#09 : 6TH DAY 23:30~

(大いなる幻影)

 は夜風にあたっていた。理由は、なんとなく、そんな気分だったからだ。
 議事堂の通りから少し外れた、荒れ果てた道路。その歩道の縁石に腰掛けていた。傾きながらも倒れずにいるビルの合間からのぞく空はほんの少ししか見えない。それでも、その隙間から輝く星は、いつにも増して明るかった。電気の供給がきびしくなったせいだろうか、町は夜になると暗くなり、星の明かりが目立つようになった。
 山奥に行けば星の明るさがわかる、なんて事を昔誰かから聞いたように思うが、恐らく今の頭上に広がっている空が、山奥で見える空なのだろう。一週間前では見られなかった光景をはぼんやり見つめた。
 三者の言い分を聞いても、はどの勢力につくか決めれずにいた。実力主義、平等主義、そのどちらにも属さない勢力。災害から道をともにした仲間がバラバラになっていくのを、はどうする事もできなかった。12人も集まったのだ、意見だって食い違うのは当たり前だ。しょうがないことだ、と諦めにも似た心境で、けれどもそのしょうがないという言葉で自分を慰めているという情けなさに気付き、は歯噛みする思いでいっぱいだった。
 おそらく、やり様ではどうにかなったはずだった。けれども、その手段が思いつかないのだ。しょうがない。でも本当にしょうがないことだったのだろうか。思考がぐるぐる同じところを駆け回っているのに気が付き、は自嘲しながら大きなため息をついた。上着のフードをかぶって、MP3プレイヤーのスイッチを入れる。フードに取り付けられたヘッドホンから、静かな音楽が流れてきた。
 はひごろから、再生時の設定をシャッフルにしている。再生ボタンを押した瞬間、機械の中で選ばれた曲が流れ出す瞬間が好きだったからだ。プレイヤーが機械的に選んだ曲は、が最近はまっているクラシックだった。しっとりと寂しげな旋律はどことなく自分の心境にも似ていて、流れる音楽をただ受け入れた。

 ふいに、背後で人の気配がした。うろついている暴徒ではないかという考えが脳裏を過ぎったが、近寄ってくる足音はどうにも軽やかな足取りで、は安堵の息をついた。振り返りもせず、ただぼんやりと景色を眺める。
 人の気配はのすぐ斜め後ろで立ち止まった。まるで踏み込むのを躊躇するような空気を感じる。そのまま後ろに黙って立っているのかと思いきや、の肩に手を置いて身をかがめてきた。フードの布一枚を隔てたヘッドホンに耳を寄せてくる。夜風に乗ってふわりと鼻先を掠めた、くすぐるような匂いには苦笑を浮かべた。
「音楽を聴いてるんですか?」
「そうなんだけどさ、あ、……あのねぇ」
 自分の頭のすぐ横に、たったの布一枚を隔てた先に、の頭がある。ヘッドホンがある位置にぴっとりと耳をくっつけている。だから、顔を傾けることができない。近い。文字通り、本当に近いのである。の肩にそえられたの手は布越しでもわかるくらい暖かくて、すんと鼻をすするような吐息の音が、クラシックの旋律が篭るフードの中でも鮮明に聞こえる。の無防備さに呆れつつ、どうやら自分はに男として認識されていないという事にはっきり気付かされ、そしてちょっぴり悲しくなった。
 しかしといえば、あのねえ、と切り出したの言葉が続かないのを自分が邪魔したから怒っていると判断したらしい。はあたふたと謝罪を口にした。
「驚かせてしまって、すみません。一人で座っていたものですからつい」
「い、いや。別に驚いてないんだけどさ……」
 が頭を離し、けれども距離はそのままに首を傾げる。それがにとってはつらかった。異性として認識されていない。ため息をついて、から離れるように前かがみになる。膝を抱えて、目頭を膝に押し付ける。涙が出そうだった。
「……やはり、悩んでいらっしゃいますか」
 その一連の動きをまったく別の意味にとってくれたらしく、が気づかうようにおずおずと尋ねてきた。悩んでいる――つまり、3つの勢力についてのことだろう。頷くと、がほのかに微笑んだ。
「隣、座ってもよろしいですか?」
「どうぞどうぞ」
