5.

 人差し指だけを立てた右手を、臨也はどうにも持て余していた。右手を空中に浮かせたままの状態で静止させ、目の前の自販機を上から下まで隈なく視線で探る。どこにでもある、某炭酸飲料のロゴが印字された赤色の自販機だ。もう日が落ちた時間帯のせいか、自販機の蛍光灯につられて寄ってきた小さな羽虫がいたるところに止まっている。
「……うーん」
 そうして、意味のない唸り声が口をついて出た。正直なところ、何を買うか迷っていたのである。
 とりあえず、自分が飲む分だけは先に買おうと思い、缶コーヒーのボタンを押す。取り出し口に落ちてきた缶を拾い上げると、臨也は気だるそうに首だけで後ろを振り返った。
 少し遠くにある生垣の合間から見えるベンチに、猫耳ヘルメットの黒いライダースーツと、その隣、忙しなく動く小さな頭が見えた。方や静かに腰掛けているセルティと比べ、は僅かに足をぷらつかせながら、ひっきりなしに口を動かし、時折セルティに向けて親しげな微笑を浮かべる。その姿はひたすらに楽しそうで、上擦った調子の声でホニョホニョ喋っているだろう事が臨也には容易に想像できた。
 あれから――写真の取引が成功してからちょうど三日目になる今日。が写真を撮りためたという旨のメールがセルティから届き、臨也は再度池袋の町に来ていた。先日交換したマニアの番号に連絡を入れた際、彼は用心深い性質なのか、まるで応答する気配が感じられなかった。それでもしつこく何度も連絡をしてようやっとのことで、別の番号から折り返し連絡が来た。
 こちらの用件を手短に伝えれば、ぽつぽつと宙に浮いた言葉を繋ぎ合わせるような口調で場所指定をつぶやき、最後にそれじゃあと電話を切られた。あまりの呆気なさに臨也は思わず苦笑したが、下手な雑談で会話を長引かされるよりは遥かにマシだと思える。そのままセルティに盗撮マニアから教えてもらった日時と場所を伝え、先日と同じようにセルティのバイクで目的地まで向かい、何事も無く取引を終え今に至る。
 なんでこんな人気のない児童公園で、かつ近くにある自販機でジュースを買う羽目になったのか。セルティとの会話の流れでそうなってしまったとはいえ、なんともいえない気分が澱のように積み重なっていく。別にここで休んだからといって何か利につながるわけでもなし、ましてや臨也以外の二人は人ではない。正真正銘のバケモノだ。おまけに方や首なし、方や言葉が通じないといった風なのだ。およそ普段の臨也であればすぐにでも自分の根城へ帰っていただろう。
 そう、――“普段どおり”であれば、だ。
 じゃあ今の自分はどうなのか。自問する。およそいつも通りかと問われると……あまり釈然としなかった。
 正面を向き、自販機を隈なく見る。悩むように口を尖らせた末、とりあえず自販機の王道とも呼べる赤い炭酸飲料――コーラを選んでみた。暗闇に浮かび上がるように光る滑らかなボタンを押すと、すぐにガコンという音が自販機から響いてきた。釣銭のレバーを下げ、じゃらじゃら出てくる小銭を財布にしまい、臨也は身をかがめてコーラを取り出した。
 再度首だけでを振り返り、左手の中にあるコーヒーと、右手にあるコーラを見比べる。青く細長い缶と、一回り太いコーラの缶。その二つをじっと見つめ――そうして臨也は口の端を吊り上げた。右手のコーラの缶のみを、上下に思いっきり振った。
 これでもかというほど振った。
 缶を振っても音がしなくなったのを確認し、臨也は満足げな笑みを浮かべつつセルティ達のほうへ足を向ける。

 ベンチの傍までやってくると、臨也はの名前を呼びながらコーラの缶を投げてよこした。いきなり缶を投げられは驚いた様子だったが、それでもあたふたしながらコーラの缶をちゃんと両手で受け止めた。一拍の間をおいて、ひどくホッとしたような表情を浮かべる。
