#12 : 7TH DAY 23:30~
(ささやかな一歩)
大和ははたと手を止めた。ふとした拍子に、妙な違和感が芽生えたのである。執務室の中は昨日や一昨日と同じように静かな沈黙に包まれていて、だからこそ違和感が生じた。書類を捲っていた手をずらし、ゆっくりとした動作で顔をあげる。夕食後も、に雑務の処理を手伝ってもらった。二人でやったおかげか割と早く片付いたせいもあり、もう一人で充分だ、という理由で、に対しソファに座るよう促したのは、はて何分前の事だったか。大和は卓上にある時計に目をやり、もう1時間近く経とうとしている事実に目を見張った。その直後に、なるほど道理で、と腑に落ちたかのように納得する。
ソファに座るが、穏やかな寝息を立てていた。大和から見て手前の、大人一人が座ってゆったりくつろげるだけのスペースに丸くなって、肘掛にちょこんと頭を乗せて眠っている。いつからそうやって眠っていたのか。大和はさっぱり気付かなかった。ここにある本を読んでもいいですか、と聞かれ、適当に相槌を打ったのを大和はおぼろげながらも記憶している。ソファに面した応接テーブルの上には本が2冊重ねられていた。特に面白みもない、統計データを纏めた本だ。本棚から出したその本を、全部読んだのだろうか。それとも読んでいるうちに飽きて眠ってしまったのだろうか。それに気付かなかった自分の集中力に内心呆れるほかない。
眠気覚ましとして、紅茶かコーヒーか何か出してやればよかったのかもしれない。けれども、もうすぐで仕事が終わるからとそっちにばかり気を取られ、のほうに気をまわしてやれる余裕がなかった。
の寝顔は随分と気持ち良さそうなものだが、しかしああやって丸まって寝るのは流石に疲れも取れないだろう。寝るのであれば、自分の部屋の寝台で寝たほうがいい。
大和は静かに椅子を引いて立ち上がった。ソファまで歩み寄る。左手を伸ばしての肩に触れ、軽く揺さぶりながら声をかけた。
「」
「ん……」
唇から小さな声が漏れる。はわずかに身じろぎして、また寝息を立て始めた。
「起きたまえ。こんな所で寝たら体を壊す。寝るのであれば自分の部屋で……」
「んー……んぅ……」
悩ましげな声をあげるものの、目を開く気配はない。ともすれば、話しかけたところで無意味だろう。大和は言葉を打ち切るのとほぼ同じくして、肩から手を離した。無意識のうちにため息が漏れる。
普通ならこうやって他人の気配が近くにあれば、目を覚ましそうなものだ。大和であれば、ドアをノックする音にですら目を覚ますというのに、はずいぶんとよく眠っているようだった。大和はその場に膝をつき、の顔をじっと観察する。
平気だ、大丈夫だと本人は言っていたが、かなり無理がたたっていたのだろう。おそらく、自身が気付かないほどに。インフラも乱れたこの環境、悪魔との交戦を経て、人間の暴動を垣間見て、疲れを全く感じないという人間は一人もいないだろう。おまけに、今日の通天閣での戦闘もある。大和ですら疲労を感じているのだ、が疲れていないわけがない。
しかし、どうしてこうも、幸せそうな寝顔なのか。こんなに丸まって、寝難い姿勢だろうに、苦渋といったものが一切感じられない。ただただ、幸せに満ちたりたような顔をしている。じっと見つめているうちに、どうしてか目を逸らすのがためらわれるような、奇妙な感覚が芽生えた。ともすれば、を起こす事すら憚れるような気がしてくる。
不躾と呼べなくもない視線でを眺め続けても、やはりは眠ったままだ。ここで眠るのは警戒するに値しないという事なのか、それともよほどソファの寝心地がいいのだろうか。ソファに視線をずらすが、特にどこにでもあるソファにしか見えない。視線を戻し、を眺める。
思えば、の寝顔を見るのは、初めての事だった。と会うのはほぼ昼間で、大概日常生活をこなしている姿しか見たことがない。支局に連れてきた一週間の間も、忙しなく動く姿を司令室で何度か見たが、眠っているときにのもとを訪れた事は一度もなかった。眠るときはいつも、こんなあどけない顔を晒して眠るのだろうか。
「……――何を、」
何を、考えているのだ。
気が付けば口元を覆うように手を当てていた。らしくもない思考をめぐらせたうえ、ただこうしての顔を観察するというだけの無意味な行為で貴重な時間を潰したという事実に、予想外に動揺した。目を閉じて一度呼吸をする。そうしてから今度は、動揺した自分という事に新たな動揺を覚え、そんな自分に呆れてしまう。
静かに立ち上がる。このまま机に戻って仕事を片付けるのが無難だろう。しかし足を踏み出すよりへ視線を落としてしまい、自分に対する呆れが一層強くなる。
寝るのであれば、足を伸ばして寝ればいいものを。何故丸くなって眠っているのだろうか。ふと疑問に思い、そうして大和はゆっくりと顔を上げた。天井に埋め込むように取り付けられた空調の送風口を見上げる。いくら地下にあるとはいえ、地熱は部屋の内部に影響するほど高いものではない。ましてや今は冬にさしかかろうとしているような時期だ。ジプスの施設にはそれぞれ発電施設が備わっているが、使用できる電力は限られている。部屋の気温はそこまで高く設定はしていないはずだ。
もしかしなくとも、寒いのかもしれない。であれば、丸まって眠っているのも納得がいく。
空調の温度を上げようかと思い立ったが、まず上に何かかけてやるべきだろう。しかし、この部屋にも寝室として使用している部屋にも、手軽に扱えるような適切な大きさと軽さを備えた毛布の類はなかったはずだ。別の部屋に取りに行くべきか。
考えてから、大和はため息をついた。おもむろにコートを脱ぐ。ソファに近寄り、の肩にそっとかけた。その際、コートの右肩から袖の先まで取り付けられた長い飾緒がの顔をかすめ、がわずかに身じろぎした。小さな声を上げて眉を寄せるものだから、大和はひくりと一度だけ肩を震わせた。半歩後ずさった左足の踵が応接テーブルの足にぶつかり、不快な音を立てる。思わず口元がひくついた。
がぼんやりと目を開けて、大和を見ていた。
対する大和といえば静かに息を呑み、そしてそのまま硬直する。
はのろのろ、という表現が似合うほどの遅さで瞬きを繰り返し、そして今しがた大和がかけたコートに視線を向ける。右手を動かしてほんの少しコートを持ち上げたかと思うと、それを手繰り寄せた。襟元を掴み口元に寄せるようにしてコートにすっぽりとくるまると、そのまま目を閉じてしまう。すやすやと寝息が聞こえてくる。の寝顔は案の定、さっきと同じように弛緩していた。
ぎこちない動作で、大和が動く。手を伸ばして、の頬にかかっている飾緒を払い落とした。その際、が髪の毛を口にはさんでいるのに気付いた。先ほど身じろぎしたときに自分の髪を銜えてしまったのかもしれない。引っ張って取り払ってやる。そのまま、しばしを観察し、熟睡している事を確認してからゆっくりと場を離れた。
席に戻ってから、肺に溜め込んだ息を吐き出した。妙に疲れたような気がしてならなくなる。
とりあえず、大和は再度書類を確認した。公印を押すだけ押したとは思うが、記憶がぽっかり抜けてしまってどこまでやったのかわからなくなってしまった。そうなってしまったのは恐らく、自分が珍しく混乱しているからなのかもしれない。書類をパラパラとめくり、必要な箇所にはちゃんと押印がなされているのを確認し、大和は小さなため息をついた。どうせ受け取る機関も、人間も破綻したというのに、何故ここまでやってしまうのか。薄々は思っていたが、どうにも潔癖症の気があるような気がしてならない。
朱池の蓋を閉める。机に取り付けられている鍵つきの引き出しを開け、公印と朱池をあるべき場所にしまい、鍵をかけた。そうしてふと顔を上げ、に視線を向ける。先ほどと変わらず熟睡しているようだった。
席を立つ。どうにも集中力が持たない。このぶんだと作業を続けてもままならないのは目に見えているし、ならばいっその事一息ついたほうがいいだろう。執務室に備え付けの簡易給湯スペースに足を運ぶ途中、大和はふとある場所で立ち止まった。壁際に空調を操作するリモコンが据えてある。
