国境を越える子どもたち(9)

「ラオスに帰ったミー」

 難民キャンプからラオスへ帰ったモンの人々も多い。一九九三年末、おえかきが大好きだった小さかったミーも、家族や親族たちと一緒にラオスへと戻ってきた。ミーは赤ん坊の時におぶわれてラオスを出て難民となった。難民キャンプで育ち、再びラオスに帰還した時、一二歳になっていた。難民キャンプでも配給や薪を背負ったり、水汲みはしていたけれど、山の生活に戻れるのだろうか?


水は気持ちいい
村の共同の水道は、村人たちが力をあわせて
山の川から3キロ近くもパイプで引いてきたものだ

 彼等が戻ったのは、首都ビエンチャンからバスで三時間ほど離れた国道沿いの小さな村。わずかな斜面に家を建て新しい村を作った。近くの低山で焼畑農業で米を作っている。

 村で私はよくミーの寝台に一緒に寝た。村の朝は早い。五時過ぎにふと目をさまして横を見ると、ミーはとっくに起きている。火をおこし朝のごはんをかけると、ブタのえさにするための芋を刻み、水汲み。ミーも三つ年下の妹も自分の仕事を心得ていて、お母さんからいちいち言われることなく、てきぱきと動いている。ぼーっとしている私に「ハイ、顔洗って」と水を汲んできたりする。朝、ひとしきり働いてから、彼女らは歩いて三〇分離れた隣村にある小学校へと通う。

 学校から帰ってくると、ブタや鶏のえさやり、水汲み、薪とり・・・夕食の支度。両親が山の畑に泊まる時は、子どもたちがすべてをまかされる。その間、村の前の池で大声をあげて水遊びしていたり、子どもたちは、あっという間に山の生活にとけ込んでいた。


村には最近まで電気が通っていなかった。
石油ランプの暗い灯りで、声を出して教科書を読むミー
 

 ミーは、今、村の女の子でたった一人の高校生だ。モンの子で勉強を続ける子はまだ少ない。中学校は自転車で三〇分かかるので、自転車がない子は通えないし、特に女の子は小学校でやめてしまう子が多い。畑仕事、弟妹の子守・・それに、早くに結婚するモン族の人々は、どうせ結婚して他家に入る女には教育などいらない、と思っている人も多い。そんな中でミーは、一人頑張って中学に進み、さらに高校への進学を決めた。高校になるとさらに遠い。村から通うことはできないし、寮もない。高校生になると子どもたちは、何人かが集まって家を借りたり、また、自分たちで掘ったて小屋を作って、家から背負ってきた米で自炊をする。学費はかからないが、生活自体が大変だ。

「でも、高校へ行きたいの。将来は医学の勉強がしたい」とミー。米の出来が悪かったミーの家では、ほんの少しの米しか持たせてやることができなかった。お母さんは泣いて送った。バス代もかかるのでしばらくは帰れない。まだまだ先は長いけれど、ミーはモンの伝統的な社会から一歩踏み出して歩きはじめている。


中学3年生の時のミー。今は、彼女は1人
家を離れて、遠くにある高校へ行っている。
村からは、第一号の女子高校生だ。がんばって進み続けてほしい

国境を越える子どもたち(10)へ

はじめのページに戻る