『何も投げなくてもいいだろう?』
 セルティがPDAを見せ付けてきたが、臨也は見なかったフリを決め込んだ。
 臨也はベンチに座る事はせず、少し距離を置いて二人の正面に立ったまま、缶コーヒーのタブを開ける。口を付けようとすると、が不思議そうに臨也を真っ直ぐ見上げながら左隣を軽く二回、ぽんぽんと叩くのが目に入った。どうやら、座らないのか尋ねているらしかった。
 臨也は首を振ろうとしたがやや考え込み、仕方なくといった様子で足を踏み出す。ベンチにゆっくり腰を下ろせば、がじっと臨也を見上げてきた。
 穴が開くほど……というわけではないものの、それでもそんな具合に目を覗き込まれ臨也は僅かにひるんだが、しかしほんの数秒もせずには臨也から視線をそらした。僅かに俯いて、微笑むように目を細め、小さく一言だけホニョと呟く。は今何と言ったのか。セルティに尋ねようとして口を開きかけ、――問うのをやめた。大方、意味のない呟きなのだろう。おそらく、感嘆の声とか、そういう類の。
 缶に口をつけながらの様子を伺えば、コーラの缶を一通り眺め回した後、おっかなびっくりな手つきでプルタブを指で探っていた。何か助言するべきかと臨也は迷ったが、が爪で引っかくようにタブを起こそうとするので、自分に被害が及ばないように少しだけ距離を置いて座りなおす。
 がひどくぎこちない手つきで缶の口を開けるのを、ある種の期待感を抱きつつ横目に眺める。恐らくは缶の中身がどうなっているか気付いていないし、そもそもの手つきから察するに、缶に触れたのはこれが初めてなのだろう。隣に座るセルティも、一度のほうを見たっきり、携帯を操作するのに集中してしまっている。これからどうなるか、なんて予想すらしていないはずだ。
 プシュッと音を立てて勢い良く空気が抜けるのとほぼ同じタイミングで――臨也の子供じみた目論見はものの見事に成功した。
 あっという間にの顔がコーラまみれになった。はいきなりの事に思考が追いつかずうまく状況が把握できないようで、きょとんとしながら固まっている。隣に座るセルティも同様だった。携帯を操作する手が止まってしまっている。
 しばらくの間、なんともいえない微妙な空気が3人を包んだが、そんな空気の中でたった一人臨也だけが耐え切れずに吹き出した。
「っク、……アハハハハッ!」
 堪えていたせいもあってか、限界だと言わんばかりに腹を抱えて大仰に笑いだす。笑いすぎるあまり、目じりに涙が滲み始めていた。
 はゆっくりとした動作で臨也のほうに首を向け、ひたすら笑う臨也をぽかんとした表情で見上げていたが、何かを察したらしく表情をふっと曇らせると、コーラの缶に視線を落とした。そのままじっと、ぽっかり開いた缶の口を見つめていたが、の瞳に徐々に薄い水の幕が出来始め――それを手でごしごしとこすり始めたが、そのせいで指についていたコーラが目に入ったのだろう、んぎっという感じの小さな悲鳴を上げた。それがことさら臨也の笑いのツボを刺激してしまう。
「ブアハハハッアハハハハハいでえっ!?」
 いきなり頭部に衝撃を感じ、直後に鋭い痛みが襲ってきて、臨也は前のめりになった。開いた片手で鈍痛が走る頭部を抑えながら、一人悶絶し始める。
 痛みを堪えながらも顔を上げれば、拳を丸めたままのライダースーツが遠ざかっていくのが見えた。恐らく殴ったのはセルティだろう。というよりも、状況が状況だけにセルティしか考えられない。この行動の素早さには、流石の臨也も感心するほか無かった。
