<ブラボー、クラシック音楽!−オリジナルCD#4>
{オリジナルCDより}モダニズム#4
({From the original CD} Modernism-4)

−− 2014.05.20 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■【ブラボー、クラシック音楽!】第61回例会(2010年1月6日)
    『モダニズム音楽入門−4』
    〜 民族主義の拡散と辺境の調性音楽 〜

【ブラボー、クラシック音楽!】
第61回例会(2010年1月6日)

『モダニズム音楽入門−4』
〜 民族主義の拡散と辺境の調性音楽 〜
司会と曲目解説:エルニーニョ深沢

『モダニズム音楽入門−4』収録内容  (Total 78:41)

・語りは2010年1月6日【ブラボー、クラシック音楽!】でのライヴ録音。各楽曲はCDより採録。
・2010年2月20日第1版製作(プロデューサー:エルニーニョ深沢)。

 当記述の中でジャケットのページを記述している部分は無視して下さい。オリジナルCDのジャケットから原稿を起こして居る為、その様な記述が偶(たま)に出て来ますが、最早この稿には「ジャケットのページ」という概念は有りません。但し、△nのp×××という表現には他の参考文献のページを示して居ますので、これは有効です。
 即ち、
       p××× : オリジナルCDのジャケットのページ → 無視
    △nのp××× : 他の参考文献のページを示す     → 有効
と成ります。

 ■プロデューサー・ノート − エルニーニョ深沢
 日本では毎年元旦か来ると必ず『春の海』という曲が放送されます。琴と尺八の”あの曲”が聞こえると自然と正月気分に成るから不思議です。私が主宰する【ブラボー、クラシック音楽!】は現在「モダニズムの音楽」(末尾の○1を参照)をシリーズで進行中ですが、第61回例会(2010年1月6日) −テーマ:<モダニズム#4:民族主義の拡散と辺境の調性音楽>− の最初に『春の海』を掛け新年の幕を開けましたが、当CD『モダニズム音楽入門−4』の「語り」はこの時のライヴ録音です。昨年の第60回例会では「前衛の勃興」を採り上げCD『入門−3』に収録し前衛音楽が流行した20世紀前期の音楽状況を概説しましたが、『入門−3』をお持ちで無い方の為に簡単に説明します。

  ●20世紀前期の西欧中心部以外の音楽状況
 パリを中心とする西欧中心部では19世紀末に洗練が行き詰まり題材を非西欧に求め(=「脱欧」)、旧来のロマン派を否定するモダニズムに向かい先ずは印象主義が、次いで1910年頃から前衛各派が勃興し無調音楽に至りました。一方「前衛の時代」(=凡そ1910〜30年頃)と全く同時期に西欧中心部以外の後進・辺境国では西欧的洗練を目指し「入欧」に向かったのです(←日本では「脱亜入欧」が叫ばれた)。この”認識のズレ”を持つ辺境の音楽が前衛音楽と表裏一体を成す形で併存した事実は重要です。
 そこで当『入門−4』には1900〜30年頃の西欧中心部以外の音楽を数多く収録し『入門−3』の前衛音楽に対置しました。「前衛の時代」と全く同時に併存した辺境の音楽は、しかし乍ら前衛や民族主義の拡散の影響で旧来のロマン派と同じでは在り得ず、何らかの意味で民族的です。即ち、復古的民族主義(民族意識が強く土着的な民族音楽や民謡に根差す)/モダン民族主義(非前衛モダニズムと民族音楽の融合)/辺境ロマン主義(民族意識は希薄でロマン派志向だが辺境・後進性が出て仕舞う、※1)などです。
 西欧中心部の音楽様式をグローバリズムと見做せばそれ以外はローカリズムです。しかし中心・辺境、先進・後進とは別の次元で各民族には固有のアイデンティティーが在り、それは各民族の立脚点です。「前衛の時代」の音楽の地域差を纏めたのが下の図式です。
    西欧中心部の音楽:脱欧、無調 → 反権威・前衛
    それ以外  //:入欧、調性 → 民族主義・アイデンティティーの確立

 以上の様な世界史的観点から日本を始め各国の民族色豊かな楽曲や初期のジャズを聴き比べてみれば、必ずや違った側面を再発見出来るでしょう。「文化の固有性」はローカリズムと密接不可分(○2)で、世界の音楽はそれ故に多様です!

