3.

 あれから数日後、臨也は性懲りも無く池袋の街中を徘徊していた。
 ――ことの発端は、数日前の夕方まで遡る。仕事中、粟楠会の幹部の四木に呼び出しを食らったのだ。電話で直々に仕事の依頼を切り出された手前、無視するなんて事ができるわけもなく、臨也は池袋に赴いた。
 路肩に止めた車の中で、四木相手に情報屋としての仕事の最中のこと。ふと何気なく顔を上げた先、フロントガラスの向こう、帰宅途中のサラリーマンやOLの雑踏の中に、きょろきょろと辺りを見回しながら、慎重な足取りのの姿を見つけてしまったのが、そもそものきっかけではあった。
 見つけた当初、臨也は気にしないよう努めてみたものの、人間というものはそうすると返ってひどく気になってしまうものだ。そうしているうちに、が道行く人に足をとられ、躓いて転んだ姿を見たのなら尚更だった。
 子供一人が転んだというのに、誰にも姿が見えないらしく、気に留められる事は皆無だった。の身体を踏みつけるか踏みつけないかというギリギリの距離で、歩行者が通り過ぎていく。のろのろと立ち上がったは、周りを見回しながら、人にぶつからないように気遣う様子を見せながらも、小走りで雑踏の奥へと消えて行く。
 それからの臨也の行動は迅速だった。相手に対して礼を欠かないという事を念頭に置きながら、四木との話を簡単に纏めると、報酬は口座に振り込むよう告げ、怪訝そうな表情を浮かべる四木に対して挨拶もそこそこに、急ぎの用があるからと車を出た。
 すぐさまが消えた方に向かい、やけに小さく見える後姿を見つけ、小走りで追いかける。臨也が声をかけようと口を開くよりも先に、が首だけで振り返った。
 目が合うなり、はまるで天敵にでも遭遇したといった風に顔を顰めた。パッと正面に顔を戻すなり、全速力で走り出す。臨也は慌てて追いかけては見たものの、信号に捉まってしまい、を見失ったのであった。
 これが先日の出来事である。それから日を置いて、仕事が終わるとちょくちょくの姿を探すようになったのだが、遭遇すると必ずと言っていいほどに嫌な顔をされ、見事に逃げられてしまうのである。しかも動物並みに足が早いので追いつく事も叶わず、さすが人外と行った所か、なんて臨也は納得する素振りを見せながらも、本心はそうではなかった。自分の顔を見て、あんな嫌そうな顔をされて逃げられるなど、たまったものじゃない。
 今までの経験上、と遭遇したのは人通りが多く、且つ暗い路地裏に面した道路で遭遇することが多かったので、今日も今日とて、臨也はそういった条件に見合った箇所ばかりを歩いていた。
 そうして見つけたのは、首無しライダー・セルティであった。人通りもまばらな裏路地、道路の反対側、路上脇に停めた自慢の大型バイクにもたれかかり、携帯を操作している。
 車が来ないのを確認しつつ、臨也は反対側の歩道へ移動した。
「やあセルティ」
 声をかけると、セルティが顔を上げた。セルティは臨也の姿を捉えると、携帯を手早く操作し、胸元にしまいこむ。代わりにいつものPDAを取り出した。
『臨也か。なんでここにいるんだ』
 表示されている文字を見て、臨也は一度瞬きした。どう答えようか迷ったのである。
「仕事の都合で、ちょっとね」
『怪しいな』
 常套句を言えば、そう一蹴されてしまった。
「見た目が怪しい君に言われたくないなあ」
 ケラケラ笑うと、セルティが不満そうな空気を纏わりつかせた。PDAを仕舞おうとするので、臨也が「ストップ」と制止の声をかけると、セルティは渋々と言った感じで、またPDAを取り出した。
「この前、新羅の家では悪かったよ」
 できるだけ申し訳なさそうに言ってみると、ピクリとセルティの肩が揺れた。
『本気でそう思ってるのか』
「思ってるよ」
 信用ないなあ、と臨也が肩をすくめて見せるが、セルティは無言のままだ。いや、口がないのだから喋れないのは当たり前なのだが。
「……うーん、正直に言うけど、こっちに来たのは仕事の都合じゃなくて、に謝ろうと思ってなんだ。探してるんだけど、今日は見つからなくてさ」
『今日はって、まさか、毎日探してるとかじゃないだろうな』
「当たり前だろ」
 臨也が言えば、セルティが胸に手を置き、安堵したとでもいうような仕草を見せる。
「とはいえ何回かは遭遇したんだ。でも見つけるなりあっちも俺に気づいて、すぐに逃げられちゃうんだけどね。なんでだろう?」
『なんでだろう、って……普通は逃げるだろ』
「えっ、なんでかな?」
