ラオス 山の子ども文庫基金 準備号 
ラオスの山からだより
No.1

20047月 

「ラオス 山の子ども文庫基金」を作りました

ラオスの山に住む子どもたちは、なかなか本に触れる機会がありません。また、現在、急激に変わりつつある生活の中で、民族がむかしから語り継いできた「おはなし」も失いつつあります。元々、文字を持っていなかった山の民にとっては、「図書館」や「文庫」はなじみのないものですが、これからの子どもたちが、本のおはなしの世界の楽しさを知ることで、未知の、より広い世界への扉をあけ、心の世界を広げていくことができる場所。また同時に、自分たちの民族独自のおはなしに改めて出会っていくことで、自分たちのことを見つめていくことができる場所。そんな場所が必要になっていると感じます。そんな場所・「山の子ども文庫」を作りたいと思います。

本に触れることでより広い外の世界への扉を開くとともに、ラオスの山に住む民族が、自分たちに伝わる文化に誇りをもって、継承していくことができる、そんな場所を作ることを目指しています。

また、私たち日本人もその活動に関わり、自然とともに生きる人々の生きざまに触れることで、現在、日本では見えなくなっている、たくさんの「大切なこと」を教えてもらうことができるのではないか、とも思っています。

 ラオスの山にはさまざまな民族がおり、どの民族の子どもたちも、おはなしが大好きで必要としているのは同じですが、これまでの関わりで、まず、ラオス東北部のシェンクワン県、ベトナム国境にほど近い山あいの村に、「太郎の子ども図書館」(仮称)を作ることから活動をはじめます。



「太郎の子ども図書館」を作りたい                 

太郎さんとは、武内太郎さんのことです。武内太郎さんは、20017月に、NHKの番組製作の取材で、G村を訪れました。「語りべじいさんのいる村」という、モンの民話語りを大人から子どもへと伝えていくという話でした。私(安井)は通訳で一緒に仕事をしました。武内さんの海外初仕事だったそうです。ボソボソっと話すうちに何か面白いことを言っているユーモア。てきぱきとした快い仕事ぶり。そして、子どもたちがいつのまにか、子分のようにあとをついていくような優しさ。山の畑から戻る時、武内さんは一人迷子になり、子どもたちに連れて帰ってもらったこともあって、村では「日本人が迷子になったんだよ」と、噂がもちきりになりました。みんな愉快そうに、子どもたちも大人たちも親しみいっぱいに話していたものでした。村長には「娘の婿にならないか?」と言われるほど、モンの人たちに好感を持たれていました。とても気持ちのいい方でした。武内さんは、その人柄と仕事ぶりが買われたのでしょう。その後、海外取材が立て続けに入ってとても忙しくなったようです。

武内さんは200210月に、NHKスペシャル「ユーラシア21世紀の潮流」を取材中に、パキスタンの北部で、車の転落事故に遭い亡くなりました。28歳でした。

私は、ただ2週間の取材の時だけのおつきあいで、その後会っていませんでしたが、ニュースで知り、本当に残念で悲しくてたまりませんでした。ご家族、親しい方々はどんなにか悲しいだろう辛いだろう・・と思いました。でも、何もできないので、せめてもと、自分が撮った取材中の武内さんの写真を全部アルバムにして、私が覚えている限り、すべての取材中の彼の様子を書き添えて、ご両親にお送りしました。しばらくしてから、お母様からお手紙を頂き、お母様、武内桂子さんと手紙のやりとりが始まりました。

武内桂子さんは、長く東北大学で、そして今は宮城教育大学の図書館でお勤めの方です。手紙をやりとりするうちに、桂子さんは、私のホームページを見て、私も、子どもの図書館の仕事に関わっていたことを知られ、「モンの村に図書館を建てることができないか」とお手紙に書いてこられました。

G村は、ノンヘート郡の中心から歩いて2時間、車なら30分ほどのモンの村です。私は、G村の子どもたちが大好きで、いつか文庫でも作れたらいいな、とずっと思っていました。取材で2週間滞在していた時も、仕事の合間に子どもたちを集めて、絵本を読んだりおえかきをしたり・・・と文庫まがいのことをやっていたのです。それを見て、太郎さんが「うちのお袋も図書館の仕事をずっとやっているんですよ」と言っていたのを思い出しました。そして、村を去る日に「オレまた、絶対に来ますよ」と言ったその言葉が、耳に残っていました。

武内桂子さんと私は、そのG村に、絵本を中心とした本(日本からの絵本にはラオス語訳を貼る)+ラオスの出版物、そしてモンの民話の録音テープ(300話近く録音済みです)などを軸とする、モンのカルチャー・ライブラリー・・・・というか、「おはなしのある遊び小屋」というか、「みんなが集える、おはなしのある場所」というか・・・なるものを作りたいと思っています。モンに語り継がれているお話も堪能することができ、また、世界のどの子どもたちも大好きな絵本も見ることができ、そして、モンの子どもたち、お年寄りたち、お母さんたちお父さんたち、若者たちも、自分たちの文化を誇り、そこから発信していけるような場所。表現して広げていけるような場所・・・・そして、そこに、日本人もつどえて交流が出来る場所・・・・そんな場所ができたらいいと思います。

