1;アキラ
 目を覚ますと、の寝顔が視界いっぱいに広がった。
 アキラは驚きのあまり息を呑み、身体を起こそうとして初めて、自分がに抱き枕代わりにされていることに気づいた。自然と身体がこわばる。いつ眠ったのか、何故二人してベッドで横になって眠ってるのか、が何でひっついているのか疑問は山ほどあったが、それよりもこの状況をどうにかしたかった。の腕を退けようと試みるが、案外力が強く、やっとの事で退かしてみればまたの腕が戻ってくる。アキラは嫌悪を露に眉を寄せた。暢気な顔をして寝息を立てているが心底恨めしく思えてくる。
「んー…」
 小さな呟きがの口から漏れて、起きるのかとアキラが身体の力を抜いた瞬間、さっき以上に引き寄せられた。
「っ、」
 女に腕枕されているという状況に眩暈を覚える。足にの足が絡みついて動こうにも動けなかった。どんだけ寝相が悪いんだ、と心の中で悪態をついてみるが、状況が変わるわけでもなく。
「おい、起きろ」
 仕方なしに、アキラはの肩を揺さぶった。の目がうっすらと開く。の眼球に自分の顔が映りこんでいるのが見えた。は何度か瞬きをした後、視線を逸らしてうーんと唸り、またアキラを見る。
「足、退けろ」
 いつまでも離れないに苛立ちを覚えつつそう呟くと、がうわっと目を見開いてアキラを押し飛ばした。アキラは慌てて毛布を掴んだが、毛布ごと床に頭から落ちる。目の奥がちかちかした気がした。身体を起こして後頭部をさすりながらを睨みつけると、はきょとんとした顔をしてから辺りを見回し、状況を理解したのか誤魔化すように笑ってみせた。
 がベッドからおりたあと、は台所からソリドと水二つを持ってきてアキラの前に座った。差し出されたソリドを見て、アキラはいらないと首を振ったが、半ば押し付けるようにに渡され、仕方なくそれを口にした。
「ごめん」
 食事の最中、がぽつんと呟く。
「何が」
 聞き返すと、が首の後ろに手を回して言い渋った後。
「俺、寝相悪くて」
 そういった。もあの状況は不本意のものだったらしい。申し訳なさそうに苦笑するを見て、アキラは小さく息を吐いた。
「寝相が悪いって自覚があるのか」
 からかいの意味をこめてアキラが言うと、は淋しそうに笑った。
「昔、よく言われてたんだ」
 誰に、とは聞けなかった。聞けるわけがなかった。

 朝食を食べ終え、アキラはが着替え終わるのを待った後、一緒に部屋を出た。アパートの外に出て、アキラは深呼吸する。なんだか湿った空気のにおいがした。
「今日、雨降るかもな」
 隣でがぽつんと呟いたが、アキラは天候に関することは一切分からないので、無言でやり過ごした。
「アキラはこれから、その、友達探すのか?」
 聞かれて、ケイスケの顔が脳裏によぎった。アキラが頷くと、がそっか、と呟いた。それからごそごそとパーカーのポケットをあさって、グーにした手を突き出してくる。意図が分からず一瞬だけきょとんとしたアキラだったが、自分の右手をの手の真下に差し出すと、ぽとりと手のひらに何かが落ちた。透明な包装の中に、桃色の塊が入っている。飴だった。
「これ、最後の一個なんだ」
 が手を引っ込める。
「アキラにやるよ」
 そう言って、はアキラを見上げた。まっすぐな瞳に射抜かれる。
「がんばれ」
 の友人が死んだと決まったわけではないが、でも、多分もう手遅れなのだろう。だからこそ、は自分にがんばれと言ったのかもしれない。が友人を救えなかったからこそ、アキラならケイスケを救えるとは信じている、そんな気がした。アキラは手のひらの中の飴玉を握り締める。脳裏にケイスケの笑顔がよぎった。
「ああ」
 アキラも負けじとをまっすぐ見つめて頷くと、がふっと柔らかく笑った。



2;
 アキラと別れた後、教会に行ってみたが源泉の姿はなかった。仕方なくぶらぶらと中立地帯を渡り歩き、北東の崩れかけたビルの近くでやっと源泉を見つけた。
「もとみっ」
 名前を呼ぶと、源泉が振り返る。源泉が振り返って初めて、源泉の奥に人がいるのに気がついた。黒いジャケットにジーンズ、首からドッグタグを下げ、頬に傷があるその人はを上から下まで見たあとに、へぇ、と口元を緩めた。あんたいい趣味してんなぁ、うっせボケそんなんじゃねえよ、と源泉と男が和やかな会話を始めるので、は不安そうな眼差しで源泉を見つつも、二人に近づいた。
「…仕事中?」