 が縁石をまたぎ、上品な仕草でそこに腰掛けた。腕が触れるか触れないかの距離にどぎまぎする。そんなは目もくれず、頭上に広がる星空を見上げて、わあっと感嘆の声をあげた。間近にある楽しそうな笑顔を横目で見たあと、は切ないやら悲しいやら、そんな心境で胸がいっぱいになる。
 そんな二人を撫ぜるようにひゅうと風が通り過ぎる。
「……風が冷たいですね」
「うん、そうだね」
 頷いて、背筋を伸ばした。もう気にしない事にしようと、そう努める。
「寒くはないですか?」
「俺はべつに。のほうは?」
「少し、寒いです」
 微笑むその顔は、ちっとも寒そうに見えない。
「……。は、決めたの?」
「はい、決めました」
 のほうに顔を向け、しっかりと頷く。何を決めたのか言わずとも、は察してくれたようだった。その表情からは、強い意志が見て取れた。にもどうするか聞かれるのではないかとは身構えたが、しかし予想とは裏腹に、は夜空を見上げるばかりだ。
 微風は冷たく、けれども優しくの背中を撫でていく。大きな都市だと思っていた町が、今ではしんと静まり返っていた。いつも騒がしい大地が、高熱を出してぐったり寝込んでいるのを見つめるような、そんな不思議な感慨を抱かせる。
「そういえば」
「うん?」
くんの上着、面白い構造をしていますね」
「……俺の?」
 自分の身体を見下ろす。ごくごく普通の白い上着だ。左の袖を右手で軽く持ち上げて示すと、がこくんと頷いた。
「フードの中にスピーカーがついてるんですよね? それが、面白いなって」
 合点がいった。が当たり前だと思っていた服の機能は、よくよく考えれば珍しいものだったと思い出す。
「ああ、うん。……これさ、フードで雑音聞こえないから音楽に集中できていいんだ。かといってノイズキャンセラとかついてないし、周りの音が聞こえないわけじゃないから、歩きながら音楽聴くのに適してる、と俺は思ってる。音洩れひどいって大地に言われるんだけどね」
 長ったらしく語るの口調に、けれどは嫌そうな素振りをまるで見せず、興味深そうにこくこくと頷く。そして面白半分、不思議半分といったような眼差しで、の上着をじっと見つめた。不躾な視線ともよべなくないが、のその視線はにとっては嫌ではなかった。
「これで聴いてみる?」
「へっ!?」
 素っ頓狂な、けれどもらしいその声を聞くのは、おそらく二回目だ。に初めて会って名前を呼ぶのをせがんだ時、確かこんな反応を返されたような気がする。あれから随分と遠くまで来たような、そんな気がした。
 の返事を聞くよりも先に、上着の胸元の合わせ目に、プレーヤーの背面にあるクリップをはさんで取り付けた。前ボタンを外して上着を脱ぐ。立ち上がってすぐにの後ろにまわり、肩に自分の上着をかけ、の頭にフードをかぶせた。元の位置に腰を下ろし、プレーヤーを取り外して操作する。さっきまで大音量で聞いていたので、少し音量を下げた。
 は最初おっかなびっくりという様子だったが、けれどもすぐにフードの位置をずらし、耳とヘッドホンが隣接するように調整すると、徐々に緩んだものになっていく。その顔がいつになくにこにこと嬉しそうで、見ているも何故か嬉しくなってしまった。
「どう?」
「こういったので音楽を聴く習慣がありませんでしたから、その、どう表現したらいいのかわかりませんが、……音の臨場感がすごいです」
「そうなんだよ。臨場感がすごいんだよ。左右からぐわっとくるの。ぐわっと」
「ぐわっと、ですね」
「で、低音も高音も疎かにならないヘッドホンだし、フードの素材もなんか特殊なのを使ってるらしくて、音が満遍なく響くんだ」
 身振り手振りで説明するのがおかしかったのか、がくすくすと笑い出した。その笑顔に、なぜだか気恥ずかしさがのぼってくる。どうやら熱く語りすぎたらしい。取り繕うような苦笑を浮かべ、人差し指で頬をかいた。
 お互いにふうと息をつき、そして沈黙がおとずれた。は何も言わずに音楽に聞き入っているようで、たまに右足のつま先をもちあげ、こつこつとアスファルトを叩いている。何故そんな事をしているのか怪訝に思ったが、冷たいそよ風にのって耳に聞こえるかすかな曲調にその動作が合っていた。どうやら曲のテンポに合わせて右足を動かしているようで、その仕草の理由が分かったとたん、尚更可愛く思えた。
