb・E・A・D」という音階の相対関係で成り立つ和音(→詳細は○2)− を開拓しました。モスクワに生まれ幼い頃からピアノの天分を発揮し16歳でモスクワ音楽院に入学、同級生のラフマニノフ(頑固ロマン主義)と互いにピアノの腕を競いました。
 ピアニストとして世に出た当初はショパン風のピアノ曲を作曲して居ましたが、1905年頃からブラヴァツキー夫人の神智学や数秘術に取り憑かれ神秘主義に急転回し『ピアノ・ソナタ第5番』(1907年作)や交響詩的管弦楽の『法悦の詩』(08年作)で何処を取っても神秘和音の曲を完成させ、以後はどの曲も単一楽章に変じ曲の終盤が痙攣的に高潮する特徴を具えます。この『ピアノ・ソナタ第9番』は晩年の1913年の作で、「黒ミサ」という副題は第7番の「白ミサ」に対応させ友人が命名したものです。

 [20] シェーンベルク『ピアノ組曲 作品25』から前奏曲

 1オクターヴを12等分すると全て半音の音階が得られます −それはピアノの平均律に合致− が、中心音を作らず12の音高を同等に不規則に配列する音列技法を十二音技法と呼びます。アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg, 1874.9.13〜1951.7.13、墺)は、現代音楽が信奉する「無調音楽」生成の基本的方法論たる十二音技法を開発した人で、ストラヴィンスキーとは対極の立場の「前衛の旗手」です。彼や弟子のウェーベルン/ベルクらはウィーンを拠点にしたので「新ウィーン楽派」とも呼ばれます。
 しかしシェーンベルク程ドイツ音楽の伝統に根差した人も少なく、初期は後期ロマン主義から出発し19世紀末から表現主義のヒステリックな無調音楽に進み無調理論を深化させて居ました。では彼が無調を完全に確立したのは何時か?、それを最初に体現した曲は何か?
 その答えがこの『ピアノ組曲 作品25』(1921年作)です。彼は1921年7月末の散歩中に「これで今後100年間のドイツ音楽の優位を保証出来ると思う。」と弟子のJ.ルーファーに語ったそうですが、この作品25のスケッチ譜面の前奏曲には「7月21日着手、29日完了」と態々書き込みがして在ります(△2のp118)。上述の如く古い伝統に敬意を払っていた彼らしく組曲全体はバロック時代の古風な形式に則った地味な曲ですが、彼の”予言”通りに十二音主義の優位を確立した歴史的な曲として、じっくりお聴き下さい。

(4)新古典主義の萌芽
 [22] ストラヴィンスキー『バレエ音楽「プルチネルラ」』序曲

 以上の様にパリを中心に勃興した前衛音楽は世界に拡散し全盛を極めましたが、第一次世界大戦後の反動から”震源地”のパリでは大戦直後から「古典への回帰」が徐々に始まり(p3を参照)、新古典主義の萌芽と見做される曲がこの『バレエ音楽「プルチネルラ」』(1920年作)です。
 楽譜が読めるディアギレフ(p1を参照)はペルゴレージの楽譜をストラヴィンスキーに提示しこの曲を書かせ、ロシア・バレエ団がアンセルメの指揮で初演しました。アンセルメは1915年からロシア・バレエ団の指揮者を務めた人ですが、収録音源はそのアンセルメの指揮です。
 時間的制約から序曲だけしかお聴かせ出来ませんが、前衛時代の『春の祭典』との落差の大きさは”一聴瞭然”です。ともあれ騒音主義を誘発して「前衛の旗手」に成ったストラヴィンスキーがこういう曲を書いたらアヴァンギャルドの跋扈の時代は終わるのです。
 その後、ストラヴィンスキーはアメリカに渡り指揮者・ピアニストとしても活躍、ハリウッドに移り映画音楽を書き1950年代からは十二音技法で作曲し、正に20世紀の寵児に成りました。しかし芸術活動の恩人且つ故国の先輩ディアギレフへの敬愛は強く、ニューヨークで没した彼の墓は本人の遺言に拠りディアギレフの眠るサン・ミケーレ島に在ります。

