国境を越える子どもたち(6)
「難民キャンプの生活と別れ」
難民キャンプは「ある」のに「ない」ような場所だ。難民は、自国ではない他の国の一角に一時的に住まわせてもらっているだけに、そこに根づくことは許されない。ラオスの山では畑を耕し自給自足していた人々も、キャンプの中でそれはできない。生活を発展させるようなことはできないのである。
その代わり、難民キャンプでは最低限の安全と生活が保証される。人々は国連からの配給で食べていた。米、野菜、肉、魚など、週に曜日が決まって配給があった。決して十分な量ではないけれど、飢え死にすることはない。水は、所々に掘られた井戸だけでは足りず、たびたび給水車がやってきた。煮炊きをする燃料も配給されたが、それだけでは足りないので、キャンプの回りの林に薪を取りに行く。そんな仕事を手伝うのは子どもたちの仕事でもあった。小さい頃はあんなに無邪気な子どもたちも、大きくなるにつれ、自分たちが囲いの中にいて外からの力に頼らざるえない、自分ではどうにもならないという難民の立場の限界を感じてくるようであった。
今日の配給はかぼちゃ。家族何グラムかな?
近所の人々で、人数に合わせて分配する。
見つめるミーの目も真剣
今日は米の配給だ。アチャーは荷車を押して取りに来たよ
1990年代に入った頃からラオスへの帰還が可能になり、バンビナイキャンプは1992年に閉鎖されることになった。難民の人々は故国ラオスに戻るか、それとも、アメリカなどの難民受け入れのある国へ定住を希望していくか?を決めなくてはいけなくなった。人々がだんだんキャンプを去って行った。「子ども小屋」に遊びに来て、絵本を見たり、絵を描いたり人形劇をしたり、本を作ったり、いつも団子のように一緒に遊んでいた子どもたちは、一人一人去っていった。あんなにいつもいつも一緒にいた子どもたち、もうお互い会うこともなくなってしまうのだろう。親子、兄弟が別れてしまった人々もいる。
難民キャンプは仮の住まい。
インタビューにパスして、定住先の決まった人々が
次々に難民キャンプから去っていった。
った。
マイナン、オビアン、パンタオ、チューらはそれぞれ家族とともに、アメリカへ行った。トゥー、シェン、ミーらはラオスへ帰った。約一〇万人がアメリカへ、二万人がラオスへ移った。一九七五年から一七年間、人々が暮らしてきた難民キャンプは、数年後訪ねた時、草むらに戻っていた。
戦争が難民を生み、難民キャンプを作った。まだ何もわからぬ小さな子どもの頃、親に手を引かれ国境を越え難民キャンプにやってきた子どもたちは再び、国境を越えて新しい世界へと移って行ったのだ。難民キャンプはなくなり、子どもたちは難民ではなくなった。でも、一度難民となった子どもたちは、これからの長い人生をいったいどのように歩いていくのだろう?今度こそ、空はどこまでも続いていくのだろうか?