 源泉に聞いてみると、源泉が苦笑して首を振る。
「いや、世間話してただけだ。んで、どうしたんだ?」
 聞かれて、口ごもる。部外者がいるのに話などできるわけがないわけで、どうしようかと眉を寄せると男が小さく息を吐いた。
「邪魔なようだし、もう行くぜ」
 ありがとな源泉さんと呟いて、男がすたすたと歩き出す。それから路地を曲がって姿が見えなくなったところで、は源泉を見あげた。源泉がどうした?と首をかしげてくる。
「あの、さ」
 パーカーのポケットに手を突っ込み、冷たい時計の感触を確かめる。彼が死んだとは信じたくない、信じたくないけれど。
「頼み、ある」
 ここにきたときから、薄々感じていた。きっと昔みたいには、戻れないのだと。ほんの些細なことで笑いあったり、テレビ見て感動して泣きあったり、ちょっとしたことでケンカしたりと、ごく当たり前だった日常に戻れないくらい、自分は程遠い場所にいるのだ。追いかけても追いつけないような、手を伸ばしても届かないような、そんな苦しみに耐え続けてきたが、もう終止符を打とうと思った。
「なんだよ、頼みってのは」
 源泉が屈託なく言うのを見ながら、ポケットの中で時計を握り締めた。
「城に行って、ある人の安否を、確かめて欲しい」

 の探し人である乃木空也の情報をすべて打ち明けると、源泉はその情報をすべて手帳に書き記して、小走りで城に向かっていった。言い終わると、呆気ないものだと思った。取り残された後にはどうしようもない脱力感が襲って、は泣きそうになるのを必死でこらえていた。雨が降り出してきてやっと、は足をすすめた。
 どこに行くでもなく路地をさ迷い歩き、ふらふらとおぼつかない足取りで、それでも教会に戻ろうと頭の中で考えていた。
 そんなときだった。男の咆哮が聞こえたのは。
 はびくりと体を大きく震わせ、あたりを忙しなく見やる。ばしゃばしゃと地面に溜まる水を蹴り飛ばすようにして、青いツナギを着た男が叫びながら目の前の路地を駆け抜けていくのを見て、は息を呑んだ。どう見てもあの男の叫び声は常人のそれではなかった。多分ライン使用者なのだろう。は顔をしかめる。どうにも嫌な予感がしてしょうがなかった。
 男が駆け抜けていったほうとは逆の道を進んでいくと、見慣れた人が倒れていた。雨に打たれているのに微動だしないその姿に、さっと顔から血の気が失せた。
「アキラっ!」
 叫びながら走って近寄り、そのそばにしゃがみこむ。左手の手のひらに一文字の傷があり、そこから血が垂れていた。抱き上げて膝の上に彼の頭を乗せ、肩を揺さぶると、アキラがゆっくりと目を開けた。どうしようもなくほっとしてしまう。
「……おまえ、なんでここに」
 アキラが体を起そうとするので、は慌ててそれを支えてやった。
「叫び声、聞こえたから」
 言いながらツナギの男が駆けていったほうを見て、は視線をアキラに向けた。アキラはしばらくぼんやりとしていたが、いきなりはっとしたように目を見開いて立ち上がろうとする。そして、アキラは顔をしかめてバランスを崩した。間一髪、といった感じでが手を伸ばして支える。手のひらのぬめった感触に、がびくりとした。
「おまえ、怪我して…」
 呟いたが、アキラの耳には届いていないようだった。
「アイツ…追わないと…ッ」
 辛そうにアキラが呟く。アイツって誰のことだよ、と聞こうとして、さっきのツナギの男の姿が脳裏をよぎった。
「待てってアキラ、落ち着けってば!」
 腰に手を回して抱きつき、今にも暴れだしそうなアキラを抑える。
「怪我してんだぞおまえ、無理に動いちゃダメだって!」
 抱きついたままじっとしていると、こわばったアキラの体からするすると力が抜けていった。手を離すと、アキラがその場に座り込む。はとりあえずその場から立ち上がり、地面に転がっている大振りなナイフと、アキラのだと思われる小さなナイフを拾ってアキラのそばに行くと、アキラが悔しそうに唇を噛んで地面に拳を打ちつけていた。
「アキラ、とりあえず、教会に行こ?」
 聞いてみるが、返事はない。今にも泣きそうな顔をしているのが少々気がかりだったが、はアキラの体を支えながら立ち上がる。足を踏み出すと、ややあってアキラも足を踏み出してくれた。それにほっとしながら、は明の体を支えて、教会のある方へ向かった。