 臨也が人のよさそうな、それでも悪戯っぽい笑顔を浮かべると、セルティは何か思うところがある、というような素振りで俯きがちになった。臨也のあからさまな、相手を試すような表情に対し、呆れがちにゆるく首を振ってからPDAを操作し始める。
なら、さっき会ったぞ』
「どこで?」
『そっちにある公園で』
 セルティが指を刺した先には、確かに公園があった。
『ベンチに座ってぼーっとしていた。すぐに別れたから、どこかに行ってしまったと思うが』
「ふうん」
 臨也はさして興味なさそうに頷いたが、それでも内心落胆した。つまり、少し早くこっちに来ていれば、会えたかも知れなかったからだ。
 後悔とまではいかないものの、それでも考え込んでいる臨也の事などセルティは露知らずといった様子だったが、いきなりハッとした様子になり、カタカタと素早くPDAのキーを打ち始めた。その音に気づいた臨也が顔を上げてすぐ、目前に画面が突き出される。
「セルティ、近いって」
 セルティの肩がはっとした様子で跳ね、画面が少しばかり引っ込んだ。
『臨也に頼みがあるんだ』
 その文面を見るなり、臨也はやや小首を傾げて見せた。
「君が俺に? 珍しいね、なんだい?」
『写真を買い取ってくれそうなところを教えて欲しい』
 ははあ、と臨也は悪人の顔つきになった。なるほどカメラを買い与える発想まではあったが、撮った写真を売るところからは不透明だったらしい。それをからかってやろうと思ったが、臨也は猫耳ヘルメットをじっと見つめ、暫し考え込んだ後、やめにした。
「とりあえず、どんな写真だい?」
『写真内容は、私もわからないんだ。追って連絡後、そのときに見せる、という形でいいだろうか』
「……わかった。いいよ」
 了承すると、セルティが心底ほっとしたような空気を放った。
「その代わりにさ、こっちも頼みがあるんだけど」
 セルティの身体が強張った。何をそんなに警戒しているんだと臨也は思ったが、口にすることはしなかった。
『なんだ?』
 しばらくして、そんな文字が表示されているPDAを突き出される。いざやは文面を見つめた後、セルティにわからない程度に口元を緩めると、
の帽子が置いてある、骨董店とやらを教えて欲しい」

 情報を手に入れた臨也の行動は素早いものだった。
 すぐに新宿のマンションに戻ると、まず波江に連絡を取った。急用ができたので、明日の午前中の予定をすべてキャンセルする、といった内容を手短に伝えると、波江の文句が聞こえてきたのですぐさま電話を切り、自室にこもって睡眠を取った。
 朝の七時に目を覚ますと、適当に、冷蔵庫の中にある物をかき集め、雑炊もどきを作って朝食を済ませた。顔を洗って歯を磨いて着替え終わったのが八時。それから自分のデスクで仕事をしていると、波江が出社してきた。
 出社早々文句を言われたが、臨也はそれを適当に受け流し、自分のコートを羽織って、波江と入れ違いざま根城を後にした。
 ――閑静な住宅街の中のひときわ目立つボロい家。
 ――松島骨董店、という看板の下がった古き良き日本家屋がトレードマーク。
 セルティから教えて貰った大まかな住所と、その外見を頼りに、なんとか件の骨董店を探し当てたのが開店時間の九時ちょうどであった。我ながら素晴らしいと臨也は自画自賛しつつ、見るからにボロい引き戸をガラガラと開けた。
 途端に、むわっとしたホコリ臭さが鼻をつき、臨也は顔を顰めた。コートの袖で口元を覆いながら中に入ると、後ろ手に引き戸を閉める。
 店内の奥にあるカウンターには、いるべきはずの店主はいない。首を傾げながらも、カウンターの奥に続く座敷を覗き込もうと臨也が首を伸ばすと、
「いらっしゃいやせえ」
 どこからともなく声が聞こえてきて、臨也は目を見開いた。店内を見回してみるが、どこにもそれらしき人は見当たらない。と、思いきや、狸の置物にまぎれてミカンを頬張る老婆が畳に座っていた。あまりにも置物の中で馴染んでいるので、臨也は見落としていたのだ。
 臨也は老婆に微笑み返し、再度、店内を物色するように見回した。
 熊の皮が壁にかかっているが、ホコリまみれで毛並みはやや白っぽくなっていた。ガラスケースに入った雉の剥製が置いてある。その隣にも同じようにケースに入った、小熊や鷲やよくわからない獣の剥製がずらりと並んでいた。他には水牛の角があったり、あまり柄が綺麗ではない茶碗が置いてあったり、掛け軸が入っているらしい細長い箱が置いてあったり、いつの時代かわからないが御侍さん的鎧が置いてあったりと、まあまあそれっぽい品揃えではあった。