大和は現在の室温設定を確認し、上向きの三角形の形をしたボタンを2階押した。表示されている室温設定の数字が増えると、大和は再度歩き出した。
にメールを送ったのが、10分ほど前のことだった。用事らしい用事は特にないが、ただなんとなく少し話したいと思ったのだ。はどうでもいいメールでも律儀に返信してくれる。だから、ベネトナシュを倒した今は特に非常事態と言うわけでもなし、すぐに返信がくるのかと思えばそうでもなかった。もう10分も経ってしまった。
は夜更かしするタイプだと自分で言っていたし、恐らくまだ眠ってはいないだろう。誰かと一緒に居るのだろうかとを知りえそうな人物に片っ端から連絡を取ってみたが、返ってきた答えはすべて「知らない」の一言だった。
さて、とは考えた。以外に、連絡を取っていない知り合いが一人居るのである。峰津院大和だ。もしかして大和と一緒に居るのではないかと思い立ったが、彼もまた電話にすら出やしない。7体のセプテントリオンを全て倒したことによる変化を探しに行ったのかもしれない。とりあえず真琴に大和の行方を聞いてみたが、知らないの一点張りだった。けれど、もしかしたら自室にいるのではないか、と真琴が言うものだから、に変な好奇心が芽生えてしまった。大和の自室である。見に行かないわけがない。
真琴に大和の部屋までの道順を教えてもらい、はその通りに足を進めた。あまり使わないエレベーターで施設の最上階まで昇り、廊下に出る。見慣れないその場所に驚きつつも道なりに進み、真琴の言っていた大和の部屋らしき扉の前まで来ることが出来た。
ごく普通の扉、のようにも思えるが、電子ロックの端末がついている。まあ、国家機密である組織のトップの部屋ともなれば、警備も厳重になるだろう。端末と扉を交互に見ながら、はしばし考え込んだ。扉の厚さが普通と変わらなければよいのだが、もし結構な厚みを持ち合わせていたらノックは聞こえるのだろうか。疑問に思ったが、とりあえず行動に移してみる事にした。
コンコン、コココン。適当なリズムで叩いてみる。
しばらく待つが、反応はない。シンと静まり返った廊下の中、ひとりぽつんと佇んで、何か反応が返ってくるのを待つ。扉に耳を当てたり、端末を覗き込んでから、もしかして部屋に誰も居ないんじゃないかと思い立った頃、ガチャ、とドアノブが回った。扉が開く。次いで、扉から半身を覗かせたのは、案の定大和だった。
「……か。どうしたんだ?」
は大和に応じるよりもまず、目を見張った。大和の姿を上から下まで眺める。出てきたのは確かに大和なのだが、いつもと何かが違う。コートがないのだ。部屋に居るときはいつもこうなのだろうか、と疑問に思ったが、大和が眉をひそめるので慌てて口を開いた。
「あー、ええと。話をしたかったんだけど、寝るところだった?」
「いや。仕事が終わって一息ついていた。……それで、話とは」
「話の前にひとつ聞きたいことが。を探してるんだ。携帯に連絡しても全然でないし。……大和は何か知らない?」
大和が目を閉じる。そして何故かため息をついた。そのまま体を引っ込め、扉を開け放つ。まるで、に入れとでもいわんばかりだった。
「入っても?」
「……構わん。も部屋の中だ」
やっぱり、大和と一緒に居たらしい。仲直りは出来たのだろうか、と考えながら部屋の中に足を踏み入れる。一歩踏み出すごとに体が沈むような毛並みの絨毯を踏みしめ先へ進むと、後ろで扉が閉まる音がした。
部屋の内部は、一見するとが通っていた高校の校長室のようだった。けれども、それよりは随分と広く感じる。そんな整然とした部屋の中、来客用に設けられたソファの上に、黒いものが丸まっている。なんだろうと目を凝らしてみれば、大和のコートを肩にかけて眠っているだった。何度も瞬きをして丸まった姿を見つめ、恐る恐る足を踏み出す。背もたれに手をかけて顔を覗き込めば、見事に熟睡しているようだった。道理で電話に出ないわけだ、とは一人納得する。
「に何か用件があるのだろう? 起こすなら起こしたまえ」
「……いや、いいよ。起こしたら可哀想だ。別に大事な用ってわけでもないし、明日でも間に合う」
こんなに熟睡しているのだ、寧ろ起こすほうが酷というものだろう。はソファからそっと離れ、どうしたらいいかわからずきょろきょろと部屋の中を見回した。それに見かねたらしい大和が、そこにかけていろ、と仕方無さそうに勧めてくる。そこってどこだよ、と思わず返しそうになったが、はとりあえずが眠っているソファの反対側、からちょうど斜めに位置するところに腰を下ろした。さすがに、の正面に座るのは気が引けたからである。一連の動作が若干挙動不審気味のではあったが、大和はさして気にした様子は無い。
「何か淹れよう。コーヒーと紅茶、どちらがいい?」
「……えっ」
えっ、と思ったら口からそのまま出ていた。慌てて口をふさぐものの、誤魔化しきれない状況だと理解すると、は大和から目を逸らした。
「大和って、お茶とか自分で淹れられるのか」
「……どういう意味だ、それは」
「全部他の人にやらせてるかと思ってた」
大和が露骨に眉をひそめた。ひそめるどころか、眉間に皺がよっていた。内心、ひっと悲鳴をあげる。
「心外だな。身の回りの世話くらい、自分で出来なくてどうする」
「ええっ、洗濯とか掃除とかできるの」
「……お前は私を何だと思っているのだ?」
大和がため息をついた。どうやら本当に、身の回りの事は自分でやっているらしい。この一週間、大和の生活を垣間見て来たが、そういった事をする時間があるようには思えない。それでも大和は時間を見つけては、身の回りの事をやっているのだろう。とすると、かなりマメな人間だ。は「はあー」と感心めいた吐息をもらした。
「すごいな。俺、一人でぜんぶはまだ無理だ」
「フフ、ものぐさは治したほうが身のためだぞ。で、どちらがいい?」
「んー……。コーヒーで」
別にコーヒーがとりわけ好きというわけではないが、大和がどうやってコーヒーを淹れるか気になった。大和は一度だけに向けて頷くと、部屋の左奥、併設された簡易給湯スペースに向かった。木製の敷居が立てられているがそこまで高さがあるものではないし、隙間のあるデザインなので、大和の姿がかろうじてうかがえる。
大和が上の棚を開け、マグカップを二つ手に取った。今度は別の棚から円筒形の缶とフィルターを出した。電子レンジの隣に置かれたコーヒーメーカーを開け、フィルターをセットし、コーヒー豆を入れ、最後にペットボトルからタンクに水を注いでいる。動作に一切の迷いがない。手馴れているとすぐにわかった。
しばらくすると、コポコポという音が聞こえてきた。コーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。どことなくそわそわしながら待ち続けていると、程なくして大和が戻ってきた。の目の前の応接テーブルに、マグカップが音も立てず優しく置かれる。大和は自分の分のマグカップを対面に置き、の正面のソファへ腰掛けた。
「砂糖やミルクは必要だったか?」
「いや、いらないよ。ありがとう」
首を振りながら礼を述べると、大和はそうか、と一言だけ呟き、カップに口をつけた。もそれに習い、ひと口すする。はコーヒーを日常的に愛飲しているわけではないので、味についてはもちろん、コーヒーメーカーで淹れたコーヒーが良いのか悪いのかもわからない。けれどもやけに美味しく感じられるのは、気のせいではないだろう。
「それで、話とは?」
尋ねられる。はとりあえず、誤魔化すように苦笑を浮かべた。
「正直に言うと、特に話したい事とかあるわけじゃないんだ。ただ、なんて言えばいいのかな……多分明日で全部終わっちゃうだろうし、大和の部屋を見てみたかったというか」
「……そうか」
「怒った?」
「いや。少々困っていたのと、退屈していた面もあったから、有難いといえば有難い」
「困るって、……の事?」
の問いに、大和が頷き返した。
「ここで眠るのは、流石に体に悪いだろう? 起こそうと思ったのだが、どうにも上手くいかない」
「え、起こそうとしたの?」
大和が頷いた。その表情は眉をひそめながらも、どこかしら困惑が見て取れた。
「じゃあ、寝かせとけば?」