 ■<曲目解説>:[n]はトラックNo.

  [2] 宮城道雄『箏と尺八「春の海」』

 この曲は1929年、宮城道雄(1894.4.7〜1956.6.25、日)35歳の円熟期に作曲された出世作且つ代表作で、現在は何故か正月の定番なので御馴染みの曲ですね。彼は神戸生まれ(姓は菅)ですが、完全に失明する前の幼少期には父の故郷である瀬戸内の「鞆の津」(現福山市の「鞆の浦」)で育てられ、朧気な記憶の中の「瀬戸内の春の海」がこの曲の原風景です。現在は鞆の浦を見渡せる城山に彼の銅像が建ち南禅坊には先祖の墓が在ります。表紙の写真はこの為に私が09年10月の好天日に出掛け仙酔島を背景に撮影した「鞆の浦」の”秋の海”の情景で、1711年に寄港した朝鮮通信使が「日東第一形勝」と絶賛したという福禅寺「対潮楼」からの眺望です。
 この曲はオリジナルの尺八盤は余り売れず、後にフランスの女流ルネ・シュメーが尺八のパートをヴァイオリンで奏した盤(←箏は作曲者自身)がヒットし普及しました。この曲は復古的民族主義ですが、彼は当時最新の洋楽動向を研究し印象主義などにも明るく、洋楽の形式に邦楽の伝統を融合させる「新日本音楽」(←これは音楽の「和魂洋才」の試みと言えますが、本人の命名では無い)を指向し、十七弦や八十弦を創始したモダニストです。

  [4] 滝廉太郎『組曲「四季」』から「雪」(作詞:中村秋香)
  [5] 滝廉太郎『ピアノ曲「憾」』

 滝廉太郎(1879.8.24〜1903.6.29、日)は東京生まれですが後に父の任地大分県竹田に住みました。我が国を代表する国民的作曲家ですが、この2曲は初期作品で殆ど知られて居ません。『組曲「四季」』(1900年作)は春が「花」(←「春のうらヽの隅田川」で有名)、夏が「納涼」、秋が「月」、冬がこの「雪」で以下が歌詞です。この歌詞も含めて如何にも賛美歌的な曲です。

    一夜一夜のほどに
    宮も藁屋もおしなべて
    白銀(しらがね)もてこそ 包まれにけれ
    白珠もてこそ 飾られにけれ
    まばゆき光や 麗しき景色や
    あはれ神の仕業ぞ
    神の仕業ぞ あやしき


 次の『ピアノ曲「憾」』(1903年作)はたった2曲のピアノ曲中の一つですが、習作的でショパンの影響が見られます。「雪」も「憾」も後進国・辺境国故に入欧意識が強く出る”辺境ロマン主義”の典型です。
 滝は1901年の中学唱歌の作曲募集に有名な『荒城の月』が当選し同年ライプツィヒ音楽院(←創立者はメンデルスゾーン)に留学するも病を得て翌年帰国、郷里の大分で静養中に上記の「憾」を書いて間も無く僅か23歳で死去しました。

