4.
次の週、池袋某所の公園にて。臨也、セルティ、という、揃いも揃って癖のある面々が、隅っこのベンチに腰掛けていた。
臨也は街灯の明かりを頼りに、新羅の自宅で印刷したてだという写真の束を捲っている。この写真はすべてが撮影したものだ。日中に一人で街中を歩き回って撮影しまくったのだという。
ピンク、黒、赤、ベージュ、水色、花柄、ストライプ。写真は見事パンツだらけだった。パンツパンツパンツ。おパンツさまの群れである。レース、コットン、シルクっぽいのに、ごくまれにTバックが混ざりこんでいる。
「……いやぁ、何これ」
写真をすべて見終わった臨也の感想は、たったそれだけだった。
「予想の斜め上を突き抜けすぎて、割と真面目に笑えないんだけど……これを撮れってに吹き込んだのはどこの誰なわけ？」
『その、新羅がな。こういうえげつない写真じゃないと、買い取ってくれないと言うから』
「……そうだよねえ。新羅しかいないよねえ」
盛大に嘆息して、両手で顔を覆った。そのまま指先で額をこすり、今度は口元を覆う。
「そもそも、撮影音でばれなかったのかい？」
『言いにくいんだが、あのカメラは改造品なんだ』
「……だと思ったよ」
臨也はそうぼやいてを見る。写真を撮った張本人であるも何か思うところがあるらしく、しゅんとした表情で肩を落としている。いかにもしょんぼりしている様子のが、なんだか臨也の目には気の毒に映った。
見たとこの性別は女だ。そんな歳を重ねた化け物が、何が悲しくて同姓の――しかも人間のパンツを撮り溜めねばならないのか。臨也は男だからその心境は絶対にわからないのだが、それでももしのような立場におかれた場合を想像し、無性に悲しくなってきて考えるのをやめた。
「……まあ、狙いはいいんじゃないかな。動物とか、風景写真なんかは、腕とコネがなきゃ買ってくれる人は早々いないからね」
『そ、そうか！ よかった！』
セルティがあからさまに喜ぶものだから、臨也は困惑した。割と正義感の強いセルティの事だから、やんわりと反対されるものだと思ったからである。――というか、ここは普通止めるところじゃないだろうか。
「ええーと、よかっ……たの、か？ ……いやー、でも、これ……」
セルティに呆気なく肯定されてしまい、どうにも戸惑いが生じた。臨也はぼやきながら、手元の写真に恐る恐る目線を落とす。
「……いやー、ちょっと、ねえ」
見事なパンツだ。それこそドン引きするくらいに。
「その、犯罪に加担することになるんだけど、はいいのかい？」
のほうを真っ直ぐに見つめながら言うと、さっきのしょんぼり顔はどこへやら、は至極真面目な顔でハニワ語を喋り始める。
『臨也に200万を返すためなら、手段は選べない』
すぐにセルティがPDAを操作して通訳をしてくれた。
「まあ、その心意気は買うけどさ……」
臨也は再度嘆息した。
正直なところ、もっとまともな、健全ぽい写真を撮ってくるものだと、臨也は勝手にそう思い込んでいたのである。なんだか出鼻を挫かれた様な心持だった。
臨也としては、自身に写真の売込みをさせようと考えていた。というのも、臨也の仕事の都合もあるから、貴重な時間をだけに割くわけにもいかないからだ。風景写真を買い取ってくれそうな人は情報屋の伝での知り合いが何人かいるし、臨也の知りえる限りではごく普通に全うな生活を送っている人間ばかりだ。だから最初は段取りを組み立ててあげて、何回か買い取らせた後、あらかじめそれらしい文面を用意したノートなりなんなりを持たせて、個人に取引をさせるつもりではあった。
――とはいえ、が見えなければ話にならない。もしが見える人が見つからなかった場合、臨也が適当に嘯いて売り込むつもりではあった。
しかし、こんなパンツ写真を買ってくれる人間の殆どは、それとは正反対に位置するだろう。全うな生活を送っているかどうかすら怪しいし、変態に片足突っ込むどころか、下半身までずっぽり嵌っている人ばかりだ。
そんな奴らに、を会わせたらどうなるか。はみすぼらしい格好をしていても、臨也から見てもそれなりに顔立ちは整っている部類に入る。大丈夫だとは思うものの、下手すると、変な事になりかねないかもしれない。
臨也はとりあえず、そういうのは抜きにして、頭の中で段取りを組み立てた。臨也が一通り写真を見たとこ、映りはそんなに悪くない。あらゆる女子高から、某有名私立中学だろうと思われる制服のスカートの中、盗撮とは思えないほど鮮明にパンツが写っているので、買う人は少なからずいるだろう。学生のパンツというステータスは価値が高いものだ。社会人ぽいのも混ざり込んでいるが、これも需要はあるだろう。路上でこっそり写真を販売している変態野郎に、安価で買ってもらえばいい。
「明日の夕方6時。セルティは都合つくかい？」
『大丈夫だ』
「じゃあ、その時間、この公園に集合で」
『わかった』
セルティがPDAを突き出すのとほぼ同時に、がこくりと頷いた。
臨也は自宅のマンションに戻るなり、ちゃっちゃといった感じで残った仕事を済ませると、女子高生愛好家が運営する裏サイトをパソコンで開いた。そこからいくつか隠しリンクを辿り、盗撮写真取引専用掲示板なるものを開いた。
