1;ナマエ 今日は王戦だったが、ナマエは全く興味を示さなかった。 源泉に「お前も見に行くか」と聞かれたが、申し訳なさそうに首を振ってナマエはそれを断った。 道行く人が自分とは反対方向に向かうのを新鮮に思いつつ、ナマエは夕方になりつつある空を眺めながら路地をゆっくり歩いていた。 大通りのほうに出て、曲がり角を曲がったところで、真向から人にぶつかってしまった。ナマエはなんとか倒れるのを堪えたが、相手のほうは衝撃でしりもちをついてしまった。 いってえ、と呟く男にナマエは内心慌てつつも、黙って男を見下ろした。転んだ男の仲間らしい奴が、こちらに駆け寄ってくる。 「おい、大丈夫か?」 聞かれて男は頷き、立ち上がった。立ち上がりざま、男の上着のポケットから何かが滑り落ちる。重力に抗うことなくアスファルトの上に転がったそれを見て、ナマエは目を見張った。 「てめぇ、どこ見てんだよ!」 男に怒鳴られたがナマエはそれどころではなかった。心臓がどくどくと波打つ音が聞こえる。見覚えのあるそれに手を伸ばしかけるが、先に男のほうがそれを拾い上げた。すがるように男を見上げる。ナマエの顔を改めて見た男は、感心したように口笛を吹いた。 「うわ、女ぁ?!」 嬉しそうな男の頭を、横にいた連れが叩く。 「ばっかおまえ、女がここにいるわけねーだろ」 「そりゃそうだ」 ゲラゲラと笑い出す男を睨みつけながら、ナマエは口を開いた。 「…お前、それ、どこで手に入れた?」 低い声に男は一瞬怯んだが、それからケラケラと笑いながらこう告げる。 「しらねーよ。負けた奴から盗ったんだ」 ナマエの中でぷつりと、何かが切れたような気がした。 「返せ」 理不尽でわけの分からない事を言っていると自分でも思った。思っても…それでもこの衝動は止められなかった。 「は?」 聞き返してくる男の態度にナマエは我を忘れ、腰のホルダーに差し込まれたサバイバルナイフを手に取った。 「それ、返せよ」 ナマエがナイフをもったままにじり寄る。男も負けじとナイフを取り出し、ナマエに刃先を向けた。 「っ、てめ、殺る気かぁ!?」 威嚇するように叫ぶ男に、連れが慌てた様子で声をかけた。 「ちょっ、おい、やめろって」 ぎらぎらとしたナマエの目に怯んでいるのか、連れが男の腕を掴んで引っ張りナマエと距離をおいたが、男はむしろ殺る気満々といった感じで、腕にすがりつく連れを振り払いナイフを構えた。 ナマエが走り出す。口元が歪んだ弧を描いた。 2;アキラ 源泉との約束もあり、王戦の前座を見に行ったアキラだったが、源泉もいなくなり、しかもライン中毒者同士のバトルなど見たくはなく、アキラは静かな場所に行きたくなり城を後にした。 通りに出て、教会のほうへ向かうべく足を進める。教会にナマエがいるんじゃないかと淡い期待を抱いた矢先、 「誰か助けてくれぇ!」 叫び声が聞こえた。アキラはびくりとして、声のするほうを見る。再度また叫び声があがり、アキラは警戒心を露にしながらそちらへと向かった。通りを走り、声を頼りに角を曲がる。 その光景を目の当たりにして、戦慄が駆け抜けた。 道路の真ん中に、大の字に倒れている男が一人いた。服は血まみれで、見るだけでも痛そうなほどだった。男から距離を置いて立ちすくんでいる男がアキラを視界に捉える。どうやらこいつが叫んでいたらしい。 「あ、アイツ、止めてくれ!」 男が指差した先には、片手にナイフを下げるナマエがいた。黒いパーカーは汚れているかどうかわからなかったが、ナマエの右頬にべったりと血がついていて、ジーンズもところどころ黒ずんでいた。 ナマエの目はぎらぎらと光っていて、地面に倒れている男だけしか視界に入っていないようだった。アキラが駆け寄っても、ナマエはそれに気づいていないようだった。 「い…てぇ…」 倒れている男から泣きそうな声が響いた。男の顔を見て息を呑む。右目にナマエのスローイングナイフが深々と刺さっていた。ナマエが右手をゆるく動かす。手のひらに小さなナイフが握られていて、アキラははっと息を呑んだ。 