#08 : 6TH DAY 14:00~
(ぼくらのための懇談会)
先にその姿を捉えたのは、大地のほうだった。「あっ」と隣の大地が何かに気付いたように声をあげるものだから、は顔を上げてそちらに視線を向けた。道路の隅に、なにやら黒い塊が存在していた。車より大きな塊からは縄よりも太い尻尾が伸びており、ひどくつまらなさそうに、たしん、たしん、と地面にその尻尾を叩きつけている。見覚えのあるその悪魔の姿に目を見開き、は大地と顔を見合わせ、小走りでそちらに駆け出していた。黒い塊はやはりあのばかでかい狼、フェンリルだった。つまらなさそうに地面に伏せていたフェンリルだったが、と大地が近寄ってきたのがわかると、パッと身体を起こした。最初、低く唸るような素振りを見せこそしたが、しかし見覚えのある顔だと認識できたらしく、と大地のほうへ近寄ってきた。はたはたと尻尾を振りはじめ、大地の顔に鼻先をくっつけた。
ぶひゅー。そんな音がしそうな鼻息に、大地の髪が巻き上がる。
「ひょわー! 鼻息すげー!」
大地がたまらないといった様子で変な声を上げた。
犬が大好きと昔から豪語する大地は、そう豪語するだけあって、特に怖がりもせず嬉しそうにフェンリルの顔を撫で回していた。粘性のないまるで水のような唾液と熱風のような吐息を上手に回避しながら遊び相手をしている。地面に転がされても、「わはは!」とくすぐったそうに笑い、フェンリルの前足の裏側、やわらかそうなピンク色の肉球で押しつぶされても、何が楽しいのやら「うはははは!」と笑い声を上げている。まるで大地が犬専用のボールになったようだなんて考えつつ、ちょっとの羨ましさを振り払い、はフェンリルの持ち主を探した。
少し歩くだけで、ビルが横倒しに倒壊している。細かく割れたガラスが足元に散乱しており、はハッとして大地のほうを振り返った。しかし大地は楽しそうにフェンリルの遊び相手をしている。どうやら大地のいる場所には、ガラスなどは散乱していないらしい事を確認し、少しほっとした。
横倒しになったビルの近くまでくると、ひび割れたコンクリートを見上げた。悪魔の力を使えば上れそうだった。スザクを召喚する。その力を借りることによって、ビルの側面へと上った。コンクリートはひび割れていたが、かといって、歩くぶんには問題無さそうだった。スザクの背中から降りて足を踏み出すと、スザクはか細い鳴き声をあげての後ろをついてきた。
横倒しになったビルの向こうには、アスファルトの道路が続いていた。しかし途中、暗闇に飲み込まれ途切れている。無の侵食だった。その無の淵に、人影と悪魔の姿が見える。
「ー」
呼びかけてみる。しばらくすると「はーい」と返事が聞こえた。人影がこちらを振り返る。はスザクの背に乗り込み、の隣まで行くように指示をした。
スザクが地面に降り立つ。は背中から飛び降り、の隣に並んだ。
「何してんの?」
「歩いていたら、不思議な光景を目にしたものですから」
は言いながら、足元に転がる石を拾い上げ、暗闇の中に放り込んだ。放り込まれた石は、闇に触れた瞬間、たちまち消えてしまう。何の音もたてず、ただ消滅した。
「最初、あの闇に底があるかと思ったんですけれど、そうじゃないみたいですね。……くんはあれが何か知っていますか?」
「無、らしいよ」
「……無、ですか」
不思議そうに呟いて、暗闇を見つめる。
「ええとさ。今朝、の部屋に行ったらいなかったけど、もしかしてどっか行ってた?」
「あ、すみません。6時すぎにはもうジプスを出て、外をふらふらしていました」
「ええっ!? それからずっと外にいるの!?」
「はい」
事もなげに頷くをよそに、はぎょっとした。がの部屋を訪ねたのは、朝の8時過ぎだったと記憶している。その2時間前から、は部屋に不在だったのだ。
「あ、朝ご飯食べた?」
「パンを一枚食べました」
「それで足りるの!?」
「はい。でも、さっきお腹が鳴ったので、ジプスに戻ろうかと思っていましたが」
「あ、そう……」
そうしているうちに、どこからか瓦礫の崩れる音がした。じわじわと暗闇がこちらに寄ってくる。どうやら、そのせいで朽ちかけた建物が足場をなくし、崩れたようだった。
「、危ないよ。戻ろう」
「ええ。そうですね。そうします」
がアンズーの背に横座りする。アンズーが飛び立つのを確認してから、もスザクの背に飛び乗った。
フェンリルがいた場所に戻れば、大地は相変わらず転がすようにもてあそばれていた。しかし、実に楽しそうだった。フェンリルはが戻ってくると、ふいに大地から離れ、のそばへと駆け寄った。大地が寂しそうに声を上げたが、次の瞬間には何事もなかったようにに声をかけていた。
