ラオスからこんにちは 5
2003年6月1日
ルアンパバンから戻り、その後、タイのバンコクでの公演も終わり、今、再びビエンチャンにいます。今日は久々で1人。虫の音が再びよく聞こえます。
さて、ルアンパバンはラオスの古都。世界遺産に指定された観光地ですが、今回は、SARSの影響か、まったく観光客は本当にまばらでした。
普段はルアンパバンへは観光客でいっぱいなので、ラオスで一番大きくて安全といわれる、おフランス製のATRという飛行機(といっても、通路を挟んで2席ずつの、バスくらいの大きさです)が飛んでいるのですが・・・当然ATRだろうと思って、ビエンチャンの空港に行くと・・・なんと、ルアンパバンへのお客は私たち(日本人4人+ラオス国立図書館のスタッフ1人=計5人)だけ!あとは、ラオスの最北の県、ポンサリーへと乗り継ぐ3人で、計8人だけ。当然、ATRなんて飛ぶはずもなく、17人乗りのY12という小型プロペラ機でした。これは「よく落ちる」というので有名な飛行機です。
先日サムヌアへ行くのにも、Y12しか飛んでいないので、わざわざ車で大回りして1泊余計にしてまでも避けた飛行機だったのに、なんと、思いもしなかったルアンパバンへの空路で出くわしてしまいました。まぁ、これも運命!と乗りましたが、小型機だけに、低空を飛ぶので景色が見えてなかなかスリリングで面白かったです。それに、まるで貸し切りの飛行機みたいで、気分はリッチでした。
ってな具合。SARSの影響で、本当に町は閑散としていました。観光客相手に、ハンディクラフトの屋台を出しているモンのおばちゃんたちも閑古鳥が鳴いている状態で、「いったい、どうして外国人が来ないの?これからずっと来ないんだったら、私たちゃ、食べていけないよ」と、みんな心配そうでした。
「中国で病気が流行ってて、同じアジアだから、心配に思っている人たちがいるんだよ」と説明しましたが・・・・とにかく、観光客が少ないので、飛行機の運賃も、ホテル代も、車代も全部割引料金で、また町はのんびりしていて、私たちにはラッキー(と言ったら不謹慎と言われるのですかね?日本では・・)でした。でも、こんな状態では、唯一のラオス国営航空会社がつぶれてしまうのでは?と心配になってしまうのです。ほんと、SARSの影響は大きいみたいです。どうも、ラオスではニュースが入らないせいか、不安は何にも感じないのですが・・・・情報というものは入りすぎない方が、心のためにはいいのかもしれません。ねっ!
ルアンパバンの通り沿いに、夜、ゴザを並べて市がたちます。モンの刺繍やラオの織りを、ゴザの上に並べて売っています。タイ、チェンマイのナイトバザールを真似ているのかもしれません。そんな中にイェンがいます。彼女はびっくりすることに、日本語をどんどん覚えているモンの14歳の女の子です。今年になってから、日本人観光客を相手に勉強し始めた・・・というくらいなのに、結構話せるのでびっくりしました。向こうは向こうで、私がモン語を話せるので、びっくりしていましたが・・・・。彼女は、日本人観光客相手に、言葉を覚えているのです。よっぽど頭がいい子のようです。でも、彼女は学校へは行けていません。小学校5年生で辞めてしまいました。お姉さんが結婚し、おかあさんはまだ小さい弟の面倒を見なくてはならず、ハンディクラフトの屋台の店番がいないので、彼女が、中学へは進学せずに、店番をしているのです。
「私、日本に勉強に行きたい」と彼女は言います。
でも、小卒の子にどのくらいチャンスがあるのだろう?と私は不安に思います。彼女は日本人にはものすごく親切で、日本人と見ると家へ誘います。悪い日本人にひっかからないといいけど・・・と、また不安に思ってしまいます。ルアンパバンの市場から、バイクタクシーで20分ほど離れたところにある家に行きました。車道沿いにできた新しい村でした。彼等は最近、ここに移ってきたのでした。シャーマンであるお父さんは、畑仕事をするわけでもなく、なんだか疲れた顔をしていました。私が家に着いたとたん、「本当は、全然食べられないのさ。この家だって、アメリカの親戚(難民でアメリカに定住した人)からの送金で買えたようなものさ。ハンディクラフトだけでは生活できない」と愚痴を言いました。彼等は隣の県から移ってきたのですが、きっと、焼畑で食いあぐねていたのでしょう。よりよい暮らしを求めて、観光都市、ルアンパンバンへ移り住んでいるのでしょう。ハンディクラフトの収入というのは、どれくらあてになるものなのでしょう?観光業が、例えば今回のように打撃を受けた時、本当に危ういものだ・・・と思いました。
「イェンを学校へやらないの?」と私はお父さんとお母さんに聞きました。
「ラオスの学校へはやらないよ。イェンは市場に行けば、日本人から日本語を習うことができるし、イェンを日本に連れていくって言ってくれる日本人もいるよ」と。
もちろん、ラオスの学校の程度は決して高くはないけれど、でも、やはり、市場で、頭がいいゆえに、ブロークンジャパニーズをどんどん覚える彼女ほどの子が、学校へ行けないのは、なんとも歯がゆくて仕方がなかった。もちろん、学校はすべてではないのだけれど・・・・
公演の話とか、あるのですが、今日はこの辺でやめます。では、おやすみなさい。
→「ラオスからこんにちは6」へ
→最初のページへ