#11 : 7TH DAY 15:00~

(背中を押してくれる優しさ)

 第七のセプテントリオン『ベネトナシュ』を倒すための手段として史からトランペッターという悪魔の存在を知ったは、おそらくトランペッターのことを知っているだろう大和を探し、ジプスの東京支部へと足を運んだ
 議事堂の中に入り、赤いじゅうたんが敷かれた廊下を抜け、暗いエレベーターホールからエレベーターに乗る間、は手持ち無沙汰に携帯を弄り、思案をめぐらせる。
 1時間ほど前、大和と戦った時の事を思い出す。龍脈の力を宿した大和との対峙は、本気で命を落とすかと思うような戦いだった。人智を超越した力とでも言えばいいのか、動きは早いわ、殴ってくる素手は痛いわ、大和が放つメギドは強力だわ。思い出すだけで背筋に怖気に似た感覚が立ち上ってくる。
 戦いが始まってまず、真っ先に狙われたのがだった。大和と決着をつける前に、念のため護りの盾やマカラカーンをに優先して装備させたのが幸か不幸か、は大和の攻撃をひたすら凌いだうえ、大和の召喚した悪魔を倒した。おかげで大和の琴線に触れたのかもしれない。集中的に狙われた挙句、たちから無理やり距離を置き、MP切れを起こさせた。仲魔も全て息絶えた所にメギドを撃ち込んで吹き飛ばし、へたり込んだの襟をつかみ無理やり立たせ、鳩尾に容赦なく素手を叩き込んだ。が目を見開いてひるんだ所を、大和は見計らったかのように首の後ろへ手刀を下とし――そうして、が最初に地面に崩れ落ちた。が崩れ落ちた後に、が倒した大和の仲魔が復活したのも、の絶望感をあおった。
 思い出すだけでも、ぞっとする。自分だったらあんなふうに、や維緒に容赦なく手を下すことは出来ない。むしろ、たちにそう思わせるためにを集中的に狙ったのかもしれない。お前たちも次はこうなるぞ、といった意思の表明とすればを真っ先に狙ったのも納得できる。その結果、維緒も大地も大和相手にはひるんでいたし、緋那子といえば怒りに体を震わせ判断力を鈍らせていた。Sリカームで際限なく復活する仲魔の存在も、それを助長していた。
 あの中で、唯一的確な判断を下したのが純吾だった。がやられたあと怒りをあらわにしたものの、大和の追撃にはひたすら逃走という選択肢を選び、対峙する時は英雄の証を使用していた。純吾がどうにか大和を削ってくれたおかげで、その結果がとどめをさせたようなものだ。
 決着がついた後、逃げる大和を追いかける事はせず、純吾はを抱き上げ、真っ先にジプスの東京支部へと向かったのだった。さっき純吾からきた連絡では一応、怪我は治ったとの事だったが――大和には一切、それを伝えていない。むしろ、伝えたところでどうなるというのか。
 大和は本気だった。本気で実力主義を体現しようとしていた。はそれを実力でねじ伏せたまでだ。だから大和はこうして、の説得に応じた。一人で行っても、ロナウドがいてくれたのでなんとかなった面もある。寧ろ、一人で行ったから、よかったのだろうか。がいたらどんな話をしていたのだろうか。考えても仕方の無い事を考えてしまう。
 エレベーターを降り、エントランスから司令室に入る。東京支部の司令室はがらんどうなのかと思いきや、意外にも仲間がまばらにいた。ある一方に、4人の人影が集中している。一人は本棚から本を引っ張り出してはしまいを繰り返し忙しなく動き、もう一人は2階通路の上に置かれた脚立の上に座って本のページを素早くめくり、三人目はゆっくりでありながらも本を手に取り流し読みし、そして最後は机の上にある端末を操作している。それぞれ、には見覚えのある人物だった。大地、、純吾、大和というあまり馴染みのなさそうな面子が何をしているのだろうか。遠目に伺う。
 大和が大地に指示を出している声が聞こえる。うげーっといった感じの声を出す台地を純吾が励まし――しかし2階通路の上、脚立の上に座っているは動じない。脚立の上に両足をきちんとそろえてちょこんと座り、ぱらぱらと本のページを捲って中を見ては本棚にそれをしまい、隣の本を手に取るという動作を繰り返している。集中しているのかもしれない。とりあえず、が無事なようでほっと胸をなでおろし、は大和のほうへと向かった。
「……か」
 大和がに気付き、顔をあげた。端末を操作していた手を止める。
「おう。皆で何してるの」
「ベネトナシュについての資料を片っ端からあたっていた。……お前は?」
「大和に聞きたいことがあって」
「言ってみろ」
「トランペッターという悪魔についてなんだけど」
 大和が一瞬だけ目を見開き、それから腕を組んだ。品定めするような視線を向けられる。どこで知った、と大和に尋ねてくる。がトランペッターの話を教えてくれた人物の名前を答えようとした矢先、大和が見事にそれを言い当ててしまったので、は頷くほかなかった。
「それで、そのトランペッターについての情報が欲しい」
「無論だ」
 大和が頷いて、端末を操作し始める。キーの上ですばやく動く指に感心しつつ、は顔を上げてを見上げた。は閉じた本を後ろの棚にしまう最中だった。狭い足場でひょいひょいと動く姿を見ていると、なんだかハラハラさせられるが、それでもは平気なようだった。高いところは怖くないのか、新しい本を手にしてはまたパラパラと高速でページを捲り、流し読みをしている。
「……。
 たしなめるような声で呼ばれ、ははっとして大和のほうを見た。