 しかし商品のどれもに値札はついていない。おそらく店主に聞かないと値段は教えてくれないだろう。
 テーブルの下、足元にごちゃごちゃに並べられた食器類のなか、なかなか柄の良いラーメン丼に目が留まる。そういえば丼が欲しかったなあと臨也は思いつつ、ふっと視線を上げた先、棚の上に小汚い雑巾のような物が置いてあるのが目に入った。着物用の布らしい鮮やかな和柄の中に紛れて置かれているそれが、臨也にはやけに浮いて見えた。
 よくよく見れば、なにやら筒状になっているような気がしないでもない。
 手を伸ばす。
「さわっひゃ、だめよ」
 ちゃ、のあたりの発音が、すかすかしていて、臨也の耳にはそう聞こえたのだった。
「あ、すみません」
 静かに注意されてしまい、臨也は渋々手を引っ込めた。
「これは、どこで、手に入れたんですか?」
 耳が遠そうだなと思い、臨也は言葉を噛み砕くようにして、途切れ途切れに言ってみた。すると老婆はフンフンと頷き、しばらくして。
「ひろいものだよ」
 拾い物を売るとはどんな店だと臨也は思ったが、それでも笑顔のままだった。
 の帽子はこれだろうと、臨也は確信した。現物を見たわけでもなし、本人から直に聞いたわけでもないのに、妙な自信が臨也にはあったのである。店内の品物に帽子らしいものはあるが陸軍の制服とのセット販売みたいなものしかなく、単品で、しかも拾い物ときたら、このボロ布以外に考えられなかった。
「これ、いくらするんですか」
 再度言葉をゆっくり噛み砕く。
 しばらくして。
「にひゃくまんえん」
 臨也は文字通り絶句した。
 このぼろ布が、――何万円だって?
「ええと、もう一度、お願いできますか?」
 思わず聞き返す。
「にひゃくまんえん」
 しばし間を置いた後。
「200円の間違いでは?」
 臨也は笑顔を貼り付けたまま尋ねた。
 まさか、と臨也は思った。これは拾い物だと、老婆は言ったのだ。その値段が200万なんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。こんなボロ布、200万もの価値があるというのか。
「にひゃくまんえん」
 老婆はまるで壊れたラジオのように、200万円を繰り返すのみだった。

『あっはっは! それで、困って僕に電話してきたんだ』
「そんなに笑うことはないだろ……」
 何がおかしいのか、電話の向こうでヒィヒィ笑い転げているらしい新羅への言葉は、苛立ちを隠せない、やや拗ねた口調になってしまった。それがおかしいらしく、新羅がまた笑い始める。臨也はクソ、と内心悪態を吐いたが、それでも電話を切るという真似はしなかった。
「なにが『にひゃくまんえん』だよ。何尋ねてもそう返して。あんなただのボロ布、200万も価値があるわけないだろ」
『何? ちゃんの帽子、そんなにひどいの?』
「まだ確定したわけじゃないけど……でも、あのボロ雑巾以外、考えられないんだよな」
『ボロ布とかボロ雑巾とか……ひどい言い様だね』
 新羅が呆れた風に笑う。恐らく、電話の向こうでは苦笑を浮かべているのだろう。
「ひどい言い様も何も、そうとしか言えない見た目をしているんだから、そう形容するのが相応しいだろ」
『相応しいだろ、って、現物見たことない俺に言われてもな……』
「ま、新羅も一度見に来れば? まるで世界の理不尽を集めたかのような店だぜ、あれは」
『うん、とりあえずひどいのはわかったよ』
 間をおいて。
『そうか。200万かぁ……』
 しみじみといった感じで、新羅が呟いた。
「ん? どうかしたかい?」
『いや、予想以上に高いな、と。手の届く範囲内だったら、買い戻してあげれたんだけどね』
 200万はちょっと、高いねえ。と、またもやしみじみといった感じで新羅が言うので、臨也は同調するようにまあな、と適当に頷いた後、妙な違和感を覚えた。
「あれ、新羅のことだからてっきり、キャッシュで! とか言いながら買うのかと思ったけど」
 新羅は闇医者だから治療費もそれなりに高いし、それ故収入も同世代よりは遥かにあるだろう。けれども財布の紐は固いらしい事が、臨也には少し意外だった。
 新羅が、あのさ臨也、と呆れたように言うのに続けて、
『これがもしセルティの、だったら、すぐにそっちに飛んで行って買い戻すけどね』
 ややぼかした風な新羅の言葉に、彼の言わんとする事がわかり、臨也はははあと意地の悪そうな顔つきになった。
「いくらセルティの友人とはいえ、興味のない奴に大金を出す義理はない、と?」
