#14 : LAST DAY 13:00~
(明日が楽しくあるために)
世界の終わり。終末。目の前に広がる景色が、どうやらそれらしい事をは察した。東京都庁の最上階。普通はおよそ来る機会のないだろうその建物の廊下から見る景色は、到底現実味の感じられないものだった。空は青く澄んでいて、雲ひとつ無い空から降り注ぐ陽光はまるで救いのごとく荒れ果てた町を照らし、町の向こう側には無という名の暗闇が広がっている。
たとえば映画だとか、高尚な画家の作品だとか、そういったものに通ずる風景だった。割れずに残った強化ガラスに手をあて、誰一人いない廊下からその景色をただ眺める。災害から一週間経ってもなお、ふわふわとした気持ちがいまだに抜けないのは、現実味のないその光景を真っ直ぐに受け止められないからだろうか。つま先で床をコンコンと叩き、地に足がついているのを確認する。大丈夫。心の中で呟く。
都庁を出ると、すぐ入り口にフェンリルが待っていた。近寄って顔を撫でる。一見艶やかに見える毛並みは実際の所、触ってみるとごわごわしていて、あまり気持ちのいいものではない。それでもなんとなく触ってしまうのはどうしてだろうか。フェンリルを見上げれば鼻先を肩にこすりつけてくる。口は閉ざしたまま、だから熱風も唾液も出てはこない。どうやら彼なりに気を使ってくれているのかもしれない。
すべてが終わったら、彼はどうなるのか。ごわごわした毛並みを撫でながらふとよぎった考えのおかげで、先ほどの疑問は解決した。
単純に、愛着がわいたのだ。
アンズーにしろ、いつもお腹をすかせているので召喚したときはやかましくご飯をねだるが、腹が満たされれば従順になる。ごろんと床に転がってお腹を見せられたときの驚きが、今でも忘れられない。ヴィヴィアンは、喋る。妖精という種族のせいか、人型をなしているのは見てくれだけではないらしく、まるで人間のように喋る。喜怒哀楽の感情が、きちんと備わっている。同族殺しは嫌だとせがまれた事もあるから、たまにしか召喚しない。召喚するときは大抵、おまじないをかけてもらったり、人恋しくなったときの話し相手になってもらうためだ。ヴィヴィアンの方が年上で――妖精なので当たり前なのだが――口達者で、おまけに美しい。湖の妖精、という美しい名のとおりで、たまにどぎまぎさせられる事もあるが、彼女との対話は楽しい。特にペレアスについて語りだした彼女は暴走機関車のようで止められなくなる。
彼らのおかげで、ここまでこれたようなものだ。あらためてお礼を言わなければならないだろう。
考えつつ、はフェンリルの背に乗った。道路を駆け抜けるフェンリルに振り落とされないように黒い毛を握る。けれども振り落とされることはありえない、という妙な確信があったから、あまり力はこめない。
ひび割れた道路の両脇に停められた色とりどりの車を眺めつつ、ビルの合間の通路に目を向ける。かといって、特に誰かいるわけでもない。たまに歩道の脇に人が倒れているが、フェンリルは一瞥するだけで立ち止まろうとはしなかった。獣の鼻はよく利くらしいし、死臭を嗅ぎ分けているのかもしれない。
悪魔に遭遇する事無く、特に何もないまま、議事堂まで辿り着いてしまった。フェンリルの背から降りて、よれたスカートの裾を直す。ポケットから携帯を取り出し、フェンリルを召還しようと思ったが、はそこではたと固まった。そんなを見つめるフェンリルの瞳は、獣のくせにずいぶん不思議そうなものをたたえていて、おまけに首まで傾げてみせる。
しばらく迷った末、携帯をポケットにしまった。前庭を進むと、フェンリルがトコトコと後ろをついてくる。正面玄関の階段の一段目に腰を下ろすと、フェンリルは距離を置いたまましばらくを伺っていたが、けれども尻尾を振ってのすぐそばに横たわった。膝の上に前足をちょんと乗せてくるので、撫でたり、爪を触ったりしてみる。大和であれば無意味な好意だと一蹴しそうではあるが、けれども楽しいからにとっては意味がある。
フェンリルと遊んでやっているのか、それともフェンリルに遊んでもらっているのか。どちらかよくわからないまま、前足に触ったり、触られるのを逃げられたりと繰り返しているうちに、ふと、背中に視線を感じた。そこで初めて、人の気配に気付く。首だけで後ろを振り返れば、正面玄関の柱のそばにが立っているのが見えた。ポケットに手を突っ込んで眺めていたが、けれどもが振り返った瞬間に足を踏み出し、階段を降りて近づいてきた。のすぐ隣に腰を下ろす。
「何してるの?」
試すような調子の声だった。答えが分かりきっているせいか、余裕ある微笑を浮かべている。けれども不思議なことに、あまり嫌な気はしなかった。、という人柄の成せる業なのかもしれない。
「遊んでいました。……なんとなく、最後かなと思って」
「そっか」
は一度頷いて、フェンリルのほうへ手を差し伸べた。その次にいやに真面目な顔つきになって、「お手!」と口にする。フェンリルはそんなをまじまじと見つめた後、ぷいと顔を逸らしてしまった。
「……俺って、嫌われてんのかな」
手を引っ込めながら呟き、次の瞬間にはうなだれていた。
「ちょっと気むずかしいところがありますから、近寄ってくれるのをじっと待たないとだめですよ」
「そうかな。こいつ、そんなに気むずかしいやつには見えないんだけどな。まあ、いいや……」
ふっと流し目をしたのち、はに向き直った。
「さっきのメール、見たよ」
「はい」
頷いて応じる。
さっきのメールとは、がに送ったメールの事だろう。都庁の最上階に向かう前、なんとかかんとかといった調子で考えた文章を、が知りえるアドレスに送った。――ただし、一人をのぞいてだが。
「本当にいいの?」
「はい」
しっかり頷くと、は何か言いたげにを見たあと、ため息じみた吐息を漏らし、空を見上げた。もつられて空を見上げる。
「……ポラリスって、宇宙の中にいるんでしょうか。それとも外でしょうか」
「ええと。世界の管理者なわけだよね。……じゃあ、外じゃないかな」
「外、ですか。……では、太陽よりも大きいんでしょうか?」
「あー。どうだろう。大きいんじゃないかなあ」
太陽を見る。直視するのがつらいほど、目にまぶしかった。
「太陽は、地球の何倍くらいの大きさでしたっけ」
「ええと、100倍くらいじゃなかったかな?」
「……おおきいですねえ」
「そうだねえ、おおきいねえ」
それから二人して、深深とため息を吐いた。
「……。何が大きいのだ?」
頭上から怪訝そうな声が聞こえてきて、ももほぼ同じタイミングで肩を震わせた。振り返ると案の定、大和の姿がある。すぐ真後ろに立っている彼の気配や靴音にまったく気が付かなかったのはどうしてなのか。どうやらもも、よっぽど気が抜けていたらしい。
大和はの脇を通り過ぎ、アスファルトの上へと降りた。階段に腰を下ろす気はないようで、二人に背を向けるようなかたちで、不思議そうな視線をフェンリルに向けている。フェンリルと言えば、大和の視線がたいそう居心地が悪いらしく、クーンと一度喉を鳴らし、なかば顔を背けるようにしてその場に丸まってしまった。
「ポラリスは大きいだろうな、って話」
「……。そうだろうな。幾つかの単一宇宙を管理しているのだ、大きいだろう」
「ここからは、見えないんでしょうか?」
が首を傾げながら尋ねると、大和がゆるく首を振った。
「見えるわけがない。我々が存在しているのは三次元に時間の概念の一次元が加わった四次元世界であり、ポラリスは五次元空間に存在している」
「ああ、ええと。すまん。わからん」
大和の呆れたような眼差しに、は苦笑を浮かべた。