「……ここでか?」
が頷き返すと、大和の困惑が色濃くなった。
「ただのソファだぞ? 寝台で寝たほうがいいだろう」
「正直に言うけど、居住区のベッドより、そこのソファの方が断然寝心地いいと思うよ、俺は」
他の部屋はどうなのかは知らないが、の部屋にあるベッドは、とりあえず硬いのだ。マットレスもは薄くて硬いし、枕もごつごつして硬い。ただで部屋を提供してもらえる手前文句などは言える立場ではないが、それでも寝にくい事を主張するくらい罰は当たらないだろう。
の言葉に大和も多少思い当たる節があるらしく、しばらく間を空けてから、それくらい我慢しろ、と返してきた。苦笑を浮かべ、眠っているへ視線を向ける。も大和もごく普通な調子で喋っているにも関わらず、やはり起きる気配はなさそうだった。
「うーん。を見てたら俺もここのソファで寝たくなってきた」
「……。どうしてもというなら止めはしない。ただし、掛け布団などは自分で持ってきたまえ」
「えー、けちー」
ぶーたれるに大和はほのかに口元を緩め、それからぼんやりとした視線をに向けた。は大和の横顔を見たのち、あらためて部屋の中を無遠慮に見回した。棚の中も、机の上も、すべてが整然としていた。大和らしいといえば、大和らしい。
「そういえば」
「ん?」
「大和に電話したんだけど。気付かなかった?」
「……何?」
大和が眉をひそめて、マグカップをテーブルの上に置いた。そのまま右手を胸元に持って行き、はたとした様子で動作が止まった。自分の姿を見下ろし、それから納得したようにああ、と小さな声を漏らす。
「……携帯は、上着の内ポケットの中だ。すまない。気付かなかった」
なるほど、今の動作はコートの内ポケットを探る仕草だったらしい。そうしてから、大和が珍しく抜けているという事に、は小さく吹き出した。
「なんだよお前。自分でコート脱いだの忘れてたのか」
「……。そのようだ」
大和がふっと、息を吐いた。ため息と言うより、笑ったと取れるような吐息だった。
「流石の大和でも、今日は疲れた?」
「……、否定はしない」
「そうか。まあ、大和と闘った時は、びっくらこきましたよ」
言いながら、はへらっと笑みを作る。大和は対面のに一度視線を向け、それからまたカップに口をつけた。
「……どう驚いたのだ?」
「だってさ、お前、俺たちの事本気で殺す気だっただろ?」
言葉にするのに、ほんの少し勇気が必要だった。が言い終わると、大和はむっつりと黙り込んでしまう。何か考え込んでいるようだった。
しばらくの沈黙のあと、大和が口を開いた。
「そう、だな。……はっきり言えば、そうなる」
「ははは。いやー、が倒れたときは、変に意識が鮮明になったぞ。あっ俺今日で死ぬかなと直感したくらい」
「……いや、お前は別に、殺そうとは思っていないが」
「へっ!?」
の口から、素っ頓狂な声が漏れた。夜分に相応しくない声を出した事にハッとして、慌てて口をふさぐ。のほうに目を向けるが、やはり幸せそうな顔ですやすや寝息を立てていた。
「いや、いやいやいや……、お前、明らかに俺の事殺しにきてただろ……」
「……。特にそういったつもりはない。本気でかかってきたに、私も本気で相手をしたまでだ」
「ま、またまたー」
「殺そうとは思っていない。……ただ、お前の周りの人間全てを屠ろうとは考えた」
言葉が出ない。まず、ホフロウという言葉に馴染みが無く、意味がよくわからなかった。とはいえ、大和の発言から、その言葉の響きが暗雲立ち込めるような、暗いイメージを持つ単語だという事は直感でわかった。
「しかしそれで、お前が私に同調しない事はわかっていた」
「あー、うん、そうね……」
適当に流す。どうにも荷が重いような気がして、は深く考えないように努めた。
「……今思うと、を真っ先に狙ったのは、失敗だったかもしれんな。戦意喪失に繋がるかと思ったが、どうやら逆にお前たちの闘争心を焚きつけてしまった」
ふっ、と大和が笑う。自嘲するような笑みだった。
「……は見せしめのつもりだったのか?」
「そうなるな」
大和の顔を見つめ、考える。
「……一つ言っていいか? ちなみに、かなり最低最悪な事なんだけど」
「構わん」
「もしかしたら、まずを殺しておけば、戦意喪失に繋がったかもしれない」
言いながら、もしここでが起きていたらと不安になり、再度に視線を向けた。すやすやとあどけない寝顔に、罪悪感がのしかかってくる。
カップに口をつけながら大和に視線を戻すと、ただただ、驚きに目を見張っていた。コーヒーをすすり、口の中を一度潤す。そうして一息ついてから、は言葉を続けた。
「殺す気だったって言っても、しょっぱなから意識混濁させただけだろ」
「……うむ」
「ほんとは殺す気、無かったんじゃないか?」
「それは、ないな」
「神に誓って?」
「……。私は無神論者だ。神には誓えんよ」
大和が肩をすくめて見せる。しかし次の瞬間には、神妙な面持ちになっていた。
「ただ、な」
「うん?」
「……。先に、意識を奪ってしまえば、惨い光景を見せずに済むとは思った」
「うん」
「そのまま命を奪えば、死ぬ間際の痛みを感じないのではないか、とも考えた」
とつとつと、大和が喋る。ひどく言いにくそうに、自分の心情を吐露している。
はそれを聞き終えた後、腕を組んでうーんと悩ましげな声を上げた。
「無理だな」
「何がだ」
「大和には殺すのが無理って事。それが大和の敗因だ。俺も殺す気なかったみたいだしさ、俺が大地に加担したその時点で、多分お前は詰んでた」
「フッ、……そうか。……そうかもしれんな」
大和の表情が緩んだ。取り繕う事もせず、素直に自嘲の笑みを浮かべている。見ててあまり、良い気のしない笑みだった。は一度カップのコーヒーに目線を落とし、水面に映る蛍光灯の明かりをじっと見つめる。ゆらゆらとゆれる白光を見つめ、カップをかたむけた。すするようにコーヒーを飲む。
「震災初日にさ」
「……ん?」
「を助けないほうが、よかったんじゃないか?」
自分でも最低な事を言っているとは思ったが、大和はの言外の意図を汲み取ってくれたようで、ふっとかすかに表情を緩めた。
「そうかもしれんが、……まあ、結果論に過ぎん」
「後悔してる?」
「いや。してはいないよ」
大和が首を振ってしっかりと否定の意を示す。それが、をどことなくほっとさせた。
「そういえばさ」
「ん?」
「ってその、まあ要は、次の峰津院家の跡継ぎのための、母親のうちの一人なわけでしょ?」
「……ああ、からそこまで聞いていたのか」
「あ、うん。……いや、その、なんか、ごめん」
「謝るな。それで? 話を戻したまえ」
「ええと。以外の他の子たちは助けたのかどうか、少し気になってて」
言い終わると、沈黙が訪れた。大和は腕を組み、むっつりと黙り込んでしまう。コーヒーをすすりながら顔を伺えば、真顔ではあるものの、いささか不満そうな色を孕んでいた。
もしかしなくとも地雷を踏んでしまったのだろうか。しばらく大和の様子を伺い、謝ろうか迷い始めた頃になって、大和が口を開いた。
「助けたのは、あれだけだ」
予想通りの返答に、は内心、やっぱり、と呟いた。
「ええと、他の子は?」
「私とてそこまで手は回せん。あやつらがどうなったかは定かでない」
大和の言葉には妙な違和感を覚え、カップから口をはなした。口の中に広がる唾液を飲み込み、思案をめぐらせる。
大和は自分で気付いているのかどうかしらないが、の事をたまに“あれ”呼ばわりするときがある。昨日大和と維緒が離しているのを見かけた直後大和に文句を言いに行った際、躾がどうのこうの、と言われた事もあったし、てっきり大和は大概の異性を“あれ”呼ばわりするのかと思っていたら、今の発言である。“あれ”と“あやつら”では、何がどう違うのか。
大和を少し突っついてみたらわかるかもしれない。の中に些細な悪戯心が芽生えた。
「どうしてだけ助けたんだ?」
「本局との学校が近かった。それだけだ」
「それだけ?」
大和はごく普通の、いつもどおり僅かに口元を緩めた態度で、しっかりと頷いた。いつものであれば、そうなんだろうなと納得して別の話に向かうところなのだが、今のはそうもいかなかった。