『人聞きの悪いこと言わないでくれよ』
「何を取り繕う必要があるのさ。尤もな話じゃないか。俺だってあんなのに200万も出す義理はないしね」
『……はぁ』
 落ち込んだ調子で嘆息した後、何か思うところがあるのか、新羅はそれっきり無言になってしまう。あまりにも反応がないので、臨也は訝しげな表情になった後、おい、新羅? と尋ねてみると、少しの間を置いてから反応が返ってきた。
『ごめん、セルティからメールがきてて』
 新羅の声に紛れて、カタカタとパソコンのキーを打つ音がする。どうやらパソコンデスクの前にいるらしい。
「ああそう。なんて?」
『何で臨也に教えなくちゃいけないんだよ』
「うん、俺も別に聞きたくないなぁ」
 電話の向こうからぐっと詰まったような声がした後、こほんと咳払いを挟んで、
『まあ、ちゃんの帽子に関しては、臨時収入があったら買うつもりではあるけど』
「えっ、本気?」
『本気さ。というか、今臨也とした話、全部セルティに伝えてもいいかい?』
「勝手にどうぞ」
 ややあって、コトリと音がした。どうやら携帯をどこかに置いたらしく、新羅の声が聞こえなくなる。そうしてしばらくの間、カタカタとパソコンのキーを打つ音が微かに響いてくる。
「おい」
 なんだか口寂しくなり、そう声に出してみると、
『あ? なんだい』
 まさか反応が返ってくるとは思わず、臨也は口元を引き攣らせた。
「うわ、スピーカーにしてるなら言えよ」
 思わず、反射的に文句を口にしてしまった。電話口の向こうから、ああ悪い、と大して悪びれた様子ない新羅の声が返ってきたので、臨也がそれを指摘しようとすると、パソコンのスピーカーからだろうか、メールの受信音のようなものが聞こえてきた。
『お』
 新羅の呟く声がして、しばらくすると。
『い、臨也、朗報だ』
「なんだよ」
『セルティの今日の仕事の報酬、250万だって!』
 何を運んだら一日で250万も貰えるのか。臨也はそう思ったが、口には出さなかった。大方、所持するだけで捕まるレベルの、禄でもないものを運んだのだろう。
 そう考えてから、臨也はハッとした。250万という大金、の帽子が余裕で購入できる金額である。
ちゃんの帽子! 買えるよ!』
「……買えるったって、ねえ。セルティには無理だろ」
『はぁ? 当たり前だろ。セルティが帰宅したら、俺が買いに行くんだよ』
「へぇ。いつ帰ってくるって?」
『昼ごろだって』
 うん、今日中に買えそうだな、と新羅が一人ごちるのを、臨也は黙って聞いていた。
 もし新羅があの帽子を購入したら、と思考を巡らせる。恐らく新羅は、に帽子を渡すだろう。目的の物が入ったはどうするか。忽然と姿を消すだろう事は、想像に難くなかった。
 せっかく、セルティ以外の、純粋な人外に会ったのだ。人ではない時点で臨也はの事を好いてはいなかったが、それでも興味の対象には含まれていた。帽子をかぶると透明になれるのか、気になって仕方ないのである。を手懐けれそうだったらそうして、あわよくば手駒に、とも思う。もし使えなかったらばっさり切り捨てれば良いのだ。
「新羅、本気で買うつもりなのかい」
『うん。そうだけど』
 返事を聞くなり、臨也は無言で電話を切った。
 その足で最寄の銀行に立ち寄ると、臨也は窓口から現金200万を引き落とした。大金が入った紙封筒を片手に、再度あの骨董店へ向かう。
 引き戸を開け、カウンターに向かう。置物に紛れて座っている老婆の前に封筒を叩きつけると、老婆が「ヒョッ」と声を上げた。
「あのぼろ雑巾、売ってくれ」
 しばらくして。
「どのぞうきんだえ?」
 そう返ってきた。

 顧客に年賀状を送るという、尤もな理由でカウンターに置いてあった名簿に記帳したのち、臨也は会計を済ませてボロ雑巾もとい帽子を手に入れると、寄り道もせずに新宿のマンションに帰宅した。そんな臨也を玄関で出迎えた波江は、臨也の手にある帽子を見るなり、ゴミでも見るような目つきに変わる。
「捨てていらっしゃい」
「いやだね。これは大事なものなんだ」
 臨也は一直線に自分のデスクに向かうと、脱いだコートを椅子の背もたれにかけた。
 椅子に腰を下ろし、くるりくるりと椅子を半回転させて遊びながら、手元の帽子をじっと見つめる。臨也がボロ雑巾と評したそれは、確かに帽子の形をしていた。とはいえ野球帽や、つばつき帽子のようなちゃんとしたものではない。まるでナイトキャップのような三角形の、見るからに手抜きっぽい作りの帽子だった。