「あっ、すまん」
「トランペッターの封印は東京、日比谷公園だ。解除コードを預ける、お前が指揮を取れ」
 大和がまた端末を操作し始める。と、様子を伺っていたらしい大地と純吾が、小走りで近寄ってきた。まず純吾がぺこりと頭を下げるので、もぺこりと頭を下げた。
 ポケットの中にある携帯が震動し始めるので、は携帯を取り出した。見れば見知らぬアドレスからメールが届いている。本文にはランダムな文字列が表示されていた。恐らくこれが解除コードとかいう奴なのだろう。
「大和、ありがと」
「構わん。お前はこの私を打ち負かしたのだ、手を貸すのは当然の帰結だろう」
 遠まわしな難しい言葉では合ったが、とりあえず褒められているのだろう。大和に向けてにっと笑うの隣で、大地が喜ぶ素振りをみせた。ベネトナシュへの対抗策が見つかった事による喜んでいるように見えるが、膨大な書庫を探す必要がなくなった事による喜びも含まれているだろうなと、はなんとなく察した。
「志島、喜ぶのはまだ早い。トランペッターで対抗するとなると、ひとつ問題点が生じる」
「問題点?」
 が尋ねると、大和が頷いて口を開いた。
 トランペッターのラッパによるジャミング効果の影響力はすさまじく、周囲一体にまで及ぶという事だった。ベネトナシュにのみ効果を発揮したくとも、その場にいるたちですら影響を受けてしまうという。トランペッターはこの状況を打開出来うる可能性はあれど、諸刃の剣という事らしい。話を聞いた大地と純吾が戸惑う様子を見せるそばで、はむうと考え込んだ。
「……まあ、大丈夫でしょ」
「大丈夫ってお前、気軽に言うねえ……」
「皆バラバラになったけどなんだかんだでまた一つに纏まったし、もう負ける気がしないよ俺は」
 3つの勢力に別れたが、なんだかんだで1日もたたずに一つの勢力として纏まったのだ。ここでベネトナシュになんか負けていられないだろう。そんなの心境を悟ったのか、純吾がこくりと頷いて見せた。
「……。まぁ、の言葉にはまるで根拠は無いが、それでも訴求力はあるな。判断は任せよう」
 大和の言葉に、ええーと不安そうな顔をする大地だったが、観念したようにはあと大きなため息を吐いた。話がひと段落ついたようで、大和はまた端末を弄り始め、大地と純吾はテーブルに散らかした本を片付け始める。2階通路にいるだろうを見上げれば、まだ本を読んでいた。今の話に参加していなかったとはいえ、普通聞こえるものだろうに。よほど集中しているらしい。
ー!」
 声をかけると、がはっとしたように顔をあげた。キョロキョロとあたりを見回し、それから下にいるを視線でとらえる。一瞬きょとんとしてから、小さく頭を下げた。
さん、ベネトナシュについてはもういいよー」
 本を抱えようとしていた大地が、に声をかけた。
「わかりました。では、下に降りますね」
 が言いながら本を戻す。脚立を身軽にトントンと降り、最後の三段ほどでジャンプして狭い通路に着地した。先の戦闘であれだけ派手にやられた手前、が動く姿が見ていてハラハラしたが、余計な心配だったようだ。早歩きで通路を進み、螺旋階段を降りてのもとまでやってくる。
「なんかすごい身軽に動いてたけど、身体はもういいの? 平気?」
 言いながら、近くにいる大和のほうへ耳をそばだてる。相変わらずキーをカタカタ打っている音が聞こえた。こっちの話は聞こえているだろうが、けれども別に平気なようだし、変な気は使わなくても大丈夫だろう。
「昏倒はしましたが、柳谷先生に診てもらいましたから。この通り大丈夫です」
「骨にヒビとか入ってなかった?」
「ただの打撲です。おまけに常世の祈りもかけて貰えましたから、痛くも痒くもないですよ」
 魔法とは便利なものだと、つくづく思った。悪魔が現れる前までは、怪我なんて本人の治癒能力に頼るしかなかったのに、今や回復魔法をかければ大体の怪我は治ってしまう。どういう仕組みなのかはわからないが、とりあえず便利としか言いようがなかった。
 は本を片付ける大地と純吾を見たあと、テーブルに散らかったままの本を何冊か手に取った。しげしげと眺めている。
「これ、片付ける?」
「そうですね」
 が尋ねると、がしっかりと頷いた。流石に自分は何もしないのも居心地が悪いので、も本を数冊纏め、それを腕に抱えた。抱えてから、が首をかしげているのに気がついた。
「この本、どこにあったんでしょう」
「いや、俺はさっぱり。大地たちが今いるところじゃない?」
「大地さんたちが今片付けている本との置き場所が離れていますから、別の棚だと思うんです」
 確かに、大地たちが今片付けている本は1メートルほど先にある机の上に置かれている。対するこっちは壁に近い机でもあるし、ともすれば壁際の書庫から取ってきたものなのだろう。二人で本を抱えたまま、壁際の棚の空いているスペースを目で探していると、不意に大きなため息が聞こえてきた。隣のがしたのかと思っては横を見たが、はぎょっとしたような表情で固まっている。そうしてやっと、は合点がいった。大和のほうを見れば、大和と目が合った。
「それは6番の書庫だ。あそこの奥にある」
 大和が指差す方向を見た後、大和に視線を戻した。話を盗み聞きしていたのか、とは思ったが、けれども二人して結構大きな声で喋っていたし、間近にいる大和であれば否応なく耳に入ってしまうのは当然だろうとすぐに察した。
「そうか。ありがとう大和」