 の仕草は見ていて飽きない。自分の上着を羽織って、嬉しそうに音楽を聴く隣の少女を、肘に頬杖をついてただ眺める。ただの沈黙が、かえって心地が良い。人は見た目より中身、なんて口にする人がいるけれど、しかし隣に座る少女を見ていると、見た目の力というのもそれなりに強力だなと変なところで感心してしまう。
 の視線に気付いたのか、ふいにのほうを見た。不思議そうに小首を傾げる。半ば見とれていたともいえない心境をごまかすように、は慌てて言葉を発した。
「それ、気に入った?」
「はい」
 白い上着を指差せば、が笑って頷いた。それから、ふと気付いたかのようにきょとんとした顔になって、口を開いた。
「この上着、けっこう大きいですよね。肩幅とか」
「……それは、まあ、男物だし」
くんって細いですから、てっきりもうちょっと小さいのかなと思ってました」
 そう言って、まるで服を合っているか確かめるように、それぞれの袖を両手で引っ張った。少し袖が余っているし、裾も長い。確かにには大きい。
「なんだか、大きくて落ち着きます」
「そ、そう? それはよかった」
「……それに、くんの香りがします」
 自分の香りとは一体――考えてから、はハッと息を呑む。直後、声にならない悲鳴をあげ、間髪いれずに、フードについている長い耳を引っ張った。それにびっくりしたが、慌ててフードを両手でおさえる。上着を奪おうとすると、それをさせまいとする。じりじりと一対一の攻防が進み、先に折れたのはのほうだった。仕方ないといった様子で耳から手を離し、盛大にため息をつく。
「ここ数日、結構走り回ったし、……その、汗とかついちゃってるかも、なんですが」
「……汗ですか?」
「やめて! におい嗅ぐのやめて!」
 襟元に鼻先を近づけようとするものだから、慌ててそれを制した。恥ずかしかったのだ。
 思いもしない事を口にしたり行動に移す子だな、とはらはらするの心境が伝わったのか、はようやっとそこで気付いたらしい。じわじわと頬を赤くしてうつむきがちになり、すみません、と消え入りそうな声で呟いた。けれどもに上着を返すそぶりはまるで見せない。本当に気に入ったようだった。
 とりあえず、妙な空気になってしまった。それを打ち消すべく何か話題を探すのだが、特に思いつかない。をぼんやり見つめ――ふと、ある勢力のトップの顔が脳裏に浮かんだ。
「そういえば、大和と話はつけたの?」
「はい。昨日の夜に」
「早いなあ……。あいつ怒ってたりしてた?」
「いいえ。普通でした。ただ、鬩ぎ合いになったら容赦はしないと、言われてしまいました」
 苦笑を浮かべるその表情には、一抹の寂しさが宿っていた。
 先の大和の話を思い返す。大和は歯向かうものは殺すなどと物騒な事を言っていた。それに比べれば容赦しないという言い方はかなり優しいものに聞こえる。どうやらには苛立った様子は見せなかったようだし、おまけに表現が柔らかいのはどういう事だろうか。大和は歯に衣着せるタイプではない。思った事を率直に言うタイプだ。殺すではなく容赦しないと彼がそう言ったのであれば――つまり、そういう事なのかもしれない。
 うーんと考え込むの背に、ふわりと何かがかけられた。思考から現実に引き戻される。横に座っていたはいつの間にやらいなくなっていた。肩に触れると、自分の上着が掛かっていた。
「……私、もう行きますね。上着、ありがとうございました」
 振り返れば、が少し後ろに立っていた。がくるりと身体を反転させ、その動きに合わせてスカートの裾がふわりと揺れる。
「待って」
 背中に声をかけると、の動作がぴたりと止まった。一拍の間をおいて、くるりと振り返る。を見るその顔は、ひどく不思議そうだった。
「一緒に行こう」
「え、でも……」
「多分、行き先、一緒だと思うから」
 上着を着なおし、立ち上がる。尻をかるくはたいて砂埃を落とし、の隣に並んだ。
「……私、大和さんのところには行きませんよ?」
