書架坑の底
老人 そして一冊の本

差し出された本を受け取り、私はその表紙に目を走らせた。
あの携帯劇場師――ユメミヤが着ていた道化服と同じ色の革、同じ模様の装丁。
表題は『ユメミヤ殺し』と読める。

老人の言葉に、私ははっとして視線を上げた。そう、この本は彼女そのものなのだ。
机の前に再び腰を下ろした老人は、箔押しの道具の手入れを始めた。

彼は机の上に置いてあった最後の一冊を取り上げた。『グラン・メディカ』の下巻だ。

老人は私の目を見た。

私は手にした本に再び目を落とした。老人がうなずく。

どこかの街の広場
携帯劇場師子供たち

物語が語られはじめる。携帯劇場師の演目を見ていた私は気付いた。
これは……『グラン・メディカ』の下巻だ!

しかし彼女の手は止まってしまった。
劇場箱のハンドルはそれ以上回らず、人形もその動きを止めてしまう。

ユメミヤは私がいることに気づくと、苦し気な笑みを浮かべた。

劇が進まないので子供たちが騒ぎ始める。

謝罪の言葉を口にしながら携帯劇場師はあめだまを配り、私のほうへとやってきた。
そして一冊の本を差し出す。

そして彼女は、「本当なら種をまいた私が刈り取るべきなのですが」と呟くように付け加えた。



① ここで、この本を閉じよう

② 物語を読み進める

歴史の広間
多くの書が散らかって

携帯劇場師だけではない。吟遊詩人、舞台俳優、そしてペンで物語を紡ぐ作家……
多くの者が物語を編んでいく。そのたびに世界は豊潤さを増していくのだ。

だが、世の中には歪んで産まれてきた物語が多く存在している。

何故歪んでいるのか……
権力が命じるままに書かれた物語。執筆の過程において、金で捻じ曲げられた物語。

また、世の中には失われた物語も多い。

何故焼かれたのか。
何故墨で塗りつぶされたのか。
……人々を統べる者にとって不都合な、隠すべき物語だったから。

そんな物語が多く生み出された時代――
ユメミヤは生まれた。
そんな物語では満足できず、彼女は自ら物語を紡ぐ作家になった。

聞き覚えのある声がしたので振り返ると、そこにはユメミヤの形をした人形が立っていた。
彼女――人形はそこらに散っている本や巻物を拾い上げ、視線を走らせた。

見知らぬ街
ペンを握るユメミヤ

あらゆる物語には結末が必要だ。

綴じられることなく終わってしまうことは許されない。
結末無き物語では、何も伝えることはできない。

そこについては噤んでもらえないか
我が唯一の汚点ゆえに

カルシャークは自らの生まれを、奴隷の子として生を受けたことを呪っていた。

だがそれゆえに彼は英雄となったのだ。
彼女にとって、それは大きな魅力だった。奴隷の子でなくして、物語は成り立たない。

ユメミヤは書くのをやめなかった。
物語の英雄を恐れたカルシャークは、彼女からペンを奪うことを決意した……。

人形は手袋を外した。
そこには、十の断面のみが残されていた……。

癒えたはずの手に痛みが蘇る。私は『幽世猫』の中で裁かれた王の姿を思い出した。
そう、私もまた物語を曲げることを拒否し、指を打ち砕かれたのだ。

どこかの街の広場
携帯劇場師子供たち

指を失った私は、それでも物語を編むのをやめませんでした。
ペンが握れないのなら、語って聞かせればよいのです。

携帯劇場箱に人形。
そしてオルゴール。

私はかつて書き上げた数多の物語を語り、
さらには新たな物語を語って聞かせました。

その中には、あの英雄の物語も含まれていたのです……

さらに数年が経ち、かの者は再び私を捕らえました。
怒りに声を震わせ、私が恥ずべき秘密を暴いたと責めたてました。

……彼の裁きにより、私の舌は引き抜かれたのです。

人が真に自由を得て、人らしく生きる世界が必要なのだ。

そこには真実を歪めたり、消しさろうとする輩はいない。
そのためには、一度「身分」や「支配」を打ち壊し、人類が一丸となる状況を作らねばならない。

そしてどこからともなく鎖が現れ、人形姿のユメミヤを絡めとった。

携帯劇場箱の中、
カーテンの裏側

鎖の締め上げる力が強くなり、人形は一切の動きができなくなったようだ。
ユメミヤ自身が捕らわれたせいだろうか。この物語の時が止まってしまったように感じられる。

一冊の本が虚空から顕れ、手の中に落ちてきた。
それを見た人形のユメミヤが口を僅かに開き、絞り出すような声で言った。

人形がうめく。

 



私は『ちょっぴり賢いピッカリンガル』の表紙に指をかけた。

以前、途中までしか読めなかった絵本。
その結末はどのようなものだったのだろうか……?


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