「じゃあ、もしもの話なんだけどさ」
「……。お前は、もしもが好きだな」
「俺はそうやってたくさんの『もしも』を考えて、色々培ってきたんだよ」
「ふむ、そうか」
大和が真顔で頷いた。なんだか力説したのが恥ずかしくなってくる。
「で、ええと、たとえばさ、が北海道とかの、かなり遠い学校に通っていたとする」
「……。それで?」
「と同じ立場である他の子がさ、の学校に通ってたら、そっちの子を助けてたわけ?」
大和が腕を組んだ。眉をひそめてを見つめている。探るようなその視線に、はにこっと笑い返して、コーヒーに口をつけた。熱いが舌は絶対に火傷しない様な、ちょうどいい温度にまで下がったそれを、一口、二口と口の中へ流し込む。
――と、ふいに、ボーンボーン、と耳慣れない音が部屋中に響き渡った。その瞬間、はビクッと肩を震わせ、キョロキョロと部屋の中を見回し始める。
音の発信源は、どうやら振り子時計のようだった。壁に掛けるタイプではなく、床にそのまま置かれている、のっぽな時計だった。金色の振り子が1秒ごとに、右へ左へと移動している。時計の針を見れば、長針も短針もちょうど真上をさしていた。
「……0時か」
大和がぼやいて、カップに口をつける。一気にコーヒーを流し込んでいた。
「時間も時間だな。、もう自室に戻りたまえ」
「ちょ……、ちょっと。話はまだ終わってないんですけど?」
「もしもの話、か? 言ってどうなるというのだ」
冷たくあしらうような発言に、は反論できなかった。大和の言う通り、言ってもどうにかなるわけではないからだ。
大和は空になったマグカップをテーブルに置き、綺麗な動作で立ち上がった。どこへ行くのかと思いきや、の方へ近寄っただけだった。おもむろに手を伸ばし、の肩を揺さぶり始める。
「。起きたまえ」
揺さぶっても、はうんともすんとも言わなかった。大和が眉を寄せる。肩を何度か軽く叩いたものの、は目を閉じたまま、それでも小さなうめき声を漏らした。その声には苦しそうなものが交ざっていて、ともすれば幸せそうな寝顔が一転して不安めいた表情になったように見えるのは、恐らく気のせいではないだろう。
「……起きないねぇ」
が他人事めいたように呟くと、大和が首だけでのほうを振り返った。恨みがましい視線を向けられてしまい、は一瞬身構える。しかし大和がはっとした様子でから視線を逸らすものだから、はゆるゆると警戒を解いた。それを見て、大和がため息をついた。大和にしては珍しく盛大なそれだったが、呆れのほかに疲労困憊といったものも含まれているように聞こえた。やや間をおいて、さっきよりも強く揺すり始める。はその振動に抵抗するかのようにむずがって、肘掛に顔をうずめてしまう。
大和がするりと、の肩から手を離した。どうやらお手上げのようだった。となると、自分の出番かもしれない。はコーヒーがまだ残っているマグカップをテーブルの上に置き、静かに立ち上がった。応接テーブルをぐるりと回って、の頭側から近づきしゃがみこむと、そんなから距離を置くように大和が後退する。
の顔を覗き込めば、やっぱり、幸せから少し離れたようなそんな寝顔をしていた。とはいえ熟睡しているようだし、起こすのが可哀想に思えてくる。
「大和さん……」
不意に、がつぶやいた。聞き取れるか聞き取れないか曖昧な、ごくわずかな声音ではあったが、それでも確かに、この場に居る人の名前を呟いた。
一瞬起きたのかと思って身構えたが、は目を瞑ったままだ。表情はさっきと変わらず、落ち着いたまま。ようやっと寝言だと認識して、それからふと大和の方に視線を向ければ、案の定大和は硬直していた。ぎょっとしたような、それでいて困惑したような――いつもの大和らしからぬその表情に思わず吹き出しそうになったが、はなんとかそれを押し殺した。
「どうする? 起こす?」
小声で尋ねると、大和が口を引き結んだ。起こすか起こさないか、心底悩んでいるように見える。
しばらくの沈黙の果てに、大和がゆるゆるとかぶりを振った。その致し方の無いような表情に、自然と頬が緩むのがわかる。冷淡そうに見える大和ではあるが、こうしてたまに、歳相応な表情をするのがには面白く感じられた。
大和の、仲間たちに対する接し方で薄々は感じていたが、自分が認めた、もしくは心を許した相手にはなんだかんだで結構甘い。維緒に注意を促したのも、そうすれば維緒がもっと良い方向へ向かうと思っての事なのだろう。ただ言い方がきついので、その結果、維緒を泣かせる事になってしまったわけだが。
「どうしてこうも、手間をかけさせるのだ……」
大和の、小声で愚痴をこぼす姿が、の目にひどく新鮮に映った。
「……。何を笑っている」
「いや、別に……」
笑っていたのが大和に気付かれてしまった。は口元を片手で覆いながら、顔を逸らす。そのままに視線を戻す。相変わらず、熟睡していた。不安の色が薄まり、落ち着いたような表情で眠っている。からあまり眠れていないという話を聞いたのは一昨日だっただろうか。そして昨日はが泣いて、それで今日だ。悩みの種が解消されたなか、寝不足が続いていたのであれば、こうして熟睡してしまうのも無理はないように思う。
「なあ、このフロアにさ仮眠室とかないの? あるならそこまで運ぶけど」
「……運ぶとは、お前がか」
頷いて応じると、大和がふん、と鼻息をもらした。
「お前の言う仮眠室がこの施設での居住区画を差す。このフロアにはそういった部屋はない」
つまり、このを抱えてこの部屋を出て、来た道を引き返した挙句居住区エリアまで行かなければならないという事だ。はそこまでちゃんとを抱えていけるか想像し、すぐに無理だと悟った。同フロア内の距離であれば運べるだろうが、ここから居住区は遠すぎる。
「んじゃあ、このままか。……布団、もってくればいいのか?」
大和はいや、とだけ呟いて、それっきり反応しなくなる。を見下ろし、何か考え込んでいるようだった。真面目な顔つきだが無表情に近く、大和がどういった事を考えているか、にはさっぱり読み取れなかった。
「」
ふいに、名前を呼ばれた。
「そこに扉があるのが見えるな? 開けて待っていろ」
大和が指差すほうを見れば、窓際の角に面した位置に、確かに扉があるのが見えた。棚に隠れて気付かないくらい、些細な扉だ。は困惑を顔に出しつつも、立ち上がってその扉に向かう。
丸みを帯びた金色のドアノブは傷ひとつついていないが、少し古そうだった。ドアノブに触れ、くるりと回す。扉を押し空けた先には、部屋が広がっていた。薄暗いながらも、執務室からの明かりで全容は把握できる。ベッドがあり、椅子があり、壁にクローゼットがあり、それ以外には何も無い。整然とした、誰かの私室と思われる部屋だった。
はきょとんとその部屋を眺め、それからぎこちない動作で大和の方を振り返る。ちょうど、大和がから静かにコートを取り上げているところだった。大和はコートの襟を掴み適当にまとめると、ソファの背もたれにかける。そして、――を抱きかかえた。
なんとなく予想はしていたが、実際その光景を見るとぎょっとしてしまう。は慌てて部屋の中に飛び込み、壁に背中をぴったりとくっつけながらも扉を手で押さえた。歩行の妨げにならないように気を遣ったつもりだが、それで正しかったらしい。部屋に入ってきた大和はに対し、すまない、と小声で話しかけてきた。
「そこの布団を捲くって貰えると助かるのだが」
「わかった」
ベッドに向かい、布団を捲り上げると、大和がそこにを下ろした。ヘッドボードの明かりをつけ、明るさを調整する。それからの靴を脱がし、足元に綺麗にそろえた。再度抱えなおしてしっかりと横たえると、少し捲れたスカートの裾を整えてから、肩まで布団をすっぽりとかける。そうして、大和ははあ、とため息をついた。それを見てふと、大和は一日の間に何回ため息を吐いているのか疑問に思ったが、口には出さなかった。
「……ぁ、」
ふいに、小さな声が、から聞こえた。
大和が息を呑むかたわら、は静かに後ずさった。どうしてこんなタイミングで、という疑問で頭がいっぱいになる。がゆっくり、うすく目を開けている。何度かまばたきをして、ぼんやりとしながらも、不思議そうな眼差しを大和に向けた。