  [7] エネスコ『ルーマニア狂詩曲第1番』

 ジョルジュ・エネスコ(Georges Enesco, 1881.8.19〜1955.5.4、ルーマニア)は幼くして楽才を発揮し7歳でウィーン音楽院に進み早くもヴァイオリニストとして頭角を現し、1895年からはパリ音楽院で作曲をマスネやフォーレに師事。現役時代は演奏者 −超一流のヴァイオリニストで後年は指揮活動も− として有名でした。祖国ルーマニアは長年トルコの支配下に在りましたが、彼の生年と同年にルーマニア王国として独立した因縁からか早くから民族意識に目覚め、この『ルーマニア狂詩曲第1番』はルーマニアの民族舞曲やジプシー的旋律をふんだんに織り込んだ親しみ易い名曲です。この曲の様に彼は復古的民族主義と辺境ロマン主義の中間から出発しましたが段々とパリの様式に傾斜し、後年は微分音の使用など可なり前衛的手法を採り入れ、総じてはモダン民族主義を指向しました。
 幸か不幸かこの『狂詩曲第1番』が非常にポピュラーに成り過ぎた為に他のモダニズムの力作が余り演奏されないのが残念で、他の曲が正当に評価される事を願って居ます。

  [9] カントルーブ『オーヴェルニュの歌』から「捨てられた女」

 ジョゼフ・カントルーブ(Joseph Canteloube, 1879.10.21〜1957.11.4、仏)はスコラ・カントルムのヴァンサン・ダンディの弟子で、その影響でパリの前衛には見向きもせず故郷オーヴェルニュ地方 −フランス中南部の山間地域− の古いオック語の民謡を採譜し出版したのが『オーヴェルニュの歌』全5巻です。その内、第1巻と第2巻は1924年に出版され、「捨てられた女」は第2巻の第4曲なので1923年頃の作曲(或いは編曲)と考えられ、哀愁を帯びた旋律が印象的な曲です。第5巻の出版は1955年ですので約30年間に亘る息の長い仕事で、復古的民族主義の鑑です。
 因みにオック語とはロワール川以南の古語として中世の吟遊詩人トルバドゥールの詩歌に留められて居る語で、現在のフランス語は北のオイル語起源です。その為カントルーブは出版に際し、オック語の歌詞に自ら翻訳したフランス語訳を付して居ます。

 [11] コダーイ『合唱曲「ジプシーがカッテージチーズを食べる」』
 [12] コダーイ『合唱曲「踊り歌」』

 ゾルターン・コダーイ(Zoltan Kodaly, 1882.12.16〜1967.3.6、ハンガリー)はバルトークと並んでハンガリーを代表する作曲家ですが更に民族音楽学者であり、バルトークに民謡の研究を勧め一緒に民謡を採譜した時期も在りました。バルトークがパリの楽壇の影響で前衛に急転回して行ったのに対し、コダーイは印象主義の影響は受けますが一貫して復古的民族主義を貫きました。
 コダーイは教育目的の児童合唱曲を数多く書きましたが、この2曲もそうです。『ジプシーがカッテージチーズを食べる』(1925年作)はブコヴィナ(現ウクライナ)とノーグラード(現スロヴァキア)の全く異なる土地で採集した2曲を見事に組み合わせたもので、教育音楽を手掛ける切っ掛けに成った曲とされて居ます。因みにカッテージチーズ(cottage cheese)とは、脱脂乳に酸乳を加え熟成させずに作るナチュラルチーズの一種で、軟質で豆腐を崩した様な形状で、当然臭味が有る食品です。
 『踊り歌』(1929年作)は19世紀の詩人アラニ・ヤーノシュのバグパイプ歌を素材にして居ます。彼の教育用合唱曲は日本でも定番レパートリーとして良く演奏されます。

 [14] ヴォーン=ウィリアムズ『グリーンスリーヴズによる幻想曲』

 ラルフ・ヴォーン=ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams, 1872.10.12〜1958.8.26、英)はグロスターシャー州という田舎生まれで、やはり民謡を採集した復古的民族主義の人です。『組曲「惑星」』を書いたモダニズトのホルストは2歳年下の同郷人で二人は生涯交流を続けました。『惑星』中の「木星」の民謡調の部分にはヴォーン=ウィリアムズの影響が窺えます。
 『グリーンスリーヴズによる幻想曲』(1934年編曲)は元々は彼の『歌劇「恋するサー・ジョン」』(1928年作)の間奏曲(=第3幕への導入曲)で、有名なメロディーの部分は中世的・旋法的でこれに民族舞曲が組み合わされて居ます。
 明治時代に日本に移入された『蛍の光』『庭の千草』などのスコットランド民謡(←元はヨーロッパの先住民ケルトの旋律が土台)は、日本の四七抜き五音音階に近いが故に”日本の曲”として我が国に定着したのです。ここ迄聴いて来た東欧や英仏の田舎には五音音階の曲 −即ち我々日本人にとって親近感が有る曲− が多いという事実を、実際に耳で聴感して戴くのが前半の狙いでした。