パスワード入力画面が開くので、前もって調べてあったキーを打ち込み入室ボタンを押す。目に痛々しいピンクの背景の掲示板には、写真の売買をしてくれる人間がどの辺りにいるか、専門用語を交えて書き込まれていた。所謂盗撮マニアの情報交換の場だった。
臨也はパソコンのノートパッドを開くと、池袋周辺のそれらしいレスをコピーしては、ノートパッドに貼り付ける。過去2ヶ月のレスを遡り、それを何度か繰り返した後、もういいだろうと判断しブラウザを閉じた。すぐさまプリンタの電源を入れ、ノートパッドの文面を印刷する。プリンタが動き出す音を聞きながら、念のため、ノートパッドの文面を適当に『aaaaaa』と名づけて保存した。
印刷終了後、パソコンをスリープ状態にして席を立つ。
洗面所に行って歯を磨いた後、さっき印刷したばかりのコピー用紙を手に、自室へ向かう。
服を脱ぎ捨て、寝巻きである部屋着に着替えると、ベッドに腰を下ろして先ほど印刷したばかりのコピー用紙を眺めた。サイドテーブルからペンを撮り、日本語として明らかに意味不明な文面を見つめる。見るからに暗号文とわかる文字列だった。
とはいえ、暗号文といっても、かなり簡単なもので、臨也にはすぐにわかった。1番地なら「い」、2番地なら「ろ」という、日本人にしかわからないだろう『いろは形式』に加え、地名の頭文字を加えたものだった。たとえば池袋サンシャイン60前付近なら、住所は池袋3丁目-1-1なので『池はのいのい』という風になる。ちなみに文中の『の』はハイフンの役割のようだ。
呆気なさに落胆しつつも、印刷した文面の横に番地を書き込み終わると、臨也はサイドテーブルにペンと紙を置き、一つあくびをして見せた。目じりに浮かぶ涙をこすりつつ、ベッドにもぐりこむと、布団をかぶるなり眠りについた。
臨也が目を覚ましたのは11時半を過ぎたころであった。
寝ぼけ眼で枕もとの携帯を手繰り寄せ、時間を確認した臨也は身体を起こしたあと、ぽりぽりと後頭部を掻いた。最近は夜遅くにベッドに潜るのが殆どだったので、思った以上に臨也の身体は眠りを求めていたのだろう。現に、いつになく心地よい眠りだった。しかし、ちょっとまずいんじゃないかと思うほど寝過ごしてしまった。
今日はさして目ぼしい予定はない、はずだ。臨也は記憶を掘り返し、それでも携帯のスケジュールを開き、本当に何も無い日だと言うことを確認してから、珍しく安堵し切った表情でのろのろとベッドから降りた。
部屋を出てトイレに向かおうとし、何気なく廊下に出て手すりから身を乗り出し仕事場を覗き込めば、すでに波江は出社していた。
「おはよう波江さん」
声をかけると、波江が手を止めた。顔を上げ、臨也に視線を向けてくる。
「随分遅いおはようね」
「なんで起こしてくれなかったのかなぁ」
臨也がにこやかに言うと、
「二回、ノックしに行ったわよ」
すまし顔で波江が言った。
「そ。じゃあ次から六回起こしに来てね」
「善処するわ」
言うなり波江の視線はパソコンの画面に向かう。臨也は肩をすくめてトイレに向かった。
トイレから出ると、洗面所で顔を洗った。ぼんやり霞のかかった思考がはっきりする。洗面所から出て階段を降り、キッチンに向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、愛用しているカップに注ぐ。
「今からお昼作るけど、何がいいかしら」
仕事を切り上げたらしい波江が台所に入ってきた。どうやら臨也の分も作る気らしい。
カップから口を離し、臨也はうーんと考え込み、空腹を訴える自分の腹を見下ろして。
「うどんがいいな。肉たくさん乗ってる奴」
「……お肉、あったかしら」
波江が腰を折り、冷蔵庫の一番下、冷凍室の引き出しを開けた。
「あらよかったわね、鳥の胸肉があるわよ」
「え、パサパサしててやだ」
臨也が子供顔負けの文句を言うが、波江はそ知らぬ顔だ。波江はフリーザーパックに入ったカチコチの胸肉を取り出し、それを臨也に押し付けると、今度は野菜室の引き出しを開けた。
取り付く島もなしな波江の態度に、臨也はちぇ、と演技っぽく拗ねたように口を尖らせ、ステンレスの台に鶏肉を置くと、台所を出て自室に戻った。適当に着替えた後、サイドテーブルに置きっぱなしだった暗号文を片手に、再度仕事場へ戻る。キッチンには寄らず、真っ先に自分のデスクに向かった。
キーボードの脇に例の紙を置き、パソコンのスリープを解除する。椅子に腰を下ろし、くるりくるりと半回転させながらデスクトップが表示されるのを待つ。一分もしないうちにモニタが明るくなると、臨也はブラウザを立ち上げた。
海外のニュースサイトを回りながら、特に目ぼしいニュースはないなと判断すると、今度はメディアプレイヤーを立ち上げた。海外のニュース番組配信アドレスを開き、ヘッドフォンをつけて動画を見る。が、やっぱりどこそこの国で爆発があったとか、銃乱射があったとか、国境付近で銃撃戦があったとか、そういう目ぼしいニュースは全く無い。