「いや、俺だって大和のところに行く気は無いよ」
 が目を見開いた。戸惑うように「えっ」と声をあげる。
「も、……もしかして、俺が大和の所にいくと思ってた?」
「はい。思っていました。くんは、実力主義たりえる力を備えていますから」
 恐らくに評価されているのだろうと思うけれど、心外半分、嬉しさ半分といったところだった。苦笑しか浮かばない。
「俺ってそこまで非情にできてないんだよ。物は長く大事に使うタイプだし」
「……ふふ。その言い方だと、私が非情みたいに聞こえます」
「怒った?」
「怒ってないですよ。……嬉しいです」
 嬉しいという言葉通り、がそんな顔をするから、どことなく照れくさくなってしまった。
 立ち話も何だし、それよりも早く話をつけたかった。行こう、というの言葉を合図に、二人揃って歩き出す。
「これからどうなるんでしょう」
「どうなるんだろうねえ」
 漠然とした、先の見えない不安がある。けれども怖くは無かった。それはも同じようで、表情は明るい。不安や狼狽などの感情が一切見て取れなかった。
 東京支局に戻り、はさっそく大地と話をつけた。も話をつけるのかと思いきや、大地と維緒にだけはもう話を取り付けていた。自信満々に決めました、と言っていたから不思議には思ったのだが、何はともあれ喜ばしい事だった。
 大地、維緒、緋那子、純吾、、そしてといった面子が、通路に集まっている。共闘する仲間がこれだけしかいない。薄ら寂しさを覚えたが、それでも他の勢力の仲間を引き込める可能性はあるのだ。
 はぐるりと6人の顔を見回す。希望を失うどころか、まるで明日を見据えているような、そんな表情だった。恐らく今、自分もこんな表情をしているのだろう。
 まず切り出したのは緋那子だった。「さて」、と誰にともなく呟き、顎に人差し指を添え、ニッという表現が相応しい笑顔を作る。その笑顔の向く先に座っているは、ちょっとだけ目を見開いてきょとんとしていた。
「まずは自己紹介せなアカンね。都庁で見かけたとはいえ、見知らぬ子がおるとちょっと戸惑ってまうわ~」
 戸惑うと口にした割に、そういった雰囲気はまるで感じない。ただ嬉しそうにニコニコしている。いつだったかの事を教えたのをは記憶していたが、けれども緋那子は気を遣ってそう言ってくれたのかもしれない。は何も言わずにただ事の成り行きを見守る事に専念した。
 緋那子の発言にきょとんとしていただったが、緋那子の空気に引きずられたのか、微笑んで口を開いた。
と申します。よろしくお願いいたします」
「そんなかしこまらんでもええで? ウチは九条緋那子、よろしゅうな! ……ほら、そこの朴念仁もさっさとしい! 話進まんで」
 緋那子がばしんと純吾の背を叩いた。話を聞いているのか聞いていないのか、ぼーっとしていた純吾がのほうに目を向けた。
「……鳥居純吾。よろしくお願いします」
 いい終わると、ぺこりと頭を下げた。
「はい。九条さんと、鳥居さんですね。よろしくお願いします」
 うんうん、と満足げに笑って、真面目な顔つきになる。
「……それで、これからどうするん? 明日に備えて寝る?」
「そうだなあ。もう夜も遅いし……何かするっつっても、何したらいいんだ?」
 そこでが、すっと手を挙げた。それに気付いた面々が、自然と口をつぐむ。
「そういう小難しい事は明日考えよう。それよりやるべき事がある」
「やるべき事?」と、純吾が首をかしげた。
 がこほんと咳き込む。
「部屋のお引越しです」
「引越し? 東京支部から拠点移すんか?」
「ちがう。の部屋だ」
 が言い終わるなり、から「えっ!」と不思議そうな声があがった。
 に割り当てられた部屋はここ東京支部の居住区の最下層に位置する場所にある。司令室から移動するその距離も遠く、また足元もおぼつかないような暗い通路を通らねばならない。エレベーターで移動するのも時間がかかる。ジプス局長である大和は今大阪本局に移ってしまったし、部屋の移動くらい罰は当たらないだろう。
 という事をつらつらと説明すれば、皆納得したようだった。当のもそうしていただけるとありがたいです、と嬉しそうに言う。というわけで、寝る前の一仕事が始まった。