 はすぐに礼を告げることができたが、隣のは固まったまま動かない。顔を覗き見ると、困惑したような、焦っているような、そんな表情だった。
「……ありがとう、ございます」
 ようやっと、搾り出すように、が礼を述べた。大和はの顔を一瞥し、一瞬の間をおいて、それから端末の画面へ視線を戻す。何事もなかったかのようにキーを打ち始める大和をなんとも言えない表情で見つめるだったが、次の瞬間にはに対し小声で「行きましょう」と促した。
 二人で大和が指差したほうへ向かい、奥まった場所に6番と金色のプレートが掲げられた書棚を見つけた。ではおよそ手が届かない場所が空いていたので、に本を渡し、はその本を棚にしまう、という分担になった。
「あのさ
「はい。なんでしょう」
 本をしまいながら話しかけると、からごく普通に返答が返ってきた。
「もしかして、あれから大和と何か話とか――」
「っ!」
 ばさりという音に驚き、言葉を遮った。ぎこちない動きで床を見れば、本が一冊落ちていた。の足すれすれの位置に落下している。を見れば、本を抱えたままあたふたしながら、ひどく困惑したような表情を浮かべていた。本を落として狼狽しているのか、それともの話の中に出てきた単語で狼狽したのか。どちらとも取れるような表情だった。
 落ちた本を拾い上げ、棚にしまう。
「――大和と話、してないね」
「……はい」
 本当なら「話とかした?」と聞くはずだった。しかしの態度をみるに、それすらしていないように思えてならなかったのでそう言ってみると、がややうつむきがちに肯定した。思わず苦笑が浮かんでしまう。
「どうして?」
「……何をどう話したらいいのか、わからなくて」
「流石に気まずいか」
 こくりと頷いて、が本を差し出してくる。それを受け取りつつ、の表情を伺う。眉を下げて、困ったように肩をすぼめている。
「志島さんや鳥居さんは普通に大和さんとお話ができていたのですが、私は、その……」
「いやー。あの二人は特別じゃないかな。大地は割とそういうの気にしないタイプだし、気まずくなっても喧嘩になってもその日のうちにすぐ仲直りできるから。純吾の方はああ見えて結構図太いでしょ」
 がんーと小さく唸って、口を引き結ぶ。その仕草から、のもどかしさが何となく伝わってきた。思い返せば大和のほうも何処となくぎこちないと言えばいいのか、いつもより大人しかったような気がしないでもない。お互いにどう接したらいいのかわからないのかもしれない。となると、その関係性に何かしら単語を当てはめるとすれば、が思いつくのは一つしかない。
「もしかしてさ、二人とも喧嘩するの初めて?」
 が目を見張った。驚いたように瞬きを繰り返し、眉根を寄せて怪訝そうに首を傾げる。
「……これって、喧嘩なんでしょうか?」
「充分喧嘩だと思う」
 しっかり頷きながら答えると、が困惑したような顔になった。まるで喧嘩とでも言いたくないような顔だった。
「あれ? もしかしてって友達とかと喧嘩した事ない?」
「さ、流石にありますよ」
 少しむっとした様子で言う。しかし次の瞬間には、しゅんと肩をすぼめて、
「ただその、大和さんとは、一度も」
「そっか」
「今思うと、ただの追従者だったんでしょうね」
「そうだね。イエスマンなら言い争いとか発生しないし」
 が本を差し出してきたので、は口を動かしながら受け取った。
「そもそもさ、が大和と知り合って何年になる? 軽く10年いくんじゃない?」
「……そうですね。ちょうど10年です」
「10周年か、めでたいね。でも、そんな長い付き合いなのに一度も喧嘩しないって、普通ありえないから」
 が変な声を出した。「ん」と「ぐ」の中間のような、詰まった声を出す。
「……ありえない、ですか?」
「うん。俺と大地もそんくらいの付き合いだけど、結構喧嘩したと思う。しかも、すごいくだらない事でさ。今はもうお互いそういうの面倒だし、お互い相手の事わかりきってるから、喧嘩とかしなくなったけど」
 言いながら、はあたりを見回す。この台詞を大地にはあまり聞かれたくなかった。というのも、この台詞を聞いた大地が調子に乗ってからかってくるのが容易に想像できてしまうからだ。あたりに大地の姿が見当たらない事を確認し、は小さく息を吐いた。
「まあただ、喧嘩するにもそれなりに仲良くなんないと出来ないよね」
「……そうですね。私も大体、仲良くなってしばらくしてから、意見が食い違って喧嘩になります」
「うんうん。仲良いと思ってる人とふとしたきっかけで意見が食い違っちゃうと、なんかわかんないけどムキになっちゃうんだよなあ。人間って不思議だよね」
「ふふ。志島さんのことですか?」
 が微笑みながら尋ねてくる。頷くと、やっぱり、と言いながら頷き返してくれた。
「まあ俺と大地は毎日顔合わせてるから喧嘩の頻度も多いけど、……は一週間の間に大和とどのくらい顔合わせるの?」
「……一週間というより、一年といったほうがいいかもしれません。大和さんは季節の変わり目ごとに龍脈の視察でうちの神社に足を運ぶんです。でも私の方は学校の都合がありますから家に居ない事のほうがはるかに多いですし、よくて年に2~3回ですね。多い年で5回会った事もありましたが」
「……えっ!? そんなに少ないの!?」
「はい。それに、普通の友達にするみたいに、大和さん個人に対して連絡など取ったりしませんから」
