#07 : 5TH DAY 23:30~

(かけ違えたボタン)

 扉をノックする音で、はハッと意識を引き戻された。エントランスホールでの晩餐会に出席した後、誰とも会話を交わす気にもなれずふらふらと部屋に戻り、それからベッドのふちに腰を下ろしてただ大和の言葉について考えていたのだが――壁にかかった時計を見れば、もう数時間が経過していた。そこまでぼんやりと考え込んでいた事に半ば驚きつつ、もしかしたら眠っていたのではないかという些細な疑問が芽生えたが、再度扉をノックする音により、すぐに思考が遮断された。かぶりをふってから立ち上がり、小走りで扉の前へ移動する。
 何故だかよくわからないが、扉をノックする力加減、それによる音の間隔で、誰が訪れたかにはすぐ判別できた。扉の向こうにいる人物が誰なのか、迷う事無くには断言できる。
「大和さん、どうかしましたか?」
 尋ねると、扉の向こうからすぐに返事がかえってきた。
「話がしたい。理由は、言わずともわかるだろう?」
「……今、開けます」
 鍵を外し、扉を開ける。暗がりの通路の中に佇む大和は、一瞬だけ目を細めたものの、次の瞬間にはいつもの真顔に戻っていた。は扉を大きく開けはなち、大和を部屋の中へ招きいれた。
 部屋の中の空気は重苦しい。息をするのさえはばかられる様な気持ちにさせられる。は静かに深く息を吸い込み、大和の背中に声をかけた。
「何か飲みますか?」
 できるだけ、いつもどおりに。そう思って発した声は彼にとってどう伝わったかわからない。もしかしたら緊張で声が震えていたかもしれないし、いつもより声が小さかったかもしれない。そんな漠然とした不安を表に出さないように努めるだったが、振り返った大和の視線に、身の竦むような感覚にとらわれた。大和は無言のまま、の表情を伺うかのように視線を動かさず、それでも数秒後には視線を外し、「貰おう」と小さな声で返答した。
 がいつもどおりにお茶を淹れている間、やはり大和は無言のままだった。ひどく静かではあったが、それでも肩肘張った様子は見られない。あれだけの重大発言をした後でも、大和はいたって普通だ。肝が据わっているのか、それともが変に緊張しているだけなのか。おそらく、後者なのだろうなとは心の中で自嘲した。
 大和の前にカップを差し出し、向かい合うように座った。
「それで、話とは」
「先の話についてだ。お前も聞いていただろう?」
「はい」
「理解はできたか」
 静かに、それでも確実に頷く。すると大和が笑ったように見えた。目の錯覚ではないだろう。
「率直に言おう。私のもとに下れ」
 くだる。心の中でそう呟き、言葉の意味を噛み砕こうとする。どうやら大和は帰伏を求めていた。カップに口をつけて、いやに渇いた口の中を潤してから、は口を開いた。
「できません」
 緊張はしていた。でもちゃんと、口に出してはっきりと伝えることが出来た。声は情けなく震えてもいなかったし、視線を大和から逸らすなんて事もしなかった。ただ真っ直ぐに、大和を見据えて拒否の意思を明確にした。
 大和は僅かに面食らった様子で眉を上げたが、しかしそれも一瞬の事だった。不愉快をあらわにするかと思えば、かすかに笑みを浮かべてみせる。
「フ……峰津院の犬の分際で、私に口ごたえをするか。面白い」
 峰津院の犬――言い得て妙だった。
 飼い主に忠実を示し、顔色を伺い、尻尾を振っていた自分が、今や反抗の意を示している。はふっと笑みを作り、カップに口をつけた。夕食の味はわからなかったが、紅茶の味はわかった。
「理由を聞こう。何故できぬのだ?」
「あなたの思想には、手放しに賛同できません」
「だから、賛同できないその理由を問うている。今の社会が健全であると、貴様は思っているのか」
 内心、自嘲の思いでいっぱいだった。大和がごく自然に使った“貴様”という言葉に、詰めたような息が漏れる。
 大和は気付いていないかもしれないが、反抗的な態度を取る――いわば自分にとって思わしくない人間に対しては、貴様呼ばわりをする。つまり、は今この瞬間をもって、大和にとってそういう人間に変わったという事だ。
「健全だとは思いません。何よりも平均が尊ばれ、有能な芽が摘み取られる現状は、醜悪の一言に尽きます」
「ならば何故、背反する」
「大和さんの提言する思想、実力主義は公平を欠いています。社会の基盤である一般人はどうなりますか。下層に追いやられた者の末路は?」
「無能は淘汰され、有能は生き残る。それだけだ」
「大和さんが仰るとおりの世界になるのでしたら、私は淘汰される存在です。賛同できません」
「ほう? ……面白い事を言うな。峰津院に近い家柄の娘子の中から、知能、体力、判断力を統合し評価され、選ばれた中の一人がお前だ。少なくとも無能ではないと思うのだが?」
「それは買い被りです。小さい頃はそうだったかもしれませんが、今の私はあなたの言うような、大層な人間ではありません」
「……フフ、それもそうだな。貴様が大層な人間であれば、こんな無駄話など口にしなかったろうに」
 言い終わると、大和は紅茶に口をつけた。相変わらず、怒っている様子は見られない。もしかしたら内側に怒りを燻らせているのかもしれないが、けれども表情はいつもと変わりなく穏やかなものだった。
 そもそもに大和の心の内がまるで分かったためしがない。表面上はわかっても、心の奥底まで理解できたことが一度たりともないのだ。だから考えても無駄だろうと、も紅茶に口をつけた。
「……もしもの話だが」
「はい」
「この先、私とお前の間に鬩ぎ合いが生じた場合、――容赦はせん」
「心得ています」
「ならばいい」
 は目を伏せる。およそ戦いに関しては、大和のほうが何枚も上手だ。そんな大和相手に、自分はどう太刀打ちできるのだろうか。むしろ、太刀打ちできるほどの差なのだろうか。対等に渡り合える事が出来るのか。そもそも、そう考えること自体、おこがましいのではないだろうか。
 ――かなわない。そう直感する。けれど、わかっていながらも、決して大和のもとに下る気にはなれなかった。
 明日になれば大和のもとに、大和の理想を理解した者が集うだろう。もしかしたら、大地や維緒、ですら彼に賛同するかもしれない。
 勝機が見えなかった。