「……。起きたか」
「……ん、……ここ、……は……?」
がのろのろと身体を起こそうとするのを、どうしてか大和は肩を押して制した。大和がベッドの淵に腰掛ける。それを見ながらは距離を置き続け、ちょうど壁際に置いてあった椅子に目が留まった。音を立てないよう前後ろ逆に反転させた後、またがるように腰を下ろした。背もたれの上部分に組んだ腕を置き、そこに頭を乗せてただ眺める。
「寝ていろ」
「……でも」
聞こえるか聞こえないか、そのくらいの小さなやり取りだった。
「眠れないか?」
がのろのろと首を振る。その眠そうな気配が、離れた場所に居るにも伝わってくる。
「……ならば、寝ろ」
命令するような物言いだが、それでも大和にしては珍しく気遣うようなものをはらんだ声だった。はうすい目を何度かまばたきさせ、ころんと寝返りを打った。大和の方に身体を向け、やっぱり身体を丸くしてしまう。どうやらそれが、にとってちょうどいい寝姿勢らしい。
それからは眠そうに目を開けたまま、顔の横に置いた左手をのろのろと伸ばし――ベッドの上に置かれた大和の右手に触れた。そして、指先だけ重ねる。
「大和、さん……」
大和の肩が、ごく僅かに跳ねた。
しばらくして、詰めたような息を吐く。右手をくるりと反転させ、の手を握った。
たったそれだけの動作に、どうしてか、は幸せそうに微笑んだ。そのままうとうとしながら大和の右手に顔を近づけ、目を閉じる。それから、すうすうと静かな寝息が聞こえてきた。眠ってしまったようだ。安心しきった、満ち足りたような寝顔を、大和は何も言わずにじっと見つめている。
「なあ」
小声で話しかけると、大和がの方へ顔を向けた。
「さっきの話、覚えてるか」
「……ああ」
「どうなの? 助けてた?」
首を傾げつつ、頬を緩めながら尋ねる。どうせさっきのように一蹴されるだろうと思いつつも、そう聞かずにはいられなかった。にやにやとした視線を向け続けると、徐々に大和はばつの悪いような表情になる。けれども逃げられないと察したのか、それから観念したようにゆるく首を振った。
「やっぱりそうか。……そうだよなあ」
はあとため息が口から漏れ出たが、それでもの表情は優しげに弛緩していた。
「……その生暖かい視線をやめたまえ」
「そういう気分なんだからしょうがないよ」
へらへら笑うに対し、大和は居心地が悪そうにしている。
「ねえねえ」
「……何だ」
「他にも入れ込んでる子とかいるの?」
大和が、ぐっと詰まったような、大和らしからぬ変な声を上げた。もとより大和の回答はもうにはわかりきっていたが、それでもその大和の仕草で、自分の予想が正しいのだと確信を得た。
たとえば、今大和がにしたような一連の厚意を、維緒や、亜衣梨や、史や、緋那子や、乙女や、真琴に対し向けられるのだろうか。もし大和が向けられるようになったら、おそらくそれは天変地異の前触れなんだろうと、は推測する。
「……お前は何でも知りたがるな」
「大和の事だから知りたいんだよ」
「……。嬉しい事を言われているような気がするが、どうしてか物恐ろしさが勝る」
「そこは素直に喜んどけって」
大和が本当に嫌そうな顔をしている。その表情を見るのがには初めてで、それが妙に面白く感じられた。
「で、入れ込んでる子はいないの?」
「……。そんな事を聞いても仕方ないだろう」
「そう警戒するなよ。俺はただ純粋に、大和の事が知りたいんだよ」
「……純粋な悪意を感じるが」
「そんな事ないさ。俺は今、善意に満ち溢れてるよ」
大和が訝しげな視線をに向ける。
しかし、しばらくして、渋々といった様子で首を振った。答えないという選択肢もあっただろうに、峰津院大和という少年は、律儀な人間だった。
「そうか。じゃあさ、どうしてだけに入れ込むの?」
「……。聞いたところで面白い話では……」
「面白いかどうかは俺が決める事だよ。……って、これ、なんか前にも大和に言ったな」
はて、いつの事だったか。が首を傾げ悩ましそうにする正面、大和はむすっとした様子で口を引き結ぶ。そしてに視線を向けてから、また観念したようにため息をついた。
「……。初めて会った時」
大和が唐突に語りだすものだから、は思考を中断した。大和の言葉に耳を傾ける。
「は私を見て、特に引いた様子を見せなかった」
きょとんとする。あっけない理由に、首をかしげた。
「俺も別に、引かなかったけど」
「……ああ。そういえば、も、新田も、志島も、さして驚かなかったな」
大和がひとり頷いて、とつとつと語りだす。
「私の髪や肌は生まれつき白く、目も白眼のようでな。幼少の頃はさんざ薄気味悪がられたものだ」
がはっと目を見開いた。
確かに、大和は尋常ではないくらい、白い。今さらその事に気付かされた。この非常時に、現実味の無い組織の、浮世離れした風体のトップに遭遇し、そういった意識がすっぽり抜け出ていた。
「あっ、えっ、……あっ! ……い、今気付いた……」
「……今さらか。たいした大物だな、お前は」
「いや、だってさ、別に誰もお前の見た目に触れてなかったじゃん。それに大和つったら白と黒、みたいなのが俺の中で定着しちゃったし」
「フフ、まあいい。……大抵の日本人は黒に近い髪色をしているな」
頷いて応じると、大和が満足そうに目を細めた。
「それとは真逆である私の見た目に、大の大人ですらたじろぐのを、数え切れないほど目にしてきた。歳を喰った者ですらそうなのだ、子供なんて持っての外だろう。……白い髪に目を見張り、おびえ、しまいには泣き出す者を幾度となく目にした」
とつとつと語る大和の言葉に、ただ耳を傾けた。もし自分が小さな頃に大和と会っていたらどんな反応を示したのか、ふと考えてしまう。その直後、おそらく泣きはしなかっただろうと、根拠の無い自信が芽生えたのだが――
「最後に顔見せに向かったのが、だった。てっきり最初は、もそういった反応を見せるかと思っていたんだがな……」
「……驚かなかったんだ」
「ああ。……寧ろ、私が驚かされた」
首を傾げると、大和がふっと、まるで思い出し笑いでもするかのように息を吐いた。
「境内に向かう最中、上の階段から転げ落ちてきた子供がいてな。それがだった」
一瞬耳を疑ったが、大和の顔はごくごく普通で、それが幻聴ではないと察した。神社によくありがちな石造りの階段から、がごろごろ転がってくるのを想像してみたが、日ごろの大人しいイメージが強く、にはうまく想像できなかった。
「のたうちまわって痛がるに手を差し伸べてやったら、躊躇する事無く手を取るものだから驚かされたよ」
痛みにのた打ちまわるを想像してみたが、やっぱりにはうまく想像できなかった。
「立ち上がったは私より背が高くてな。の家に向かうと告げたら親切に先導してくれたのだが、髪は短く背格好も女とは真逆のそれで、その時はが一人子だとは存じていなかったし、の兄だと思ったな」
「……えっ?」
衝撃的な話をされた気がした。背格好が女とは真逆のそれ、という事はつまり男のような格好という事をさしているのだろう。の幼少期の姿がまるで想像できず、謎の黒いもやに包まれた。
いやそれよりも、だ。
「大和、お前、より背、小さかったのか……」
「……私の背は平均値だった。むしろ、が平均より上だったのだ」
ほんの少し、むっとしたような表情になる。それがいつもより幼く見えて、なんだか微笑ましい。
「家についてから当のが件の子供だと知り、さらに驚愕した。私を見て泣かなかった割に、私の付き人と女中と、の両親で言い争いになって、泣き出したのにも驚いた」
この話は、から聞いた覚えがある。確かわんわん泣いたとが言っていたように思うが、それを聞いた当初にわかには信じがたく、話し半分程度に済ませた。けれども、どうやら本当のようだった。ますますの幼少期が想像しにくくなる。おまけに大和の幼少期というのもこれまた難解で想像できず、はぐらぐらと頭を揺らした。想像したいような、想像したくないような困惑と、妙な面白さが同居できるのを、は初めて体感していた。
「……、頭がぐらぐらしているが。大丈夫か?」
「大丈夫。自分の知らない事が怒濤のように流れ込んできて、ちょっと混乱してるだけ」