つまんないなあ、と心の中で呟くのとほぼ同時に、ぐうとお腹がなった。
臨也は無言で腹をさすった後、
「波江さーん、ごはんまーだー？」
わざとらしくテーブルを叩いて催促すると、すぐに台所のほうから「うるさいわよ！」と声が聞こえてきて、臨也は小さく笑いながら、テーブルの引き出しを開けた。書類が詰め込まれた引き出しの真上に、折り畳んだ小汚い布が置かれている。の帽子だ。それを手に取り、臨也は引き出しを閉めた。
椅子を半回転させ、窓のほうに身体を向ける。日の光に透かしてみれば、向こうが見えるくらい生地の目は粗かった。開いた片手でポケットからライターを取り出し、弄ぶ。
小汚いこの帽子は、にとってどれくらい大事なものなのだろうか。帽子を紛失すればただ透明にならないだけだろうに、もセルティもやけに必死になっていたように思う。臨也がこの帽子を手にした日、これに火をつけると脅したら、珍しくセルティが焦ったのが以外だった。
ライターに視線を落とし、帽子と見比べる。火をつけたらどうなるか気になったが、実行に移すのは気が引けた。何より今そんな事をしたら火災報知機がどうのこうのと波江に怒られてしまう。
テーブルに帽子をそっと置くと、臨也はモニタのほうに身体を向けた。
適当にネットサーフィンなどをしてすごしていると、10分ほどして、波江特製のうどんができあがった。
ソファに座り、冷凍うどんのむちむち感を堪能しながらテレビをつけると、某お昼休みの番組前のニュースがちょうど終わるところだった。やみくもにチャンネルを切り替え、CMしか流れてないことを察すると、臨也はリモコンをテーブルの上に置く。
代わる代わる流れるCMを見ながら、ずるずるとうどんを啜る。咀嚼し、飲み込んだ後、チュルチュルとうどんを啜る波江に視線を向け、
「あのさ、塩加減が足りないんだけど」
「文句言うなら、次からは自分で作りなさい」
臨也は仕方なく、テーブルの上に置かれた一味唐辛子のビンに手を伸ばした。適当に振りかけた後、うどんを啜る。やや辛すぎのような気もしたが、臨也には許容範囲だった。
「はー、美味しかった。やっぱ一味は最高だね。波江さん、これ運んで」
空のどんぶりと箸を波江のほうに差し出せば、途端に波江は嫌そうに表情を顰めた。
「食べたものくらい、自分で運びなさいよ」
吐き捨てるように言ったが、波江は食べ終わった後、雇い主に言われた手前逆らえないと渋々どんぶりを重ねてキッチンに持っていった。箸とどんぶりを流しに置き、水に浸した後、自分のカップに紅茶を注いで、臨也のいるほうへ戻ってくる。
「波江さん、俺にも食後の紅茶ちょうだい」
「自分で注いだら？」
突き放すように言われてしまい、臨也は盛大にため息を吐いて立ち上がった。ポットから紅茶を注ぎソファに戻ると、テレビを見ていた波江が口を開いた。
「今日はちゃんと仕事するんでしょうね」
ぎろりと睨まれるが、臨也は別段気にした様子無くけろりとした顔で。
「ああ、それなんだけど、今日も用事入ったから。波江さん、よろしくね」
「……あなた、一遍死んだらいいんじゃないかしら」
「うーわ、ひっどいなあ。雇い主に対してその言い草はないんじゃない？」
一笑してみせると、波江は疲れきった顔を臨也に向け、それから額を押さえて嘆息した。
「最近のあなた、少しおかしいわよ。あのゴミを拾ってきてから」
言いながら、臨也のデスクに置かれっぱなしの帽子に目を向ける。
「いや、あれ、ゴミじゃないからね」
「ゴミじゃなかったらなんなのよ」
「確かにゴミに見えるけど、でもゴミじゃないんだ。それに、あれは俺がちゃんと買ったやつだから、間違っても捨てないでよ」
「買ったって……いくらで？」
「200万」
波江が珍しく、むせた。口元を抑えて咳き込むので、見かねた臨也が背中を叩いてやろうとしたが、首を左右に振られ拒否を示されてしまう。臨也は仕方なく手を引っ込めた。
そうして、波江が落ち着いたころになって。
「あなた、新興宗教にでもはまったの？」
「そうきたか……」
臨也は僅かに口元を緩めた。
「どこぞの壷と一緒にしないでよ、あれはちゃんと所以がある物だから」
「そんな甘言で騙されたのね。……これは想定外だわ。まさか、あなたを騙す人間がいるとは」
「いや、波江さん？ 真面目に話聞いてよ」
憐憫の眼差しを向けてくる波江に、臨也は苦笑を浮かべるほか無い。
「詳しくは話せないけど、ちゃんとした物なんだ。俺はそれを目の当たりにしたし」
「あなたのその口調、騙されてる人のそれにしか聞こえないのだけれど」
「……ああ、うん。じゃあもう騙されてるって事でいいよ」
臨也は考えた末、堂々巡りになるだろうと、説得を諦めた。
情報収集に加え、表業務の依頼受け付けなど、あれやこれやをしているうちに、約束の時間近くになった。
臨也は自室に向かい、クローゼットから丈の短いコートを選ぶと、その場で羽織った。部屋を出て仕事場に向かい、デスクに置いていた例の紙を小さく折り畳んでコートのポケットに突っ込んだ。あらかじめ伝えてはいたものの、不満そうな表情の波江に「いってきます」とわざとらしく手を振ってみれば、苛立ちをこめた舌打ちが返ってきた。