 はぽかんとしたまま、はあ、と静かに息を吐いた。と会った初日、大和と一緒にの部屋で過ごした時はお互いにくつろいでいるように見えた。それがなんとなく長い付き合いなんだろうなと匂わせるような空気だったのに、蓋を開けてみればこうである。驚くほかない。
「てっきり、もっと会ってるかと思ってた」
「大和さんはお忙しい方ですから」
 微笑みながらは言う。しかし、眉を下げているものだから、寂しそうに笑っているようにしか見えない。
「会うのもそうですが、お話しする頻度も少なくて、正直友達と呼べるかどうかも怪しいんです。顔見知り、という言葉がしっくりくるんじゃないかと自分でも思うくらいで」
「んー。そんな薄い付き合いなのに、喧嘩できちゃったわけだ」
「……やっぱり、喧嘩なんでしょうか」
「やけにこだわるねえ。喧嘩だってば」
「なんだかしっくりこないんです。私のほうが背いた、離反した、という意識の方が強くて」
「重く考えないで軽く考えなよ。背くにしろ離反するにしろ聞こえはなんかカッコいいけど、いわば個人の間での諍いによるものでしょ? 立派な喧嘩だよ」
 納得のいかない様子のだったが、けれども本を3冊棚にしまうころには、降参と言わんばかりの表情になり、肩をすぼめていた。
「仲直りしなよ」
「はい」
「二人とも賢いし、きっかけさえあれば拗れず上手く行くと思う」
「……そうでしょうか?」
「うん。大丈夫大丈夫。もしできなかったら俺か大地か維緒に泣きつけばいいよ」
 最後の一冊を本棚にしまい、に向き合う。何か言おうと思ったが、の表情を伺い、口をつぐんだ。しばらくの様子を伺うと、肩を縮みこませながらもゆっくりと顔をあげ、の双眸をとらえた。そして、困ったように眉を下げながら、それでもはにかみの混ざった苦笑を浮かべて見せた。
「頑張ってみます」
「うん。がんばれ」
 言いながらに微笑み返し、二人で来た道をゆっくり引き返す。書庫を出て、司令室の奥に視線を向ければ、相変わらず大和が端末を操作していた。時折まとめた白いコピー用紙を確認し、キーを操作しているのが遠目に見える。恐らく、残務を片付けているのだろう。てきぱきと動く姿に感心しつつ、大地と純吾の姿が見当たらない事に気付いた。テーブルを見れば散らかっていた本は全て片付いているし、片付け終わったので司令室を後にしたのかもしれない。
 なんて思案をめぐらせていると、後ろにいるが「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。見れば本棚と本棚の間の通路を凝視している。いやな予感がした。急いでの隣に移動する。
 果たして、そこに居たのは大地と純吾だった。純吾のほうは直立不動ではあったが、大地のほうはギョッとした様子で「やべっ!」とぼやき、隣の通路へ逃げ込もうとする。は慌てて大地を追いかけ、首根っこを掴んで床に引きずり倒した。堪忍してくれと声をあげる大地を問答無用でずるずる引っ張り、純吾たちのほうへ戻る。
「二人で何してた?」
「大地の提案で、盗み聞き。ごめんなさい」
「……。たいへん素直でよろしい」
 純吾が深々と頭を下げて謝るので、怒る気力も沸いて来なかった。とりあえずこちらは置いておく事にした。純吾から視線をずらし、大地に向ける。の足元に座り込んでいる大地は、額に冷や汗を浮かべながら、それでも誤魔化すようにへらっとゆるい笑みを浮かべている。
「いやあ。二人とも遅いから様子見に行ったら、なんか面白そうな話してると思ってさ。ごめんねさん」
「い、いえ」
 にこにこする大地にはふるふると首を振り、そうして隣のに視線を向けた。の表情を横目に伺い、それから何かを悟ったようにゆっくりと後退した。
「大地。どこから聞いてた」
「んー。喧嘩の話がどうのこうので、あんま覚えてない。……いやー、が俺の事を語るのがインパクトでかくて……。思い返せば酷い事されたり言われたりっつー覚えしかないけど、俺って愛されてたんだなあ。これも人徳の成せる業ってやつ?」
「大地のエッチィ!!」
「ちょっとぉ!? 変な事大声で叫ぶなよ!?」
 はわなわなと肩を震わせながら走り出し、「絶交だー」だの「維緒に告げ口してやるー」だのとまくし立てて、どこかへ行ってしまった。そんなを、大地が慌てた様子で追いかける。「新田しゃんにはやめてぇえ」という悲鳴じみた声が遠くから聞こえてきた。
 取り残された形となった純吾とは互いに顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。
「二人とも、いなくなっちゃいましたね。どうしましょう?」
「……。それじゃあ、解散で。手伝ってくれてありがとう。お疲れさま」
「鳥居さんも、お疲れさまでした」
 お互いにゆっくりした動作で、深々とお辞儀をする。

「はい」
「がんばって」
「……。はい、がんばります」
 微笑みながら頷くと、純吾はほのかに口元を緩めた。そしてばいばい、と手を振るので、も手を振り返す。それで満足したのか、純吾はと大地が向かった方向へ足早に去っていった。その背中を見送った後、は一度深呼吸をして足を踏み出す。
 大和は相変わらず、端末を操作しながら作業に没頭していた。小さい文字が上から下まで印刷されたコピー用紙をクリップで纏め、それをパラパラと捲りながらキーを操作している。がゆっくりと大和の方へ近づくと、気配を察したのかの方へ顔を向けた。