「ナマエ!」 名前を呼ぶとびくりとナマエが震えて、アキラを捉える。それから男を見下ろし目を見張ってから、顔をゆがめてしゃがみこんだ。 「っ、もうやめてくれよ!」 男の叫び声を無視するようにナマエはナイフを放り投げ、男の上着のポケットをあさり何か丸いものを奪い取ったあと、ナイフを地面に置いたまま走り出してしまった。 アキラが男に駆け寄りしゃがみこむ。右目から涙のように血を流す男を見て、アキラは奥歯をかみ締めた。助けを呼んでいた男が泣きそうな顔で駆け寄ってくる。 「畜生、アイツ無茶苦茶しやがって…!」 そう言い放ったこの男は多分、怪我している男の連れだろう。その男が怪我した男の目に刺さったナイフを引き抜こうとするから、アキラは慌てて止めた。 「今は抜かないほうがいい。それよりアンタ、上着貸せ。…左腕、止血しなきゃやばいぞ」 運悪く動脈を傷つけられたのか、左腕から流れ出た血が地面にじわじわと広がっていく。慌てて上着を脱いで渡してくる男からアキラはそれを受け取り、左腕の付け根に上着の袖を巻きつけきつく縛った。その拍子に怪我をしている男が小さくうめく。 「中立地帯かどっかに運んで手当てしてもらったほうがいいぞ」 言うと、連れの男が申し訳なさそうに頭を下げた。 「何でこんな風になったんだ?」 「こいつが持ってる時計見たとたん、態度が変わったんだ」 時計?とアキラが聞き返すが、連れの男はよく知らないらしく、わからないと首を振った。 すると怪我した男が口を開いた。 「…昔、バトルで負けた奴から、俺が盗ったんだ」 ぼそぼそという呟きに、アキラは静かに目を閉じる。 「ここは弱肉強食なんだ、勝者が敗者の物盗ったって、べつにいいだろ…」 言い訳するように呟く男の唇は紫色だった。もうしゃべるな、と連れの男が口にするのを聞きながら、アキラは吐き捨てた。 「…ここが弱肉強食だってそう言うなら、この状況にアンタらも文句言えないだろ」 アキラの言葉に横になった男は反応を示さなかったが、連れの男は図星を疲れたように押し黙り、俯いた。 アキラは溜息交じりにゆっくり立ち上がり、地面に転がったナマエのナイフのほうへ歩き出す。それを拾い上げると、手のひらにねっとりと血がついた。アキラは特に気にせずそれを手に提げ歩き出そうとすると、連れの男が慌てて立ち上がった。 「どこ行くんだよ」 アキラは振り返ってから、何も言わずにナマエの向かった方へ走り出した。 道なりに進んでいくと、十字路に出くわした。ナマエはどこに行ったんだ、と周りを見回し、アキラはとりあえず己の勘に頼る事にして右へ曲がった。奥へ奥へと進んでいくと、道の真ん中にうっすら人影が見えた。 「ナマエ!」 人影がこちらを向く。人影もといナマエは逃げようとせず、黙ってそこに佇んでいた。 アキラは減速し、息を整えナマエの真正面までやってくる。ナマエの後ろには2メートルほどの柵が聳え立っていて、その先には水路らしきものがあるように見えた。行き止まりらしい。 ナマエは俯いたまま、ぴくりとも動かない。まるで親に叱責されるのを恐れている子供のようだった。ぎゅっと握られた彼女の両手の中に、丸いねじ式時計があった。多分これがあの怪我した男のものなのだろう。 とりあえずアキラはナマエのナイフの血を払って、ナマエの腰にあるホルダーにそれを差し込んだ。ナマエの右頬についた血を指で拭ってみたが、傷は見当たらなかった。どうやら返り血だったようだ。アキラはほっとしたあと、屈んでナマエの顔を覗き込む。 泣いていた。 「お、おい。何で泣いて…」 ぎょっとしてアキラが言うと、ナマエは辛そうに眉を寄せる。 「泣いてなんかない」 ナマエは自分に言い聞かせるように呟いて、血まみれの手で目をぬぐおうとする。アキラは慌ててその手を掴み、とりあえず自分のブルゾンの袖で涙を拭ってやった。 「っ…、やめろってば!」 ナマエがそう叫んでアキラの手を弾いたが、アキラにはどうって事なかった。 「そんな手で目こすったら、物貰いになる」 アキラが言うと、ナマエはぴたりと抵抗をやめた。