そんな波江の態度を笑いながら根城を後にし、最寄の駅から電車に乗り込むと、近くの席が空いていたので腰を下ろした。ポケットから携帯を取り出し連絡がないか確認してみれば、新着メールが一件着ていた。セルティからだった。
『15分ほど遅れる』
簡素な文面に返信しようか迷い、とりあえず『了解』とだけ送っておいた。
電車を降り、池袋の街中へ。
待ち合わせ場所である件の公園へ向かう途中、反対側の歩道の人ごみの中に、金髪バーテン服の後姿を見つけた。白スーツのドレッドヘアと一緒に歩いている。見るからにそれらしい格好の二人組なんて、臨也が思い当たるのは彼らしかいない。気づいてしまった手前、手が疼いてきた。あっちはいまだにこっちに気付いていない。
臨也は少し考えた後、視線をそらして歩き出した。触らぬ馬鹿になんとやら、だ。それにこっちには大事な用がある。
公園に着くと、ちらほらと学生服の中に、仕事帰りらしいサラリーマンやOLがまばらに見受けられた。この前座ったベンチに向かい、誰もいないのを確認するなり臨也はそこに腰を下ろす。携帯を開いて時間を確認すれば、きっかり待ち合わせ時間だった。辺りを見回してみるが、らしい人影は見えない。セルティは遅れてくるらしい。
さて、どうしようか、と臨也が思考をめぐらせている最中、ふいにどこからか、ほにょ、と蚊の鳴くような声が聞こえてきた。の声だと直感した臨也ははっと顔を上げ、再度辺りを見回すがそれらしい人影が見えない。臨也は眉間に皺を寄せると、おもむろに体制を変えてベンチの後ろを覗き込んだ。
いつの間にいたのだろうか。いや、最初からいたのかもしれない。ベンチの後ろにがいた。
「やあ」
がこくんと頷いた。
「セルティは15分くらい遅れて来るんだってさ」
再度、こくんと頷く。
「……座ったら？」
が戸惑いがちに臨也の顔をじっと見上げ、それからトテトテとした足取りで回り込み、臨也の右隣に一人分の空間を空けて座った。
それっきり、会話は無い。
人の雑踏。車の音。外だけがガヤガヤと煩いせいで、余計に二人の間の静けさが強調されるような気がした。通り過ぎる人を眺めるのも少しつまらなくて、臨也は隣に座るを見下ろす。はぼうっと、無表情に流れる人を見ているだけだ。
そうして、首から提げたカメラを静かに構える。
手をつないで歩いている高校生のカップルを写真におさめ、嬉しそうに笑う。
「なんだ、パンツ以外もちゃんと撮ってるんだ」
臨也が揶揄するように言うが、はきょとんとした顔で、臨也を見上げる。口を開き、何かを言いかけ、そのまま口を閉ざす。眉尻を下げて困った風に手元のカメラを見つめ、それからおずおずとカメラを差し出してきた。
見る？ と、そんな風に言われている気がした。臨也は考えるよりも先に、手を伸ばす。
「あーっ、イザイザだーっ」
臨也の手がカメラに触れるか触れないかという瞬間、どこからかそんな声が聞こえてきた。嫌な予感がして、臨也は手を引っ込める。声の聞こえてきたほうに目を向ければ、無効から狩沢と遊馬崎が二人揃ってこっちに小走りでやってくるのが見えた。二人とも両手には大仰な紙袋を提げている。
そんな二人の奥に、帽子を被った見慣れた姿が見えて、臨也は首を傾げつつも僅かに身体を傾けた。
やや不貞腐れ気味の表情の門田が、二人の後ろにいた。ゆっくり歩いてくる姿を見て、臨也の口から自然と笑い声が漏れた。
「臨也さん、何してるんすか、こんなとこで」
「待ち合わせだよ」
遊馬崎に訪ねられ、臨也は正直に答えたのだが、素直に教えたことが逆に怪しかったらしく、二人に怪訝そうな顔をされてしまう。しかし二人は臨也に深入りするような真似はせず、遊馬崎がしみじみといった風に「リア充っすねえ」と呟いた。
「ねーねードタチン、ちょっと疲れたから休もうよう」
言いながら狩沢がの隣に腰を下ろす。続いて遊馬崎も狩沢の隣に腰を下ろした。
「荷物置けないねえ。もしかしてゆまっち狭い？」
「はい。申し訳ないですけど狩沢さん、そっちにもうちょい詰めて貰えると助かります」
「はーい」
気の良い返事をしながら狩沢がずりずりと移動すると、驚いたが臨也のほうによってきた。それでも臨也のほうにくっつくのは何か思う事があるらしく、困ったように身体を縮みこませている。臨也は震える身体を無言で見下ろし、仕方なくといった様子での腰に手を回して引き寄せた。途端にが「ひっ」と小さな悲鳴を上げたものの、観念したように渋々と臨也のほうに身を寄せる。
先ほどが座っていた場所に大きな紙袋が置かれた。臨也が横目でチラリと覗き込めば、アニメキャラがプリントされた大きな箱が入っている。臨也にはそれだけで十分だった。視線をそらし、見なかったことにしてしまう。
狩沢と遊馬崎がふーっと安堵の息を吐いたが、一拍の間をおいて。
「で、なんのコスっすか？」
「は？」
遊馬崎の質問の意図がわからず、臨也は首をかしげた。
「結構年季入りっぽい服だねえ。加工？」
