1544年・12月・・・
 
     益田家では・・・・三宅御土居(みやけおどい)で評定が行われていた・・

  兼任「父、宗兼亡くなり、最近は兄・尹兼殿も病気がちで伏せっておる、子・藤兼殿を正式な当主として
祭りたいと思うが、皆の衆はどうじゃ?」
  兼貴「嫡男の藤兼殿は元服も済まし勇ましい青年になられた異存はござらん」
  兼順「このわし等、分家が支えるので不安はない、三隅家方面はわしに任せよ」

益田家の権力はこの分家、益田三家老が実権を掌握していた、それは必ずしも7万石を支配する
益田家を一枚岩にするには至らなかった、他の吉見・三隅領地の最前線で戦う武将達は不満を
覚える者も少なくなかった・・・益田本貫地に近い者はその日の内に帰路へ着いた、翌日・・・

老人と屈強な男が新しく当主になった藤兼を尋ねた・・

  藤兼「おお、頸ヶ滝の勘助爺ではござらんか、元気でござったか?」

頸ヶ滝の勘助爺とは向横田の地、頸ヶ滝城1100石を納める城市正雄である。

  正雄「若も大きくなられましたなぁ・・わしも齢90を超えて3里(約12キロ)
の旅は足腰に堪えますわぁ・・」

ニコニコ顔で老人が答える、この老人こそ藤兼の曾祖父・貞兼に使え1471年に「石見路一掃戦」
において吉見領を悉く奪い取り石見路の益田氏最前線を守る将である。

横に居た大男が答える。


  宗勝「若、昨日の評定、益田三家老様は我等の意見にまったく聞く耳を持っては
くれませんでした、山口のお館様が敗戦後、陶殿の間で不穏な噂があるこの時、余りに早く動き過ぎる
のは危険かと思いまする。」
  
あまりにも真っ直ぐな眼差しで身分をあまり気にしないこの男こそ尼子軍を撃退し石見に知る
人ぞ知る黒谷横山城の喜島宗勝であった。


  正雄「喜島殿の言い分はもっとも・・喜島殿の黒谷地方は益田方からすれば搦め手の位置
にあります、いつでも吉見軍が攻め上る位置にあるなら慎重に事を進め、父・尹兼殿に意見を
求めないのはいかがかと・・」

藤兼の父・尹兼は評定を欠席、どちらかと言えば内気な性格の為、力を付けつつある分家との
確執を作りたくなかったのだ、しかし家督は子・藤兼に次がす益田氏の家訓にも忠実にそっていた。


  藤兼「まだわしも16・・分からぬ事は多いが分家殿達にいいように操られる気は毛頭ない
わしを信じてくれ」

  正雄「はっは、喜島殿、若なら益田氏は安泰じゃ、よく立場を理解しておるしかし若、油断
は禁物ですぞ、出来円大草城・大草永春殿は三隅領が近いこともあり我等以上に苦虫を噛み潰して
いる様子であった、広大な領地を見なされ、家臣を掌握しなければ明日はありませんぞ」

老兵と屈強な男は共に納得し帰路へ付くのであった。

1546年・3月・・・   

・・・・そのころ吉見家では・・・木園館(きそのやかた)で集会が開かれていた・・

  頼郷「殿、近頃は「鷺舞」のおかげで厄病もなく民も喜んでいます」

  正頼「脇本(わいもと)殿か、そちも頼定が元服し、さぞ頼もしいだろう」

この脇本(わいもと)と呼ばれる男こそ、石見一の策士と恐れられた日原の下瀬頼郷である、
そして正頼こそ津和野の太守・吉見正頼である。


  頼員「頼郷殿、我等に会うと言う事はまた何かしら策を打ちましたな?」

  頼郷「これはこれは、頼員殿、まるでワシが悪人のようではござらんか、まぁちと吉見の
名字を勝手に使った事はありますが、悪気があっての事ではござらんよ、頼員殿こそ長門・矢富郷
の平山星城をお館様から頂、ご機嫌ですなぁ」

  頼員「あれは兄上がお館様を説得し益田氏から返還して貰った地、陶殿には悪いが吉見の
兄上は頭が回るからのー」

男達の笑い声がする、頼員とは正頼の異母弟・吉見頼員である。

  頼郷「益田氏の北上に備え警備は万全でござる・・とこんな事は言うまでもないですな
・・高津小城・高津頼満を我等、吉見方に内応しました」

頼郷は一瞬真剣な眼差しで正頼を見上げる。

  正頼「なに!益田の中腹にある中ノ島の高津頼満を寝返らすとは・・・」

冷静沈着な正頼もビックリした表情をする。

  頼郷「なに・・益田氏の中には元々吉見方だった輩も居ます、それで益田氏の支配を
逃れたい者に間者を使い文を送りました。安富小倉城の安富兼之も中立する構えで弱腰
ですぞ」