「四次元と五次元では、どう違うのでしょうか?」
「実際そこに到った事が無いので本だけの知識になるが、エーテルが可視できると聞いている」
「……エーテルってなに?」
「なんでしょう?」
小声で尋ねてきたと顔を見合わせ、一緒に首を傾げる。大和の方を見れば、やや眉を寄せ目を閉じていた。腕組をし、右手の人差し指でトントンと腕を叩いている。心底呆れているといった態度だった。
「エーテルとは第五元素の事で、生命力の源とでもいえばわかるだろうか? チャクラなどとも呼ばれる」
「なんとなくわかった」
「本当か? ならばいいが……。ポラリスの存在する層も個としての空間を形成しているだろうが、その空間の中に我々のいる次元が含まれているから、こちらから認識できるわけ無い。ただ、あちらからは、こっちの世界を見ることができるのだろう」
「……つまり、マジックミラーみたいな感じ?」
一人でうんうんと納得したように頷くの隣で、は首をかしげた。
「くん、マジックミラーって、なんですか?」
「ええとね、片側からしか見れないガラスで、……どうなのかな大和さん?」
「何故私に振るのだ? ……まあ、マジックミラーというよりも、ミラーガラスないしガラス鏡といったほうが馴染みがあるかもしれんな。建造物によく使われているだろう。都心にもあったように思うが」
真面目くさって考え込みながら言う大和であったが、徐々に馬鹿馬鹿しいというものを表情ににじませ、言い終わった後には盛大なため息をついた。恐らくどうでもいい雑談に身を投じたのが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだろう。そんな大和にはほのかな笑みを浮かべ、ふと、場に漂う空気に既視感を覚えた。ゆるやかな沈黙。居心地が悪いかと問われればすぐに否定できるような、そんな雰囲気。いつだっただろうかと思い返し――火曜日の夜だと思い当たった。三人揃って話すのは、恐らくあれ以来の事だろう。
隣のを見れば、の視線は遥か遠くを向いていた。今いる場所は議事堂の前庭奥にある正面玄関前の階段で、ここから見える景観は冬に向け葉が落ち裸になりつつある樹が規則正しく並んだ道路と、人がもう出入りすることはないだろう亀裂の走った高層ビルしか見えない。もしかすると彼にはどこか遠くの光景でも見えるのだろうかと訝しんでいると、が口を開いた。
「町に残っている人は、世界が元に戻ったら、どうなるんだろう」
「……文字通り元に戻るのだろう。一週間前にな」
大和も同じように遠くへ視線を向けるなか、だけはぴくりと肩を震わせた。
「やはり、元に戻ってしまうのでしょうか?」
「……。これは私の予想にしか過ぎんがな、自ら思考する事を放棄した無知蒙昧ばかりだ。そんな、意志薄弱な者たちならば、むしろ記憶を保持しておくほうが難しいのではないか」
随分な言い様だった。思わず苦笑が浮かぶの隣では、はさもありなんといった様子で肩をすくめている。そうしてに目配せするものだから、はきょとんとしてを見た。
青い瞳に見つめられると、なんだか見透かされるような気がして、心が落ち着かなくなる。苦笑を浮かべて目を逸らすと、は何かを察したのか口元を緩め、ふうと一息ついた。
それからは、大和とを交互に見たのち、ニッと含みのある笑顔を大和に向けた。
「大和」
「何だ?」
「立ってないでこっちきて座ったら?」
「いや、いい」
「そう言わずにさ。あと、アメ食べた?」
一瞬、の言わんとする事がわからず、はぽつりと「あめ」と小さな声で呟いた。そのまま大和に視線を向ければ僅かに眉を上げている。驚いている、と思いきや、次の瞬間にはいつものような薄い笑みを貼り付け、を見ていた。
「食べてはいない。が、食べてどうなるというのだ?」
「どうなるってわけでもないかな。でも、おいしいよ」
が笑いながら言う。が首をかしげつつ、それでも口を挟まずにいると、大和は一度のほうを見て、それから上着のポケットに右手を突っ込んだ。薄い笑みを浮かべたままの方までつかつかと歩み寄り、そっと右手を差し出した。大和は何も言わなかったが、それでも手を出せと目で訴えられているような気がして、恐る恐る両手を広げて出すと、手のひらの上にカサリと音を立てて何かが落ちてきた。
「お前にやる」
飴だった。一見派手な、けれども子供っぽく可愛らしい包装はくしゃくしゃによれていたが、けれども袋の中の空気は抜けておらず、食べても大丈夫だという事が見て取れる。
大和とは全く持って不釣合いな飴を直々に渡され、それに驚くの隣で、もまた驚いていた。はと大和の顔を交互に見やり、それから手のひらの上の飴に視線を落とし、僅かに眉を寄せた。普通に考えて、大和がこんなものを持っているはずが無い。
「大和さん、これはどなたから貰ったものでしょうか」
「……見知らぬ男から貰ったものだ」
大和はいまだ口の端を緩めているが、そういう時は大概、自分の感情を表に出さないためのものだとは知っていた。いわゆる、つくり笑いというやつである。とすれば、この飴には何かあるのだろう。
「くんは、大和さんがこれを貰った所を見たんでしょうか」
「まあ、うん」
「……このあめ玉は、私が本当に貰っても?」
「構わん」
「よくないと思う」
大和との声が重なった。意見の食い違いに、は怪訝そうに大和を見上げる。薄い笑みは、何を考えているのか分からない。ともすれば、わかりやすいに尋ねたほうが良いだろう。
「くん」
「なに?」
「このあめ玉を下さった方は、どうして大和さんに?」
尋ねると、は一度大和を伺って、それから口を開いた。
「……瀕死だったんだ。そこにちょうど、大和が通りがかって」
余計な事を、と大和が呟くのが聞こえたが、は大和の顔を見る事無く、手のひらの上の飴玉を見つめた。
「大和さんは、甘いものが苦手ですか?」
「……いや、苦手ではない」
「でしたら、なぜ」
「食べた所で、何が変わるというのだ」
「おいしい、という気持ちが増えます」
大和がだまりこんだ。いつの間にかあの貼りつけたような笑みは失われていて、何を言っているのだこいつは、といった気持ちが表情から滲み出ていた。それでも微笑み返すことで応じると、今度はどことなくばつが悪そうに視線をそらされる。
「それと、あめ玉を食べた、という経験値がひとつ増えます」
「……増えてどうなる」
「あめ玉のおいしさを知ったぶん、世界が広がります」
言いながら立ち上がる。一歩ずつ近づけば、大和の顔はそのままに、けれども距離を起きたそうな空気を感じ取った。身じろぎした際に引き気味になった大和の右手を追いかけるように優しく掴み取って、こちらに持ってくる。大和は抵抗する素振りは見せなかった。白い手袋の上に飴を乗せて、一度両手でその手を握り締める。
「私には、もったいないです。ですから、おかえししますね」
最後に一度だけ手に力をこめてから、大和の右手をそっと開放した。他人に押し付けた飴が結局手元に戻ってきたせいだろうか、それとも何か別の思惑があるのだろうか、大和の眉を下げて目を伏せているその顔は、どこかしょげたようにも見える。
「袋の開け方、わかりますか?」
「……、私を馬鹿にしているのか?」
「わかるのでしたら、やってみてください」
大和が、喉の奥から詰まったような声を出した。
そうしてしばらくの間、手のひらの上の飴を見つめていた大和だったが、おそるおそるといった仕草で左手を動かした。端の、ギザギザになった部分をつまみ、手袋をしているにもかかわらず器用に裂いてみせる。