 ほにょ、と今にも消え入りそうな声が隣から聞こえてきて、臨也は目じりに浮かんだ涙を拭いながらに視線を向ける。見ればセルティがの真正面に立ち、身をかがめ、どこから出したのかハンカチ――それも黒いライダースーツにおよそ似つかわしくない、淡い色合いの可愛らしい柄のものだ――での顔を拭いていた。セルティが一通り拭い終わっても、は気持ち悪そうに頬に何度も触れ、不満そうに口を引き結ぶ。それから臨也のほうに向き直り、なおかつ臨也をきっと睨み付け、例のハニワ語を捲くし立て始めた。
「いや、何言ってるかわかんないってば」
 臨也が笑いながら宥めるような口調で言えば、が眉間に皺を寄せた。むっとした表情になる。どうやら火に油を注いでしまったようで、はぷいっとそっぽを向いてしまった。
「ごめんごめん。ちょっとした悪戯だって」
『悪戯にも限度はあるだろう。何を考えているんだ』
 セルティがPDAを突き出してくる。臨也はその文面を見るなり肩をすくめ、
「たかだかコーラの缶振って爆発させただけじゃん」
 呆れた風につぶやくと、そっぽを向いたままだったが、ふいにハニワ語を口にした。セルティを見上げ、何か問いかけている。が喋り終わると、セルティはPDAを操作し、に見えやすいような高さで画面を突き出す。
『コーラはお酒じゃないな。ビールの仲間でもなくて、炭酸飲料だ。私は飲んだことはないが、飲むとシュワッとすると言っていた』
 臨也はのほうに身体を寄せてPDAの画面を覗き込めば、そんな文章が表示されていた。
、やっぱりこれ、飲んだ事ないんだ?」
 身体を離しつつ臨也が尋ねると、といえばさっきの怒りはどこへやらといった様子で、臨也を見上げてこくんと頷いた。それから興味津々といった眼差しをコーラの缶に向ける。
 と、セルティが臨也に向けてPDAを突きつけてきた。
『勝手に覗き込むな』
 短い文章だったが、それでも酷く不満だという事をありありと感じた。
「別にいいだろ減るもんじゃないし。ていうかさあ、の言葉、通訳してくれてもいいんじゃないの?」
はお前に話しかけたわけじゃないからな。不要だろ』
「まあそうだけど、……セルティは、俺がと話すのに何か含みでもあるのかな」
『正直に言えば、あまり仲良くしてほしくはないな』
 あまり仲良くしてほしくはない――その文章を理解したとたん、言いようのない苦さが口の端に滲み出た。鼻で笑う。
「ほんっと、正直だねえ。そんな事言ってたら、そのうち俺がに利子三倍とか突き付けちゃうかもしれないよ? 俺の機嫌はとっておくべきじゃないかな」
『そうなったらその時だ。それに、お前にゴマするようなまねはしたくない。あと、お前がそういう事を牽制として口に出すって言う事は、ただの出任せって事だ。臨也自身、その気は全くないだろう?』
 確かに、臨也にそういうあくどい気はなかった。それを、セルティごときに見透かされてしまい、なんともいえない気持ちになったが、含み笑いを浮かべる事でなんとかやり過ごした。
「言っとくけど、コミュニケーションってのはね、互いを理解するのにとっても大事なんだよ?」
『それくらい知ってる。でもそれは対等の立場の話だろう。妖精嫌いのお前が私達に何を言っても、説得力がない。おまけに臨也が言うだけで薄っぺらくなるというか、歯が浮くような気がする』
「……まあ、褒め言葉として受け取っておくよ」
 微笑みを浮かべ――とはいえ若干引きつったものだったが――缶コーヒーに口を付けた。
 を見れば、臨也とセルティの会話に全く興味がないのか、はてまたそれ以上にコーラの存在が気になるのか、まじまじと手元の缶を見つめるばかりだ。なんとなく飲みたそうな雰囲気を感じるが、さっき爆発した事もあってか踏ん切りがつかないらしく、文字通り固まっている。
、それ、飲んでも平気だからな」
 見かねた臨也がそう口に出すと、は臨也をきょとんと見上げた。ホニョ、とつぶやいた声の調子は尻上がりで、なおかつの不思議そうな眼差しが、疑問の意図を孕んでいる事を伺わせた。
 ――ほんとうに?