言いながら狩沢が紙袋を押しのけ、の服の裾を摘み上げた。途端にの身体が一際大きく震え、心底困った様子で臨也に身を寄せる。
「某ファンタジー映画の家付き妖精みたいなコスだけど、ちょっと違うね。かといって初登場時の上位固体ほどひどいってわけでもないし。……オリジナル？」
狩沢が手を離すと、はほっとしたような表情になる。の強張った身体から徐々に弛緩していくのが臨也の手に伝わってきた。
「っすねえ。この歳で中二こじらせちゃうのはよくないっすよ。大方、二次元に憧れてこんなカッコしちゃってるんでしょ？ 臨也さんだめっすよ、ちゃんと注意しないと」
「そうそう。黒歴史を胸に抱えるとさ、数年後ふとした拍子に思い出しちゃって、夜中に枕に顔うずめて足バタバタさせちゃったりするんだから」
勝手に会話を進める二人の勢いについていけず、臨也は終始ぽかんとしたまま、突っ込むこともままならなかった。
「ちょ、ちょっと待て。二人とも、が見えるのか」
「え？」
「はい？」
二人同時に首を傾げられる。
それとほぼ同時のタイミングで、ベンチのそばに門田がやってきた。近くの自販機で買ってきたらしい缶コーヒーに口をつけながら、疲労困憊といった表情でを見下ろし、ややあって「ん？」と呟いて眉を寄せた。さも不思議そうな視線を狩沢と遊馬崎に向けると、
「なんでここスペース空けてんだ。臨也が苦手なのはわかるが、もうちっとつめりゃいいのによ」
「はっ？」
「ええっ？」
素っ頓狂な声が重なるのとほぼ同時に、二人は目を見開いた。信じられないものでも見るかのように門田を凝視する。
「何言ってるのドタチン、ここに、子供がいるじゃない」
「はあ？ いねえだろ、何言ってんだ」
「いやいやいや、いますって、ここに」
門田の口元がひくついた。しばらくしてから、「またいつものか……」と呟きつつ盛大に溜息をついてみせたものの、臨也の方にちらりと視線を向け、文字通り固まった。臨也の、の腰に置いたままになっている右手を凝視し、小首を傾げてみせる。
その反応で、臨也は瞬時に察した。どうやら門田にはの姿が見えないらしく、そのせいで自分の右手が不自然に宙に浮いた状態になっているのが、門田の目に映っているらしかった。
門田は帽子の上から頭を掻きつつ、臨也に助けを求めるような視線を向けると、
「……いるのか？」
「いるよ。ドタチンには見えないみたいだね」
口元を緩めての頭に手を置くと、がむず痒そうに顔を顰めた。ぎゅっと目を瞑ってフルフルと首を振り始めるが、そんなもので振りほどけるわけもなく、臨也はニヤニヤ笑ったまま、の頭を半ば鷲掴みするかのように掴んで見た。
それで門田を納得させるには十分だったらしく、感心したように「ほお」と声を上げた。
「確かに、なんかいるようだが……まさかパントマイムとかじゃないよな？」
「俺そこまで器用じゃないってば」
臨也が笑い飛ばすと、それがきっかけになったのかはわからないが、もう耐え切れないといった様子のに手を叩かれた。ぱしん、と小切れのいい音が響くと、門田が文字通りぎょっとして見せた。臨也は叩かれて赤くなった手の甲を摩りながら「叩かれちゃった」と苦笑すると、門田が眉間に皺を寄せ、恐る恐るといったふうにゆっくりと近づいてきた。
「本っ当ーに、見えないんすか？」
遊馬崎が尋ねれば、門田は神妙にこくりと頷いた。
「ああ。お前らにはどんな風に見えてんだ？」
「デジカメ首に提げた子供ー。服がね、ちょっとボロいかな」
門田がおもむろに手を伸ばすと、驚いたが紙袋のほうに身を寄せた。そのせいで紙袋が音を立てて変形し、門田が一瞬てを引っ込めかけたものの、そのままおっかなびっくりな動作での頭にそっと触れ、
「……おぉお！？」
門田にしては珍しく素っ頓狂な声を上げて、慌てた様子で手を離した。ひどく不思議そうに、と自分の手を見比べ始める。
「臨也、なんなんだそれは」
「妖精さんだよ。運び屋曰く夢魔らしいけど」
「夢魔ぁっ！？」
大声をあげて、遊馬崎が立ち上がった。途端に隣の狩沢がピクッと反応し、臨也も目をぱちくりさせて遊馬崎に視線を向ける。
「夢魔って、あの、あの夢魔っすか！？」
「……どの夢魔かは知らないけど、運び屋が言うんだから間違いないんじゃない？」
「ペンダントっ！ ペンダントはっ！？ 瓶のペンダントはないんすか！？ ……ハッ、もしやそのデジカメが――」
「……よくわかんないけど、これ、運び屋が買い与えたやつだから」
「じゃ、じゃあ、尻尾！ 尻尾は生えてないっすか！？ ピンクのハートのっ！」
「……見たとこそういうのは生えてないかな。いや、でも、実際見たわけじゃないしなぁ。……尻尾生えてる？」
聞かれた手前答えないわけにも行かず、臨也がに尋ねてみると、は怯えがちにフルフルと首を振った。それを見た遊馬崎がわなわなと震えだし「尻尾の生えてない夢魔も、全然アリっすよ！」と鼻息荒く語るものだから、がぎょっとして身体を大きく震わせ臨也のほうに身を寄せてきた。まるで遊馬崎から遠ざかりたい一心の行動のように思える。
「性格は！？ ややツンデレ気味の男嫌いですか！？」