赤茶色の、ややにごった色合いの飴が袋の中から顔を覗かせている。大和は眉間に皺を寄せて、じっと飴玉を見つめていた。ほのかに甘い匂いが漂ってきて、茶色いその飴が何味なのかには見当がついたが、けれども大和はどうやら手のひらの上の飴が何味なのかわからない様子だった。口を引き結んだまま、しげしげと眺めている。
「コーラ味だ」
いつの間にやら、が近くに来ていた。の後方から大和の手のひらを覗き込んだあと、少し後退しながら言う。が予想した味と同じ味をは予想したようだが、けれども大和の眉間の皺はさらに深まるばかりだ。
「……なんだ、その、コーラというのは」
「あれ? 飲んだ事無い?」
大和がしっかりと頷いた。
「ジュースだよ」
大和が初めて、首をかしげた。それに見かねて、口を開く。
「炭酸飲料です。炭酸水に、砂糖と香料で味をつけた飲み物、と言えばいいでしょうか」
「……炭酸水か」
そこで合点がいったらしく、大和がふむ、と頷いてみせた。
「炭酸水は、流石に飲んだ事あるでしょ?」
「あるが……、炭酸水は血中の二酸化炭素濃度が上がる。自らすすんで口にはしない」
真顔で言う大和に、の口元がいくぶんか引きつったように見える。しかしそんなを気にもせず、大和はただ飴を――というより袋に記載されている成分表を眺めているようだった。
「変なものは、入っていないな」
「当たり前だよ。変なもの入ってたら大変じゃん」
「……む。それもそうか」
頷いて、大和はいきなり飴を口に含んだ。あっと言う間の出来事だった。もっと飴の観察を続けるかと思っていた手前、こうもいきなり食べられてしまうと、ももぽかんとするほかない。
大和の口の中で、カラコロ、と歯と飴がぶつかる音がする。大和は眉を寄せつつも、しばらくコロコロとくぐもった音をさせ続け、そうして飴玉を右頬へ追いやった。不自然にほほがふくらんでいる。その大和の表情が、いつもと比べるとどことなく抜けているように感じられ、見ているこちら側の頬が自然と緩んでしまう。それが気に食わないのか、大和は眉を寄せた不満そうな顔のまま、けれど何を言うでもなく、たまにカラコロと口の中で音を立てる。
「おいしい、ですか?」
おずおずと尋ねてみると、しばらくして、大和の首が僅かに傾いた。頷く事も、首を振ることもせず、ただ首をひねっている。それが、大和の答えのようだった。美味いか不味いか声に出せばいいのに、しかしそうしないのはきっと、口に物を含んでいる間は喋らないという決まりが大和の中にあるのだろう。当分のあいだ、飴が口の中で溶け切ってしまうまで、大和はおそらく喋らない。
――いや、飴が溶けても、もしかしたらしばらくの間は喋らないかもしれない。なぜなら、大和が今口にしている飴は普通の飴ではないからだ。
「大和、袋見せて」
が尋ねると、大和が頷いて空になった袋を差し出した。が受け取って袋を丁寧に開いていく。
大和が貰った飴というのは、ばら売りの飴だ。普通のより一回りも大きい飴で、袋には当たりくじがついている。おまけに、真ん中にガムが入っている、一粒で二度美味しいと評判の、人によって好みが激しい飴だった。
「……あっ、ハズレだ」
は口を尖らせ、内側の小さな印字が大和に見えるように広げて見せた。大和が首をかしげたまま、それを覗き込む。
「あたり、って書かれていると、もう一個、同じのがもらえるんです」
の言葉に大和が一瞬目を見開いたが、しかし次の瞬間には元の微妙な表情に戻ってしまう。ひねった首は元に戻ったものの、けれどもなんとも形容しがたい表情で、飴玉を頬にくるんで転がしている。しばらく無言のまま、不自然に膨らんだ大和の頬と、その表情を眺めた。
こうしてまじまじと大和の顔を観察するのは、にとってはおそらく初めての事だった。幾度と無く大和の姿を視界に収めてきたが、しかし大和を正面きって眺めるのは無礼に当たるのだと、憚られる行為なのだという認識がいつしか芽生えていた。いつもじっと見つめるだけでどことなく罪のような意識を覚えたのだが、不思議な事に今はそういった気持ちは沸いて来なかった。
大和の髪の毛の色は真っ黒ではないが、真っ白でもない。灰色だとは思うのだが、陽光の下で髪は淡い水色や紫色に見える。不思議なその色合いは、淡い色彩の持つ印象に反して、いっぺんの隙も見せない。まつ毛の色も髪の毛とほぼ一緒の色かと思えば、それよりも濃い色合いをしている。瞳の色は薄い菫色で、それなのに底が見えないような深いものを湛えている時が合って、白目との境界がきっちりついている。
あらためて見ると、あやしい魅力と色気をそなえた、不思議な人だった。何をどうしたらこんな奇特な見た目になるのかと疑問を抱きつつじーっと見ていると、大和の顔はこんな顔だっただろうかと、変な考えが芽生えてくる。
ふいに、大和が視線をそらした。顔は動かさず、眼球だけ動かしている。そこで不躾に見つめていた自分に気付き、なんともいえない気恥ずかしさがこみ上げてくる。カラコロ、と飴玉が転がる音がして、不自然に膨らんだ頬に目が行く。おそるおそる手を伸ばして、人差し指の腹で大和の頬を一度つついてみると、大和の視線が一瞬こちらを向いたが、すぐにまた逸らされてしまった。もう一度つついてみると、ふくらんだ右頬がへこむ。しばらくして、左頬が不自然に膨らんだ。わざわざ飴を移動させたことに、思わず笑ってしまう。
「……あのう」
後ろから声をかけられ、の肩が跳ねる。
「仲がよいのは大変に結構なんですが、俺の事を忘れないで欲しいです」
「あっ! ……わ、忘れてませんよ?」
「……そう? なら、いいけど」
言いながらが微笑んだ。その表情がまぶしい、というよりも、妙に居心地の悪いような、責められているような気持ちにさせられる。は肩をすぼめつつ、そろそろとした足取りで大和から距離を置いた。の隣に並ぶ。
おいしいとも、おいしくないとも言わなかった飴を口から出さずに舐めている大和の姿を、とはそろって無言のまま眺めている。あらためて考えるとかなりおかしな状況だった。何か適当な話題でも振ってやり過ごせたらよかったのだが、この異様な状況のせいか、話題が思いつかない。
なにかいい取っ掛かりはないものかとに助けを求めるように視線を向ければ、としっかり目が合ってしまった。どうやら自分より先に、がこちらを見ていたらしい。思わず驚くだったが、は一度大和の方を見てから、再度へ視線を戻し、口を開いた。
「さっきのメール……」
一瞬、が何を言わんとしているのか理解できず、頭の中での言葉を復唱してから、はっとした。
「大和には送ってないんだよね?」
返答するよりも先に、大和の方を横目で伺った。案の定、怪訝そうな顔になっている。
とはいえ、大和は飴があるうちは当分何も言わないという確信があった。に視線を戻し、口を開く。
「ど、どうしてそれを」
「いや、さっき大和が、無知蒙昧がどうのこうの言ってたでしょ。それでピンと来た」
「……そうですか」
どうしてそれでピンときたのかはわからないが、は平均と比べるとかなり察しのよいほうだ。考えてみれば、もし大和にメールを送っていた場合、その言動はまた違うものになっていたかもしれない。
「伝えないの?」
「大和さんには、……大和さんだけには、せめて口頭で、と思っていましたから」
「あ、そうなの? よかった。大和だけに教えないのかと思って心配しちゃった」
の、一段と晴れやかな、屈託の無い笑顔から、心配が解消されたという安堵が見て取れた。その笑顔を見ていると、つられて微笑んでしまいそうになる。
と、急に大和の方から奇怪な音が上がった。ガリッと、何かを噛み砕く音がする。