 結局、それ以降、二人の間に会話らしい会話はなかった。
 紅茶を飲み終えると、すぐに大和は腰を持ち上げた。もう上に戻るのだろう。見送りのためにも立ち上がる。扉の前まで来ると、大和は一度立ち止まり、顔だけ振り返った。に視線を合わせるが、しかし何を言うでもなく、顔を元の位置に戻した。
「おやすみなさい」
 扉を開ける大和の背中に、義務的な挨拶を口にする。
「ああ」
 そこでようやっと、大和の相槌が返ってきた。抑揚すら感じられない、義務的なものだった。
 静かに扉が閉まり、靴音が遠ざかる。はしばらく立ち尽くしていたが、音が聞こえなくなると、力が抜けたようにその場に頽れた。打ちのめされたような感覚がひどい。体が重たく感じる。大和の重圧はなくなったが、別の重圧がのしかかってきた。
 どうしようもない焦燥感に、膝を抱える。膝上に組んだ腕を乗せ、そこに顔をうずめた。これでよかったのか。自分の判断は正しかったのか。今さらになって迷いが生じた。しかし後悔したところで既に手遅れだ。は大和に、真っ向から背いたのだ。
 大和と同じ道を歩むつもりでここまで来た。大和――峰津院家に選ばれた手前、その能力見合うよう、努力を重ねてきたつもりだった。しかしそれは全て、大和との道をたがえるための積み重ねだったのだろうか。にはよくわからなかった。