 [17] ガーシュウィン『ラプソディー・イン・ブルー』

 次は新興国アメリカに飛びます。ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin, 1898.9.26〜1937.7.11、米)はロシア系ユダヤ人の貧しい移民の子としてニューヨークに生まれ、家のピアノを適当に弾いて覚えた後に10代後半で楽譜出版社の試聴用ピアノ弾きとして生計を立て乍ら作曲を始め、1919年作曲の『歌曲「スワニー」』がヒットし一躍有名に成りました。現在のポピュラー・ソングの草分けです。以後作詞家の兄アイラと組んで『アイ・ガット・リズム』『サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー』など数々のポピュラーなジャズ・ソングを書きますが、クラシック音楽界で彼の名を不動のものにしたのが24年作の『ラプソディー・イン・ブルー』に他為りませんが、この時ガーシュウィンのピアノ用楽譜を基にオーケストレーションを施したのがジャズのポール・ホワイトマン・バンドに所属して居たグローフェ −彼は31年に『グランド・キャニオン(大峡谷)』を作曲し有名に成る− で同年に同バンドが初演し大成功を収めました。この初演のジャズ・バンド用編曲をオリジナル版と呼びますが、グローフェは直ちに一層厚みの有るクラシック・オーケストラ版も作成し、現在CDなどで良く聴かれるのは後者です。【ブラボー、クラシック音楽!】では07年7月の<ジャズの息吹と発展>で掛けて居ます(○3)。
 ところでお聴きの曲はオリジナル版に拠って居ますが、更にピアノを弾いてるのは何とガーシュウィン本人です!...1925年にガーシュウィン自身がピアノ演奏したものがロール・ピアノという自動ピアノのロール紙に記録されて残って居たのです。ロール紙というのは巻取紙で、ロール・ピアノにロール紙をセットしピアノを弾くと巻取式の紙に次々に穿孔され、逆にこのロール紙をセットして再生(=ロールを回転)すると自動的にピアノが打鍵される仕掛けです。年を経て傷んでたロール紙から新しいロール紙を復刻して現代のロール・ピアノに自動演奏させ、それに指揮者とジャズ・バンドが演奏を合わせて録音したものです。尚、当CDの収録曲は時間の制約で2回目の繰り返し部をカットせざるを得なかった事をお断りして置きます。
 ガーシュウィンはこの曲でヨーロッパ音楽とは異質なアメリカン・サウンド −その特徴は何と言っても西欧音楽には全く無かった「黒人音楽のリズム」です− を前面に押し出しましたが、ジャズは黒人と白人の音楽が合体したアメリカ民族主義の典型と言えます。ジャズを媒介にして「黒人音楽のリズム」が、その後のクラシック音楽を始め多分野の音楽に多大な影響を及ぼした事は周知の通りです。
 しかし、そんな時代の寵児の彼でも「入欧」指向から1926年にパリに渡りラヴェルに弟子入りを志願するも自分の個性を磨く事を諭されて断られましが、この時のパリの印象から28年に『パリのアメリカ人』を作曲し今度は自分でオーケストレーションして成功させました。