飴だ。飴を噛み砕き、――そうして、大和は今までに見たことの無いような、ものすごい形相になった。すっと運んだ右手で口元を覆う仕草は一切の無駄が無く、けれども顔を顰め、顎を動かして飴を噛み砕いているその仕草で、なんだかもう色々台無しだった。
しばらくして、大和が逡巡するような様子を見せた後。
「……。なんだ、これは」
手で口元を覆っているわりに、聞き取りやすい声だった。物を口に入れているくせに、そう喋らなければならないほど、大和にとっては驚愕の出来事だったらしい。
「お、本番のガムに到達しましたか」
「……。ガム?」
大和が眉間に皺を寄せ、首を傾げる。
「チューインガム。……あれ? さっき包装見てなかった?」
「……。見たが」
「ガム入りって書いてたじゃん」
黙り込んで、モグモグと顎を動かしている。たまに、ガムに混ざった飴を噛み砕いているのか、ガリガリと音が聞こえた。
「……あ、……ガム食ったことないのか」
一人で納得したように呟くに、大和は律儀に「うむ」と頷いて、けれども口元に手を当てたまま顎を動かし続けている。顰めた顔は元に戻ったが、けれども、なんとも形容しがたい表情なのは相変わらずだ。
「大和、ガムから味無くなったら、口から出せよ」
「……。どこに出すというのだ?」
不思議がる大和に見かねて、は制服のポケットからポケットティッシュを取り出した。大和に差し出すと、大和はポケットティッシュをじっと見下ろした後、口元に添えていた右手で受け取った。
「飲み込まないように気をつけてくださいね」
「ガムは消化されないって話だからね」
「たとえ飲んでしまっても、何か体調不良を起こしたりとかはないですから、大丈夫ですよ」
二人の忠告に対し、大和はそれぞれ律儀に頷いて、モグモグとガムを噛み続ける。それを近くで見守る二人、というおかしな状況の再来に、どうしてか苦笑が浮かんでしまう。大和はしばらく無表情で顎を動かしていたが、やがて『馬鹿馬鹿しい』という空気がにじみ出るようになっていた。
ただ棒立ちのまま顎を動かしているだけなのに、何故か様になっていて、それが殊更おかしい。も同じ事を思っていたのか、隣で軽く吹き出したあと、大和から逃げるように顔を背けてしまった。
どれくらいの間、そうしていたのか。体感では長く感じられたが、けれどもこういったガムの味は長持ちしないものだ。もしかしたら、数分に満たない時間だったかもしれない。大和はティッシュを一枚取ると、丁寧に折りたたんで、それを口元に添えた。と思いきや、すぐに離して、丸めたティッシュを上着のポケットに突っ込む。
「……。なんだこれは?」
開口一番のその声は、憤りを隠しきれずにいる、不満げなものだった。
「飴とガム」
が即座に答えた。
「そんな事を聞いているわけではない。なんだこれは? 驚くほど不味い。あの男の娘は――この国の民はこんなものを喜んで食べているのか」
大和が苛立った様子でまくし立てるのがおかしいのか、が笑いを押し殺していた。なんともいい反応だといわんばかりに肩を震わせて笑っているその姿に、は苦笑を浮かべるほかない。
「まあ、そういうの食べるの、小さいうちだけだよ。子供向けのお菓子だ」
「とはいえ、子供でもけっこう好き嫌い激しいですよね……。私は普通のあめが好きでした」
「俺は好きだったよ。『ランブル!』って叫びながら、大地と一緒に噛み砕いて遊ぶのが楽しくて」
「……。食い物で遊ぶとは解せんな」
「子供向けの駄菓子ってそういうもんだから」
の言葉には妙な説得力があり、ともすれば大和も不満そうでありながら、けれどもそういうものだと納得した様子で黙り込んだ。そうしてに視線を向け、一段と眉を寄せる。
「それで、さっきのメールとやらは、一体何の話だ」
まさかその話をするために飴を噛んだのではないだろうか――そう勘ぐりつつも、どうしてか背筋にひやりとしたものが伝い、は口をつぐんだ。どう説明すればいいのか、頭の中で段取りを取るため黙り込んでいると、がええと、と小さな声で切り出した。
「俺、外したほうがいいかな?」
「いや、構わん」
大和はそう言って、に目配せをする。された手前黙っているわけにも行かず、構いませんと口にして頷けば、はどことなく居心地悪そうにしつつも、わかった、と呟いて一歩分後退した。
つま先をそろえて目を閉じ、深く呼吸する。秋のさなかの冷えた空気が、肺に流れ込んでくる。緊張は、していない。背筋をつたった悪寒は、もうない。
大丈夫。言える。ゆっくり息を吐いて目を開ける。
景色は変わらず、けれどそこに当たり前のように、大和がいる。
「私は、こちらに残ります」
じっと、大和の目を見つめながら、言った。
言い終わると、妙な静けさに意識が奪われる。ざわめきが聞こえないのは当然のことだが、それよりも自分の心音がやけに静かな事が意外で、は内心驚いた。正直もっと緊張すると思っていたので、なんともあっけない、という感想しか抱けない。何はともあれ、伝えた事による重荷が取れたおかげか、思考はいつもより冷静だった。
「……、そうか」
だからか、大和の驚きが感じられないその声に、うなずき返すことが出来た。大和の顔は、薄い笑みを貼りつけているわけでもなく、眉を寄せているわけでもなく、ただ落ち着いた表情をしている。
「そう決断するに至った理由は?」
「世界の復元が行われた場合、ポラリスに謁見しないままの人間も記憶を保っていられるのか、気になったんです。セプテントリオンから啓示を受けた者すべてがポラリスに謁見するより、誰か一人こちらに残ってどうなるか確かめたほうがいいのではないでしょうか」
実際のところはたちに情報を与えたセプテントリオンの少年を見たことは無い。しかし情報を得たや大地から、口頭でその啓示を受け取っている。直に啓示を受け取ったわけではないが、けれどもセプテントリオンの言わんとしていた事は、話だけでも理解しているつもりだ。
「……。そもそも、私も含め、皆の記憶がどうなるかはわからんのだぞ?」
そう言った大和は、表情の変化こそ見せはしなかった。けれど心なしか、声に感情が篭っているように感じられる。
「そうですね。……ですが、くんと大和さんは、大丈夫そうじゃありませんか?」
「何を根拠に……」
「根拠はありません。でも、大和さんも大和さんで『大丈夫だ』と言う変な自信を抱いたりはしていませんか?」
大和が一度瞬きをした。相変わらず表情は変わらないので、自分の言っている事が本当かどうかにはわからないが、大和は否定しなかった。
「世界が復元してしまったら、今までどおり、大和さんの理想とする世界とはかけ離れた世界にまた戻ってしまいます。ですが、大和さんのいう無知蒙昧な方々が、この一週間での出来事を覚えていたのであれば、きっと少しは変わっているのではないでしょうか」
一度、言葉を区切る。息を吸う。
「私はこちらに残って、それを証明できたらと、そう思うんです」
大和は無言のまま、ただ黙り込んでいた。
しばらくの間をおいて、大和が目を閉じる。閉じたままだった唇を開き、ため息をこぼした。
「何故だ」
呟きめいた、独り言のような問いかけだった。
「どうして……。お前は、私にそこまで出来る」
言いながら、大和の視線が徐々に下がっていく。俯いているわけでもないが、けれどもどうしてか前髪が僅かに揺れた。
「……どうしてでしょう」
質問に、質問で返すだなんて失礼極まりないけれど、正直なところ、にもわからなかった。
――小さい頃からの付き合いだから? それとも峰津院家の跡継ぎのためにと選ばれた身だから?