  正頼「これで益田氏を叩く足がかりになりそうだ、後はお館様のお考えが変われば・・」

このころ今までは文化的面が強くても一端の武将だった大内義隆(お館さま)は「出雲遠征」
の敗北からまったく政治に興味を示さず思想や行動が公家同然になっていた。


  正頼「大宮の願いもあり、元僧だったわしの讒言をお聞きくだされば少しは現状を理解
して頂けそうだが、遠路遥々山口に行ったワシまでも門前払いじゃった、あの安富源内と申す
小童め、一体何を考えているのか・・お館様が心配じゃ」

大宮とは正頼の正室で大内義隆の姉である、正頼は自分の思いが考え過ぎであって欲しいと
切実に思っていた。


1548年・・・・


    
・・・・益田家・・・・
藤兼は若気が盛んに三隅氏を攻め込み本城の三隅高城当主・三隅興兼は紀伊・高野山に逃走した。


  藤兼「南北朝時代に23000もの大軍に囲まれ落ちなかったと言う城の割りには
思いの他、城主・興兼は簡単に逃走したな」
  
  兼貴「若の威勢の良さに恐れ慄いたのでしょう」

戦に勝った益田軍は粋揚々と引き上げる帰路で軍師・兼貴と参謀・兼任と藤兼が話しをしていた。

  藤兼「しかし兼貴殿、三隅戦に益田全軍を傾けてしかも周布武兼殿の援軍まで受けて背後の
吉見氏は黙っているのか?」

  兼貴「兼任殿、若にはお話しをしていないのか?」

  兼任「若は先代から日原の下瀬頼郷には気をつけろと散々言われていると前におっしゃって
ましたな・・・益田にも兼任在りと津和野の輩に思い知らせますかのぉ・・」

そう言うと兼任はニヤリとした
一方、吉見家では内部不穏な動きが序々に表面化していた・・・

1550年・秋・・・・

    
・・・・吉見家・・・・

吉見分家・吉見弘景の柿木・大野原館ではなにやら心に一物ある吉見方の武士が集まり極秘
に集会が開かれていた・・・・、当時の柿木地方は隣国、周防の陶領、周防鹿野の野上撒骨山城・江良賢宣と
領地が隣接していた為、お館様と陶氏が破局すれば真っ先に攻められる地域と言われ柿木地方
に住む吉見家臣は皆、
戦々恐々としていた・・・・。


  弘景「どうやら殿はまだ堕落しているお館様に支援する様子じゃ、このまま陶殿に逆らえば我等
吉見一族も滅亡してしまうかも知れん、皆はどう思われる?」

この館には脱・義隆派で正頼の大叔父・吉見弘景、叔父・吉見頼安、吉原左馬助が集まっていた・・

  左馬助「弘景殿は肌で「陶弘護・刺殺事件」を経験しておる、その弘景殿が今度ばかりは
陶氏有利と言えば内部からも我等に加担してくれる者もいましょう」

  頼安「たしかに益田兼任殿からも「正頼を討てば吉見家は安泰、陶方として我等、益田氏と共に
石見を盛り上げましょうぞ」と言う文も届いておりまする・・」

  弘景「よし、分かった、吉見家でも正当の血筋・吉見成廉の嫡子・小輔七郎に
吉見家を次いで貰う・・・たしか殿は近頃「鹿猟」に凝っておるな?」

一瞬、場が凍りつく・・

  頼安「まさか・・・」

  弘景「そのまさかだ・・吉原殿、殿を「鹿猟」に呼び出し、射殺してはくれぬか?」

  左馬助「・・・これも未来の吉見家の為、承知いたした」

翌週、いつも通り正頼が「鹿猟」に出かけようとした・・その時

  玄蕃「殿、恐れながら申し上げます、我等に不穏な噂が流れております、今日は
控えましょう、わしが現状を探って来ます」

そう側近の田中玄蕃が言うと・・正頼は周りの木々を見て

  正頼「そうじゃの今日は寒い(さぶい)、猟は止めじゃ」

手筈通り正頼が来ないと知った吉原は・・

  左馬助「くっ、ここは一旦引かねばわしの命が危うい・・」

その後、正頼の耳に「暗殺未遂事件」が入るもののお咎めはなし・・他の武将達にも公には
しなかった、しかし田中玄蕃が調べ尽くし見せしめの為、吉見小輔七郎は殺される事となり
首謀者として吉見成廉は長嶺宗久に討ち取られる
因みに「鹿猟」とは現在でも西石見で盛んに行われている狩である。

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