日記のマル
(4月18日  5号)

子ども達に日記を書かせているのは,その日の記録をさせるためではありません。
勿論,作家にするためでもありません。
また,本来日記とはプライベートなものであり,あまり人前に出すものでもありません。

ですから今子ども達に期待し,ねらっているのは,いわゆる「日記」を書くことではなく,あくまで教育の営みの中の1つとして,
「生活を見つめる態度を養う」
ことを目的としています。
そして,そこから,

「自分達の生活をよりよいもの,より美しいもの,より価値の高いものにしていこうとする人間」

に近づいていこうともくろんでいます。

正確には,「日記」というより,「生活を鋭く見つめる心の目の修行」なのです。
今日より明日,明日より明後日と,心の目を鍛えていく方法の1つとして,「文章」で生活をスケッチし,切り取っていくのです。
「文章」を利用して,思考力を育て,思いやりも培っていきます。

そういう「日記」への返事や,マルには,当然,こだわりがあります。
(次号につづく)


(通信枠外の一言)
この学年は前から言葉づかいが気になっていた学年です。今,「なとりゆうこ」のキャンペーン中です。どういう意味かは,子ども達に聞いてみて下さい。




(4月19日  6号)

−その2(前号のつづき)−

「生活を見つめる
 あくまで生活を見つめる
 生きていることを 掘り下げていけば
 そこからわき出てくるものがある」

昔(5年前)の一枚文集にこんなことを書いたことがありました。
今の5年生の書いている「日記」にも,「生活を掘り下げて」いくようなものを期待しています。
そして,その「日記」の返事やマルには,「心の目の修行」に対する”評価と励まし”の意味を込めています。

もし,「日記」を,ただの「その日の出来事の記録」とするならば,書いた文が見えなくなる程のたくさんのマルをすることは,かえって後から読みづらくなるだけの邪魔なものになってしまいます。

「日記」をただの「記録」ととらえていないので,字が見えない程のマルをすることがあります。そのマルの量を見て,次への「生活を鋭く切り取る」意欲につなげてくれればと思っています。
はっきり言って,書いてしまった文はもうなくなってもいいのです。
書いていく時,自分の心の目を成長させていくことが目的なのです。
この「ふれあい」も,読んで何か気づけば,後は捨ててもいいのです。
(つづく)




(4月22日  7号)

−その3(前号のつづき)−

「日記」にしても,この「ふれあい」にしても,
『後で読んでみて,思い出にふける』
ようなことを目的にはしていません。
計算力をつけるのに,計算用紙を使うのと同じように,深く物事を見つめ,深く考えられる力をつけるために,日記帳という紙を使おうと思っています。
そして,「ふれあい」はその参考書のようなものです。
「これから先のため」の自分の力をつけたら,もう「計算用紙」も「参考書」も必要ありません。
だから,次への意欲のために,時には文字が見えなくなる程のマルもあるわけです。

また,逆に楽をして,考える時間をとらず,あった事をそのままメモしたような,心や思考力を伸ばしていくことにならないような日記には,それなりのマルの量になります。
それを見て,「よし,今度は!」と思ってほしいと願っています。

こうして,教育の場で書いている「日記」は,どの学年でもそうでしょうが,「人前に出せないプライベートなもの」よりも,「自分達の生活を見直していく」ような意見文としてとらえ,紹介していこうと思っています。
(日記シリーズ第1部「マルの巻」終わり。2部「返事の巻」はまたいつか。)


(通信枠外の一言)
「なとりゆうこ」キャンペーンについて家での様子も様々。「もう家の人,知ってた。」「どういうことか教えてあげたよ。」・・・しかし,この意味がまだよく分かっていなくて,家の人に説明できなかった子が数人。まだ,キャンペーン不足でした。




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