もしかしたら大和という人間の生い立ちに少しばかりの同情を抱いているのかもしれないし、その特殊性に自分も特殊なのだという勘違いを得たからかもしれない。大和の見た目が周りを霞ませるほどの秀麗さを備えていたからかもしれないし、大和の気高い所に惹かれたのかもしれない。自分が大和の後ろをずっとついていったからかもしれないし、大和に注ぎ込んだ自分の努力を泡にしたくなかったかもしれない。いろいろ考えてみたが、どれも理由としてはしっくりこなかった。
理由としてはわからないけれど、でも、仕方ないという気持ちはあった。仕方ない。こうするのが当たり前だから、仕方がない。じゃあ、どうしてそれが当たり前だと思うのか、思考をめぐらせる。
「私でも、よくわからないのですから、話したところで大和さんは殊更わからないかもしれませんが……たとえば、峰津院家の今の当主が大和さん以外の人でしたら、ここまではできなかったと思います」
いつだったか、コピー用紙に書いた白丸を思い浮かべる。名も知らぬ彼らのために、ここまで出来得るだろうか。いや、できないだろう。
「いつからかはわかりませんが、何をするにも、大和さんの事だけを考えて、行動するようになっていました。どうしたら大和さんのためになるのかと、そればかり考えて、自分は二の次にしていましたが……」
「」
名前を呼ばれ、言葉を区切った。
「お前の言うそれは、ただの傀儡だ。……気付いて言っているのか?」
大和の言葉に目を見開き、しかし次の瞬間にはしっかりと首を振った。
「私は、傀儡ではありません。確かに自分を二の次にはしていましたが、自分の意思を疎かにした事は一度もありません」
反射的にきっぱり告げると、大和が目を見張った。何度か瞬きをする。
大和を驚かせるほどきっぱり言い切れた自分自身に驚きつつも、は一呼吸はさんで話を続けた。
「大和さんだから、全てを尽くしたいなと思うんです。……もしかしたら、大和さんにとって相応しいと思える自分のためなのかもしれません。ですが、これがもし他の人だったら、多分こうはならないと思います。他の人では、駄目なんです。大和さんでないと、私……」
一度だけ目を閉じて、手を握り締める。
「傀儡について否定しましたが、けれども確かに、大和さんの言う通り、傍から見れば私は傀儡かもしれません。ここまで他人に固執するなんて、……気味が悪いですね」
「……。私は、お前の事を気味悪いと思ったことは、一度も無い」
無意識のうちに、肩が跳ねた。何度も瞬きして大和を見つめる。
「……お世辞でしょうか?」
「そのくらい理解できんほど、お前は馬鹿者なのか」
静かに言う大和の顔は、どことなくばつが悪そうに見える。
「ふふ。そうですね、馬鹿者かもしれません」
こうして、あらためて自分の気持ちを整理して、自分自身の事に初めて気付かされた。大和は馬鹿者といったが、もしかしたら大がつくほうの馬鹿者かもしれない。
「そこまでして、お前に何が返って来る? 相応の見返りなど、戻ってくるようには到底思えん」
「いいえ。見返りは、きちんと頂いています。遠いところをわざわざ、貴重なお時間を割いて頂いて、うちに顔を見せに来て下さっていますから」
「……。それは、ただの視察であって、見返りではないだろう」
「大和さんにとっては、ただの視察かもしれません。ですが、これは私の勝手な思い込みに過ぎないでしょうけれど、文字通りただの視察なのでしたら、私の長期休暇に合わせる必要はないはずです」
春と、夏と、冬。決まって長期休暇の最中に、大和は視察に来る。冬は年末年始の挨拶も兼ねているのだからそう言われれば納得できるが、春夏に決まって顔を合わせる理由が、には思いつかない。秋の視察にかぎっては11月の第一週だと両親から伺った。だとするならば、他の時期も第一週に来るべきなのではないだろうか。大和の性格を鑑みれば、そうするに違いない。わざわざ長期休暇の始まる中旬から下旬にかけてくる必要は絶対にないだろう。
「もともと、見返りなんてものは求めてはいません。これがただの自己満足なのはわかっています。ただ、大和さんが怪我も病気とは無縁に、ご健勝で過ごしている姿が見られるのでしたら、私にはそれだけで充分なんです」
言い終わるなりは微笑んだが、それを見つめる大和はただ下唇に力をいれ、口を閉ざしていた。表情はどこか力なく、姿勢はいつもどおりではあるが、どこか項垂れているようだと勘違いするほど、ぼやけた印象をあたえる。覇気がない。いつも身にまとう空気をなくすほど、大和は返答に窮していた。
「……困らせてしまいましたか?」
「……。ああ」
ため息を交えつつ、大和が頷いて応えた。
「正直、困る。――理解不能だ」
伏せがちな瞳から、本当に困っているといった様子が伝わってきた。
「迷惑でしょうか」
「迷惑ではない。だが、困る」
「でしたら、大和さんに対する心持ちを、改めた方が良いでしょうか」
「……。それも、困る」
さらに瞳を伏せながら、大和が呟くように言った。どちらにしろ困るのであれば、じゃあどうすればいいのか。尋ねようと思ったが、さらに困らせてしまうだろう事がたやすく想像出来てしまい、は笑みを浮かべるだけにとどめた。
「……本当に、理解不能だ。何がどうしたら、そういった思考回路になれる」
「始まりは、ただ仲良く出来たら、という純粋な気持ちだったと思います。親近感は皆無でしたが、けれども次会うときは、どういう話ができたらいいな、とか、幼心にそういった想像をめぐらせた覚えがあります。そうして、一人で勝手に突っ走った結果、こうなってしまったのかもしれません」
微笑むと、大和が眉をひそめた。しかしその表情はどことなく、頼りないものを含んでいる。
「今の私にとって、大和さんの存在は誰よりも大きいです。……お父さんか、お母さんか、大和さん。この中から一人選べと言われたら、私は迷わず大和さんを選びます。たぶん、この認識が、そういった思考回路に繋がっているのかもしれません」
「……。それは、……まこと本心によるものか」
「はい」
とうとう大和が俯きがちになり、地面に視線を落とした。悩ましげな息を吐く。
「信用できぬと仰るのであれば、今ここで大和さんに忠誠を誓っても構いません」
言い終わるなり大和がハッと息を呑み、すぐさま顔を上げた。真正面から見つめられるが、自分の事を言うだけ言い終わったせいか、居心地の悪さは全く感じなかった。こちらもじっと見返して、なかば無表情のにらめっこのような状況だと気付くと、自然と頬が緩んだ。
ふいに、大和の視線が外された。の顔から、その後ろへ視線を向け、なんと形容したらいいのかわからない表情を浮かべた。眉をひそめ、唇をわななかせ、大和らしからぬその姿から、焦りと狼狽が見て取れる。首を傾げつつも大和に釣られて振り返り、そうして自然と、口から声がもれた。
見ている。ものすごく、見ている。
微笑ましげな目つきで、大和との二人をおしなべるように、見ていた。そこで初めて、の存在が、すっかり頭から抜け落ちていた事に気付かされた。ともすれば、大和のらしからぬ表情にも納得できてしまう。
思い返せば、いつもより遥かに熱の篭った言葉を口に出したような気がする。それを全てに聞かれてしまったのだ。じわじわと恥ずかしさがこみ上げてきて、気付けば両手で口元を覆っていた。
「……あ、俺の事はどうぞ気にせず続けてください」
どうぞどうぞ、とまるで何かを勧めるかのように突き出しされた手のひらを見つめ、はふるふると首を振った。笑われるならまだしも、あんな風に包み込むような眼差しを向けられるのは、正直たまったものではない。非常な恥ずかしさにそのまま身を任せ、逃げ出したい衝動に駆られる。両手を下ろすのとほぼ同時に俯いて、から距離を置くように一歩後ずさる。
不意に、右の手首に何かが触れた。不思議と驚くこともせず目を向ければ、白い手袋に包まれた手がある。の手首を掴んでいる形なのだが、けれどもただ添えるだけの力加減だった。いつの間にか、すぐ近くに大和が立っている。そう実感した途端、不思議と、逃げ出したい衝動がどこかへ消えていった。
「……。。申し訳ないのだが、席を外してはもらえないだろうか」
「さっき『席外そうか?』つったら、構わんって返したのは、どこの誰でしたっけ?」
「私と、だな」
大和の回答に、が肩をすくめてみせた。
「俺はもう用済みってわけか。ほんとひどい二人だよねぇ?」
冗談めかして言った後、尋ねるようにフェンリルのほうに顔を向けるが、フェンリルはちらりとのほうを見ただけで、あとはそっぽを向いてしまった。ひどく冷たい仕草に、がむすっと口を尖らせる。
しかし、拗ねたような表情は一瞬のことだった。上着のポケットに手を突っ込んで、こちらに顔を向けた時には、すでに笑顔になっていた。
雲間からのぞく太陽のような、とびきり眩しい表情。快晴の空を彷彿させるようなある種清清しいその顔に、まるで引きずり込まれるような気持ちにさせられる。
「」
名前を呼ばれた。
ごくごく当たり前に自分の名を呼ぶその声に、どうしてか――息が詰まりそうになる。
今にして思えば、あの日、東京支局に来てから初めて迎えた朝に、という少年が自分の部屋を尋ねていなかったら、どうなっていたのだろうか。ふいに疑問がもたげた。
もし、部屋の扉に鍵をかけていたら?