「……そうか。もし眠いのであれば、もう部屋に戻れ」
「いや、大丈夫。多分この先さ、大和とこうやって込み入った話出来そうにないし、話せる時に話しておきたい」
が言い終わるなり、大和がもの言いたげな視線をよこしてきた。はそれを、微笑を浮かべる事でやり過ごす。
「なんかさ、今の話聞いて思ったんだけど」
「……ん?」
「大和の右腕、じゃだめなの?」
大和が、わずかに眉をひそめた。
「唐突だな。……隣で見ていろと言ったのは、、お前だろう」
「いや、言ったけどさ。そういう意味じゃなくて……。大和の言う右腕は、にも務まるんじゃないか? って意味」
大和は眉をひそめたまま、じっと見つめてくる。あまりにも真っ直ぐ見つめてくるものだから、は気まずさに口を引き結び、大和から視線を逸らした。
「別にさ、俺、ただの一般人だし。実際、この災害とかが無かったら、ここにはいないわけで」
「……」
「は、はい」
「過度な謙遜は、かえって他人の不平を招く。へりくだるのは構わんが、する相手を考えたまえ」
「いや、謙遜ってわけじゃなくて……」
どうにも、このまま話を続けても平行線の一途をたどりそうだった。はこほんと咳払いをして、じゃあ、と話を切り出した。
「隣に置くなら俺と、どっちがいいんだよ」
「ふむ、……だな」
ほとんど即答だった。思わず仰け反ってしまう。天井を見上げ、喉の奥で唸ってから、もとの姿勢に戻った。
他人に好意を向けられるのは嬉しい。誰だってそうだろう。だって大和にこうも言われて、嬉しくないわけがない。けれども、何だか素直に喜べないのだ。原因はおそらく、が泣いた時に起因するものだとは、薄々感付いてはいるのだが。
「……お前さ」
「ん?」
「普通、そこで俺は選ばないだろ」
「いや、右腕ならばがいい」
大和の発言を耳にした直後、背もたれの上に組んだ腕の中に顔をうずめた。わけもわからず額をこすりつける。目を閉じて思考をめぐらせた。大地や維緒なら、表情に出るから思考がなんとなく読み取れるが、大和は感情があまり表に出ない。異様にわかりにくいから、何を考えているか理解不能だ。
「大和はさ、にどこにいて欲しいの?」
「……は?」
「隣が嫌なら、じゃあどこがいいのって話」
大和が眉を寄せ、僅かに目を細める。何を言ってるんだこいつ、といった怪訝そうな表情を向けられたが、は何だか疲労がどっと押し寄せ、それに笑い返したりする事ができなかった。ただを見て、なんともいえない気持ちになる。同情したいというわけではないが、それでも、そういった感情がわきあがってくる。
しばらく大和はを怪訝そうに見ていたが、けれどもに視線を落とす。どうやら、の質問に対する回答を考えているようだった。大和の横顔を眺めながらただ反応が返ってくるのを待つと、大和がゆっくりとに顔を向けた。
「……。後ろだ」
「後ろ?」
「ああ」
首を傾けるが、それっきり大和から何も返ってこなかった。大和は何を言うでもなく再度に視線を戻し、ひどく落ち着いた様子で寝顔を眺めている。そこで気付いたが、大和はいまだにの手を握っていた。そのことに内心驚いたが、は特にそれを指摘せず、ただ思考をめぐらせた。
後ろとは、背中の事だろうか。背中を預けるなんて言葉もあるし、そういった役目を負わせたいのだろうか。むしろ、自分より前に出したくないという意味だろうか。ともすれば隣に並ぶのを拒否するのも頷ける。それとも、後ろに追いやるとはつまり、庇うという事だろうか? ――考えたってどうせ大和の事全て理解できるわけでも無し、は考えるのをやめた。くぁ、と欠伸を漏らす。
「本当に俺が隣でいいわけ?」
「……ああ」
「のほうが適任だと思うんだけどなあ」
「さっきから往生際が悪いな」
「大和、お前気付いてないみたいだから言うけどさ」
「何がだ」
「パーソナルスペースってわかる?」
一瞬、大和が目を見張った。しかしすぐに、表情を戻してしまう。
「距離感の事だろう?」
「うんそう、それそれ」
頷きながら、はよっこらせと呟いて椅子から立ち上がった。一度背伸びをしてから、大和の方へ歩み寄る。
躊躇なく突進するように進み、
「……ここだな」
ある地点で、は足を止めた。
「そこがどうした」
「お前の許容範囲。俺はここまでだって事」
「……は?」
距離にして、目測1.3メートル。手を伸ばしても届かない距離だ。大和にこれ以上近づくとどうなるか、3日目にあの地下通路で試したことがある。隣に並んで近づいた時、大和はからすっと離れた。それでも近寄ろうとしたら、表情に不快な色を濃くして、を冷ややかに見たのだ。もう今日で7日目だし、距離も縮まっているかと思ったのだが、ついさっきの出来事でその期待はあえなく打ち破られてしまった。ついさっき――ソファに寝ているを起こしに近寄った時、大和はどうしてか後ずさって距離を置いた。
それが――
「これが、俺と大和の壁だよ」
大和はゆっくりと床に目を向ける。との距離を、目で推し量っているように見えた。
「それに比べて、と大和は近いよな」
「……ふむ」
大和がに目を向け、それから納得したような声を漏らした。
本当に近い。15センチの定規でも余裕で余るくらい、二人は近い。恋人同士の距離は50センチからというが、それを遥かに上回っている。
「それで、この距離感がどうかしたか」
「俺はさ、大地くらい心を許してくれないと、右腕になる気はないよ」
「……。志島くらい、か」
うんうん、とは頷いて話を続けた。
「お前ってなんというか、態度では許しても心は完全に許さないタイプじゃん。ずるいってそれ」
「……。そういうつもりは、ないのだが」
「つもりはなくても、日ごろの態度とこの距離がそれを示してるよ。ためしに近づいてみるか?」
大和の返事も聞かずに3歩踏み出して、それから足を止めた。微かに大和が身じろぎする。表情に微細な変化が見て取れた。嫌そうで、けれどもそれをめいっぱい堪えつつ、そんな自分に困惑しているような、いろんなものが混ざり合った、形容しがたい顔だった。そんな大和の態度に、自然との表情に苦笑が浮かんだ。
大和はを上目に見上げ、それからゆっくりと目を閉じた。詰めたような息を漏らす。
「……志島とは」
「うん?」
「どのくらいの距離だ」
「もっと近いよ」
「……そうか。では、努力しよう」
努力してどうにかなるものなのか? と尋ねたかったが、大和の言葉には妙な強制力があった。努力しようと言えば努力するし、善処しようといえば善処する、大和はそういう、口からでまかせを言わない人だった。
「まあ、期待しないで待っとくよ」
「……期待くらいして欲しいものだが」
「だって、明日で終わっちゃうしさ。その先、俺たちがどうなるかわからないだろ」
口から出る言葉とは裏腹に、心の中ではなんて寂しい事を言っているのかと、はっとした。
「……は、忘れるというのか?」
「どうだろう。忘れたくは無いから、最後まで諦めずにもがいてはみるけどね」
肩をすくめながら言うと、大和がふっと、かすかに笑みを浮かべた。
「そういう大和のほうが、案外記憶すっ飛んでたりしてな」
「フ、それは有り得んな。私はお前のやる事を見届けねばならん」
この自信はどこからくるのだろうか。まあ、大和らしいといえば、大和らしい。
そうしてふと、に視線を向けた。
「……は、どうなるんだろうなあ」
思い返せば、大地や維緒とそういった話をしたが、とはしていない。というより、その話をするつもりでを探したのだが、結果この状況だ。そのおかげで、珍しく大和と長話が出来たのだが。
「大和はどっちがいい? 覚えてるか、忘れてるか」
「……。何故、私に聞く」
「聞いたら面白そうだったから」
大和が開いた左手でこめかみを押さえた。それからしばらく逡巡したのち、口を開いた。
「……正直」
「正直?」
「どちらでもよい」
その言葉を聞いた途端、無意識のうちに、よくわからない声が漏れた。はとへの中間に位置するような、そんな変な声だった。
「な、なんで? 覚えてて欲しくないの?」
「……そうだな。別段、覚えていて欲しいと、強く願ったことは無い」
今、――大和は何と言った?