 まず居住区に行き、の部屋の場所を決めた。維緒の隣の部屋が空いていたので、すぐそこに決まった。グーパーで部屋の掃除をする組と、荷物を取りにいく組に別れ、と緋那子を引きつれその場を離れた。
「暗っ! 幽霊でるんとちゃう? ここ……」
 エレベーターを降りて暗い通路を目にした緋那子の第一声がそれだった。怖いわ~とぼやいているが、の目からはまったくそうは見えない。先導するの後ろを二人してついていくと、ようやっとの部屋についた。ぞろぞろとの部屋に入り込む。
「おっ! この部屋、結構広いんやね」
 きょろきょろと見回す緋那子を部屋の入り口に置きっぱなしにして、は部屋の奥へと進んだ。はベッドの上の布団を綺麗に整えたあと、テーブルの上の紙を適当にまとめた。トランクの中に詰め込み、蓋をする。
「ノートパソコンは? どうする?」
「持っていきます。お願いできますか?」
「わかった」
 ノートパソコンがちゃんと終了しているのを確認してから、コンセントからプラグを引っこ抜いた。手のひらサイズのアダプタの線を纏めポケットに突っ込み、ノートパソコンを小脇にかかえる。
ちゃん、ウチはどうしたらええ?」
「下のケトルと、ポットかな。それをお願いします」
 テーブルや椅子は部屋に来たときからあったようなので、そのまま残すことになった。は私物のトランクを持ち、緋那子はポットとケトルを抱え、はノートパソコン。三人で来た割に、の荷物はそこまで多くなかった。
 来た道を引き返し、上の明るい居住区へ。通路に出て歩き始めたとき、は一度だけ名残惜しそうに部屋を振り返ったが、それも一瞬のことだった。
 新しい部屋もそこまで掃除をする必要がなかったようで、大地と維緒と純吾は適当な場所に座って雑談に身を投じていた。それでもたちが部屋に来ると、ぱっと立ち上がる。机の上にパソコンを置き、棚に食器をしまい、ベッドのそばにトランクを立てかけ、引越しは終了した。
「呆気なくおわったなー」
 ぼやく大地に、隣の維緒がうんと頷いた。
「じゃあ、今日はこれで解散かな。お疲れ様でした」
「……うん。おつかれさま」
 皆で頭を下げる。とりあえず、その場で解散となった。
 ドアの前に立ちありがとうございました、と頭を下げるに、めいめいがらしい挨拶を返していく。おやすみ、とか、またね、とか、また明日とか、明日もがんばろな、とか。はそれを見送ったあと、ふうと一息ついて、いまだ隣に立つ少年を怪訝そうに見上げた。
「ええと、くんは?」
「ちょっと話でもしようよ」
「……今からですか?」
「うん。だめ?」
「いいえ。……それじゃあ、中へ」
 困惑しながらも、それでもは部屋の中に招き入れてくれた。椅子に座るよう促され、は角ばった椅子に腰を下ろす。の部屋にも同じ椅子があるが、座り心地はあまりよろしくない。
 の向かい側の席に、が腰掛けたので、は顔を上げてへ向き合った。
「それで、話とは」
「んー。大和の事なんだけどさ」
「……大和さん、ですか」
 の表情が少し曇った。不安なような、心配なような、そんな曖昧な表情になる。
はさ、大和の事、どうしたい?」
「……どう、とは」
「正直に言って欲しい。仲違いはしたくなかったでしょ?」
 尋ねると、の瞳が揺らいだ。
 しばらくして、「はい」と返事がかえってくる。その声はとても小さかった。
「大和がさ、今日、俺たちに向かって『歯向かう者は殺す』って言ったんだよ。だからもしかしたらさ、そうなる可能性がこの先、明日にでもあるかもしれないんだ」
 がはっとして目を見開いたが、すぐに思案めいたような表情に変わった。
「あいつの本気……っていえばいいのかな? なんか、桁が違う。俺の想像の範疇を超えてる。正直、俺がここにいるのは大地と維緒がいたからっていう、そんなどうしようもない理由なんだ。大層な正義とか、そんなもんはこれっぽっちもないんだ」
「はい」
 がこくんとうなずいた。
「いっつも無気力で、なんか諦めてる大地が、大和とロナウドには賛成できないって立ち上がったんだ。そんなの見ちゃったら、小さい頃から一緒にいる俺は背中押してやりたくなるじゃん」