もし、覗き込んできた少年に驚いて、悲鳴をあげてしまったら?
もし、道を尋ねる少年にとりつくしまを与えなかったら?
そうしていたのであれば――少なくとも、今、この時、この瞬間に、自分はこの場所に立っていなかったはずだ。
たったの、五日間。時間に換算してしまえば、五日にも満たない間、どれだけ彼と行動を共にしたのか。少ない時間は、けれどもある種の感慨を抱かせるほど、濃密なものだった。
「またね」
――もう、大丈夫だよね?
言葉とは裏腹、優しく労るような視線でそう尋ねられたような気がした。
何が大丈夫なのか。考えるよりも先にしっかりと頷いてみせると、が目を細める。
「はい。また、いつか」
また明日でもなく、また今度でもなく、またいつかを選んで口に出した。
のその言葉に、は満足げに頷いてみせた。それから一度大和の方に目配せをし、ニヤリと表現するに相応しい笑みを浮かべた後、くるりと身体を反転させてしまう。フードから伸びる二本の紐のような、18歳という歳にはあまり似つかわしくないような子供っぽい上着。けれどもそれが不思議と彼には似合っていて――はその紐を揺らしながら階段を駆け上っていき、そうして姿が見えなくなってしまった。
寂しいような、それでも心は温かいような、不思議な空気の余韻。それに浸っていると、いつしか手首の枷はなくなっていた。自由になった手を動かし、静かに息を吐いて大和の顔を見ようとしたとたん、唐突に、目元をそっと撫でられた。
「今生の別れでもあるまい」
大和にしては珍しく、気遣うような声だった。ともすれば、今頬に触れた手が手袋をはめていない素の状態なのは、彼なりに気を遣っているからなのだろう。
目元ばかりをしつこいくらいに撫でられて、どうやら、いつの間にか泣いていたらしい事に気づかされた。されるがままに瞼を閉じると、大和の指がまつ毛をかすめた。いつもの強引で実直な言動からは想像できないようなその手つきは、あまりにも優しすぎる。大和の指先は存外温かくて、そして、ほんの少しくすぐったい。
「くんに、たくさんお世話になりました」
「そうだな」
「まだ、話してない事がたくさんあったのに……。せめて、お礼だけでも、伝えたかったです」
「……。私から伝えておこう」
ゆっくり目を開けると、深いものを湛えた瞳と目が合った。慰めと呼ぶには軽すぎるし、けれどもいたわると呼ぶには重い。いつもの大和からは想像できないような、見る者を魅了するような甘美すぎる眼差しに、自分の意思とは関係なしに頬が熱を帯びていくのを感じる。意識してしまうと、焦りにも似た感覚が全身を支配し、身動きがとれなくなる。頬の熱に気づいてからは、余計にそれが気になって仕方ない。こういうのは気にすれば気にするほど後戻りできなくなると分かっているのに、どうしてか大和がにわかに微笑むものだから、耳はおろか足のつま先まで熱く感じられるようになってしまった。
なんともいえない恥ずかしさを自覚していながらも、大和の厚意をむげにする事は憚られた。そもそも、そんな選択をできるはずもなく、ただされるがままに享受する。頬に移動した指が、涙の痕跡を拭い去るように、優しく優しくさすってくれる。
秋の冴えた空気にまざりこむ、大和の規則正しい呼吸と、あたたかな指先が頬をさすったときに生じる密やかな音が、どことなく気持ちを宥めさせてくれて、心を覆っていた不安や悲しみを少しずつ消し去ってくれた。
ふと、大和の指が離れた。自然と目で追いかけてしまいそうになり、けれども次の瞬間には反対側の頬を同じように撫でられ、心の底からこれでもかというほどの安堵で満たされた。触れている面積はごく僅かなのに、そこから生じる包み込むような安心感。
「っ……」
大和の、詰めたような声にはっとした。いつの間にか大和の指先が固まっていて、いや、指先どころではなく、全身までもが硬直していて、――無意識のうちに頬擦りなんかしてしまっていた事に気付かされた。
確かに、大和の指が温かくて、こそばゆくて、優しい感触が今まで感じたことのないくらい心地よかったのは事実で、しかしこれはあんまりに過ぎる。
恐る恐る大和の顔を見る。大和は目を見開いたまま、どこか釈然としない様子でを見つめていたが、しばらくしての視線から逃れるように目を逸らした。一度目を閉じ、詰めたような息を吐く。まぶたを開けて、見つめてくる眼差しはひどく静かなものだったが、瞳の奥深くでは何かを訴えているように見える。しかし、には大和の考えている事がわからなかった。
しばらくの間見つめ合っていると、大和は一度だけ瞬きをしたあとに目を伏せ、宙に浮かせたままの指先を伸ばす。つられて肩がはね、思わず身を竦めてしまう。すると大和はさらに眉を寄せて、ごしごしと頬を指で擦ってきた。乱暴な手つきではあるが、けれども痛みはない。
最後に一撫でを付け加え、手が離れた。そのまま下に降ろされた手は、するりと手袋に覆われてしまう。そして、静かにゆったりとした動作で、腕はあるべき所へ戻っていった。
大和が、ふう、と小さなため息をついた。安堵めいた、何かをやり遂げたかのようなその吐息に、自然と体が強張る。何だか昨日から、みっともない姿を見られてばかりだと気付き、大和に対し頭が上げられなくなってしまう。
「……。顔を上げたまえ」
「はい」
確か、昨日も同じような事を言われた気がした。二日続けて同じ事を繰り返してしまった情けなさを堪えるように目を閉じ、気を取り直して顔を上げる。まぶたを開けたその先に待っていたのは、なんとも形容しがたい、大和の表情だった。
多分、不服そうな面持ちなのだろう。しかし、その表情はいつもと違う印象を与える。それはきっと、大和が気まぐれに優しくしてくれたからなのかもしれないと、ぼんやりと考えてしまう。
「」
「はい」
「……。自己犠牲の精神は、大いに結構だ。だが私は、それを喜ばしいと思わん」
「はい」
「……。身を粉にする必要はないだろう?」
「安心してください。私は、そこまでするつもりは毛頭ありません」
そう言うなり、疑うような視線を向けられ、自然と口元が緩んだ。以外に、過保護な人だったらしい。
「むしろ、私からすれば、大和さんのほうが身を粉にしているように見えます」
「……何?」
「腐敗していると嘆く社会を、見捨てる選択肢もあったはずです。なのに、休息のひとつも取らずに朝から晩まで……いつか過労死してしまうんじゃないかって、いつも不安なんですよ」
「私は世捨て人になる気はない。それに、できるだけ睡眠は取るようにしている」
「……では、お休みの日は?」
黙ってしまった。おまけに視線がちょっと上のほうを向いてしまう。しかし、じっと見つめていると、観念したかのように肩を少しだけ落とした。
「下らん。休暇なんぞ不要だ。第一、私が休めばどうなるか……」
「案外、どうにかなったりしないものですよ?」
「フッ、私の手を煩わせる愚鈍な者ばかりだ。結果は分かりきっている」
「でも、それは今までの話です。くんが望む世界では、どうなるか分からないじゃありませんか」
「そうだな。しかし、お前の言っている事は絵空事に過ぎん」
自嘲の笑みから、諦めが見て取れる。
自分の命を削ってまでして、この国のために尽くす理由はなんなのか? に対し自分を犠牲にするなとさんざ言った割に、自分がむしろそうであるのだと、大和は気付いているのだろうか?