がびくっと震えて、遊馬崎を凝視する。暫し固まった後、プルプルと小刻みに身体を震わせながら、一層臨也に身を寄せた。臨也はそれを無表情に見下ろしながら、肉食獣に狙われた草食動物――それも恐ろしく気の弱いタイプ――を連想した。これがどうにもしっくりきたのだから、おかしいものだった。
しかし、こうも怖がる様子を見せているのに、遊馬崎はさして気にした様子なく変なワードを捲くし立ててばかりで、それが一層の怯えを煽っているように見えた。臨也は少し迷った末、ガタガタと震える背中に手を置いてみると、が一際大きく震えた。手を引っ込めそうになったが、それでも震える背中を何度か撫でてみると、が戸惑いがちに臨也を見上げた。強張った身体から徐々に力が抜けていくのがわかる。ふいに、コートの裾をぎゅっと握られたが、臨也は嗜めるような事はせず、ただ黙って経過を見守ると、も徐々に落ち着いてきたようだった。
「遊馬崎、ちょっと落ち着け、な？」
見かねた門田が宥めにかかるが、遊馬崎はユグヴァルがどうのこうの、片割れがいるかだの、白いほうと黒いほうはいるかだのと捲くし立てる。そのワードどれもが臨也が全く耳にしたことが無いもので、臨也は瞬時にアニメの話だと悟った。こういう話は流すに限る。
「で、ドタチンは何してたの？ 買い物する二人のお守り？」
「……まぁ、そんなとこだな」
「お守りって、イザイザもドタチンもひどいなあ」
狩沢が苦笑した。
「というか皆、案外の事普通に信じちゃってるね。もっと疑われるかと思ったんだけどなあ……」
「まぁ、最近感覚が麻痺してきたのは否めないな。で、お前は？ わざわざこっちに来て何してるんだ？」
「運び屋と待ち合わせ」
「……なんでまた？」
門田が怪訝そうな表情になる。
「最初から話すと長くなるから端折って言うけどさ、俺、この子の大事なモノを、200万で買ってあげたんだよねぇ。それでセルティとちょっと、ね」
「うわっ、大金！」
狩沢が驚くが、次の瞬間にはきょとんと目を丸くして。
「……大事なモノ？」
しばらく無言になる。
四人の間にひゅうっと、一陣の風が通り抜けると、門田も狩沢も遊馬崎も、臨也からスッと距離を置いた。
さっきのテンションはどこへやら、神妙な面持ちの遊馬崎が口を開いた。
「臨也さん、さすがにそれはいかんでしょ。ロリコンは病気ですって、かの有名な言葉がありますし。まぁ、たまたま好きになった子がたまたまロリだっただけってなら、イケメン無罪でまかり通るかもしれませんよ？ でもやっぱし、二次元愛好家としては、三次ロリに手を出しちゃうのは、って感じですよ」
「その手のジャンルは今かなり需要があるけどねえ。でも、リアルでやるのはちょっと、……流石の私でも引いちゃうなぁ」
オタクの二人に真顔で諭すように言われるものだから、臨也の口元が僅かに引きつった。
「あのさぁ、ちょっと、何か勘違いしてないかな？ なんか俺が悪者みたいに好き放題言ってるけどさ、全然違うって。この子はお金に困ってて、俺は善意でやったわけだよ？ わかる？」
臨也が言い終わるなり、二人は口裏を合わせたかのように揃ってドン引きの視線を臨也に向け、
「善意でって……イザイザ、いよいよ洒落にならないよ」
「まあ、人じゃないから法治圏外っすし、警察に捕まる事はないでしょうけど……でも、お金で買うのは、ちょっと……」
「まてまて。お前らほんと勘違いしてるっぽいぞ。臨也がキレる前にやめとけ」
見かねた様子の門田が口を出した。
「やだなぁドタチン、俺はシズちゃんみたいにすぐキレないよ？」
「というか臨也、お前な、恐らく主語が抜けてる。傍から聞いてる俺でも、ちいっとばかし危なく聞こえるぞ」
言われた臨也は怪訝そうに眉をひそめ、首を傾げた。
「あれあれ？ イザイザがこの子のジュンケツを200万で買ったとかそういう感じじゃないの？」
何気なく、といった調子で発せられた狩沢の言葉に臨也が反応を示すよりも先に、顔を真っ赤にしたが涙目でホニョホニャ捲くし立てながら、ブンブンと勢い良く首を振った。
あれから臨也は文字通り『散々な目』にあった。が顔を真っ赤にして否定したものだから、遊馬崎も狩沢もからかいの対象だと取ったらしい。その後はをネタにひたすらにからかわれた。臨也は人を見下しからかうのは好きだが、自分をネタにからかわれるのは好まなかった。
「ほんと、散々だったよ」
臨也はセルティに今までの出来事を説明した後、語尾にそう付け足してセルティを見る。臨也の隣にいるセルティは肩を震わせながら『それはよかった』と一言だけ表示されたPDAを突き出してきた。どう見ても笑っていた。
内心クソ、と吐き捨て、それから無性に虚しくなってきて、盛大にため息を吐く。を見れば相変わらずしゅんとして縮こまったままだった。門田たちと別れてから10分以上は経つというのに、それでもなお落ち込んだままである。案外引きずるタイプなのかもしれない。
『それで、これからどうするんだ？』
セルティにPDAを突きつけられ、臨也は我に返った。
「……とりあえずね、ここら辺を順に回っていく」
