国境を越える子どもたち(10)
「戦場だった村に住む」
ラオスには今、約三〇万人のモンの人がいる。ベトナム戦争と同時期、ラオスでも戦争があった。アメリカが反共側を支援し、一方北ベトナムなどが共産側を支援した。モンの多く住む北部の山岳地帯が戦場となった。モンは同じ民族が二つに分かれて、戦うことになったのだ。そのうちアメリカ側についた多くがその後難民となった。一方、共産側についた人々は、爆撃時は森や洞窟の中に避難しながらも、男たちは戦場へと出かけ、女子どもは焼畑で陸稲やトウモロコシを作り、自給自足の生活をしてきたのだ。
ベトナム国境のモンの村を訪ねた。今はごく平和なのんびりした風景が広がるが、そのあちこちに、いまだに爆弾の殻がゴロゴロと転がっている。今では豚の餌入れだのに使われていたりもする。今もあちこちで地雷の撤去作業が行われている。人々の中には、一家が二つに分かれてしまった人も少なくない。電気のない家の薄暗い壁に、アメリカにいる親戚や家族の写真が貼ってある。もう会うこともないだろう。戦争前はいっしょに暮らしていた人々の生活はあまりにも遠くかけ離れてしまっている。
村に牛追いの兄妹がいた。兄ツーは13歳。妹ツァイは10歳。おかあさんと3歳の妹の4人家族だ。おとうさんは病気で死んでしまった。一家は、土間一間だけの小さな家に住む。おかあさんは山の畑で陸稲を作り、そして、一家の唯一の現金収入は、兄と妹が交替で世話をする牛だ。ツーは九月から中学一年生。夏休みの間は毎日朝から夕方まで、牛を追って山の斜面に広がる草原へ行く。学校がはじまると、牛追いは妹の仕事。妹は学校へ行けない。二人とも学校へ行くと牛追いをする人がいなくなってしまうからだ。
村から一時間ほど歩き、山の斜面の草原まで牛を連れていき、日がな一日牛を追っては草を食べさせる。重労働ではないけれど、だだっ広い草原に牛と過ごすさびしい仕事だ。時には一日中、一人のこともある。
妹マイをおんぶするツァイ。
おかあさんがいない時、妹はいつもツァイと一緒。
雨上がりの泥だらけの道をツァイについて歩いていくと、見晴らしのいい岩の上に、数人の子どもたちが集まっていた。みな牛追いだ。牛が草を食べている間は目を離していても大丈夫なので、短い間のおしゃべりだ。でも時々走って行っては自分の牛たちを確認し、遠くに行った牛を追っかける。みんな小さくても一人前に仕事をまかされ、それぞれの牛に責任をもっている。ツァイはどこからか木の実をたくさんとってきて、みんなに分けてくれた。噛むとジャムのような甘さが広がる。おやつも自然の中からの自前。一人の時間をたくましく生きている。