心配性と言うより、優しいのかもしれない。それも、度が過ぎるほどに。
人が呼吸の仕方や、瞬きの仕方を誰にも教わる事無く、一切の疑問を抱かずに出来るように――大和もまた、腐敗した世界に尽くすことが、生まれながらにして当たり前なのだ。幼少期に叩き込まれた教育によって、大和の価値観はひどく歪んでしまっている。
「……大和さん。お願いですから、もう少しご自分を大切になさってください」
懇願の声は、情けなくも震えていた。それでも、大和から目を逸らさずに言ったのは、自分にしては上出来だろう。
大和にとって峰津院という家柄は唯一無二に等しく、もはや存在意義となっている。当主なのだから当たり前だ。しかし峰津院大和から峰津院を取ったら、そこには一体何が残るのというのだろうか――
「申し訳ありません。さっき、私は大和さんに、嘘をつきました」
「……。何をだ」
「見返りは求めていませんと言いましたが、ひとつだけ……」
言いよどむと、大和が次の言葉を促すように首をかしげた。どうやら嘘を吐いた事を責める素振りを全く見せないことに内心ほっとする。責めるでもなく、かといって恥じるわけでもない、子供のような純粋さを湛えた瞳を見上げ、小さく息を吸い込む。
「私は、大和さんに、幸せになって欲しいです。それだけが、唯一の望みです」
言い終わるなり、大和が目をしばたたかせた。何を言われているのかわからず困惑している、といった雰囲気だ。大和という人は察しの悪い人ではないし、言葉の意図を汲み取る能力は誰よりも高い。ともすれば、こちらの言い方がおかしかったのではないかと不安になってくる。しかし、今口にした言葉よりも自分の心境を伝えられる言葉が思いつかず、自然と、視線が大和の首元にまで下がってしまった。ネクタイの結び目をじっと見つめる。黒いネクタイ。そういえば今朝、このネクタイの上に座ってしまった事を思い出し、なんとも居た堪れない気持ちになってくる。
刹那、黒いネクタイが――大和の体が僅かに動いた。視線を上げると喉が動いているのが視界に入り、次いで、静かな声が耳に滑り込んできた。
「……。それで、……それだけ、なのか」
「はい」
頷いて、大和の表情を真っ直ぐに見つめる。端正な顔には感情の色が薄かったが、けれどもわずかな戸惑いが浮かんで見えた。
「……望みが叶えば、どうなるというのだ?」
「大和さんが幸せになってくれたら、私は幸せです」
言ってから微笑んで、そうして気付いた。無理して言葉を着飾らずに、ただシンプルに答えればよかったのだ。
――幸せに、なって欲しい。
家柄がどうであれ、この世に生を受けたのであれば、相応に幸せになるべきだ。人が生まれながらにして持つその権利は、大和にだってちゃんとある。その権利を踏みにじってまで、世のために尽くすくらいなら――と思ってしまうのは、さすがに驕りかもしれない。
大和は眉をひそめ、不愉快そうに目を細め、口元を引き結んでいる。露骨な不快感をあらわにした表情。いつもであれば大和の機嫌を損ねてしまったと、すぐに頭を下げていただろう。しかし、何も言わずにただ硬直したまま、けれどもある部分だけじわじわと変化を見せ――はきょとんとしたまま、大和と同じように硬直し、馬鹿みたいにその顔を見つめていた。
だって、――頬が赤いのだ。
もともと白いから、その色が余計に目立つ。
怒っている顔なのに、不愉快そうな目元は何故か弱弱しい。裏を返せばその表情は心底困っているのだという風に見えなくもない。そんな、初めて見る大和のその表情に、どうしてか――どうしても目を逸らせない。一瞬のまばたきすらひそめさせるほど、身動きが取れなくなる。
どうして、大和はそんな一大事な表情をしているのか。体調を壊したとか熱があるわけでもなし、一人で勝手に赤面するような人柄でもなし、だとするならば起因は自分にあるのだとは考える。そうして、自分の言動を思い返し――ハッとした。幸せになってほしい、幸せになってくれたら私も嬉しい、だなんて、随分と自己陶酔した台詞を口走ってしまった。そんな恥ずかしい言葉、普通は言えないし言わないだろう。強烈な後悔と、言いようのない羞恥が湧き上がってくる。けれども、映画や小説に出てくるような恥ずかしい台詞はだいたい、喋っている側よりも、見ている側や受け取っている側の方が恥ずかしいもので――
徐々に、心音が早くなっていく。鼓動が、ぐわんぐわんと揺れる頭の中に響き渡る。自分の顔が今、目も当てられないくらい熱に浮かされているのが、わかる。
真正面から顔を突き合わせ、しかしお互いに何も言わない。言えないし、言い出せない。何か言わなければいけないと心は焦るのに、口も体も、うまく自由にならない。思考のみが自由で、それはきっと目の前の人も一緒なのだろうと不思議な信頼感が芽生え、それに混乱してしまう。
すでに現実感もなくなり、なかば窮地に立たされたような気持ちのなか、おかしいくらい恥じらいを隠す事もせず、大和の瞳を真っ直ぐにじっと見つめて、見つめ合っていた。
どれだけの間、そうしていたのだろうか。
先に動いたのは、大和のほうだった。
「は」
「はい」
「……」
「……」
しばし、沈黙する。
「……その、……だな」
「はい」
頷いて、大和の言葉をひたすら待つ。しかし、一向に大和の口から言葉は出てこない。僅かに開けた口を引き結び、何か持て余したように逡巡する仕草を見せる。
「……大和さん?」
なんとかかんとか、ぎこちない動作で首を傾げると、大和がようやっと口を開いた。表情は相変わらず、一大事のまま。
「……、その……」
やっぱり言いよどんで、けれども救いを求めるような視線をに向けた後。
してはくれないのか――?