臨也は言いながら、コートのポケットから例の紙を取り出した。小さく畳まれたそれを広げた後、の背丈を考慮し、臨也は少しだけ身を屈めた。セルティもそれに習うように身を屈める。臨也がに「見える？」と尋ねると、はすぐにこくんと頷き返してきた。
西口の某公園の近く、駅前ビル街の路地裏、住宅街すぐそばの公園、川沿いの道路。次々に場所を教えていくが、セルティももただ頷くだけだった。セルティは日ごろ運び屋の仕事で地区を把握しているだろうが、といえば本当に場所がわかっているのかと疑いたくなるようなぼうっとした眼差しで地図を見つめるばかりだ。臨也が怪訝そうな表情になる。
「、ここまでの場所、わかるかい」
尋ねれば、はすぐに頷いた。「本当に？」と臨也は念を押そうと思ったが、の眼差しがひどく真剣なものだったので、その言葉を飲み込んだ。
巡回方法を決めると、はセルティの後ろに乗り込んだ。臨也はサイドカーに乗る。セルティに影で作ってもらったヘルメットを渡され、渋々といった風にそれを受け取る。
「影で作った割りに、案外しっかりしてるんだねぇ」
ヘルメットの形を確かめるようにべたべた触りながらセルティを見上げて言えば、対するセルティは『はやく被れ』と味気ない文章が表示されたPDAを向けてきた。臨也は渋々といった様子で、人じゃないものが作った物体に対しこみ上げる気持ち悪さを抑えながら、ヘルメットをかぶった。
セルティが正面を見据えると、がセルティの腰に手を回した。エンジン音がかかり、ゆっくりと景色が流れはじめる。
最初のチェックポイント、駅前の路地裏に来ると臨也はセルティにバイクを停めるように指示した。路肩に停めたバイクから降りずに盗撮マニアを探すが、掲示板に特徴として書かれていた『小太り、パーカー、野球帽』という、それらしい特徴の人間はいない。
「いない。次だ」
臨也の言葉に、セルティはバイクを発進させた。次のポイントにも、それらしい人影は見当たらない。次のポイントでようやっとマニアを見つけたが、そのマニアにの姿は見えなかっため、挨拶もそこそこに次のポイントに向かう。
いない、いる、いたけどが見えない。
それを何回か繰り返し、夜の10時を回ったころだった。
明治通りにあるモスバーガー近くの細道を行った先。ニットキャップを被ったピアスだらけの盗撮マニアが気だるそうにビルの壁にもたれかかっていたのに期待半分で話しかけると、男は怪訝そうに臨也を見上げ、それから視線を下げての顔を見るなり、
「……妹さんですか？」
と尋ねたのだった。
臨也は早速用意していた嘘八百のでまかせを、盗撮マニアの男にぶちまけた。この子は両親が夜逃げして借金まみれの生活を送っていて借金を返すために云々――。
その言葉を聴きながらも、男は怪訝そうにしていたが、それでも信用してくれたらしく。
「10枚でセットで120円。これでも破格の待遇だからさ、それ以上はムリ」
40枚のパンツ、もといパンツ写真を、480円で買い取ってもらったのだった。
待たせていたセルティにその事を報告し、協力してもらった新羅にも伝えるため、新羅のマンションに向かった。
「写真用紙1枚4円。それを10枚セットで120円で買ってもらった。うん、思っていたよりなかなかいいんじゃない？」
新羅が明るい調子で他人事のように言う。
インク代を抜きにして、純利益は320円。そこからインク代を差し引いても、なかなかボロい――かどうかは疑問だが、にしてはいい商売だろう。新羅の出してくれた紅茶を飲みながら、臨也は満足そうに頷いた。
「これをあと6250回以上繰り返せば、200万に到達ってわけだ」
「……いやー、うん、ムリだねえ」
新羅がしみじみと呟き、紅茶に口をつける。セルティもこの不透明な商売の先行きが不安なのか、肩を落ち込ませていた。
「まあ、連絡先交換してくれたし、あっちもそれなりに相手してくれるんじゃないかな。もう無理だとわかったら、また別の手を考えればいいさ」
なあ、と臨也が笑いかけると、が困ったように微笑んだ。それからふーふーとお茶に息を吹きかけて、すするように飲む。猫舌らしい。
「頭のたりない妖精が、いかに暮らしにくい世の中かって事が、今日わかったねぇ」
『臨也、バカにするのもいい加減にしろ』
「ハイハイ、二人ともストップストップ」
新羅が苦笑しながら、穏やかな調子で二人の間に割って入ると、セルティは不満そうな雰囲気を纏わせつつも手を引っ込めた。
「とりあえず臨也、玩具代わりにして楽しむのもいいけどさ、限度はちゃんと考えろよ」
「は？」
いきなり新羅が変な事を言うものだから、臨也は目を丸くした。
「誰が、誰を玩具代わりにしてるって？」
思わず聞き返してしまう。
「お前がちゃんを、だろ。あんまり度が過ぎると、今みたいにセルティが怒るんだから、控えめに頼むよ」
そう言って、何事も無かったかのような顔で紅茶を飲みはじめる。臨也は反論しようと口を開きかけたのだが、どうにも言葉が出てこなくて、口を閉ざした。
「あ、そうだ。クッキーの詰め合わせ貰ったんだけど、食べる？」
「……、俺はいい」
「ちゃんは？」