 僅かに目を見張る。微細な動きだった。それから何事もなかったかのように、いつもの表情に戻る。
「……。どうした?」
 大和は言いながら書類の束を置き、端末から手を離す。ごく自然な仕草で姿勢を正すものだから、もつられて背筋を伸ばした。しかし、何と切り出せばいいのかわからず言いあぐねていると、先に大和の方が口を開いた。
たちは?」
「本を片付け終わった後、書庫で解散しました」
「そうか」
 大和が一度頷いて、視線を逸らす。
「ベネトナシュへの対抗策が見つかった以上、お前もここに用は無いだろう。下がれ」
 そう言って、大和はまた端末を操作し始めた。突き放すような言い方には口を引き結んだが、太ももの上でそろえた両手の指を絡めてぎゅっと握り締め、引き結んだ口をなんとか開いた。喉の奥から声を出す。
「大和さんは、これからどうなさいますか」
「見ての通りだ。未消化の雑務を処理せねばならん」
「雑務、ですか」
「そうだ」
 大和から視線をずらし、端末の画面へ。表の中に無数の文字列と数字が並んでいる。雑務と大和は言ったが、どういった中身の雑務で、この端末で大和が何をしているのか、にはさっぱり理解不能だった。とりあえずわかる事といえば、大和が難しそうな処理をこなしている事くらいだ。
「大和さん」
 名前を呼ぶと、大和は微動だにせず、それでも視線だけに向けた。
「私に、何か手伝えることはないでしょうか」
 絡める指に力をこめながら、口に出した。何が出来るかわからないが、それでも言わずにはいられなかった。ただそれだけを伝えるのに、今までに味わった事のない緊張が体を支配し、いつもどおりの調子で伝わったかどうかわからない。声は変に震えていたかもしれないし、もしかしたら小さかったかもしれない。断られるかも、わからない。はそんな情けない不安を表に出さないよう努める。
 対する大和といえば一瞬目を見張り、2度瞬きをしたのち、端末から手を離して腕を組んだ。を灰色の相貌でしっかりとらえつつ、右手の人差し指だけを動かしトントンと腕を叩く。無表情に考え込む仕草に、は自然と据わりの悪いような、そんな気にさせられた。蛇に睨まれている蛙の気持ちというのは、恐らくこんな感じなのだろう。
 大和が口から僅かに吐息を漏らす。はあ、とため息ともとれる音に、の肩が自然と強張った。
「執務室の場所はわかるか?」
 唐突に尋ねられ、は目を丸くした。「執務室、ですか」と聞き返せば、大和が「ああ」と頷き返す。執務室と言われても、にはピンとこない。ノートパソコンに入っていた地図を思い出すが、あれは区画を大雑把に解説した地図で、部屋ひとつひとつに対し説明はついていなかったと記憶している。
 そんなの様子を表情から察したのか、大和がふっと吐息を漏らす。呼吸と言うより、ため息と言ったほうが相応しいような、そんな吐息だった。
「わからないか」
「はい。でも、場所を教えていただければ」
「もういい」
 静かに告げられた言葉に、は息を飲んだ。「もういい」というその一言の意図を汲み取ろうとするよりも先に、頭が真っ白になる。大和が端末を操作し始めるのを、呆然と眺める。拒否というただ一つの単語が、真っ白な頭の中に浮かび上がった。
「今の仕事が片付くのに少々時間が掛かる。そこの椅子にでもかけていろ」
 ――のもつかの間、大和の言葉にきょとんと目を丸くした。頭がまた真っ白になる。何度も瞬きを繰り返す。
 もういい、とは拒否の言葉ではないのか。椅子にかけてどうしろというのか。真っ白な頭が徐々に色を取り戻し始めるが、それでも考えはぐるぐる回ったまま一向に纏まらない。はとりあえず、大和の言葉通り近くの椅子に腰を下ろした。モニタの明かりで青白く照らされた大和の顔を見つめながら、今のやり取りを頭の中で整理する。
 仕事を手伝いたいので執務室の場所を教えて欲しいとの申し出に、大和は拒否したうえで仕事が片付くまで待っていろ、と返したのだ。相変わらず頭の中は困惑に満ちていて、今の流れがにわかには信じがたい。恐らく手伝う事を許可されたのだとは思うが、けれどもそれらしき言葉は大和の口からは出ていない。
「さっきからじろじろと。……私の顔に何かついているか?」
 その声にハッとする。気付けば大和がこちらをじっと見ていた。はあわててかぶりを振る。
「も、申し訳ありません。ぼうっとしていました」
「……体調が優れないのであれば、自室で休む事を勧めるが」
「い、いいえ。大丈夫です」
「そうは見えないのだがな。お前の言う大丈夫は、かえって不安になる」
 そう言って、大和は書類を手に取った。目を通しながら、端末のキーを打ち始める。静かに責めるような言葉ではあったが、それでも遠まわしに気づかわれたような気がしないでもない。どう受け取ったらいいのかわからず、たとえ理解したところでどう返せばいいのかもわからなかった。は大和から視線を外し、司令室の中をぐるりと見回す。
 大和が敗者となり、ジプスは解散したのだとから聞いた。その言葉通り、司令室にはジプス局員の姿が一人も見当たらない。大和がいつも連れ立っているという真琴という人も今はどこにいるのか。もしここにその真琴という人がいたのであれば、このどことなくたどたどしい沈黙も、どうにかなっていたのかもしれない。

「っ、……は、はい」