なにぶん大和の言い方は遠まわしで、言葉を理解するのにいくらか時間を要した。理解してから、えっ、と思ったら、それがそのまま口から出ていた。
「……そんなに驚く事だろうか」
「いや、だって……」
おかしいだろう。会って数日も経っていないに対しては、まるで忘れて欲しくないといった様子だったのに、にはどちらでもいいだなんて――
「……私の言っている事は、おかしいか」
「ああ」
しっかり頷いてみせると、大和はふっと表情を緩めた。彼が何故笑うのか分からず、は眉間に皺を寄せる。
「に、年に数回しか会わないって聞いた」
「……。そうだな」
「今週、毎日会ってただろ? それって、何年分になる?」
「……年3回と仮定すれば、2年になる」
「2年分もまっさらになるって相当だと思うんだけど。いいの?」
「……。たかが一週間の出来事だ。2年経ったわけではない」
確かに大和の言う通り、たかが一週間だ。現実は、たったの一週間しか進んでいない。
それでも、は1日を経ていくごとに、確実にうつり変わっていった。毎日顔を合わせたがいうのだから、間違いは無いはずだ。
大和に言いつけ通り部屋に篭っていたが、の誘いに乗って外に出て、悪魔との戦闘に協力してくれた。そしては、大和に対し立ち向かったのだ。この一週間よりも前はどうだったかは知らないが、おそらく大和に対しては従順だっただろうと想像するに難くない、そんなが。その後、喧嘩して、仲直りするだなんて、誰しも当たり前に経験する事を、この二人はこの一週間で初めて経験したのだ。たかが一週間と大和は言ったが、その一週間でどれだけ距離を狭めたのか。たとえ片方がきちんと覚えていようが、もう片方が忘れてしまっては、意味が無い。
そんな、たかが一週間を、まっさらにしてしまうだなんて。
「勿体無い。……勿体無いよ」
「……。そうか」
の言葉に、大和は静かに肯定するのみだった。
「何でだ?」
「……」
首を傾げて尋ねるが、返答は無い。黙りこくったままやり過ごされるかと思ったが、しかし大和は身動きひとつ見せなかった。表情の変化すらない。ともすれば今、大和は必死に頭を動かしているのだろう。の問いかけに、答えるために。
しばらくして、大和が諦め交じりの表情になり、ためらいがちに口を開いた。
「……お前、――は」
「うん」
「……変化を、おそれた事があるか」
へんか。頭の中で三文字の言葉を繰り返す。大和のいう変化とは、変わるという事を指しているのだろう。では、何が変わるのか。変化なんてものは身の回りに、日常的にごくありふれていて、特に恐れるようなものはない。しいていうなら、進級してクラスが変わったり、小学校から中学校、中学校から高校へ、といった新しい環境による変化に対しておそれを抱いたことはある。しかしそれは、恐れと言うよりも不安に傾いている。
そういった事に対する、変化だろうか。
――いや、違うだろう。話の流れから察するに、大和が言いたいのはもっと別の事だ。
「ないよ」
だから、首を振って答えた。すると大和は、やっぱりな、といわんばかりの表情になった。穏やかに、けれども何がしかの確信を得たように口元を緩めている。
「……私は、ある」
穏やかな表情を崩すことなく、大和が言う。
「それもごく最近の事だ。……お前と今こうして話しているときも、とみに感じる」
「……それが、どっちもどっちの理由?」
尋ねると、大和がゆっくりと、小さく頷いた。
「話を蒸し返したいわけではないが、私は、世界の変革が正しい事だと信じて疑わなかった。今の常識である普通こそが違うと……。だが今では、どうだろうな。……その普通こそが違う、という確信が、上手くもてないのだ」
大和の声はいつものようになだらかではなく、うまく舌が回っていないような、そんな感じを受ける。たぶん、当てはまる単語を必死に探しながら、言葉をつむいでいるのだろう。たどたどしいその語りに、はただ耳を傾けた。
「なにぶん、こういった状況で、こういった感慨を抱くのは、初めてなものでな。……どう言ったらいいのか、わからないのだが」
「うん」
「覚えていて欲しいか、覚えていて欲しくないか、……はっきり言って、わからないのだ。前者であって欲しいという気持ちもあるが、しかし後者であっても安堵する気持ちは否めない。……どのような状況でも先導を切る将たれ、と思っていた私が、くだらない事を決められずにいるとはな」
「くだらなくなんかないよ」
「お前が言うのなら、そうなのかもしれないな。……だが、私は、己自信の気概の無さに、呆れるほかないのだよ」
大和が小さく肩をすくめた。
「この一週間、私の中でも意識の、――自己の変化があった。先だって言ったように、今までの認識が正しいと、手放しでの確信が持てなくなった。……原因はほぼお前にあるだろうが、それに対しては恐ろしいと思ったことは無い。むしろ頼もしいと思ったほどだ。……しかし、お前が原因ではないと思われる認識の変化が、私にとっては恐ろしい」
「その原因は、もしかして……?」
しばらくの沈黙を挟み、大和が観念したように頷いた。
「どうにも、認めたくは無いのだがな、……この記憶を保ったまま、元々の世界に戻ってしまえば、……が私の疵瑕に成りえる事は、想像に難くない」
「……ええと、弱点って事?」
尋ね返すと、大和が頷いた。
「うむ。今のは、私の弱みに繋がりかねないが、しかしだ。がこの一週間よりも前に戻るのであれば、そうはならないだろう。だが……」
「だが?」
「……それが、惜しいと思う自分がいるのは、否定できない」
ため息交じりに、大和は言った。
「大和自身、この一週間については、忘れたくないんだろ?」
「そうだ。元に戻った世界で、まずお前の変革とやらを見定めねばならんからな」
ふっと穏やかな顔になり、それっきり大和は何も口にしなくなる。どうやらこれで、大和の話は終わりらしい。
話を聞いていた限り、大和の根底にあるものは語らなかった。あえて触れないようにしたのか、避けたのか、それとも大和自体その根底にあるものがわからないのか――には判断がつかない。しかし今大和の話した言葉をひとつひとつを噛み砕けば、大和の変化に対する恐れの原因は予想できる。
「んーと、とりあえずさ。変化を恐れるがゆえの保身はくだらん、とか言ってたのは、どこのどなたでしたっけ?」
「フッ、それはそういう意味で言ったつもりではないのだがな。……そうか、私は今、保身に走っているのか……」
今さら気付いたのか、独り言めいた言葉を語尾につけたし、大和は思案めいた表情になった。
が思うに、大和が行う自己分析は、まっとうだ。橋の上で大和を説得したとき、自分の心情を怒りと共に吐き出してくれたが、自分のおかれた立場にともなう異常性をはっきりと口にした。その時は自覚があったのか、なんて内心驚いたものだ。そんな大和が、自分でも理解できないものに振り回されているとすれば、それは多分、おそらくきっと――
「……はっきり、言ってもいいか? ちなみに、これを他人に聞くってのは、普通に考えればすごく変な事だと思う」
「……どのくらい変なのだ」
「いやー、大地に聞いたら笑われるだろうし、亜衣梨に聞いたら問答無用でビンタされそうだし、維緒に聞いたら……んー、その日一日口利いてもらえ無さそうなくらい、かな」
「……ほう? 構わん、言ってみろ」