 そう尋ねられているような気がして、臨也はしばし考え込んだ末、小さく頷いて見せた。するとはややあって、意を決したような引き締まった顔つきになり、コーラの缶に口を付けた。
 の喉が、小さくこくんと鳴る。その直後。
「~~~~~!?」
 よくわからない悲鳴を上げて、片手で口元を押さえた。驚いた様子で何度も目をしばたたかせている。
 セルティがすかさず『大丈夫か?』という文字をPDAに打ち込めば、は涙目になりつつも、こくこくと頷く。
「あれ? 炭酸きつかった?」
 臨也が尋ねれば、がホニョホニョと泣きそうな声でつぶやく。するとセルティがPDAを操作し、
『舌が痛いそうだ』
「痛いねぇ。……そういや、さっきセルティがビールがどうとかいってたけど、ビールは知ってるわけ?」
 小さく頷く。
「飲んだことは?」
 フルフルと首を振る。つまるとこ、ビールの存在は知っていたし、振ると噴出すことは知っていたが、口に入れる機会は全く無かったようだ。
「じゃあ、こういう飲み物は初めて飲んだのかな?」
 臨也の問いかけに、間髪いれずにこくんと頷いた。ようやっと刺激が引いたのか、が口元から手を離す。
「へえ、そっか。それじゃあよかったじゃないか。貴重な体験ができて」
 は困ったようにふるふると首を振り、ひどく嫌そうな顔で再度缶に口をつける。耐えるように目を瞑りながら、ちびちびと飲み始める。
「仕方ないなあ……」
 臨也は太ももの間に缶コーヒーをはさむと、からコーラの缶を取り上げた。ぽかんと口を開くをよそに、缶をゆっくりと左右に振り始める。中の液体が円を描くようにかき混ぜられ、すぐにシュワシュワと音が聞こえてきた。
「……こうやって混ぜとけば、そのうち炭酸抜けるから」
 見せ付けるように数回適当に揺らした後、に缶を差し出した。はきょとんとした顔のまま両手でそれを受け取ると、見よう見まねでコーラの缶を優しく振り始める。ほどなくして缶の口から中の液体がはねる音と、炭酸の抜ける音がないまぜになって聞こえてきた。
 ひどく真剣な面持ちで缶の中身を混ぜているをぼんやり見下ろし、臨也は缶コーヒーに口をつける。と、セルティがPDAを操作し、画面を見せ付けてきた。
『次もまたできそうか?』
 缶から口を離し、目を細めて文字を見つめる。できそうかというのは恐らく写真を買い取ってくれるか、という事だろう。
「できると思うよ。次からは全部の写真は必ず新規じゃなくても良い、って言ってくれたしね」
 今回の取引の際、臨也はマニアと会話を試みたものの、相手にその気はなく二言三言の後にばっさりと「うるさい」と切り捨てられてしまった。その時は流石に機嫌を損ねたかと肝を冷やしたが、それでも去り際に例の言葉を残してくれたのだ。恐らく次も確実に取り合ってくれるだろう。それがいつまで続くかが問題ではあるが。
「ああそうだ、新羅に伝えてほしい事があるんだけど」
『? なんだ?』
「成人の下着写真はいらないってさ。できれば学生のが欲しいって。だから、これからは印刷前に省いてくれると有難い」
 言い終わるなり、セルティはぴたりと固まった。
 しばしの間をおいて、ようやっとセルティがPDAを操作し始める。
『なんというか、言葉に困るんだが』
「俺だってそうだよ……」
 失笑を浮かべるほかなかった。おまけに「できれば中学生や女子高生のものだと有難い」とマニアに続けて言われたが、このセルティの反応を見る限り伝えなくて良かったようだ。もし伝えていたらという事を想像し、臨也は小さな溜息をつく。
 コーヒーに口をつけ、を見下ろす。マニアからその言葉を聞いたときのの反応は、ぽけっと間抜け面でありながらも、さして嫌悪感を露にすることなく小さく頷くのみだった。おおよそ意味は理解はしていると思うが、それでも真剣そのものの表情でコーラの炭酸を抜いている姿を見ていると、「本当に理解しているのか?」という漠然とした不安は拭いきれない。
 なんというか、は薄い膜ごしに世界を捉えているような、そんな雰囲気を臨也は薄々感じていた。それも、ひどく静かで、ゆるぎのない。さっきセルティと話していたときや、臨也がコーラを爆発させたときのように、多少なりとも喜怒哀楽を覗かせたりするが、それもほんの少しの事でしかなく、基本的には物静かに事を見守るような姿勢だった。その理由が歳を重ねたせいで感覚が鈍感になってしまったせいなのか、意図的にそうしているのか、それとも思考が追いつかずに場に適した反応を示す事ができないのか。どれもすべて有り得そうで、だからこそ臨也には判断できなかった。
