国境を越える子どもたち(8)
「急激な変化のはざまで」
一九九四年、チューを訪ねた。やんちゃ坊主だった彼は、再婚した夫に先立たれた母と、腹違いの妹弟たちの、父親代わりの青年となっていた。
チューはビルの中のベーカリーで、冷凍のパン種をオーブンに入れて焼く仕事をしていた。朝の三時に車で家を出て、一人で黙々とパンを焼き上げ、お昼には家に戻る。その後は、車の運転ができない母親を連れて買い物やコインランドリーに行ったりする。そして夕方は、唯一楽しみのサッカーをしに公園へ出かけ、帰りには香港映画などのタイ語吹き替えビデオを借りてきて見る。
「どうして学校に行かないの?」と言う私に、彼は怒ったように答えた。
「仕方ないじゃないか。ぼくはアメリカに来た時、高校に入れる年齢を過ぎていたし、アメリカで生活していくのには、何でも金がかかる。車がないと買い物にも仕事にも行けない。車のローン、保険、ガソリン代などを稼がなくちゃいけないし、ぼくがいないと家族は一歩も動けないんだよ。」
電話は生活に欠かせない。車がないと外出できないし。
電話で親戚とおしゃべり。つい長電話になってしまうのよ
難民キャンプにいた頃のチューは、才気あふれる男の子だった。お話が大好きで、人形劇をすすんでやり、また自分でモン語の文章と絵を描いて、自作の絵本をたくさん作った。この子の頭の中はどうなっているんだろう?と思うほど、どんどん楽しいお話があふれ出てきて楽しい作品ができた。
「子どもの頃は、何もなくても楽しかったよ。薪を背負ったり、水汲みとかつらいこともたくさんあった。でも、やりたいことがいつもあって、一瞬一瞬が楽しかったよ」と、チューは、難民キャンプを懐かしんで言った。
風はまだ冷たい。3月でもアメリカはまだ寒いよ。ケンタッキー州にて。
「アメリカに来たら幸福になれるかと思ったら、そうではなかったよ。じゃあ、むかしの暮らしに戻れるか?っていうとそうもいかない。だって、アメリカにいると便利だよ。雨に濡れないように木で雨宿りしたり、水汲みなんかしなくていい。それに慣れてしまうと、もうそうでない生活なんてできないように思うんだよ。」
子どもだった彼らは、自分で選んだわけではないが、難民となりアメリカにやってきた。二つの世界のギャップに戸惑い苦しみながらも、少しずつ変わりながら、新しいモンアメリカンの世代を作って生きはじめている。
「今だって、モンのお話の本をたくさん作るのがぼくの夢さ。でもアメリカに来たら、毎日仕事と用事で、あっという間に夜。書けないんだよ。でもね、ぼくみたいなモンの生活のことを知っていて、そして次の小さな子どもたちの伝えられる世代が、残さなくちゃいけないと思ってるんだ」と、チューは自分に言い聞かせるように言った。