 それでも大事に使っているらしく、どころどころ縫い直しが見られる。しかしその出来栄えはお世辞にも綺麗とは言いがたい。
 臨也は思う存分帽子を検分したあと、顔に近づけてにおいを嗅いでみた。埃くさいというか、土くさいというか。干したばかりの布団のにおいというか。何くさいかと言われると、表現に困るにおいであった。というか思っていたほどくさくない。無臭とよべなくもない。
「うーん……」
 虫も湧いてなさそうなので、臨也はおもむろにそれを被ってみた。
「波江さーん」
 名前を呼ぶと、波江のスリッパの音が近づいてきた。
「うわ何それ、似合わないわね」
 センス悪いわよ。そんな言葉が左から右へと突き抜けていく。
 臨也は透明人間になれなかった。

 午後の仕事が終わり、波江が定時退社すると、臨也も仕事に一区切り付け、あの帽子を上着のポケットに突っ込み、マンションを後にした。その足で池袋に向かい、新羅の家に転がり込む。
 そして、今の感情をありったけぶつけてみれば、
『当たり前だろう』
 見た目は“それなり”な感じのするかに玉ご飯をうまそうに頬張る新羅の向かい側に座ったセルティが、そんな文字が表示されるPDAを見せ付けてきた。
『あれはの物だ。以外には使えない。お前があの帽子を被るという事は、私のシューターに乗ろうとするようなものだ』
 それを先に言えよ、と臨也は内心で悪態を吐いた。
『とはいえ、あの帽子を買ってくれたことには感謝する。ありがとう』
 PDAに次々と打ち込まれる文字を見て、臨也はその場に跪きそうな思いだった。セルティに感謝の言葉を述べられても、まるで嬉しくなかった。臨也はノロノロとソファに移動し、静かに腰を下ろした。深々と座り込み、柔らかな背もたれに身体を預けると、盛大に嘆息する。
「臨也、早とちりしたね」
 もくもくとかに玉ご飯を頬張っていた新羅が、口の中の物を飲み込んで、気の毒そうに言った。
「くそ、こんな役立たずのボロ布に200万も出しちゃったじゃないか……」
 言いながら、ポケットに突っ込んだままの帽子を引っ張り出してみる。リビングの照明の明かりを透かすほどの薄い布で作られたそれは、臨也が両手で思いっきり引っ張ればすぐに破けてしまいそうな、そんな古臭さが感じられた。糸がほつれた箇所を指先で撫でながら、再度嘆息した。
 臨也が帽子を手にした以上、これではすぐに池袋を去ることはできなくなった。もともと、それが臨也の狙いだったはずだし、事態は臨也のほうに転がっているはずだ。それでも、なんだかしょっぱい気持ちでいっぱいなのは、恐らく気のせいではないだろう。
「青息吐息だねえ。……臨也、それ、見せてくれないかい?」
 臨也は新羅のほうを首だけで振り返ると、座ったまま身体をひねり、右手で帽子を差し出した。それでも新羅のほうに届くわけがなく、見かねたセルティが立ち上がり、新羅と臨也の仲介役を受け持った。
 新羅は帽子を受け取るなりスプーンを置いて、壊れ物にでも触るかのような手つきで帽子を検分した後、恐る恐るといった感じでその帽子をかぶった。セルティがゆるく首を振ると、新羅は苦笑を浮かべて帽子を取り、立ち上がって臨也にそれを渡した。
「ま、これでちゃんの目的は達成したわけだ。問題は臨也がすんなり譲渡するか、だけど」
「譲渡? ハハ、するわけないだろ」
 すぐさま、カチカチとPDAを操作する音が聞こえてきた。首だけで振り返ると、ちょうど良くセルティが立ち上がり、臨也の目前にPDAを突きつけてくる。
『それはの帽子だ。持ち主に返すのが当然だろう』
「うん、だろうね。でもこれは俺が買ったんだよ? この帽子の今の所有者はじゃない。俺だ」
 セルティがPDAを操作し、カチカチと文字を打ち込み始める。臨也はそれを無言のまま見上げた。しかしセルティといえば、一度打ち込んだ文章を一旦すべて消すと、再度また文章を打ち込み始める。そうして、臨也の前にPDAが突き出されたのは、かなり時間が経ってからだった。
『じゃあ、私に売ってくれ』
「その文章を考える前に、どのくらい俺に暴言を言おうとしたのかな? ま、君に売る気はこれっぽっちもないよ」
 臨也が言い終わるなり、新羅が小さく溜息を吐いた。視線をそっちに向ければ、面倒な事になったなあ、という風な呆れ顔で臨也を見ている。
『臨也、お前は本当に、虫唾が走る性格をしているな』
「へえ、生体機能がない妖精でも虫唾が走るんだ。意外だなあ」
『馬鹿にするのもいい加減にしろ!』