その言葉に釣られ、自然と隣に座るを見下ろす。は新羅の顔をじっと見つめていたが、やや間を置いた後に、少し恥ずかしそうに小さく頷いた。
ちょっと待っててね、と新羅が笑って立ち上がる。白衣を翻して台所のほうへ行ってしまった。棚を空ける音のあと、どこしまったっけとぼやくような声が聞こえてくる。
手持ち無沙汰に紅茶に口をつけた途端、控えめな動作で袖を引っ張られた。視線だけ動かしてを見下ろせば、ほにょ、と消え入りそうな声が聞こえてくる。臨也が首を傾げれば、少し長めのハニワ語がほにょほにょと続き、そうして深々と頭を下げられた。
「……ねえ運び屋」
セルティの方に視線を向け「なんて言ってるんだ？」と臨也は言いかけたが、それよりも早くセルティがカタカタとPDAに文字を打ち込みはじめたので、臨也は言葉を飲み込んでセルティの言葉を待つ。しかし、どうしてかセルティはPDAの画面をのほうへ見せた。低い位置にあるそれを、臨也はどうにか盗み見る。
『そんな事を言ったら、つけあがるだけだ。こいつにはありがとうだけで十分だ』
「……ひっどいなぁセルティは。とりあえず、早く通訳してくれよ」
肩をすくめながら催促すれば、セルティはやや間をおいたのち、PDAを操作し始めた。
『ありがとう。要約すると、こんなことを言っている』
「……あのねぇ、要約する前の言葉をちゃんと教えてく」
「ちゃーん、クッキーあったよー！」
れないかな。臨也が言いかけた言葉は、新羅の嬉しそうな声でかき消されてしまった。
新羅がパタパタとスリッパの音を立てて戻ってくると、セルティはこれで会話終了と言わんばかりに、テーブルの上にPDAを置いてしまった。
ため息を吐いて、PDAからに視線を移す。は不安そうに臨也とセルティを見比べ、ほにょほにょと何か呟いた。しかしセルティがに黙れと言わんばかりに、片手を僅かに振り払い制止のジェスチャー向ける。これ以上は対応しない、という意思を示され、が小さくほにょ、と悲しそうに呟いて臨也を見上げた。
ごめんなさい――なんだか、そんな意味合いの篭った眼差しのように思えた。
臨也は反応しようか迷った末、新羅とセルティをちらっと盗み見た。二人ともクッキーの缶を開けるのに必死になっていた。
「うわ、ビニールテープ切れたぁ！」
封をしていたテープの一部を片手に騒ぎ出す。新羅もセルティも、こっちを全く気にしていない事を確認してから、臨也はに視線を戻す。
気にしていない。そういう意味合いをこめて、ほんの僅かに、わかるかわからない程度でゆるく首を振った。いまだに悲しげな表情にぎこちなく笑い返すと、はどことなく不安げな表情を徐々に緩ませ、最後にはにこーっと微笑み返してくれた。
臨也は内心ほっと胸を撫で下ろし、そうしてハッとした。何故今自分がほっとしてしまったのか、ひたすら思考を巡らせる。あわよくば利用するつもりでに構っていたのだが、自分が愛すべき人間ではない妖精のに気を使ったことが、少し腹立たしく思えてきた。
と、ソファについていた左手の甲に、誰かの指先が触れた。の指だと思った瞬間、臨也の肩がビクッと震えたが、はさして気にしていない様子だった。そのまま人差し指で手の甲を、なでなで――まるで労わるように何度か優しく撫でられる。途端に、今まで胸に抱いていた憤りやら、細かい考えが打ち消されてしまった。
「うーわ、結構量多いなあ。ちゃん、何がいい？」
新羅が言うなり、がクッキーのほうにぱっと顔を向けた。するりと手が離れる。
缶の中をじーっと見つめ、隅っこに綺麗に並べられた、細かく刻まれた赤いゼリーのようなものが天辺にちょこんと載った、搾り出しクッキーを一枚手に取った。
「臨也も遠慮せず食べなよ。さすがに僕一人じゃこれは食べきれないからさ」
「……いらないって言っただろ」
文句を言いながらも手を伸ばして、市松模様のクッキーを手に取った。
噛り付きながらを見下ろす。クッキーの食べかすがこぼれないように左手を受け皿にして、もくもくと食べていた。二枚目も同じ搾り出しクッキーを手にし、三枚目も、四枚目も、――ずっと同じものばかりに手を出している。
おそらく、このクッキーが一番枚数が多いから、という理由で手を出しているに違いない。臨也はの性格を完璧に把握しているわけではないが、どこかしらそんな風に思えた。
臨也は枚数の少なめな、見るからにココア味のクッキーを手に取って、ちょうどクッキーを食べ終わったの目前に差し出して見た。がぱちくりと瞬きをして、それからおずおずと臨也を見上げる。クッキー持った手を揺らしながら笑いかけると、が戸惑いがちに手を伸ばしてきた。
の指がクッキーに触れるか触れないかのところで、手を引っ込める。そのまま口に放り込むと、が小さな声を出した。「あっ」という表情のまま固まる。
見せ付けるように噴出してみれば、が顔を羞恥に染め上げた。怒ったようにハニワ語を捲くし立ててくる。
「ちゃん、遠慮せずにいろんなの食べなって」
見かねた新羅がそう言うと、は臨也からぷいっと顔をそらして、市松模様のクッキーに手を伸ばした。
2012/06/27