「……背中を、押すだけですか?」
 の問いかけは、答えが分かりきっていながら、それでも試すような口調だった。苦笑を浮かべて首を振る。
「……そうだ、そうなんだよ。背中を押すだけじゃなくてさ、大地の力になりたいって思ったんだ」
 笑って、を見つめる。はうなずき返してくれた。
「俺には野望とか、野心とか、そういうのはない。でも大和には確かにあるんだ。あいつのそれは、簡単に消えてくれるとは思えない」
 いつから大和にそれが芽生えたのかは知らないが、けれどもかなり昔からそう思っていたに違いない。そう断言できるほど、大和のそれ――憎しみにも近い志し――は根深い。長い年月を経て堆積したものがくすぶり続けて、いまこうして燃え盛っている。
「そう、ですね。大和さんのは、恐らく一生消えないと思います」
「だからさ。そんなやっかいな大和を、はどうしたい? 大和にどうしてほしい?」
 尋ねると、は瞳に戸惑いの色を浮かべ、それからうつむいてしまった。
 だって、大和に気に入られているという自覚はある。けれどもたかだが1週間にも満たない付き合いだ。大和の抱える問題は、もはや人の立ち入れるような隙間が無い場所にある。深い深いところにあるそれに、外にいるは手を伸ばす事もかなわない。たとえ理解できたとしても、にとって、大和は重すぎた。大和の事を大事に思うからこそ、軽く考えられないからこそ、重い。
 だが、目の前の少女ならどうだろう。重かろうが軽かろうが、大和の事なら躊躇無く突っ込んでいくんじゃないだろうか。
「大和さんにどうしてほしい、だなんて、今まで考えた事がありませんでした」
 しかし、の口からこぼれたのは、自嘲めいた台詞だった。その顔に、苦悶がにじむ。どこか痛みを感じさせるような表情に、は怪訝そうに問いかけた。
「一度も無いの?」
「ありません。……くんは、大地さんにこうして欲しい、ああして欲しいって考えたことは、きっとありますよね?」
「そりゃあるよ。たくさんあるから、いちいち覚えてないけど」
 泊まりにいったときベッドから床で寝ているの上に落ちてくるくらい寝相が悪いからそれを治せとか、宿題は自分でやれとか、テスト勉強を自分でしろとか、音楽の話をする時に露骨に引くなとか。挙げれば挙げるほどきりがないので、はそこで言葉を打ち切った。けれど、が適当に挙げた一例を聞き終えたの表情は、相変わらずほの暗いものを湛えている。
「羨ましいです」
 ぽつりと、一言。羨ましいという言葉の裏に、自分が惨めだという響きを感じ取った。
「本当に、ないんだ」
「ないんです。ひとつも。ただ、大和さんの期待を絶対裏切らないように、恥にならないようにと思ってここまできました。知力にしろ体力にしろ、それなりに上ではなければならないと思って、人並み以上の努力を重ねたつもりです。ですから、そればかりが心にあって、大和さんにああして欲しい、こうして欲しい、だなんて、一度も……」
 とつとつと、言葉を選ぶようにして話す。はそれを聞きながら、肺の中に溜まった息を吐き出した。
 親の都合や理想を押し付けられ、その両親のちっぽけな見栄に応えるために、勉強面や運動面で頑張っている人がいるのを、は知っている。いつからか、どういうきっかけで知ったのはわからないが、漠然と、そういう子供がいるのだと察していた。自分のために努力するのではなく、近しい人間の見栄や理想のために自分を蔑ろにして努力する、そんなタイプ。
 目の前のが、まさにそれだ。むしろ、それよりも酷いんじゃないかとは思う。
 親の理想を押し付けられるのはまだいいだろう、何せ結果を出せば親が褒めてくれるのだ。しかし、の場合はどうだ? 応えてくれる人間は、――大和は、どうあがいても応えてくれない。親は無償の愛を子供に与えるが、大和はそれをするような人柄には思えない。
 うつむいて、口を引き結ぶ姿に、なんて言葉をかけたらいいのかわからなかった。見ていて、胸が詰まるような思いがする。どうすればいいのかわからず言いあぐねていると、そんなに気付いたのか、がはっと顔を上げ、取り繕うように微笑んだ。