「馬鹿にしてないさ。感心してるんだよ。胃液とか出ないはずなのに胸がむかむかするって、凄いよねえって」
 臨也が鼻で笑った瞬間、セルティの足元から黒い影が伸びた。
「セルティー? こうなった以上、臨也に何を言っても無駄だと思うよ」
 見かねた新羅が言えば、影はすぐさま引っ込んだ。
『でもなあ!』
「臨也、これ以上セルティを苛めるようなら俺だってただじゃおかないよ。それで、どうする気だい?」
 かに玉ご飯にスプーンを突き立てながら新羅が尋ねる。臨也はうーんと考えるような素振りを見せた後、にやりと表現するに相応しい、意地汚そうな笑みを浮かべ。
「どうするも何も、に金を払ってもらう。あらゆる手を使って、ね」
「……無理だと思うけどなあ。寄付する気持ちでなんとかならないのかい?」
「生憎、俺はそこまで善人じゃないんでね。新羅だってそうだろう?」
 臨也が尋ねれば、新羅はちらりと視線だけを臨也に向け、それから小さく息を吐いてご飯を口に運んだ。
「というわけで、セルティ。を探してきてくれないか。できれば連れて来て欲しいんだけど」
『断る』
「ふうん」
 臨也はニヤニヤ笑いながら、上着の胸ポケットからライターを取り出した。火をつけて、帽子にかざしてみる。
「ねえ、この帽子燃やしたらさ、はどうなるの?」
『わかった! わかったからやめろ!!』
 そんな文面が表示されたPDAを見つめた後、臨也は笑い声をかみ殺しながらライターを胸ポケットに仕舞った。セルティもセルティで、PDAを袖にしまうと、苛立ったような足取りでリビングを出ると乱暴にドアを閉め、そうして玄関のドアが開く音が聞こえた。
「残忍酷薄。鬼だね」
 ぼそりと新羅が呟くのを、臨也は聞き逃さなかった。
「鬼はあっちだろう。俺が200万集めるのに、どれだけ苦労したと思ってるんだ」
「まあ、うん。そうだね」
 200万。社会人の平均年収の半分だ。今の新卒底辺の年収の最低額とも聞く。
 臨也にとってははした金に近い金額ではあったが、それでも、これだけの金を集めるのに、一体どれだけの労力と期間を費やしたか。仕事が軌道に乗っている今ならこのくらいの金額、簡単に工面することができるが、それでもこの生活を掴み取るのは臨也なりに努力した結果の賜物なのだ。
 これを、あのボケ面のハニワ語に教えねばなるまい。臨也は半ば八つ当たりに近い気持ちだった。

 小一時間ほど待ってようやっと、セルティはを連れてきた。
 は相変わらずみすぼらしい格好だったが、首から提げたストラップにあの新品のデジカメがぶら下がっていた。ボロい服に近代的なデジカメというその曖昧さが、尚更のみすぼらしさを引き立てているように見える。これはある種の芸術だなと、臨也は内心皮肉ぶった。
 は臨也を見るなり、怯えた様子でセルティの後ろに隠れたが、臨也の手の中にある物を見て目を見開いた。物欲しそうな表情になるが、それも一瞬の事で、すぐに警戒を露にした表情に戻ってしまう。見かねたセルティと新羅が、臨也は今のところ無害だから大丈夫だよ、となんだか臨也にとって妙に引っかかる物言いで諭すと、はようやっとの事でおずおずと臨也の前に出てくれた。
、これ、何だかわかるかい?」
 目の前のに見せ付けるように帽子を持つと、はじっと臨也の手元を見つめながら、小さくこくんと頷いて見せた。
 臨也が帽子を持つ手を右へ動かせば、の緯線は右に。左へ動かせば、視線は左に。それを何度か繰り返した後、臨也はセルティの名前を呼んだ。
『どうした?』
「この子が逃げないように押えててくれないかな」
 臨也の言葉にセルティがヘルメットを傾げて見せたが、渋々といった様子で膝立ちになり、の手を両脇から押えるようにして、が身動きできないようにしてくれた。がホニョ、と小さく呟いて、困惑げな表情になる。
「頼むから、身動きとらないでね」
 怯えた様子のに見かねて、できるだけ優しげに声を掛けてみれば、は口を引き結んでじっと臨也を見上げると、ゆっくりとではありながらも、それでもしっかり頷いた。
 臨也は身をかがめ、恐る恐るといった手つきでの頭に帽子をかぶせてみる。
 ふいに、指に伝わる布の感触が、ふっとした拍子になくなっていた。
 さっきまで、すぐ目の前にいたの姿が見えなくなっている。いや、消えた、と表現するに相応しい。文字通り、忽然と、その場からいなくなってしまった。
 を押えていたセルティといえば、太ももの上に手を置いている。
「セルティ、俺、ちゃんと押えてろって言わなかったか」