そんなに物貰いになるのが嫌なのかと少しだけおかしかったが、アキラはそれを口にはしなかった。 ナマエの目をぬぐうたびに、ナマエの目から涙が溢れ出してくる。キリがなかった。 「もういいって」 ナマエがぼそりと呟くので、アキラは仕方なく手を下ろした。ナマエは時計を握った左手の上に右手を重ねて、ぎゅっと握り締める。その手を顔のほうに持ってきて、ナマエは俯いたまま口元に強く押し付けた。ナマエの頬から涙が零れ落ちて、アスファルトの上に落ちた。 声をかけるべきか迷ったあと、アキラはナマエの口元にある時計を見た。唾を飲み込んで、慎重に言葉を発する。 「その時計…大事なものだったのか?」 言うと、ナマエの身体がぴくりと動いた。ナマエの目から落ちる涙の感覚が狭まる。どうやらその時計は相当大事なものらしい。何故こいつがこんなにも泣くのか分からなかったが、とりあえずはその時計が関係しているようにアキラには思えた。 ナマエの口から漏れてくる、しゃくりあげる声にアキラはだんだん居た堪れなくなってきた。人付き合いが苦手なアキラにとっては、目の前で泣いている他人を見るのは初めての事で、どう声をかければいいのかわからなかったのだ。気を使って立ち去るべきなのかと思うが、それは面倒だから逃げるということになるのではないかと考える。 …考えて、面倒になってやめた。 ここにずっと居たって危ないだけだ。周りのビルを見回し、入り込めそうなビルを見つけ、ナマエの右腕を掴む。ばっと彼女が顔を上げた。ナマエが瞬きするたびに目じりから涙が零れ落ちる。 「来い」 無理やりナマエを引っ張ってアキラが歩き出すと、ナマエは大人しくついてきた。もともと抵抗する気がなかったらしい。抵抗されるんじゃないかと予想していたアキラは、なんだか豆鉄砲を食らった気分になる。振り返ってナマエを見れば、俯いて手の中の時計を見ているだけだった。 ビルの中に入って、誰かいるんじゃないかと警戒しながら進み、倒れたロッカーを越えてドアのない部屋に入ると、皮が裂かれたソファが横長のテーブルを中心にして4つ置かれていた。どうやらオフィスの応接室のようだ。手前の二人がけのソファににナマエを座らせ、その隣にアキラも腰を下ろす。ソファが軋んだ音をたてた。ナマエは前かがみになって座ったまま、相変わらず、泣きながら両手に握った時計を口元に押し当て、それから少しだけ身体を起こして、手を額に当てた。まるで祈るような姿勢だった。 頬杖をつきながらアキラはぼーっとそれを見て。 「なあ、お前、なんでトシマに来たんだ」 無意識にそう呟いていた。言った後、自分でも何を言ったのかわからなくなって、慌てて姿勢を正すが、何をやっているんだ俺はとそのまま背もたれに身体を預ける。しばらくじっとしていると、ナマエがぽつりと呟く。 「……探しに来たんだ」 何をだ、とアキラが口を開く前に、ナマエが時計をぎゅっと握り締めた。金属でできた時計がかすかに軋む。 「…友達、探しに来たんだ」 泣きじゃくった声で言った後、ぽとりと涙が落ちる音が聞こえてきた。アキラはナマエから視線をずらして、ひび割れた壁を見つめた。壁際に並んだ棚はどれもガラスが割れていた。棚の中にいろいろな置物が置いてあったが、アキラはどれにも興味をそそられなかった。 ナマエが奪い取った時計は、その友達のものだったのだろうか。そんな事を考えながら視線を窓に移すと、ナマエの口から嗚咽がもれる。それに交じって、小さな呟きが聞こえた。 ――――くーちゃん。 嗚咽がひどくなる。歯を食いしばって泣き声を堪えるナマエをアキラは横目で盗み見てから、黙ってそこに座っていた。 周りが暗くなってきたころ、ナマエは泣き止んだ。これ以上暗くなる前に教会に戻らなければと、アキラは無理にナマエの手を引いてビルを出た。ナマエの抵抗がないのは違和感があったが、それでも大人しくついてきてくれるのは正直ありがたかった。広がる空はいつも以上にどんよりと暗くて、なんだか明日は雨になりそうな気配さえ感じられた。