 <後記>当CDで、前衛とその前後の音楽との「不連続な段差」を”聴感”して戴けたと思います。又、”音の塊”の洪水の後で聴く神秘和音や十二音音楽は真面(まとも)に響いた事と思います。最後に以下の点を追記します。
 第1は、パリで前衛が跋扈した時代(1910〜30年)は総帥ディアギレフ率いるロシア・バレエ団がパリで活躍した時期(1909〜29年)と見事に重なり合う、という事を当CDで聴き取って戴ければ幸いです。ディアギレフは故国を同じくする10歳後輩のストラヴィンスキーの才能を見出し三大バレエ(p1を参照)で前衛に火を点じ、『プルチネルラ』で前衛の火消しをさせました。私は旧来の音楽史の本の記述以上に「前衛の時代の仕掛け人」としてのディアギレフの存在の大きさを強調したかったので、これで少しは溜飲を下げた思いです。
 1929年8月19日早朝、糖尿病でヴェネツィアに散ったディアギレフの死 −青年時代の彼を初めて当地に来させたのはヴェネツィアに客死したワーグナーです(△1のp18)− は一つの時代の終わりを確実に告げました。右の写真は彼の遺骸をヴェネツィアの墓島サン・ミケーレ島に運ぶゴンドラです。
 第2は、今回私は前衛の中で重要な役割を担った楽曲を選曲しましたが、顧みるとストラヴィンスキー/モソロフ/プロコフィエフ/スクリャービン及び「時代の仕掛人」ディアギレフと、期せずしてロシア人が多い事です。やはりロシア革命を起こさせたポテンシャル・エネルギーは他分野でも高く、それを運動エネルギーに変換して時代を牽引したと言えます。この現象は古典時代のギリシャ人、ルネサンス時代のイタリア人、後期バロック〜ロマン派時代のドイツ人作曲家と同様で、驚くには当たらないのですが。
 第3は、ヴァレーズを除くストラヴィンスキー/バルトーク/オネゲル/プロコフィエフ/シェーンベルクは、何れも1920年代〜30年代前半に前衛から新古典主義に急転回している事で、それは恰もピカソが「青の時代」→キュビスム→シュールレアリスムなどと時代的にスタイルを変えたのと同じです。芸術家に創作スタイルの変化は付き物ですが、古典派・ロマン派時代の作曲家に比べ、一般にモダニズムの作曲家の変化の頻度は多く変化の幅は大きく、例えばストラヴィンスキーの『春の祭典』と『プルチネルラ』、プロコフィエフの『交響曲第3番』と『ピーターと狼』の様に、凡そ同一作曲者と思えない程の”乖離”を生じて居るのです。表面に現出した幅や乖離を感じ取ったならば、その背後の真相を少し探ってみると一層面白く聴けるものです。
 第4は、後半生を亡命も含めてアメリカに移住した作曲家が多い事です。ストラヴィンスキー/バルトーク/ヴァレーズ/シェーンベルクの移住は戦争・革命・ナチスの台頭など正に「激動の時代」の反映です。しかし、別の見方も出来ます。第二次世界大戦以前の文化の中心はパリでしたが第二次大戦以後は政治・経済・文化の全ての面でアメリカが主役を奪います。しかし、その前段階にアメリカに移住した作曲家が彼の地に現代音楽の種を蒔いた事実は重要です。紙数が無いのでここでは1つだけ、ユダヤ系故にナチスを逃れアメリカに移住後帰化したシェーンベルクの下からジョン・ケージという次代を担う新芽が育ったという「歴史の偶然と必然」を指摘して置きます。
  {以上の曲目解説:エルニーニョ深沢}

−− 完 −−

【私のWebサイト】(以下のタイトルをネット検索して下さい)
○1:「「モダニズムの音楽」概論」。私が使う「モダニズムの音楽」の定義とその概論。
○2:「N響、スクリャービンの共感覚に挑戦」。スクリャービンの神秘和音について。

【脚注】
※1:ダダイスム/ダダイズム(dadaisme[仏], dadaism[英])とは、(ダダ(dada)は、創始者のトリスタン・ツァラが敢えて無意味な語を選んで命名)第一次世界大戦中の1910年代にルーマニアの詩人ツァラを中心にスイスに興り、ヨーロッパ各地やアメリカに広まった文芸・芸術上の破壊的な新運動。個人をドグマ/形式/掟の外に解放する為に、既成の権威/道徳/習俗/芸術形式の一切を否定し、自発性と偶然性を尊重。意味の無い音声詩/コラージュ/オブジェ/フォトモンタージュ/パフォーマンスなどを生み、何でも芸術に成り得ることを証明。後、この運動はシュールレアリスム(超現実主義)に吸収された。詩人ではブルトン(=シュールレアリスムの創始者)/アラゴン/スーポー/エリュアール、美術ではアルプ/デュシャン/エルンスト/ピカビア/マン・レイらが居る。略称はダダ。

【参考文献】
△1:『ディアギレフ−ロシア・バレエ団の足跡』(小倉重夫著、音楽之友社)。
△2:『西洋音楽史 印象派以後』(柴田南雄著、音楽之友社)。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):「モダニズムの音楽」について▼
「モダニズムの音楽」概論(Introduction to the 'Modernism Music')
スクリャービンの神秘和音について▼
N響、スクリャービンの共感覚に挑戦
(NHK-SO challenged Skryabin's SYNESTHESIA)

第60回例会(09年12月2日)の活動記録▼
ブラボー、クラシック音楽!−活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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