「なあセルティ」
『なんだ?』
は夢魔なんだよね」
『ああ。それがどうかしたか?』
「……いや、なんでもない」
 夢魔。夜半人の寝床に忍び込み、悪夢を見せるという妖精。人の生気を吸うとも言われている。どちらかといえば悪と呼ばれる位置に存在し、家に近寄らないようにするための“まじない”や“お守り”すら考案されている、悪しき妖精。
 それが、臨也の隣に座り、真剣な面持ちでコーラの缶を慎重に振り、必死に炭酸を抜いているだという。正直なところ、およそそんな事をする妖精には到底見えなかった。
 と、がふと缶を揺らす手を止めた。そのまま耳元に缶の口を近づける。音を聞く仕草そのものだった。炭酸が抜ける音を聞いているのだろう。そうして耳元から缶を離し、おずおずといったふうに口をつける。
 そしては口を引き結び、口の中の物を飲み込んだあと、泣きそうな声でほにょほにょつぶやき始めた。
「なんて言ってる?」
『ピリピリはマシになったけど、甘すぎるそうだ』
「……ああ、そう」
 コーラ一缶に入っている角砂糖は何個分だったか――そんな、どこかで耳にしたかわからない、記憶に薄れぼやけて曖昧になってしまった情報を思い浮かべながら、臨也は缶コーヒーに口をつけた。一気に飲み干す。
 そんな臨也とは対照的に、は相変わらずしょげた顔でちびちびコーラを飲んでいた。次は炭酸が入っていないごく普通の飲料を買ってやろうとぼんやり考えていると、ふいにが臨也を見上げ、ほにょほにょとハニワ語を喋り始めた。臨也がセルティに尋ねるよりも先に、すぐさまセルティがPDAに文字を打ち込み、臨也に画面を見せ付けてくる。
『今日はありがとう、だと』
 文面を見つめ、を見下ろす。
「……今日も、だろ。今日も」
 臨也が不満そうに『も』を強調して言えば、何がおかしいのやら、が小さく笑って見せた。

 新宿の自分の家に帰れば、波江のヒールは玄関から消えていた。もう退社してしまったようで、部屋の中は無人だった。口を開けばすぐ悪態をついたりと反抗的な態度を示す波江ではあったが、それでも通りに面した窓のブラインドをちゃんと下げてくれていることは素直に有難かった。
 コートをソファの背もたれに乱暴にかけ、台所で手を洗い、うがいを済ませた。その際、これ見よがしにコンロに置かれた鍋に気付き、蓋を取って中を覗き込めば、ミネストローネが作ってあった。そういえば腹が空いていたことにいまさら気付き、苦笑を浮かべながら火にかける。手ごろな器とスプーンを食器棚から出し、温かくなったスープを盛り付け、自分のデスクに向かった。
 パソコンの電源ボタンを押し、スープを口に運ぶ。パソコンの前で何かを食べるのは行儀が悪いとは思ってはいるが、それでも効率が良いので止められない。それに、こういう行儀が悪い事をした途端に口うるさく注意し始める秘書はいないのだ。
 食べかけの器をテーブルの端に寄せ、マウスを動かす。パソコンにログインし、メールチェックと返信を済ませると、ブラウザを立ち上げた。九十九屋のチャットにでも邪魔しようかと思ったが、ふと思いついたようにキーボードを叩く。検索バーに文字を打ち込み、エンターキーを押す。
 スープの器を手繰り寄せ、残りを平らげると、空になって邪魔な器を再度端に寄せ、椅子に座りなおして画面を見つめる。
 帽子を被って透明になる事ができる夢魔の名前。臨也の知る限りでは該当する種族の目星はついてはいた。それでも確たる証拠がないうえ、割とどうでもよかった事だったので、さして気にかけることはなかったが、それでも今こうやって妖精の種類を調べているのは、単なる気まぐれに過ぎないと臨也は思う。
 日本の妖怪の情報は日本語で調べれば詳しく出てくるが、英語で調べればただ文字を羅列したような情報しか出てこない。間違えた情報が載っている事もしばしばだ。それは逆にも言えることで、海外のそういう不可思議な存在を調べるには英語で調べたほうがいい、と臨也は思ってはいたが、それでも日本語で検索すれば、該当する情報はすぐに出てきた。
 アルプと呼ばれる妖精。それが、だった。
2012/07/17