大通りに出るための都合上、ナマエと男がやりあっていた場所を通らなければならなかったが、いざその場所に行ってみると、大きな血痕が道路に残っているだけで、男たちの姿はなかった。多分どこかに移動したのだろう。 隣で歩くナマエを見る。ナマエは泣きつかれたのかぼーっとしたまま、なんとかアキラに手を引かれて歩いている感じだった。 「…大丈夫か?」 聞いてみると、ナマエがはっとしたように目を見開いてから、アキラを睨み見てくる。 「うるさい」 こんなんでも反論する気力はあるらしい。そもそもそういう風にナマエができているのかもしれない。彼女の中のすべての感情を取り除いても、反抗というものは絶対残っているに違いない。 そんな事を考えながらしばらく歩き、教会の近くまで来ると、ナマエは繋いでいたアキラの手を振り払った。アキラが振り返ると、ナマエはばつが悪そうな顔をして俯く。 「もう、ここまででいい」 言って、ナマエは一歩後ずさった。 「おれ、家に帰るから」 「家?」 聞き返すとナマエは静かに頷いた。 「家っつーか、隠れ家みたいなもんだけど…」 付け足すように言って、ナマエはアキラを伺うように見た。なんだか「お前はどうするんだ」と聞かれているような気がして、アキラは暫し考え込む。 「アキラ、その、教会に源泉、いると思うぞ」 だから心配しないでいってこいよ、とナマエは言うが、アキラは別にそんな事を心配しているわけではなかった。むしろ源泉のことなどアキラにとってはどうでもいい。それよりも脆くなった自分を必死に隠し通そうとするナマエのほうが心配だった。 「おまえ、ほんとに大丈夫か」 アキラが問うと、ナマエは目を見開いてからあからさまに視線を逸らした。 「何がだよ」 ぼそっと呟かれた言葉に、アキラは眉間に皺を寄せた。 「何がだよ…って、おまえな」 どうやらナマエはさっきの事を無かった事にしたいらしい。こんな歳で――とはいってもナマエの歳など知らないが、外見ではまだ少女と判断できそうな女が人前で声を出して泣いたのだ。それを会って間もない他人に見られるなど、恥ずかしくて無かった事にしたいだろう。けれども傍観者のアキラにとってそんなのは些細な事にしか過ぎないのだ。別にナマエが子供のように泣いた事などは気にしていないし、むしろそんな事よりナマエが一人になった後また何か仕出かさないか心配だった。 「本当に一人で平気なのか」 アキラの言葉に、今度はナマエが眉間に皺を寄せる。睨みつけられたが別段怖くなかった。 「平気だってば! 過保護すぎだぞお前」 言われて、アキラは固まった。自分は過保護すぎるのだろうか、という思考にアキラは一瞬捕らわれる。 「じゃあな」 そう呟いてナマエはくるりと方向転換し、すたすたと歩き出した。アキラは慌ててその後を追い、腕を掴んだ。拒まれる事などわかりきっていたので、ナマエの腕を放さないよう力をこめる。しかしナマエは手を振り払わなかった。立ち止まって、そのまま動かなくなる。 「ちくしょ」と、そんな呟きが聞こえてきた。アキラは訝しげな顔をしたあと、ナマエの正面に回ってみる。ナマエがパーカーの袖で目をこすろうとするので、アキラは慌てて空いている手でその腕を掴んだ。手のひら全体に湿った感覚が伝わる。微かな鉄のにおいに顔をしかめそうになる。パーカーの色で分からないが、腕にも返り血を浴びているのはなんとなく感じていた。 「だから、物貰いになるって」 アキラがそう言うと、ナマエの頬から涙が落ちた。 「うるさい」 そういうことしか言えないのかと、アキラは呆れたようにふっと息を吐いて、やや目を細めた。 「何がしたいんだよお前。おれに構っても大したメリットなんかないぞ」 すん、とナマエが鼻を啜る。 「…だろうな」 正直な話をすれば、ケイスケのこともあるし、アキラはナマエになどかまってられないのだ。こんな奴と話してる暇があるなら、さっさとケイスケを探しに行くべきだとアキラは思う。しかしどうしても、それができない。女一人でトシマに潜り込み、不安なのを必死に隠して気丈に振舞っているナマエがほっとけないのだ。 