 教会にたどり着き、行儀が悪いとは思ったが足で教会のドアを開けた。背中でドアを支え、アキラを先に教会の中に入れて、自分も教会の中に入る。教会の中は暗かった。源泉はまだ戻ってきていないらしい。なんでこういう時にいないんだ、と内心呟き、アキラを支えたまま一番前の長いすに座らせる。
 小走りで奥の部屋に入り、蝋台とマッチにタオルと消毒液に包帯に毛布と、とりあえず思いつくものすべてかき集め、小走りでアキラの元に戻る。アキラは相変わらず俯いたまま長いすに座っていた。タオルを手に取り、持ってきたものすべてを床に置く。そしてタオル一枚をアキラのほうに投げた。
「アキラ、拭かないと」
 蝋燭に火をともした後、もう一枚のタオルを広げながら促すように言って見るが、アキラは反応しない。帽子を取り自分の髪を拭きながら、はため息一つ吐いてアキラの横に腰を下ろした。自分のタオルを首にかけ、アキラの膝の上にあるタオルをひったくり、アキラの頭を拭く。なんだか子供の髪を拭いてあげているような錯覚にとらわれた。
「アキラ」
 生きてるのか不安になってきて名前を呼ぶが、やっぱり反応はない。髪を拭く手を止める。
「その、ケイスケってやつと、やりあったのか?」
 びくりと、アキラの体が震えた。どうやらあの青いツナギの男がケイスケという奴らしい。慌ててアキラの髪を拭き始める。聞かなければよかったと後悔した。気まずくなって、はタオルから手を離して椅子から立ち上がる。床に転がる消毒液と包帯を手にして、はまたアキラの横に座った。握り締めたままのアキラの左手を指でつつくと、アキラが少しだけ顔を上げる。やっぱり泣きそうな顔をしていた。
「手当てするから、見せて」
 できるだけ優しく話しかけると、アキラがおずおずと手を開いてくれた。傷口には乾ききっていない血がにじんでいた。深くはないが、けれど浅くはない傷口を見て、痛そうだなとが顔をしかめる。そっと手を添えると、アキラの手の温度が伝わってくる。雨に打たれたせいだろうが、ひどく冷たかった。
 消毒液の入った瓶のフタを開けると、アルコールのにおいがした。
「染みるだろうけど、ちょっとの辛抱だから」
 言ってから、消毒液を手のひらに流す。アキラの体が小さく震えた。包帯を手に取り、源泉がやってたように巻いてみる。他人の手当てをすることなど初めてだったから、なんだか緊張してしまった。は壊れ物を扱うような手つきでアキラの左手に包帯を巻きつけ、包帯の端を結んでアキラの顔を伺う。
「きつくない?」
 ゆるゆるとアキラが首を振るので、ほっとした。そういえば濡れたパーカーをそのまま着てたことを思い出し、そしてアキラの上着も濡れているのではないかと気づく。
「アキラ、上着脱ご? 風邪ひいちゃうから」
 促すと、アキラは無言で上着を脱いだ。それを椅子の背もたれにかけ、その隣に自分のパーカーもかける。長袖のTシャツを着ているが、濡れているせいでいっそう寒く感じた。
 持ってきた毛布を床から拾い、アキラの隣に腰掛け、毛布を彼の背中にかけてやる。余った半分を自分の背中にかけた。だが濡れているせいで寒い。
「アキラ、もうちょっとくっついてもいい?」
 聞いてみると、アキラは静かに頷いた。が小さく笑って、少しだけアキラのほうに寄った。知り合ってまだ間もないが、けれどこうやって隣にアキラが座っていることに対して嫌悪感は全く抱かなかった。
「…寒いのか」
 アキラが、初めて口を開いた。驚きのあまり言葉を失うが、なんとか「うん」と頷いてみせる。
「アキラは寒くない?」
 聞き返すと、アキラがこっちを見た。
「寒い」
 は苦笑して、少しだけアキラのほうに寄る。アキラの左腕と自分の右腕が布越しに触れ合い、僅かに熱を帯びた。
 そうして、しばらくの間、ずっとそうしていた。ちりちりと燃え続ける蝋燭の火をじっと見つめながら、はあの青いツナギの男のことを考えた。彼はライン使用者で、だからこそ、アキラと決別してしまったのだろうか。そんなのは憶測でしかないわけだが、もがき苦しむように叫びながら走る男と、怪我をして倒れていたアキラを思い浮かべると、到底、アキラと彼が仲直りしたとは思えなかった。
 ふう、と息を吐く。
 自分は喧嘩別れした友人を追ってトシマまでやってきた。隣のアキラはトシマに来てから喧嘩した友人を今探し続けている。事の発端に類似性はないが、今の状況はどうだろう。は友人を失いかけているし、アキラもまたその状況に近い感じだ。そんな二人がこうして座りあって暖を取っているのだ。なかなかシュールだと我ながら思う。