 心中にじわじわと焦燥感のようなものが広がるのを感じながらも、臨也は普通の調子でセルティに尋ねた。しかしセルティは、いつも通りごくごく普通といった様子でPDAを操作し、
が透明になってしまったから触れなくなった。大丈夫、ちゃんとここにいる』
「セルティには見えるのかい?」
 新羅がきょとんとした顔で尋ねた。
『同じ妖精だからな。でも、捕まえるのは無理だ。すり抜けてしまうから』
 新羅と臨也が、ほぼ同じタイミングで「ふうん」と納得し、声が揃ったことで互いに顔を見合わせた。しかし何を言うでもなく顔をそらし、新羅は臨也とセルティの間の空間に目を向ける。
、いるのか」
 臨也が声を掛けてみるが、反応はない。目の前にがいるとセルティが言ったのだから、恐らくそうなのだろう。けれどもこうも完璧に見えなくなってしまうと、どうにも信頼しがたいものがあった。しかしセルティは相変わらず膝立ちのまま太ももに手を置いたままで、首を動かすことすらしない。
 いるのだろうか、ここに。臨也は眉間に皺を寄せ、何もいない空間をただじっと見つめる。
 と、いきなり帽子を外し掛けた体制のが目の前に現れた。臨也が内心胸を撫で下ろすのとほぼ同時に、新羅が「ああ、よかった、いたんだ」と安堵するように呟いた。
 は帽子を外すと、それを胸元で大事そうにきゅっと握り締める。顔を上げ、臨也を不安そうな表情で見上げたまま、おずおずと帽子を差し出した。
 フニャフニャとハニワ語を喋り始める。相変わらず何を言っているのかわからなかったが、緊張しているのか、はてまた怯えているのか、の口調は途切れ途切れな、たどたどしくも拙いものだった。
「……セルティ、なんて言ってるんだ?」
 身体を僅かに傾け、の身体越しに後ろにいるセルティを見れば、セルティがカタカタとPDAを操作しているのが見えた。
『この帽子はあなたが買ったと聞いた。だから、これはあなたのものだ。でも、私はこれがないと困るから、取引をしてほしい』
 ほお、と臨也が感心した声を上げると、PDAが引っ込んだ。キーを操作する音がしばらくした後に、再度突き出される。
『お金がだめなら、なんでもする。と、そんな事を言っている』
「ふうん、なんでもねぇ」
 臨也は言いながら手を伸ばす。から帽子を取ろうとしたのだが、そうするよりも先に、のほうが臨也の手に帽子を押し付けてきた。まさかこんな風に帽子を渡されるとは思わず、臨也は驚きに目を見開いた。歯痒そうに口を引き結ぶの顔を見つめ、口元を緩めてから帽子を受け取る。
「俺はこの帽子を200万で買い取った。の言う通り、これは俺の物だ。でも、はこれが欲しいわけだ」
 ひどく真剣そうな面持ちでが頷いた。
 臨也は暫く考え込んだ後。
「もし君が、その200万を全額俺に渡してくれたら、俺はこの帽子を君に渡すよ」
 が再度こくりと頷いた。それを合図に、臨也は右手を差し出した。が小さく身体を震わせて、臨也の右手と顔を何度も見比べる。
「契約成立だ。期間は――そうだな、無期限でいいよ。利息も無しでいい」
 臨也にしては破格の待遇だった。とはいえ、恐らくではあるが、返済はかなり長期化するだろうし、この人外から金を毟り取っても何の利ににもならないと思ったから、自然とこんな待遇に決めてしまった。
 がおずおずと手を差し出し、臨也の手に触れた。恐る恐るといった風にきゅっと握るので、臨也は何も言わずにその手を握り返す。暖かい。まるで人のようだと錯覚してしまう。
 セルティにしろにしろ、どうして妖精なのに人間に近い姿形をしているのか。そう考えかけた臨也だったが、がホニョヘニョとハニワ語を呟き、深々と頭を下げたので、意識は自然とそっちへ向いた。
 そうしては顔を上げるなり、唐突に。
「ちょっ、……なんで泣くんだよ」
 セルティに通訳を頼むのも忘れ、臨也は呆れ顔になった。の震える唇の間からひっく、としゃくり声が漏れ始めると、臨也はため息交じりに手を伸ばす。
 しかし、臨也の手がに届くことはなかった。セルティに横から突き飛ばされたからである。その勢いでソファに倒れこんだ臨也を気にも留めず、セルティはの頭をよしよしと何度も撫で始める。
 臨也は腑に落ちないような表情で天井を見つめると、仰向けに寝転がったまま「あー」と気まずそうにぼやいて、新羅のほうに視線を向けた。対する新羅は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、小さく「んー」と唸ってしばらく考え込む素振りを見せた後、
「きっと、安心したんじゃないかな」