「このお人よしが」 アスファルトに涙が落ちる。多分こいつは隠れ家とやらに戻ったら一人で泣いていただろう。今また泣き出したナマエを見て、アキラは少しほっとした。どうしてもナマエを一人で泣かせたくはなかった。 ナマエには多分、保護欲を掻きたてられるような、そういう素質があるのだとアキラは思う。多分、自分はそれにやられてしまったに違いない。 「お人よしで悪いか」 アキラがそう吐き捨てると、ナマエは黙ったままゆるく首を振った。 3;アキラ ナマエが隠れ家としているアパートの外壁は煤で汚れひび割れてはいたが、ポストには新聞紙が突っ込まれたままだったり、荒れ果てた様子はなく、まだ人が住んでいるんじゃないかと思わせるくらい生活感が残っていて、それが少し不気味だった。 ナマエの手を引きながら隠れ家はどの部屋なのか聞き出し、ナマエが使っているという最上階の奥の部屋に上がり込んで、アキラは驚きのあまり固まった。その部屋はトシマには似つかわしくないほど“普通の部屋”だったからだ。家具は最低限のものは揃っているし、水道まで通っていた。なんでも「アルビドロの城には水道が通ってるから、それをちょっと使わせてもらっている」との事。しかしこの水道水は身体を洗ったり服を洗濯するぶんにはいいが、飲むと腹を壊すらしい。アキラが部屋に入った直後、ナマエに「絶対飲むなよ」と念を押されてしまったくらいだ。多分ナマエは水道水を飲んでえらい目にあったに違いない。 リビングに入ってすぐあとに、アキラはナマエに半ば無理やり部屋の隅に陣取っているベッドの上に座らされた。ナマエはそれから帽子とパーカーを脱ぎ捨て、ベッドの傍にある椅子の背もたれからバスタオルを手に取った。 「頭冷やしてくる」 アキラにそう告げるや否や、ナマエは大股歩きでバスルームへ入っていった。乱暴にドアが閉まると、まるで台風が通り過ぎたあとのように静かになる。アキラはなんだか張り詰めていたものが一気に抜けていき、盛大に溜息を吐いてベッドに横になった。 「そういえばアキラ」 いきなりバスルームのドアが開いてナマエの声が部屋中に響く。アキラはびくっと上体を起こした。 「おなかすいたら、台所にソリドと水あるから、勝手に食べて」 ナマエの物言いがアキラにはなんだかぎこちなく感じられた。静かにドアが閉まったあと、アキラはまたベッドに横になった。 この部屋はワンルームだが、アキラがトシマに来る前に住んでいた部屋よりは広かった。ベッドシーツは真新しく、毛布は新しいものなのか埃臭さなどは全く感じなかった。一般的に言えばここは必要最低限の住環境なのだろうが、アキラにはむしろ必要以上に物があるとさえ感じられた。それは多分自分が住んでいた部屋は殺風景といえるくらい物が少なかったし、トシマに来て価値観が少し変わってしまったからだろう。 とりあえず、普通に人が住めるような場所にいることがなんだか不思議でたまらなかった。 上着のポケットから通信機を取り出す。時刻は0時ちょうどだった。日付が変わっているのを確認して、アキラは通信機をポケットにしまいこんだ。アキラがトシマに来てもう9日目になり、ケイスケと別れてからもう5日経ったのだ。それが現実としてアキラに圧し掛かってくる。まぶたを閉じる。いろいろありすぎてなんだか疲れがどっと押し寄せてきた。今だけは何も考えたくない。 「…アキラ、寝てるのか?」 声が聞こえて、アキラは目を開けた。間近にナマエの顔がある。ナマエは首をかしげながら、アキラの頬に水の入ったペットボトルを押し付けてきた。体温と水との温度差に、一気に思考が覚醒する。アキラががばっと起き上がると、ナマエは「うわっ」と驚いて身を引いた。シャワーを浴び終わったようだが、髪が濡れていない。そういえば床に電池式のドライヤーが落ちていた事をふっと思い出した。 「うわっ、いきなり起きるなよ! 頭ぶつけるとこだったぞ」 さっきまで泣いていたのはどこへやら。いつものように喚きだすナマエを見て、アキラはなんだか拍子抜けしてしまった。