 いきなり名前を呼ばれ、慌てて大和へ視線を戻した。
「この書類を一つに纏めておけ」
 束になった書類をいくつか手渡される。はそれを受け取り、観察する。左上をクリップでとめた束が6つ。それをひとつにまとめておけと言われても、テーブルの上にそれらを一つに纏められそうなクリップの類はどこにもない。とりあえず、束の一つからクリップを外し、書類全てをきちんとそろえ、右上を今しがた外したクリップでとめた。そのままテーブルの上に置く。その際、大和が一瞬書類に視線をよこしたが、とくに何か言うわけでもなく端末に視線を戻す。どうやらこれでよかったのかもしれない。
 しかし、今が行った簡単な作業は、大和なら自分で済ませるはずだ。にも関わらず、なぜに書類を纏めるよう頼んだのか。大和が真意を口に出すわけがないからこれはの憶測でしかないが、手持ち無沙汰に座っているを気遣って書類をよこしたとしか思えない。ともすれば大和が気を遣ったともいえるが、大和がそういうタイプだったようには思えない。
 変にすっきりしない気持ちのまま、はテーブルの上の書類を見つめた。今回の異変について書かれているようだが、手に取ってじっくりと読む気にはなれない。かといって作業中の大和を見るのも失礼な上、さっきのように窘められるのは分かりきっている。結局、ぼんやりと過ごす事をは選んだ。大和が端末を操作する音を聞きながら、2階や3階の通路を見上げたり、中央に据えてある巨大な時計の針が動くのを長めたり。たどたどしく感じる沈黙にも、徐々に慣れてくる。
 どれくらいの間そうしていたのか。視界の隅に映りこんでいた書類がふいに消え、はそれを目で追った。見ればその書類は大和が手にしており、その大和といえばのすぐそばに立っていた。顔を上げる。大和が静かに見下ろしていた。
 の肩が驚きでビクッと震えた。いつ端末から離れたのか、まったく気付かなかった。
「こちらでの処理は終了した。これから、執務室に行くのだが……」
「はい、わかりました」
 立ち上がり、椅子をテーブルの下へしまう。そして大和に向き合うものの、大和は一向に動く気配を見せない。まるでまじまじと観察するような視線を向けられ、は内心たじろいだ。大和の唇が僅かに動く。そのまま何か言うのかと思えば、身構える様子のをただじっと見つめ、それから体をくるりと反転させた。
「ついて来い」
「はい」
 大和のそっけない一言に応じ、歩き出す大和にならっても足を踏み出した。隣に並んで歩くのは些か気が引けた。3歩後ろをついて歩く形になる。
 司令室から廊下に出ると、やはりジプス局員は誰も居なかった。昨日のこの時間帯であれば局員がまばらに居たものだが、こうもがらんどうだと薄ら寂しいものを覚える。
 そんな、空洞めいた廊下に、コツンコツンと規則正しい足音が響く。黒い背中を見つめながらその音を耳を傾け、は妙な違和感を抱いた。視線を下げ、大和の踵を見つめる。
 歩幅が少し狭いように見えた。ともすれば足音の間隔がいつもと違うのではないかという違和感は、気のせいではないだろう。は視線を上げ、大和の後頭部を見つめる。大和の、妙な癖のついた髪の毛が動きに合わせ揺れるのを目で追いかける。
 大和がエレベーターの前で立ち止まり、も自然と足を止めた。ボタンを押すと、特にどこかの階で引っかかる事はなくすんなりとエレベーターが止まる。エレベーターに乗り込むと、大和が最上階のボタンを押し、扉を閉めた。機械音と共にエレベーターが上昇を始め、息の詰まるような圧迫感が身を包む。
「もう、大丈夫なのか」
 ふと唐突に、大和が話しかけてきた。こちらに顔を向けずに話すものだから、一瞬誰に話しかけているのかと判断が鈍った。
「……大丈夫、とは?」
「身体の方だ」
 目を見張る。しかしすぐに平静になるようつとめ、はあらためて自分の身体を見下ろした。特になんともない、とは思う。大和と対峙し、鳩尾と首の後ろ側を殴られたにせよ、今はべつだん痛くも痒くもないのだ。
「ご覧の通り、平気です」
 告げると、大和が振り返った。眉をひそめ、不審がるような眼差しを向けられる。
「本当にそうなのか」
「はい。ですから、平気です」
「その言葉に偽りはないな?」
「……私は、今の今まで一度も、大和さんに嘘をついた覚えはありません。そこまで頑なになられると、かえって私が大丈夫じゃないほうがいいみたいに聞こえますよ?」
「……そう、か。……そうだな」
 微笑みながら応じると、大和はそれにぎこちなく頷き返し、視線をわずかに逸らした。その微細な動きに、前髪がかすかに揺れる。大和の横顔は珍しく、ばつの悪さを含んでいた。
「大和さん」
「……。何だ?」
「先の話では、大和さんは私に容赦しないと仰いました。ですから、これは覚悟していた事です」
 話の最中、大和がに視線を向けた。戸惑いで瞳がわずかに揺れている。大和にしては珍しかった。
「気を揉んでいるように見えましたので、言わせていただきました。これが私の勘違いでしたら、申し訳ありません」
「……。いや、私の方こそくどい質問をした。すまない」
 そう言って、大和は再度に背を向けた。そのまま顔を上げ、扉の上の電球を見上げる。今現在の階を確認しているようだった。このまま話を続ければいいのか分からず、が押し黙っているうちに、場に沈黙が落ちた。も大和にならい現在の階を確認し、静かな振動をあたえてくる機械音に耳を傾ける。しばらくして、チーンと軽快な音が鳴り、重厚な扉が開いた。大和が足を踏み出すので、もその背中についていく。