さっきまでの、ちょっとしおれたような感じは何処へ行ったのか、大和が顎を上げ、尊大な様子でに言葉を促した。誇ったようないつもの表情に、自分の予想はもしかしたら外れではないのかという不安になってきた。それにともない躊躇が生まれ、余計な事を言わなければよかったんじゃないかと後悔し始める。けれどもはあちこちに視線を配ったりしてどうにかこうにか心を落ち着かせると、大和のほうをしっかりと見据えた。
「――大和は、恋ってわかるか?」
言った。言って、しまった。こうなったら、大和の返答をまつほかない。
沈黙が降りた中、大和はなかば硬直したようにを見据えたままだった。しかしひとしきりの顔を見つめた後、表情が徐々に、困惑の色で染まっていく。
「大和、魚の事じゃないぞ?」
「……さすがに、それくらいは、わかる」
途切れ途切れの大和の言葉で、――ああ、とは察した。
大和の動揺が見て取れる。
「わからないか?」
「……。言葉としての意味ならば、わかる」
「でも、大和が経験したことは一度もない」
の、はなから決めてかかるような言い方に、大和は否定も肯定も見せなかった。ただただ、押し黙っている。
もしかしたら、自分の中にある見知らぬ感情と、折り合いをつけている真っ最中なのかもしれない。自分が悩まされた未知の存在に戸惑っている中で、それに名前が与えられたのだ。しかも、名前を与えた相手が、市井からぽっと出のなのだ。ひときわ学のある大和がわからず、にはわかったその感情に、長考するのも仕方ないだろう。
とはいえ、正直なところ、大和の根底にあるものは、には正直わからない。大和ではないのだから当たり前だろう。ただ、この部屋に入ってからの言動や行動から、なんとなく推測した結果、恋なのではないかと思っただけだ。恋ではなかったらどうしよう、なんていい訳も考えようとはしたが、けれども大和を伺う限り、それが正解だったようだ。
大和は誰よりも賢い。直感も鋭い。違うと思えばすぐに否定する、そんな奴なのだ。
「……は、」
ふいに、名前を呼ばれた。
「ん?」
「経験があるのか」
「あるよ?」
の即答に、大和がわずかに面食らった様子を見せた。それがなんだか、無性におかしい。
「……その、どういった感じになるか、聞かせてはもらえないか」
ばつの悪そうな顔で、尋ねてきた。それが尚更おかしかった。
「他の人はどうだか知らないけど、頭の中が相手の事を占めるようになって、無性に不安になったり、でもその人と一緒にいたり、話したりするだけで嬉しくなる。そんな感じ」
中学にあがりたての頃だっただろうか、とうの昔に淡く消え去ってしまった感情を、記憶の中から探し出す。今が口にしたことが大和にとって当てはまるものかどうかはわからないし、かえってこの発言が、大和が今抱いている感情が恋ではないのだと確信を得てしまうかも、と思ったが、大和はやはり無言のままだった。
そして、大和はから視線を外し、いまだに繋いだままの手を見下ろした。繋ぐ、というよりも、重ねたままの手を、ぼんやり見ている。
「俺の話は、何か参考になりましたかね?」
「……どうだろうな。わからない」
言いながら大和は目を細め、力の抜けたの手を一度だけ握った。
大和がわからないのであれば、にもわからないだろう。けれどもいまだに離そうとしないその手が、どうやら答えのようだった。
ともすれば、隣よりも後ろに追いやりたい、なんて気持ちも、には理解できるような気がした。そりゃあ、大事な人はできうる限り隣にいて欲しいけれど、危ない道を進み続けるのであれば、自分が先導したほうがいいに決まっている。
は大和の横顔を見つめ、目を細めて笑った。
「まあ、わからないなら、いいや。……でも俺は、さっきの発言を訂正する気はないからね」
「……そうか」
頷いて応じる大和だが、意識はここではなくてどこか遠くにあるように見える。きっと今、自分の感情に対し、折り合いをつけているのだろう。穏やかな沈黙の中、組んだ腕に顔を乗せて大和の動向を伺っていると、ふいに扉の向こうからボーンと一回、人工的な音が聞こえてきた。
さっきは、ボーンボーンと2回。ともすれば今は――
「……0時半か。、もう部屋に戻れ」
「うん、そうするよ」
欠伸をかみ殺しながら頷いて応じた。こうして静かな空間にいれば、流石に眠気を伴った。多分、このまま自室に戻ったら、ぐっすり眠れてしまえそうな気配すら感じる。
背伸びをしてから大和を見れば、ゆっくり、恐る恐る、といった動作で、から手を離していた。別に、起こさないように気を遣っているのだろうけれど、その仕草がいやに名残惜しそうに見えるのは、多分、きっと、気のせいだろう。気のせいに違いない。
大和は手を離してからふうと一息つき、すうすうと寝息をたてるを見下ろし、布団を肩まですっぽり覆うくらい掛け直してから、こちらに歩いてきた。
執務室へ戻ると、まぶしさに目がくらんだ。大和も同じようで、一瞬目を細めていた。静かに扉を閉め、再度ため息をついている。本当にため息の多い人だった。
何気なく応接テーブルに目を向ければ、重ねて置かれた2冊の本の向こう側、中身の残っているカップに目が留まった。
「……あ、ごめん。コーヒー残ってた」
「眠れなくなるぞ」
「そこまで柔じゃないって」
先ほど座っていた席に戻り、ソファに腰掛けず、立ったままコーヒーを飲み干した。冷めてしまったコーヒーは、するすると喉の奥に流れ込んでいく。少し、喉が渇いていたからちょうどよかった。
そんなの行儀の悪い仕草に、大和は特にたしなめることもせず、テーブルの上に置かれた本を2冊手に取った。本棚へと向かい、ガラス戸を開ける。本と本との間に出来た隙間を探し、手に取った1冊をそこへ押し込んでいく。
その背中をぼんやり見つめ、はふとある事を思いついた。
「大和」
「なんだ?」
大和が動作をとめ、に振り返った。
「いいこと教えてやるよ」
「……ほぅ?」
大和の眉が少し上がる。怪訝そうに首をかしげる大和にニッと笑い返し、は空になったカップを、テーブルの上のカップの隣に置いた。
「――初恋ってさ、実らない物なんだよ」
どさりと音がした。
見れば、大和が本を落としていた。
「落としたぞ」
足元に転がる本を指差しながら言うと、大和が静かに本を拾い上げた。そのまま、何も言わずに棚に本をしまう。ガラス戸をしめ、何かものいいたげな視線をへ向ける。といえば、笑いを押し殺すのに必死だった。
「それじゃあ、おやすみ」
何か言われるよりもさきに、話を打ち切ってしまったほうがいい。先手を切るようにいえば、大和の不満がことさら強くなったように見えたが、しかし一度目を閉じた後は、落ち着いた様子だった。
「……ああ。おやすみ」
ただ、落ち着かせられたのは見た目だけのようだ。声は取り繕う余裕が無かったようで、やはり不満げなものを色濃くはらんでいた。
見送りは不要との意味合いを込めてひらひら手を振ってから、は身体をくるりと反転させた。足取り軽やかに部屋の入り口まで進む。少し重たく感じる扉を開けて廊下に出ると、肌に感じる空気はひやりとしていて、思わず身震いしてしまった。扉をしめれば、自動的に鍵がかかってしまった。もうこの部屋には戻れない。
初恋は実らない、だなんて、それは気持ちが一方通行の場合だ。互いが互いを想いあっているのであれば、話は別なのである。大和は賢いのだから、すぐそれに気付くだろうと想ったが、意外にそういうところはよりも抜けていたようだった。まあ、このくらいの意地悪なら可愛いものだし、たとえ大和が気付いたとしてもきっと許してくれるだろう。
静かな廊下を一人歩く最中、ふと、大和が本を落としたときの間の抜けた顔を思い出し、は喉の奥で小さな笑い声を漏らした。