「さん、こんなとこに一人で何してたの」
「ビルの向こう側に変な景色を見たので、それを観察していました」
「変な景色……あー、黒いキズかな」
納得したように大地が頷いた。と言えば、大地との顔を交互に見つめ、不思議そうに首を傾げてみせる。
「維緒ちゃんは、一緒じゃないんですか?」
「あー……えーっと、その……」
大地がほのかに視線を下げて、言いよどんだ。どう説明したらいいんだ? と問いかけるような視線を向けられたは、しばらく大地と顔を見合わせ、そして今までの事をかいつまんで説明した。
まず第6のセプテントリオンが出現した事に関しては、も知っている様子だった。聞けば、正午過ぎに紫色をした風船のような固体を1匹倒したという。間違いなく分裂したばかりの固体だろうとと大地も判断した。
そのセプテントリオンを倒すために、峰津院家の切り札である龍脈の使用を大和が英断したこと。それに伴い、富士山のクサビを引き抜いたこと。龍脈のカギとなる悪魔ルーグの復活のために、依り代として維緒が選ばれたことを、は大地と共につたないながらも説明すると、は理解してくれたようだった。
「あの侵食は、結界の崩壊によるものだったんですね」
納得したようにぼやくに、大地が不思議そうに尋ねた。
「ええと、サン。龍脈とかそういうの、わかるの?」
「うちの神社がまず、元は龍脈を扱う場所でしたから」
の話によると、各地に龍脈の結界の要となるタワーが建つ前は、各地に転々と存在する神社がその要となっていたとの事だった。主要六都市にタワーが建ってからは各地の神社の存在意義もなくなり、少しずつ絶えていく中、それでも廃社にならずに済んだ神社がいくつか残り、そのうちのひとつがの家の神社だという。
「サンの家、神社なの……?」
「はい」
「はぁー……。やっぱ、狐の像とかいっぱいあったりするの?」
「狐がいるのは、稲荷神社ですね。うちは宗像三女神を祀っているので、蛇なんです」
「あっ、はい。よくわかんないから、いいデス……」
大地のいうとおりだった。にもさっぱりわけがわからない。それを察したのかは苦笑を浮かべ、もうこの話はやめましょうと呟いた。
「それで、維緒ちゃんは、大丈夫なんですか?」
「具合悪いって。多分今は医務室で寝てるんじゃないかな」
「そうですか……。顔を見に行っても、大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫じゃないか? もし俺だったら、見舞いとかすごく嬉しいけど」
の発言に同意するかのように、大地がウンウンと力強く頷いた。じゃあ、後でお見舞いに行ってみます、とは微笑み、そこで会話が途切れる。そのまま無言が続くかと思いきや、沈黙を破ったのは大地だった。
「そういえば、さんに昨日の事、話してなかった」
「昨日、ですか?」
「ええと、んーと。何て言ったらいいんだ? さんって、赤いシマシマの服来た変なやつ、見た事ある? 頭真っ白で……」
が不思議そうに首を傾げる。見かねたが「知らないと思う」と大地に声をかけると、大地は「そっかー」とぼやいて、頭をかきはじめた。どう説明するか、頭の中で段取りをとっているようだった。
「俺ら、なんか変なヤツに話聞いたんだけどさ」
「はい」
「毎日セプテントリオンが出現してるだろ? それを全部倒せば、ポラリスに会う資格がゲットできて、そしたら、資格を得た人間の望むままの世界に創り変えることができる……って話だったよな、」
「うん。そんな感じ」
大地がとつとつとした口調でポラリスについて説明するのを、は大地の顔を見つめながら、時折相槌をはさんで聞いていた。大地が話し終わっても、さして驚いた様子は見せなかった。
「それでさん、大和とトモダチ? みたいなもんなんでしょ? やっぱり、実力主義に賛成しちゃったりとか……?」
「いいえ」
が首を振った。昨日、晩餐会で話した時から、考えは一向に変わっていない様子だった。内心ほっとするのかたわらで、大地があからさまに安堵の息をついた。はそんな大地に微笑むと、口を開いた。
「大和さんには賛同できません。そういうお二方は?」
「うーん、俺は考え中だけど……今朝、大和に対抗する新しい勢力ができたんだ。さんは知ってる?」
「……いえ、初耳です」
そう言うの言葉に、若干の戸惑いが聞いて取れた。本当に知らないようだった。
「は会った事ないと思うけど、栗木ロナウドって男がいるんだ。そいつが、平等主義社会を創るって……」
「平等主義、ですか」
の眉が僅かに寄った。その反応に、もしやとは思う。
「やっぱり、平等主義にも賛成できない?」