まだむくれたままのナマエからペットボトルを奪い取り、蓋を開けて口の中に流し込む。一気に眠気が吹き飛んだ。 ナマエがアキラを見て小さな溜息をこぼし、アキラの隣に腰掛けるとマットレスが微かに揺れた。その振動がアキラに伝わり、アキラはペットボトルに口をつけたままナマエを見下ろした。ナマエは太股の間にペットボトルをはさんで、ソリドの封を開けていた。ナマエがソリドにかじりつこうとしてぴたっと止まり、アキラを見上げる。ソリドを持っている手を下ろして、ナマエが両手でソリドを半分に割った。 「ん」 食べる? といった感じで片方をアキラに差し出してくる。 「…いらない」 首を振ってアキラが応えると、ナマエはわずかに苦笑して手を引っ込め、もう片方のソリドを膝上においた。アキラに差し出したほうのソリドを両手で持って、それにかじりつく。かじってはもそもそと口を動かす姿は、なんだか木の実を貪り食っているリスの姿を彷彿とさせた。しかしこんなに不味そうに餌を食う動物などいないだろう。 「それ、何味だ?」 聞いてみると、ナマエが上目遣いに見上げてきた。もそもそと口を動かして、ごくんと飲み込んでから。 「チョコ」 呟いたあと、ナマエは視線を前に向けて、またソリドにかじりつく。茶色いのでてっきりカレー味の類だとアキラは思っていたが、言われて見れば確かに甘いような香りがしないでもない。 「好きなのか?」 「ふつう」 もそもそと口を動かす姿は本当に美味しくなさそうだった。 「美味しいのか、それ」 反応はない。チョコ味等の甘いソリドは男より女のほうが人気が高いものだから、てっきりナマエも好きなのかと思っていたが、どうやら違うようだ。美味しくなさそうにもそもそと食べ続けるナマエを見て、アキラは無意識にナマエの膝の上のソリドに手を伸ばした。奪い取るとナマエがびくっとしてからアキラを凝視する。 「くれるんだろ」 聞いてみると、ナマエは何か言いたそうな顔をしてから口ごもり、こくんと頷いた。それを横目に見たあと、アキラは茶色い塊にかじりつきながら、何をやってるんだ俺は、と自問した。 口の中に甘さと、チョコレート独特の風味が広がる。飲み込んで、素直に美味しいと感じてしまった自分に嫌気を覚えつつも、アキラはまたソリドにかじりついた。思いのほか腹が減っていたらしい。すぐに飽きそうな味だったが、空腹のせいかそんなのは微塵も感じなかった。 「アキラはチョコ味、好きなのか?」 唐突に聞かれて、アキラはソリドにかじりつこうとした体制のまま静止した。ソリドから口を離して、ナマエを見下ろすと、ナマエが伺うように見上げてくる。 「…ふつう」 「そっか」 ナマエが少しだけ笑って、ソリドにかじりついた。 それからは二人とも無言でソリドを食べていた。そもそもアキラ自身会話する必要性を感じなかったから、ソリドを食べる事だけに集中していた。ナマエはどう思っているかはしらないが、多分似たような事を考えているのだろう。むしろただ単に気まずいだけなのかもしれない。 アキラは最後の一口を口の中に押し込み、ペットボトルの水を流し込んでナマエを見ると、いつの間に食べ終わったのか、ナマエがソリドの袋をくしゃくしゃに丸めて、ベッドの傍のくずかごに投げ入れていた。 「あのさ、アキラ」 聞かれて、視線だけ向ける。ナマエは言いにくそうに口ごもってから、ええと、と呟いて。 「その、…ありがとな」 恥ずかしそうに笑って見せるナマエに、アキラは無性に気恥ずかしくなり、ナマエから視線をそらした。 「…何が」 「何がって、ええと、その」 ナマエは気まずそうに口ごもる。アキラが盛大に溜息を吐くと、ナマエがびくっと震えた。 「俺は別に何もしてないだろ」 アキラ自身この話は長引かせたくなかったし、ナマエだってきっとそうに違いない。とっとと終わらせてしまおうとアキラはそれだけ呟いてそっぽを向いた。 「…うん、ありがと」 呟いたナマエの声がくすぐったく感じられて、アキラは静かに息を吐いた。 ← ↑ →