「……す、すみません。変な事を言ってしまって」
 はぶんぶんと首を振ったが、しかしその次に何か言葉を口にすることができなかった。
 初めて会ったときから、余裕の笑みを浮かべる子だと思っていた。大人びていて、きっと学校での生活はなんでもできて、文字通りの優等生なのかもなと、そんな気にさせるような立ち振る舞いだった。
 ――けれど今の表情は、いつ泣きだしてもおかしくないような顔で、それが見ていられない。
 は無言で立ち上がった。驚きに肩を震わせるの横までくると、一瞬躊躇したのち、右手をの頭に乗せた。
 撫でた。
 何も言わず、撫でた。
「……へっ、……ぁ、ぁの……っ」
 困惑げな上目遣いで見上げてくるその頭を、ただ撫でる。撫でながら、今さらになって気付かされた。頭をしっかり支える首も、重いものが乗っかっているであろう凛々しい肩も、何でも持ててしまえそうな手も、ぜんぶが小さい。華奢だ。小さくて、華奢な体だった。
 完璧な人間に見えるけど、そうじゃなかった。大和に追いつきたくて、必死に、背伸びをしているだけだ。
 の目の前にいる子は、大和よりもはるかに弱くて、より歳下の――ただの女の子だった。
「……あのさ」
 なんとか声を出す。もうここまでした手前、躊躇しても仕方が無い。いきなり頭を撫でるとか失礼極まりないし嫌がる人だっている。内面に踏み込んできた相手を嫌いになる人だっている。がその両方を兼ねていたとしても、別に嫌われてもいいと思った。言いたい事を言えなかったという後悔はしたくなかった。
「大丈夫だよ。の努力は、無駄じゃないから。……大丈夫」
 大丈夫大丈夫、と言いながら頭を撫でる。そんなの心の中では、冷静に今の自分を見るがいて、何が大丈夫なんだちっとも大丈夫じゃないだろ、とか、もっと良い言い方があるだろ、と責めたててきた。内心5分くらい前に戻りたいと泣きべそをかきそうになっていると、ふいに、の口からかすかに吐息がもれた。
 がうつむきがちになる。小さな肩が、小刻みに震え始める。笑っているわけじゃない。の息が自然と詰まった。一瞬止まった手を、再度動かす。が押し込めているそれを誘うように、ただ撫でる。
「ぁ、……っ! ……わたっ、私……っ」
「いいよ。……いいから」
 机の上に、ぽたぽたと、透明な雫が落ちはじめた。が両手で顔を覆う。
「わ、わたしっ……何の、ためにっ……ここまで……っ!」
「うん」
「こんな、……泣く、くらいなら、……やまと、さ……に、ついて、いけばって……」
「でも、できなかったんだ?」
 こくこくと頷いて、大きく肩を震わせる。嗚咽が漏れたが、はすぐに声を押し殺した。鳴き声を喉の奥に押し込んで、それでも肩を震わせて泣いている。
「考えが、まったく、ち、がうのに、……そんな人に、ついてったら、……私の、……自分の意思とか、……今までのは、全部、なんだったんだろうって……っ」
「うん」
「べつに、やまとさんに、わ、わたしの、理想とか、押し付けたい、わけじゃ、ない……でも、……無理、でした……っ」
「うん。えらいよ。そこまでちゃんと大和についてった。えらいよ」
 えらいえらい――あやすように、頭を撫でた。他に何ができるかわからなかった。そうする事しか出来ないから、ただ撫でた。
 は小さい頃から、ずっと大和の事を第一に考えて行動してきたのかもしれない。どう見たって、血を分けた肉親への愛よりも、大和に対する忠誠が勝っている。
 だからこそ、必死に追いかけたのだろう。追いつこうとした存在が、の立ち入る余地すらない場所へ行ってしまったら、こうなるに決まっている。
 の抱える意思や痛みを肩代わりしてあげれたらどんなに良かっただろうか。しかしは、にそこまでできるような立場じゃない。すぐ目の前で、肩を震わせて泣く弱い女の子を、抱きしめてやる事すらかなわない。たとえ抱きしめたとしても、の心の隙間は決して埋まらない。
「大丈夫。俺がいる。維緒も、大地も、純吾も、緋那子もいる。皆ついてる。大丈夫だよ」