 [19] ヴィラ=ロボス『ブラジル風バッハ第1番』第1楽章

 北米の次は南米ブラジルです。エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos, 1887.3.5〜1959.11.17、ブラジル)はリオ・デ・ジャネイロの音楽的な家庭に生まれ幼少時J.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を好んで弾いた事が将来に影響を与えました。ガーシュウィンと同じく彼も10代でカフェのチェロ弾きとして生計を立て乍ら殆ど独学で作曲を勉強、それにブラジルの民族音楽(←ブラジルにも黒人が居る)を融合させ独自のモダン民族主義の作風を確立しました。
 この『ブラジル風バッハ第1番』(1930年作)は第1楽章:序奏、第2:前奏曲、第3:フーガという3楽章構成ですが古典派的楽章というよりもバロック的な組曲で、彼のバッハへの傾倒・チェロ奏者・モダン民族主義の全ての要素が総合された曲です。即ち、古びた鍋(=バッハ時代の形式)で、ブラジル的素材(=民族主義)を、バッハが得意としたフーガと対位法で料理(=入欧)し、「チェロ8本の合奏」という型破りなソース(=モダンな個性)をぶっ掛けた野趣溢れるコスモポリタン料理に仕上がって居ます。『ブラジル風バッハ』全9曲はそれぞれに色々な実験を試みた意欲的曲集 −最後の第9番は45年作− ですが、実験の域を遥かに超えた完成度の高さから今や彼の代表作です。
 彼は20世紀の偉大な作曲家の一人と私は確信して居ますが日本での認知度は今一つです。そこで私は【ブラボー、クラシック音楽!】08年12月の例会<ブラジル音楽とボサノヴァ>でも彼の曲を積極的に紹介しました(○3)。

 [21] ケテルビー『エジプトの秘境で』

 アルバート・ケテルビー(Albert William Ketelbey, 1875.8.9〜1959.11.26、英)は産業革命の中心地の一つで鉄鋼業の町バーミンガムに生まれロンドンのトリニティ・カレッジに学び、教会のオルガン奏者を皮切りに劇場指揮者・楽譜出版社の編集者・レコード会社のディレクターなどをした後、後半生はビジネスを退いて悠々自適に作曲を続け84歳迄生きました。
 彼は都会生まれ故に「脱欧」の異国主義(エキゾティシズム)に向かい、その通俗性は時代と合致して無声映画の場面音楽などに利用され今日のイージー・リスニングの先駆けを成しました。『エジプトの秘境で』(1931年作)はピラミッドで代表される古代アフリカ文明を回想したものです。ケテルビーには他に『ペルシャの市場にて』(1920年作)の様なアジア指向の曲も多く在り、何れも異国情緒溢れる気楽な秀作です。

 [23] 貴志康一『ヴァイオリン曲「竹取物語」』

 大阪市網島の貴志家別邸跡 −本宅は土佐堀で、網島は近松の『心中天網島』の舞台として知られる− には現在「貴志康一生誕の地」の碑が在りますが、厳密には貴志康一(1909.3.31〜1937.11.17、日)は当時の慣習に従って大阪吹田の母方実家の西尾家で生まれ、網島は幼少時の育ちの家です。康一の祖父・初代貴志彌右衛門は今も地名を残す和歌山県貴志川町の紀州藩士の出で大阪心斎橋筋で繊維問屋として成功しましたが、母方西尾家は江戸時代から献上米を上納した大庄屋で今も旧家が保存公開されて居る父方以上の大富豪でした。祖父は仏心厚く康一14歳迄健在で、祖父の病没で二代目彌右衛門を次いだ父の奈良次郎は帝大出で音楽・文学・美術に造詣が深い人でした。
 当時の富商が皆そうした様に父母は子供達を連れ間も無く芦屋に引っ越し、康一はヴァイオリンを習い18歳でスイスとベルリンに音楽留学し、英国のジョージ3世が所持したストラディヴァリウスの名器を”事も無げ”に購入し、21歳で再びベルリンに留学した際にヒンデミットやフルトヴェングラーに師事し、ヒトラー台頭後の1935年(26歳)には日本人として初めてベルリン・フィルを指揮して自作の『交響曲「仏陀」』『交響組曲「日本スケッチ」』の他、ドビュッシーの印象主義『牧神の午後への前奏曲』なども演奏し、帰国後は主に指揮者として東京で活躍しましたが、盲腸炎に腹膜炎を併発し28歳の若さで夭折した我が国の「知られざる作曲家」の一人です。
 彼は若くして渡欧し外から日本を見たが故に日本人としてのアイデンティティー −彼はタマシイ(魂)と呼んだ− を強く鼓舞されて復古的民族主義を志向するに至り、『ヴァイオリン曲「竹取物語」』(1933年作)も彼の抒情的和風旋律に祭り囃子的な要素を融合させた復古的作品です。
 この曲は1949年に日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹夫妻を持て成すストックホルムでの晩餐会で演奏された曲で、湯川スミ夫人と康一の妹「あや」は幼稚園〜女学校迄の同窓生だったという後日談が在ります。現在芦屋の甲南高等学校内の貴志康一記念館には湯川博士自筆で「ストックホルムにおけるノーベル賞受賞式後晩餐会席上、本曲が奏せられた記念として 湯川秀樹」と記された『竹取物語』の楽譜が展示されて居ます。右上の写真は貴志康一記念館で康一の大写真と並んだ私です(06年12月1日撮影)。