 廊下に出て、はわずかに首をかしげた。見覚えのない場所だった。その上、司令室に面した廊下とどうにも雰囲気が違う。証明が暖色系なのに加え、床材が絨毯床だからだろうか、落ち着いた空気をかもし出している。そのふかふかした床材が大和の足音を吸収し、柔らかい足音になっているのも、そういった空気の手助けになっているのかもしれない。は見慣れない景色に緊張を覚えつつ、視線だけをあちこちに配りながら、静かに歩く大和の後ろをついていった。
 扉をいくつか通り過ぎ、大和はある扉の前で立ち止まった。ごく普通の扉のように思えたが、壁際に電卓のような端末がついている。大和が上着の内ポケットを探り、何かを取り出した。透明なIDカードケースで、中に大和の局員証だろうか、カードが入っているのが見える。
 はなんとなく、自分が見ては行けないような気がして、半歩後ずさった。そんなに大和が怪訝そうな視線を向けるが、特に何を言うでもなく視線を戻す。おもむろにカードキーを端末へかざした。その直後、シリンダーから鍵の外れる音が響く。大和はカードを内ポケットにしまい、扉を開けた。
「入れ」
 大和が扉を手で押さえながら言う。はきょとんと目を見開き、不安がるような目で大和を見据えた。
「いいのでしょうか。局の人ですら立ち入りを憚られるような、大切な部屋だとお見受けしますが」
「構わん。それに、ジプスは私の敗北を機に瓦解した。組織に重要な部屋だろうが、その組織はもう存在せん。となれば、ただの無価値な部屋に過ぎんよ」
 大和の顔を伺う。いつもとなんら変わりのない表情だった。苦渋の思いだとか、後悔の念だとか、呆れだとか、自嘲だとか、そういったものは一切感じられない。大和はただ、今の現状を受け入れている。
「……失礼します」
 一礼し、廊下との敷居をまたいで部屋に足を踏み入れた。しかし、この部屋の主より先に進んでいいものだろうか悩んでいると、後ろから「どうかしたか?」と大和が尋ねてきた。「なんでもありません」と首を振り、奥へと進む。床を見れば、さわり心地の良さそうな、美しい柄の絨毯が敷かれており、土足で踏む事に罪悪感が芽生えた。
 執務室の中は整然としていた。黒革のソファが対になって置かれており、その間に応接テーブルが設けられている。テーブルの上に灰皿が置かれているが綺麗に掃除されており、使用した形跡が見当たらない。部屋の匂いも煙草臭くはないし、どうやら来客者向けに置いてあるもののようだった。壁際の両脇にはガラス戸のついた棚が設置されている。引き出しや四隅の柱の装飾が細かく、今ではあまり見かけないようなデザインのものだった。ガラスは手吹きなのか向こう側が歪んで見える上、木材の濃い色加減を見るに、かなりの年期が入ったものだという事が伺える。
 そんな部屋の奥には窓が設置されており、レースのカーテン越しに、日照かと思うような明かりが差し込んでいた。窓の左側には政府直属の施設らしく国旗が置かれ、右側には観葉植物が置かれている。そして窓に面した中央、横長の机が置かれていた。戸棚と同じような色合いの、木製のずっしりとした机だった。近づいて、恐る恐る触ってみる。手触りは滑らかで、木目を見れば光沢のある表面に、まるで懇切丁寧に編まれたかのような濃い筋が均一で美しい。思わずため息が出るような造形だった。机の上を見れば、色々な大きさの判子や文房具が一通りしまわれた筆立て、デスクライトが配置されている。机の脇には幾重にも積み重なった書類がある。この机の使用者が几帳面であるのだと感じさせるような整え方だった。
「フッ……そこまで珍しがるようなものか?」
 だしぬけに声をかけられ、の肩がビクッと震えた。慌てて背筋を伸ばし、声のしたほうへ顔を向ける。を見る眼差しはいくぶん穏やかなもので、ともすれば言葉の前に聞こえた吐息は、ため息をついたというよりも笑ったのかもしれない。は少々驚きはしたものの、次の瞬間には申し訳なさそうな微笑を浮かべた。
「こういった部屋に入るのは、初めてで……」
「お前の通っている学校にしろ、こういう部屋はどこにでもあるものだろう」
「……確かに、理事長室と雰囲気が似通ってはいますが、……けれども、そういった部屋とは、別物ですよ」
「何がどう違うのかわからんが……。まあいい」
 大和はの横を通り過ぎ、机へと向かった。椅子に座るのかと思いきや、積み重なった書類を眺め、適当にぱらぱらと捲っては思案めいた表情になる。
「雑務が残っていると言ってもな、これに判を押しまとめるだけだ」
「はい」
「しかし、国政は荒れ、この組織も不要になった現状、これらを処理する必要性は皆無だ」
「……もしかして、どこかへ提出するための書類だったのですか?」
「ああ。上の政治家どもにな。今では連絡がつかん。死んだか、もしくは自分可愛さに逃げたのかもしれんな」
 吐き捨てるように言い、大和が書類から手を離した。
「大和さんがしたいようになさってください。私は、大和さんに従うまでですから」
「……従う、か。……その謙虚さ、先の話でも見せて貰いたかったものだな」
 大和がごく小さなため息をついた。は大和の姿をじっと見つめ、言葉の意味を理解し、わずかに目を伏せる。
「申し訳ありません」