 俺がいる、なんて言ったところで彼女の不安を和らげれるかどうかはわからなかった。どう足掻いても、にとっての大和にはなりえないのだ。大和がにとっての大地になりえないように。
「ぁ、……ありがと、……ご、ざいま……」
「ううん。いいよ」
「だって、こんな……泣く、……だ、なんて……はした、ない……っ」
「いいってば。俺はこんな事しかしてあげられないから。全然はしたなくないよ」
 言いながら、内心ため息をつく思いだった。大和がこれ以上の事をにする、という可能性はこの先存在するのだろうか。考えても奇妙な光景しか浮かばない上に、想像するのを拒否する自分がいて、自然と苦笑が浮かんだ。
 しばらくの間、声を押し殺して泣くの頭を、はただ無言で撫で続けた。
 そうしてようやっと、落ち着いてきたのか、は顔を覆っていた手を下ろした。右手の人差し指の背で目尻をぬぐい、すんすんと鼻で息をする。最後になでなで、と数回手を前後させ、乱れた髪を手櫛で直した後、もそっと手を離した。
「話したら、わかって、くれるでしょうか」
 ぽつりと、か細い声でが言う。
「大和の事?」
「……はい」
「それはさ、が一番わかってるんじゃない? 俺って、たったの数日くらいの付き合いしかないし」
「私だって、たったの数日くらいの付き合いしかありませんが、志島くんの事はなんとなくわかりますよ?」
「あれは……大地は、特別でしょ。滅茶苦茶分かりやすい奴だし。まあ、そこがいい所なんだけども」
「そう、ですね。はい。そうだと思います」
 がうなずいた。
 真っ直ぐで、純粋で。平々凡々という言葉を文字通り描いたのが、大地だとは思っている。でも、いざという時になれば的確な判断を下す。皆がパニックになっている時には一緒にパニックになりながらも、頭を使って機転を利かせる。現にドゥベと対峙した時のトラックでの突撃には感動を覚えたものだ。
 大地に協力すると申し出ようとした時には彼に「お前いい奴だな」と言われたけれど、実際、大地のほうが自分より何倍もいい奴なのだ。長い付き合いのがそう思うのだから間違いは無いだろう。
「……なんとなく、わかってたんです。いつかきっと、大和さんと道をたがえるって」
「うん」
「でも、わかっていながら、……いざそうなると、動揺は隠せませんでした。何がきても大丈夫だって、言い聞かせてたつもりだったんですが……」
「しょうがないよ。苦手科目のテストに意気込んで挑んでみたはいいけど赤点だなこりゃって思って、いざテスト返ってきたらやっぱり赤点でがっかりしたみたいなもんでしょ」
くんのたとえ方、少しおかしいです」
 小刻みに肩を震わせて、くすくす笑う。もう泣いてはいない。大丈夫だ。
「頭でわかっててもさ、どうしようもない事ってあるよ」
「……はい」
 こくんと頷く。
「まあ、正直に言うと、なんとかなりそうな気はしないでもない」
「……本当でしょうか?」
「うん。大和はさ、なんだろ。他者の意見を拒んでわが道を行くタイプかと思えば、けっこう周りの意見に耳を傾けたりするじゃん? この前さ、大和と一緒にいた時、町の人からたこ焼き貰ったんだよ。でもそれ、大和は食べた事なかったみたいでさ。頑なに食わないって拒否してたけど、無理して勧めたら食ったんだよ、あいつ」
「……それは、くんが勧めたからでは? 私や、志島さんや維緒ちゃんが勧めていたら、どうなっていたかわかりませんよ」
「あー……うーん。たとえ勧めたのが俺じゃなくてもさ、たかが食い物だ。あいつはとりあえず口には入れるとは思うよ」
「そう、でしょうか」
「そう信じてたほうが、なんか明日は明るい感じがしていいじゃん」
「ポジティブですね」
 なんとなくその場にしゃがみこんだ。驚くをよそに、の膝に置かれた左手を取る。
、思った事をそのまま押し殺さないで、ちゃんと大和に喋ったほうがいいよ。そうしないと伝わらない」
「はい」
「皆いるよ。俺もついてるし。もし大和が話聞いてくれたら、一緒に説得してみよう」
「……はい」
 はしっかり頷いて、の手を握りしめる。泣きはらす、とまではいかないが、それでも目元を赤くした顔で、迷いが一切伺えない微笑を浮かべて見せた。