 <後記>如何でしたか?、「前衛の時代」と同時期に世界の各地では全く別の音楽が、先端性とは無縁にそれぞれの地域で熱く探究されて居たという事を”聴感”して戴けたら幸いです。この多様性を理解しないと「モダニズムの音楽」は一面的・単眼的にしか捉えられません。因みに西欧中心部以外の音楽は極めて大まかに言えば、@アジア音楽(中欧・東欧・ロシア東部やオセアニアを含む)/Aアフリカ音楽/Bケルトやバスクなどヨーロッパ先住民音楽(英仏の古民謡や北欧を含む)/C北米・南米音楽の4つに大別出来、又これらの融合も存在します。当CDの収録曲は@〜Cのどれかに該当する筈です。これが私の言う所の「音楽の機会均等」で、民族主義が拡散した20世紀以後の音楽環境の大きな特徴です。
 こうした「多様な音楽」を理解する為には各国の作曲家の音楽を世界史と世界地図の中に位置付けて聴いてみる試みが極めて有効です。それに依り例えば日本の音楽と各国のローカルな音楽や前衛音楽との関係、ジャズに体現された黒人のリズムの波及など、音楽の位置付けを世界史的関係性の中で一段と鮮明に掴める様に成り、自ずと「多様な音楽」への興味が更に湧いて来るでしょう。
 その段階で我々は「文化の固有性」という事に思い至る筈です。多様性を齎すものは個々の固有性であり、それが一律な大量生産文化との大きな違いなのです。

  {以上の曲目解説:エルニーニョ深沢}

−− 完 −−

【私のWebサイト】(以下のタイトルをネット検索して下さい)
○1:「「モダニズムの音楽」概論」。私が使う「モダニズムの音楽」の定義とその概論。
○2:「温故知新について」。アイデンティティーや「文化の固有性」について。
○3:「ブラボー、クラシック音楽!−活動履歴」。現在迄の活動内容と鑑賞曲目一覧。

【脚注】
※1:辺境ロマン主義(local ethnic romanticism)は、私の造語です。即ち19世紀後半以降の現象として、西欧中心部以外の地域の作曲家は「辺境」が故に自己の民族性(ethnicity)に立脚せざるを得ず(←それはオーソドックスに成り得ずにエキゾティシズム(異国趣味)に甘んじることを意味する)、後進地域の作曲家が西洋音楽を始める場合は「後進」が故に時代遅れのロマン派を指向します。従って様式的にはロマン派時代の国民楽派(グリンカやドヴォルザークなど)に近く、その延長線上に在ると言えます。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):「モダニズムの音楽」について▼
「モダニズムの音楽」概論(Introduction to the 'Modernism Music')
オーソドックスとエキゾティシズム(異端)、
グローバリズムとローカリズム、
アイデンティティーと「文化の固有性」について▼
温故知新について(Discover something new in the past)
第61回例会(2010年1月6日)の活動記録▼
ブラボー、クラシック音楽!−活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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