 気つけば、許しを請うような言葉が口から漏れていた。
「……何故、謝る?」
「私は、大和さんに手向かいました」
 大和が顎を上げた。腕を組む。眉をひそめ、わずかに目を細めてを見る。
「お前は、自分の意思に従ったまでだろう」
「はい。ですがこれは、あるまじき行為です」
「……そうだな、あるまじき行為だ。だが、私に謝罪してどうなるというのだ?」
 何も返すことができず、は口を引き結んだ。大和の言う通りだった。謝罪したところで、どうにもならない。
「お前が刃向かった事実は変わらん。その事によって芽生えた罪悪感を軽減したいがための身勝手な謝罪ならば、不要だ」
 大和の言う通りだった。自由への道を選択したではあったが、大和に背いた事による罪悪感めいたものは確かに心の内に存在していた。それを解消したいがために、大和に無意識に許容を求めた。不相応な態度だった。自分を慰めるだけの謝罪は、受け取り手からすれば無意味なのだ。
「お前なりに自己の正義を貫いたのだろう。なのに、何故悲痛そうな顔をする」
「その選択に迷いがなかったとは、言い切れません」
 言いながら、この発言は自己正当化に繋がるとは気付いた。みっともない。尻すぼみに打ち切って、口をつぐむ。大和の大きなため息が聞こえ、はビクッと肩を震わせた。どうしてか、目線が下へ下へとさがっていく。
「……お前が私に謝罪する事で安寧を得られるのであれば、何度でもするがいいさ」
「いいえ、もうしません。……もう一切、大和さんに許しを請うような状況にならないよう、努力いたします」
「そうなればいいのだがな。……、顔を上げろ」
 言われるがまま顔を上げる。大和と目が合った。思わず一瞬逸らしてしまう。けれども一度だけぎゅっと目を瞑ってから、あらためて大和に視線を向けた。大和はいつの間にか腕を下ろしていた。ひそめた眉も元通りになっている。に向けられた大和の視線は淡い色なのに、どこか深い色だと感じされられる。
「もう一度言う。悲痛そうな顔をするな。……理解できたか?」
「はい」
 しっかりとした返事で応じると、大和の表情がわずかに和らいだように見えた。
「お前はどうにも、気持ちの切り替えが上手くないな」
「……大和さん以外の事であれば、上手く切り替えられます」
 毅然と言い返したつもりだったが、の耳に入ってきたのは拗ねたような調子の声だった。その声を認識した途端、無性に恥ずかしいやら、情けないやら、空しい感覚が襲ってきて、自然と肩がすぼまる。ちらりと大和を伺い見れば、こちらをみる眼差しはいかにも、仕様がない奴だ、と言わんばかりのそれで、尚更肩が狭くなる。
 妙に気まずい空気の中、……とはいえ、そう感じているのはだけかもしれないが、そんな沈黙を破ったのは大和の吐息だった。ふっと、些細な吐息にあわせ、表情を緩める。あまり見せることのないその表情に、は何度も瞬きして困惑するものの、その大和の顔を見ただけで、幾分か気が楽になったような思いになる。
「この話はもう打ち切りだ。続けても糧になるとは思えん」
 尤もだと思い、は無言で頷いた。話を続けても特に進展する事もなさそうだし、何より自分が焦ってボロを出した結果、空中分解してバラバラになる結末が容易に想像できた。早めに切り上げられるのであれば、それに越したことはない。
「……む。お前の椅子がないな」
 大和が独り言めいた様子で呟き、部屋の中を見回す。確かにソファはあれど、四足の椅子は一つしかない。
「椅子を取ってくる。少し待て」
「あ、いえ。自分で取ってきますから」
「私が取って来た方が早い」
 言いながら大和が歩き出したので、その姿を目で追う。窓際を歩き、部屋の隅、本棚の死角になっているところで大和は足を止めた。
 扉がひとつ、存在していた。部屋に入ったときは、家具に目を奪われて気付かなかった。大和はその扉を開け、中に入ってしまう。執務室に隣接する謎めいた部屋を覗きたい衝動に駆られたが、はそれをぐっとこらえた。ただ大和が戻ってくるのを、背筋を伸ばしたままの姿勢で待ち続ける。
 少しの間をあけて、大和が戻ってきた。両手で四足の椅子を抱えている。部屋に入ると大和は一旦椅子を床に置き、扉を閉めた。再度椅子を抱え、横長の机のほうまでくると、もともとあった椅子から少し離れた所に、その椅子を置いた。
「ここにかけろ。私の部屋にあったもので座り心地はよくないが、これで我慢してくれないか」
「いえ、椅子に関しては不満などは……。それより、ええと。さっき大和さんが向かった部屋は……?」
「ん、……ああ。私の寝室だが」
「あっ、ここで寝泊りしていらっしゃったんですか。居住区で寝泊りはしていないだろうなとは思っていたのですが、……もしかして働きっぱなしなのかと、疑問に思っていたので」
「……。不眠は、流石に私でも不可能だ」
 その言葉を聞き、は安堵した。大和はどこかしらワーカホリックのような面がある。どこで寝泊りしているかわからなかったので、まさかひたすら仕事をしていたのではないかと不安だったのだ。それが解消され、の表情が和らいだものになる。
 ほっとしたような顔のまま、椅子に腰掛けるを大和は怪訝そうに見つめ、そうして自分も腰を下ろした。積み重なった書類を手に取り、暫し考え込む。はその横顔を見つめながら、そういえばいつの間にかたどたどしい空気が消え去っている事に気付き、一人微笑を浮かべた。