今年6月はじめ、私は、取材の時も一緒に同行してくれたモンの役人、ソムトンさんとともに、2年ぶりに村を訪ね、村長をはじめ、村の人々と話をしました。みんな、太郎さんが亡くなったことをとても悲しく残念に思い、そして、お母さまのお気持ちに深く感じ入っていました。もちろん、図書館の話にはとても喜んでくれました。ソムトンさんは、「モン族の衣装や道具を展示したらどうだろう」と言い、村長は「子どもたちに、ケーン(モンの楽器、葬式などには不可欠なのだが、村では今2人しか吹ける人がいない)を教える教室も開けたらいいな」と言い、私は、太郎さんがみんなに夢を与えはじめているんだ・・・と感じました。私も、子ども図書館を作るという夢を見はじめています。

現在、当然の流れですが、村の人々は発電機でテレビを見るようになり、村のお年寄りの話に耳を傾ける時間は少なくなり、子どもたちが深く心におはなしを刻むことはなくなりつつあります。その代わりに、現在彼らが得るのは、商売ベースで作られた刺激の強い影像です。このままでは、豊かなモンの民話の世界もなくなってしまう、ただ外の影響を受けるだけになってしまうと、危惧を覚えました。だからこそ、今、自分からページをめくって、世界を広げる楽しみを身につけ、本を通して、自分から新しい経験を得る・・・そんな姿勢を身につけることが、早急に必要なのではないか?そのためには、やっぱり「おはなし」の楽しさがあふれた「図書館」「文庫」がなくてはいけないと、焦りすら覚えています。

 これから、この計画を実行に移すために動いていきます。私は、立ち上げの時期には数ヶ月〜半年は、村に常駐したいと思っていますし(まだ先のこと)、その後も定期的に訪ねるつもりですが、担当できる人を育てなくてはいけません。私は村の子どもたち自身が図書館の楽しさを身につけて育ち、そして自分たちで運営してくれるようになること、に期待しているのですが・・・・もちろん、それが口で言うほど簡単でないことはわかっています。でも、一歩一歩実現していきたいことです。

                                        安井清子


ラオスの山の村に“子ども文庫”を作りたい思い

ラオスは太郎にとって初めての外国の地でした。

仕事は勿論、旅行でもそれまで外国には行ったことがありませんでしたし、ラオスのことも良くわかりませんでしたので、ご一緒の方々にご迷惑をおかけするのではないかと、随分心配しました。

太郎は、外では結構にぎやかだったようですが、家ではあまりおしゃべりはしません。仕事のこともほとんど何にも話しませんでしたが、初めての外国で印象が強かったのか、お盆に帰ってきた時、「ラオスはどうだった?」と聞いたら、一言、「いいところだったよ。年をとったらあんなところで暮らしてもいいな」と言っていました。

事故の後、2ヶ月位たった頃だったでしょうか。安井清子さんから、丁寧な説明がついた沢山の写真を送って頂きました。ラオスで安井さんとご一緒だったということもそれで初めて知ったのですが、太郎の仕事ぶりや村の様子が目に見えるようでした。

そして、どの写真もいきいきしてとても楽しそうでした。

ラオスの山の村で、太郎は村のみなさんにもとてもご親切にしていただいたようです。

太郎はカメラマンになるのが夢でした。ようやく目標を見つけて、歩きはじめたばかりでした。仕事も楽しくさせてもらっていたようです。

突然の事故は私達にとっても酷いものでしたが、太郎はどんなに無念だったことでしょう。

それを思うと息がつまります。

日が経つにつれ、太郎が生きていたことを形にしておきたいと思うようになりました。

安井さんと何度か手紙のやりとりをさせて頂いたり、お会いしたりしているうちに、安井さんがラオスに“子どものための図書館”を作りたいという希望をもっていらっしゃることを知り、なんだか“ご縁”というか“巡り合わせ”を強く感じました。

私は今、図書館で働いています。子どもたちが小さかった頃、地域で家庭文庫のようなものができたらいいなと思ったこともありました。もう何もやる気をなくしていたのですが、安井さんのお手伝いをさせて頂いて、太郎がお世話になったラオスの山の村に、是非、“こども文庫”のようなものを作りたいと思うようになりました。

「年をとったら住んでもいいな」と言っていたG村で、太郎がずっと生き続けてくれるような気がしてきたのです。

太郎はどこでも子どもが大好きでした。G村の子どもたちにも好かれていたようです。

きっと喜んでくれるだろうと思います。

20047       武内桂子 

                          

村で、撮影の合間のひととき。武内太郎さん  






私たちの活動は、「太郎の子ども図書館」(仮称)を、G村に作ることから始まりますが、それをきっかけにして、将来には、他の山の村々への文庫活動の拠点にしていけたら・・と思っています。また、関心を持ってくださる方、ご協力くださる方々が、山の民の文化、おはなし、生活に触れ、お互いに何かを学びあう場所になればいいな、と願っております。

「太郎が存在したから、太郎を思うみんながいるから、この場所がある」ということを、いつまでも伝えていけるような場所にしていきたいです。一人の存在がみんなを動かし、小さなことでも大きなことにつながっていくように、一人の人間の存在と生命の重さをこめて、活動していきたいと思っています。

実際に、現地で具体的な動きができるのは、来年からだと思いますが・・・

みなさまのご協力をお願いいたします。


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