国境を越える子どもたち(7)

「アメリカに行ったマイナン一家」

 タイの難民キャンプからアメリカへ約10万人のモンの人々が移り住んでいる。1992年、私はモンの人々を訪ねて、アメリカを横断した。

 マイナン一家はカリフォルニア州、フレスノのアパートの小さな薄暗い部屋に住んでいた。アメリカに来て一年。最初テキサス州に住んでいた彼らは、モンが多く住むフレスノに引っ越してきたばかりだった。元々身体の弱い両親、英語は一言も話せない。テキサスの工場で働いていたが、身体がきつくなり仕事を辞め、生活保護の多いカリフォルニアに移ってきたのだった。


転校したばかりの学校へ向かう
マイナンとザウ。
ザウは小2、マイナンは中1

 

「ぼくは一家の柱じゃなくちゃいけないのに、英語も話せないし、手続き一つ自分では出来なくて、倒れそうな柱だ」と、父はやじろべえのように立ち、ぐらぐらと揺れて見せた。おどけたつもりが、悲しさがよけいに残った。

 薄暗い部屋の中では、一日中薄ぼんやりとテレビがついている。隣の部屋に誰が住んでいるかは知らない。車の運転ができない両親は、買い物一つ自分では行けず、どこへ行くのも親戚に頼んで連れていってもらう。一日中、アパートの部屋からほとんど出ない。

 マイナンはミドルスクール7年生(中一)になっていた。すらっと背が高くなり髪をすんなりと伸ばしている。兄ボーはハイスクール9年生、妹ザウは小学校2年生に転入したばかりだった。朝六時に起きると米飯をしっかりと食べて七時に学校へ向かう。

「うちでちゃんと食べておかないと、学校で出るスナックや、ピザやハンバーガーは、食べられないの」と、マイナンは顔をしかめた。アメリカの食生活にはまだなじめないようであった。


いろいろな肌の色。いろいろな顔。でも、みんな英語を話す
小さい子ほど順応は早い。アイオワ州の小学校にて

 マイナンのクラスは、アジア系が一五人(モン、ラオス、カンボジア)。そして、ソ連崩壊後入ってきたというアルメニア人の男の子が一人だった。教室の隅には星条旗が掲げられ、授業がはじまる前に生徒たちは手を挙げて星条旗に忠誠を誓う。移民として集まってきた子どもたちは、こうしてアメリカ人になっていくのであろう。クラスの壁には、八カ国語で書かれた「責任」という文字が張ってあった。多くの移民の一人としてマイナンも、アメリカでの一歩を踏み出していた。


スーパーマーケットで買い物をするマイナン
物質あふれるアメリカにも、もう慣れた

 2001年春、再びアメリカを訪ねた。マイナンはモンの幼なじみと結婚してミネソタに住む。22歳。子どもを育てながら共働き、CDを作る工場で夜遅くまで働く。妹は高校生になり、モンの友達とは英語で、両親とはモン語で話す。「マイナンはたいした嫁だって。義父さんが駐車違反で捕まったら、マイナンがポリスに行って英語でまくしたてて連れて帰ったんだって」と、母は少し得意そうに話した。


おばあさんは一日を家で過ごす
「刺繍をしても売るところなんかないの。
でも、他にすることもないしね・・・」と部屋の片隅で針を動かす
 

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