 そう考えて、自嘲した。心の中に広がっていく空しさを誤魔化すにはそうするしかなかった。アキラはトシマにこなければ友人と喧嘩せずにすんだだろうに。
 そう考えて、思った。何故アキラはトシマに来たのだろう。こんな地獄のような場所に自らやってくるなんて、余程金が欲しい奴か、もしくはただ人を殴り殺したいだけの酔狂な奴か、に絞られると思う。しかしアキラは、金欲はなさそうだし、人殺しが好きな変人には思えない。
 アキラの顔を横目で見ながら思考にふけっていると、唐突にアキラが口を開いた。
「おまえ、何で助けたんだ」
 聞かれて、一瞬で現実に戻された気がした。慌ててアキラの言葉を心の中で復唱し、理解する。そうして首をかしげた。
「いや、何でって言われても…」
 自分でも疑問に思った。なぜアキラを助けてしまったのだろうかと。足りない頭で必死に考え、たどり着いた結論を口にする。
「成り行きだろうなあ」
 というかアキラには借りがあるし、と付け足して言うと、アキラは口元を緩めた。自嘲するような笑い方だった。
「そうか」
 はっと、鼻で笑うような言い方だった。気に障ったけれど、状況が状況だから何も言わなかった。ただはっきりと、アキラは自分に何か言いたいらしい事は感じ取れた。それはきっと、感謝の言葉の類ではないとは思うが。
「…言いたいことあるなら言えよ」
 なんだか拗ねたような言い草になってしまったが、気にしないことにする。しばらくじっとアキラの言葉を待っていると、アキラが静かに息を吸い込んだ。
「お前、俺に同情してるだろ」
 吐息とともにその言葉がアキラの口から出た。言っている意味がわからなくて何度か瞬きしてからアキラを見上げた。やっぱり泣きそうな顔をしていた。
「してない」
 眉を寄せて呟く。場の空気がとても不快に思えた。何でこんな事を言うのかわからなかったが、どうやらアキラへの接し方が彼にとってはそういう悪いほうに見て取れたらしい。確かに自身、アキラに対する態度は腫れ物を扱うような感じだったのは否定できないが、それでも同情していると言われるのは心外だった。そもそもそんな余裕すら自分には残っていない。
「同情なんかするわけないだろ。なんだよ、してほしいのか?」
 抑えたつもりだったが、言葉に棘が交じる。
「大変だったな、よくがんばったな。コレで満足か?」
 言った後でひどい後悔にとらわれた。アキラが息を呑んで、唇をかむ。それを見て、は小さく溜息を吐いた。蝋燭の火を見る。風があるわけでもないのにゆらゆらとゆれていた。
「…俺、釣られやすいから、あんま挑発すんなよ」
 が思案するように頬をかいて、アキラを上目に伺った。アキラは本当にひどい顔をしていた。なんだか居た堪れなくなって、両手で顔を覆いたくなった。
 あとちょっとで捕まえれそうだった友人を追いかけようとしたアキラを、怪我をしているという理由で無理に引き止めたのは自分だ。アキラの中で広がっていく、どうしようもない怒りの矛先が、自分に向かうのは仕方ない事だと思う。アキラを引き止めたことに対して、自分は別に間違った判断を下してはいないと思うが、今更その判断が過ちではなかったのかと自問してしまう。
 自然と、顔が俯きがちになる。
「ごめん」
 アキラがぽつんと呟いた。
「当たってごめん」
 呟いた声は震えていた。アキラは盛大に溜息を吐いて、それから疲れたように右手で顔を覆った。こっちこそごめんと言いたかったが、口がうまく動かなかった。その代わりに、アキラの体を毛布ごと引き寄せた。アキラの頭を胸に押し付け、背中に片腕を回す体制に、自分でも何をしているのかさっぱり理解不能で正直混乱していた。とりあえず仲直りをしたかったのだと思う。
 アキラの頭を片手でなでて、背中をさすってやると、すぐにアキラの体が小刻みに震えだした。縋り付くように背中に手を回される。アキラがこらえるように息を呑んでやっと、彼が今泣いているのだとわかった。
 震える背中をボーっと見ながら、アキラも人の子だったんだなあと場違いな事を考える。アキラの頭に頬を寄せて「いい子いい子」と頭をなでながら呟くと、「うるさい」とアキラが嗚咽交じりの声でそう返してくるので、自然と口元が緩んでしまった。