 ひどく微笑ましげな顔つきになった。
「帽子も見つかって、返してもらえる目処がついて。おまけに、怖かったと思っていた人が実は怖くなかったとわかって」
「……誰が怖い奴だって?」
「ま、そのうち泣き止むさ」
 臨也の問いかけは、ものの見事にスルーされてしまった。
 のろのろと上半身を起こして、を見る。確かに新羅の言う通り、悲しくて泣いているというより、安心しきってたがが外れて泣いているという感じではあった。
 セルティとに手はおろか口を出せる雰囲気ではないと察した臨也は、ソファに座りなおすと、化け物二人に視線を向けた。セルティと比べるとの体は小さいので、さながら歳の離れた姉妹のように見えなくもない。親子ともとれなくはないが、そう評するのは臨也にとって些か気が引けた。
 何をするでもなくその光景をぼーっと眺めていると、いきなり肩をつつかれた。
「ココア入れてくるね」
 新羅が静かに言い放つと、白衣を翻し、台所に引っ込んでしまう。臨也は無表情にそれを見送ると、何も言わずに立ち上がった。化け物二人の後ろをそっと通り過ぎ、台所に足を踏み入れる。
「……なんでこっちくるのさ」
 臨也の姿を斯界に捉えるなり、新羅が苦笑を浮かべた。
「俺、暇なの嫌いなんだよね」
「ハイハイ手伝ってくれるんだねありがとう」
 新羅が冷蔵庫から牛乳を取り出しながら、おざなりな返事を口にする。
「手伝うとは一言も言ってないだろ?」
「じゃあ、あっち行ってようか。ここ狭いし、正直邪魔なんだよね」
 にべも無かった。
 臨也は仕方なくといった様子で溜息をつき、コンロの周りに視線を向けるが、白いコーヒーポットが置かれているのみだ。
「新羅、鍋どこ」
「下」
 新羅が棚からココアの袋を出しながら、投げやりな一言をよこす。漠然とした言葉に、臨也は眉間に皺を寄せながらも身をかがめ、下の戸棚を開けようとし、
「……あー、そっちじゃなくて、そこだって」
 すぐに新羅が口を出してきた。
「いや、そこってどこだよ」
 臨也はそう口にしながらも、別の戸に手をかけ、
「だから、そっちじゃなくて……うん、そこ! そこそこ!」
 歳を取った人間特有の、曖昧で抽象的な表現を用いる新羅に臨也は舌打ちしそうになりつつも、右から二番目の戸を開いてようやっと、鍋やらフライパンが並んでいるのを見つけた。綺麗に積み重ねてしまってある中から片手鍋を取り出すと、新羅が半ばひったくるようにそれを奪い取った。
 何か言おうと思ったが、特にそれらしい文句も思い浮かばず、臨也は戸を閉めて背筋を伸ばす。一歩下がって冷蔵庫にもたれかかると、何も言わずに新羅の手つきをじっと見つめる。
「臨也は飲むかい」
「ああ、うん」
 鍋の中に投入されたココアの量はかなり適当だった。おまけに軽量カップの類を使わず鍋の中に直に牛乳を流し込むのを見た瞬間、臨也の脳裏に不安がよぎったものの、5分とも経たないうちにできたココアの味はごくごく普通のものだった。
 ステンレスのカップに口をつけながらも、片手にピンク色のカップを手にしたまま、臨也は台所を後にする。リビングに戻れば、いつの間にやら泣き止んだらしいが借りてきた猫よろしくソファにちょこんと座っていたが、臨也の姿を捉えたとたん、露骨に不安そうな表情になった。しかし、それに気づいたセルティに頭をなでられ、が表情を和らげる。
「別に取って食ったりしないって」
 臨也としても、こういう態度を向けられるのはよろしくない。できるだけの警戒心を解こうと、臨也にしては珍しく人懐こそうな笑顔を浮かべながら、ピンク色のカップをに差し出すと、
『気持ち悪い』
 セルティがすぐさまそんなPDAを見せ付けてきた。しかしはセルティのPDAには目を向けず、臨也とカップを見比べながらも、おずおずと手を伸ばしてきた。
「熱いよ。火傷しないようにね」
 セルティにむっとし、何か言おうと思ったのだが、臨也に口から出てきたのはに対する注意だけだった。ここで揉めれば一層の警戒を煽るだけだろうと判断した臨也は、セルティから距離をおくため、対面の一人がけ用ソファに腰を下ろした。ココアをすするように飲む。
 ふいに、ホニョ、とのほうから声が聞こえてきて、臨也は視線だけをそちらに向けた。は両手で包み込むように持ったカップの中身をじーっと見つめながら、ふーっと息を吹きかけ、恐る恐る口をつける。
 再度ホニョ、と呟いて、が僅かに微笑んだ。しかし臨也の視線に気づくなり、慌てた様子でうつむきがちになってしまった。
2012/03/10