蚊の鳴くような、か細い声だった。
形を伴わないそれは、風にさらわれ、すぐに儚く消えてしまう。
「……。すまない。何でもない」
大和は直後にかぶりを振って否定し、僅かに顔を逸らし、盛大にため息を吐いた。
大和の唇はさして動いてはいなかったし、自分の気のせいではないのか? 聞き間違いだったのではないか? もしかしたら幻でも見てしまったのではないか? と次々にそんな考えが浮かんでしまう。大和がそんな事を口走ったことがにわかに信じられず、頭は混乱し、思考までもが上手く働かなくなってしまった。
してはくれないのかだなんて、一体、何を――? とぼけた思考とは裏腹に、口が勝手に動いていた。
「……ゃ、……や、大和さんが、望むのでしたら」
行動というのは、想いがあってこそ生じるものだ。結局のところ、大和の言動をとぼけてごまかそうとしていたけれど、心の奥底ではしっかり受け止めて、行動に移してしまったらしい。言い終わってから、認めたいような、認めたくないようなそんなどうしようもなさに襲われ、俯くほかなくなってしまった。
相手に判断を委ねるなんて、臆病で、卑怯にもほどがある。
――けれども、多分、お互い様だ。
「……。そうか」
意外にいつもどおりの調子な返答に戸惑いつつも、は頷いて応じた。そうしてから、やはり聞き間違いだったのではないか、という不安がじわじわと胸の内を侵食し始める。もし聞き間違いだとしたら、なんて間抜けな、へんてこな発言をしてしまったのだろうか――
「……。、顔を上げたまえ」
おそらく、今日で三回目になるだろう発言だった。内心謝りつつ、ゆっくりのろのろと顔を上げ、はきはきとした動作ができない事にまた内心で謝罪を述べる。
大和の顔はもう平坦な表情に戻っていた。頬の赤みは引けていたが、それでも幾分か、というくらいで、やはりまだ赤いような気がした。いつも見る大和の皮膚は作り物めいたように真っ白だったから、桜色の頬を見ると、この人にもしっかり血が通っているのだと、変な感慨を抱いてしまう。
「無理について来いとは言わん。お前が残りたいと言うのであれば、残れ」
「はい」
「それと……可能な限り、東京タワー近辺に留まれ」
大和の言葉に、自然と首を傾げた。
「……ここでは、だめなのでしょうか?」
「駄目というわけではないが……、結界はタワーを中心に形成されていたからな。無の侵食がこのまま進めば、最後に呑まれるのはタワーになるだろう」
どうやら、気にかけてくれているようだった。そのことが、ありがたくもあり、純粋に嬉しい。
「わかりました。……今の話は、残っている方々にも伝えたほうがよいでしょうか?」
「……判断はお前に任せるさ。少なくとも、今日の夜までは大丈夫だろう」
頷いて応じると、大和はそれで満足したようだった。大和の頬の色もいつしか消え去り、いつもと同じような薄い笑みを浮かべている。ならば自分も、普段どおりに接するべきだろう。
「……。では、そろそろ行く」
「……はい」
頷いて、お気をつけてと頭を下げようとしたが、大和が逡巡するような仕草を見せたので、背筋を伸ばしたまま待った。やや間を置いて、大和が口を開く。
「……。冬の視察だが、これまでと同様の時期に向かう。構わんな?」
大和の発言に、は思わず目を見張った。一度まばたきをしたのち、すぐに頷いて見せた。
「はい。お待ちしております」
心からの歓迎を、言葉で伝える。大和はそれで満足したのか、僅かに目を細めた。
「……。」
「はい」
「発言の数々……失念する事は、許さんぞ」
「承知いたしました。大和さんの不興を買う事がないよう肝に銘じておきます。そういう大和さんも、自身の事を棚に上げないよう、お願いしますね」
「無論だ」
ふっと、大和が笑う。
その笑顔は、いつもの作り笑いでもなく、自嘲するような笑みでもない、ごくごく自然なものだった。
「……大和さん」
「何だ?」
「お手を」
「……。忠誠ならば、不要だ」
大和が一転して不審そうな顔をするものだから、は思わず苦笑を浮かべた。
「そのつもりはありません。せめて、大和さんの無事を祈らせていただきたいんです」
すると大和は表情から警戒の色をなくし、けれどもぎこちなく、おずおずと手を差し出してくる。その仕草がいつもの大和らしからぬもので、はくすくすと笑いながらその手を取った。
「何がおかしい?」
「ふふ、無駄に警戒させてしまいましたね。申し訳ありません」
白い手袋に包まれた手を、両手で包み込む。華奢な手指だとは思っていたが、実際に触れてみると案外大きかった。
「あなたに、安穏と祝福がもたらされますように――」
最後に一度だけ、大和の両手を握る手に力をこめた。とはいえ、そこまで力をこめたわけでもなし、握られた側からすれば痛くも痒くもないくらいだろう。
「……。お前は、神道の家の子ではなかっただろうか」
「そうですが……神道にしろ、仏教にしろ、基督教にしろ、信仰心など毛の先ほどありません」
「初耳だ」
「ひた隠しにしていましたから」
おしまいです、と語尾に付け足して大和の手を開放する。随分とあっさりした祈りだったせいか、大和は怪訝そうに首を傾げつつも、手を元の位置へ戻した。
「今のは、父と母には内緒にしておいてくださいね。家業を馬鹿にしたと怒られてしまいます」
「……。心得た。しかし、お前にとって宗教とは、ひどく都合のいいものだな」
「宗教なんて、精神の寄る辺を得るためのものでしょう。私には大切な方がいますから、必要ありません」
大和が喉の奥でぐっと詰まったような声を漏らした。もしかしたら、軽く咳払いをしたのかもしれない。
「……。よくもまあ、臆面もなく舌が回る」
「想っている事は、口にしないと伝わらないものです。……と、くんに教わりました」
語尾に付け足した言葉に、大和が小さなため息をついた。
思っていることをそのまま心の内にしまっておいても、相手にたとえばテレパシー能力があったりだとか、そんな超常的な能力が備わっていれば伝わるかもしれないが、も大和も、相手の気持ちなんか読めるわけがない、普通の人間だった。
大和も同じ事を考えたのかどうかは知らないが、一度だけ――そうだな――と控えめに頷いた。
「今日は、大和さんとたくさんお話ができて、よかったです」
「……。私もだ」
お互いに微笑み合う。
空は快晴――まるで笑顔が素敵な誰かの瞳を思い出すほど透き通って青く、真上に浮かぶ陽光は温かく、空気はうっすらと冷たくなりつつあり、それでもひんやりとした風が心地よい。心の底に堆積した汚れを洗い流してくれるような静謐さを感じる空気に浸り、一度目を閉じる。
呼吸の後に、目を開ける。景色は変わっていない。何も変わりはしていない。当たり前だ。ただ目を閉じて開けただけなのだから。それでも、どこか、何かが違っていて――ふと、ある考えがの心にすっと降りてきた。
「なんだか、自分でも変な話だとは思いますが……今この時、大和さんとお話するために、私は命を授かったのかもしれません」
「……。何を馬鹿な事を言っている」
「ふふ、そうですね。自分でもおかしいと思います」
笑いながら同調すると、大和が呆れたようにため息をついた。
「……。よしんば、それがお前の言う通りだったとしても――」
「ぇ?」
「この時が過ぎたら、……それこそ明日や明後日など、その先はどうなる」
尋ねられ、まさか食いつかれるとは思っても見なかったと内心驚きつつ、は思案をめぐらせた。
しかし、思案をめぐらせたところで、どうしてか真っ先に、考えるのは無駄だという結論が頭に浮かんでしまった。
「わかりませんが、多分、もしかしたら、その先にもそういった感慨を抱くときがあるかもしれません」
口では多分と言葉を濁したが、心の中では絶対的な確信をもってして――きっと、大和といる時に必ず、何度もそういった感慨を抱くという事しか、想像できなかった。不思議だとは思うのだが、の中ではそれが当たり前だと認識されているのだから、仕方がない。
の返答を聞き終わるなり、大和はふっと笑って、かすかに身じろぎした。
「……。長話が過ぎたな。それでは、行ってくる」
「はい。どうかお気をつけていってらっしゃいませ」
頭を下げると、コンクリートを踏みしめる音が響いた。視界の隅にうつりこむ大和の靴が向きを変えた。視界から出て行く踵を追いすがるように頭を上げ、けれどもその場に直立したまま、大和の背中を見つめる。こうやって幾度となくその背中を見つめた気がするが、けれども遠ざかっていく距離に反して、寂しいといった気持ちはまるでなかった。むしろ安堵の気持ちと、清清しささえ覚えるほどだ。
何のために追いかけていたのかわからないその背中を見失った時もあったが、きっと、おそらく明日からはもう見失う事もせず、ただ信じてついていく事ができる。たとえ見失ったとしても、自分で道を捜せばいい。誰かに頼る事だって、できる。
そうしたら、すぐに追いつけるかもしれない――
――いつかきっと、憧れたあの背中に、手が届くはずだ。