「はい。できません」
「……やっぱそうだよなー。どっちも極端すぎるよねえ」
はー、と盛大にため息をつく大地を見て、は頷きながらも微笑んだ。そして大地から視線を外し、所在なさげに手を握り締める。
「なんだか少し安心しました。みなさん、大和さんにつくと思っていましたから」
「ええええ!? それは無い! ……と、思う」
ちらりと、大地がに微妙そうな視線を向けた。が首を傾げれば、大地は微妙そうな面持ちで視線を逸らす。
「何だよ大地。言いたい事あったら言えよ」
「……お前、大和に気に入られてるからやばそうだなと思ってさー。さんもそう思わない?」
「ふふ。大和さんはくんを買ってますから」
まるで結託したような二人の会話に、は眉を寄せて口を尖らせた。
「だってよ、実力主義社会になったら俺、絶対淘汰されるし……」
「ふふ。私も同じようなものです。でも、もしお二人が大和さんにつく場合は、お手柔らかにお願いしますね」
「えええ……。そういう事言われると、なんか、やだなあ……」
しゅんと肩をすぼめる大地に、はくすくすと笑って――どうやら、冗談を言い合える元気はあるようだった。今日は大地もぼーっと虚空を見つめて悩む時間も多かったし、は昨日の元気のなさが妙に気になっていた。しかし、余計な心配だったのかもしれない。
話もそこそこに、ジプスに戻るというに、も大地も同行した。維緒の容態が心配だったからである。ルーグの封印を解除し、散り散りになった因子を維緒へ送り込んだ際、彼女はその場に倒れたのだ。維緒の顔は青ざめていて、ひどく具合が悪そうだった。
議事堂からエレベーターを通じてジプスのエントランスホールに入る。騒がしい空気が立ち込めていて、大地がわずかにひるむような様子を見せた。無限増殖するミザールがいたるところで猛威をふるい、やむを得ずその討伐に当たった局員が返り討ちに遭った、などという話を数時間前に耳にしていた。顔に包帯を巻いて座り込んでいる局員もいる。
司令室に入る。相変わらず、橙色の明るい照明が目にまぶしい。
「維緒ちゃんがいる部屋は、どこでしょうか」
「あー。えーっと、医務室なんだけど、……あっちだよな?」
「うん」
大地が司令室の北側の扉を指差すので、は頷いた。確かその向こうの廊下を道なりに進めば、医務室があったはずだ、とは記憶している。を引き連れて早歩きで進む大地の後ろをついていきながら司令室を見回し、そしてふと、上の通路を大和が歩いているのを見つけた。名も知らぬ局員を携え、紙の束を片手に歩きながら会話をしている。も大地も、大和には気付かない。
ふいに――大和がたちのほうへ視線を向けた。大和と目が合ってしまう。
一瞬立ち止まろうかと思い立ったが、先を歩く二人に置いていかれそうなのでやめた。大和もしばらく達へ視線を向けていたが、何事も無かったように正面を向き、そして本棚と本棚の間に挟まれた扉の奥へと姿を消してしまった。
司令室から廊下へと出ると、青白く明るい蛍光灯が先を照らしている。壁際に点在するドアの札を確認しながら、三人は部屋を何回か間違えつつ、なんとかかんとか、維緒のいる医務室へと辿り着いた。
独特の薬臭さが、学校の保健室を連想させる。清潔感をにおわせるような白い壁に、白い蛍光灯。新品同然に見えるリノリウムの床が、そんな蛍光灯の明かりを反射する。カーテンで軽く仕切られたベッドに、制服の上着を脱いだ維緒が横たわっていた。けれど眠ってはいないようで、維緒はたちを視界にとらえるなり、嬉しそうに、けれども力なく微笑んだ。
「維緒ちゃん、大丈夫ですか」
先に声をかけたのはだった。ベッドの側まで近寄り、不安そうに表情を曇らせる。
「平気だよ。……横になったら、楽になったかな」
「お話しても、大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。一人でここにいるの、少し寂しかったから……嬉しい」
ほっと安堵の息を吐いて、が微笑んだ。立って話すのもなんだと思ったのか、近くの棚に立てかけてあったパイプ椅子を持ってきて、ベッドの側に広げて置き、そこに腰掛けた。そうして、静かでゆっくりとした談笑が始まる。
女の子同士の会話に混ざるのもなんだかなあ、といった具合で、と大地は顔を見合わせたものの、その場に立っているのもどうかと思い、維緒のベッドへ移動した。それに気付いた維緒がちらりと視線を二人に向け、しかしすぐにのほうへ戻してしまった。
しばし少女二人で盛り上がった後、維緒がふとした疑問を口にした。
「ちゃんは、これからどうするの?」
「……これからですか?」
「大和さんに、ついていくのかなって」
と大地にも同じような事を聞かれたせいだろうか、が小さく笑ってみせた。不思議がる維緒になんでもないです、と首を振って答えたあと、自分の心境を吐露するように語った。
「いいえ。大和さんと私では考えが違いますから。平等主義も同様です」
「……そう、なんだ。……そっか。……そっかぁ」
維緒がほっとしたような息を吐いて、弱弱しく微笑んだ。どことなく申し訳なさそうな、けれども嬉しそうな、安堵するような微笑だった。大地を横目で盗み見ればやっぱり彼も安堵したような表情で、それを見たはややうつむきがちになった。今の表情で、二人の意思がおおよそ読み取れた。自分はどうすればいいのだろう。ぼんやりと考えるうちに、大地が二人の会話に混ざり、三人で盛り上がり始めた。会話に入るタイミングを見失い、はむうと拗ねたような表情になる。
と、ふいに肩をつんつん――首だけで振り返れば、乙女がそばに居た。いつの間に近くに来ていたのだろうか、に視線を合わせてにっこり微笑むと、ぽんぽんと肩を二回叩かれる。
「こーら。他のベッドで寝てる人もいるから、静かにね」
優しい叱り方だった。叱られているという気にはさせられないが、それでも静かにしなくちゃいけなくなるような、有無を言わせぬ強制力があった。めいめいが謝罪を述べ、けれども今度はひそひそ声で喋り始める。しかし乙女はそれで満足したのかにっこり頷いて、次の瞬間にはきょとんと不思議そうな表情に変わり、に耳打ちしてきた。
「くん、あの子は?」
「っていうんだけど、……会った事ない、よね」
乙女が力強く頷いた。それから悪戯っぽく笑う。
「私の知らないうちに、くんの周りにまた女の子が増えちゃったのね」
「な、何だか含みのあるような言い方をするね」
「あら。気のせいよ?」
くすくす笑うものだから、何となくからかわれているような気がした。しかし、不思議なもので、嫌な気はまるで起きない。乙女という女性は不思議な人だった。
「一応、とは火曜に知り合ってるよ。大地も、維緒も、水曜には一緒に行動してる」
「あら。なあに? それじゃあ、私にだけひた隠しにしていたの?」
「だ、だから、そういう含みのあるような言い方は……」
と、廊下の方から慌しい足音が聞こえてきた。扉が開け放たれ、ジプス局員が顔を出す。乙女さん、と呼ぶその声に、乙女はさっと表情を変えてから離れた。入り口まで小走りで近寄り、局員と二言三言会話して、すぐに部屋を出て行ってしまう。
急患でもあったのだろうか。呆気にとられるだったが、それは三人も一緒だったようで、ぽかんとした表情で扉を見つめている。
「……何か、あったのかな」
「うん。少なくとも、ただ事じゃなさそうだ」
弱弱しい維緒の声に、大地が不安そうに相槌を打った。
しばらくして、ぐったりしたジプス局員が運ばれてくる。乙女も慌てた様子で戻ってきた。開いているベッドに局員を横たえ、手当てを始める乙女がいる部屋で、雑談に身を投じるなんて事はできなかった。
医務室が騒がしくなる。全員が全員、居心地の悪さを感じ取ったようで、いったん維緒と別れる事となった。そうして、がまだ昼食を取っていない事を思い出し、三人でとぼとぼと食堂へ向かう。
「この後、維緒ちゃんはどうなるんでしょうか」
「18時半頃に、都庁で龍脈の儀式? を行うんだけど……」
言いよどむに、が不安げに首を傾げる。
「新田さんの死に顔動画がアップされてて……。だから、なんとか回避しないと」
維緒ちゃんの、とが呟いた。神妙な表情になる。何か考え込んでいるのか、それっきり何も口にしない。のそれが伝播したのか、も大地もどこか神妙な面持ちになり、無言のまま、三人は食堂へたどりついた。
食堂は閑散としていて、人の気配が感じられない。とりあえず近くの席にでも腰掛けようかと歩き出した瞬間、あの、とが声をあげた。振り返れば、の表情は文字通り、意を決する、といったものだった。
がこれから言おうとしている中身を、自然と察することが出来た。
「申し訳ないのですが、一緒に連れて行ってはいただけないでしょうか」
「むしろこっちからもお願いしたい。な、大地?」
「うんうん」
の問いかけに、大地は力強く頷いた。
「何が起きるかわかんねーしな。……だってよ、今まで何もなかったためしがないじゃん?」
「そうなんだよ。だから、人手が多いに越した事は無い」
「……そ、それでは、よろしくお願いします」
律儀にが頭を下げるものだから、と大地の二人もつられて頭を下げた。食事をしながら、都庁に行くための待ち合わせ場所を決め、その後三人はいったんその場で別れたのだった。