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最近読んだ本 |
「DOVADOVA」向井豊昭著 四谷ラウンド 1400円+税 前作「BARABARA」で第12回早稲田文学新人賞、第2回四谷ラウンド文学賞を受賞した”66歳の大型新人”の新作。 東京に生まれ、母の出身地である下北半島に疎開し、幼少・青年期を下北・川内町で過ごし、その後、アイヌ・モシリ(北海道)の学校で教鞭をとった著者は小説への思い断ちがたく、50を過ぎてから教職を辞し、家族ともども上京する。本書は著者の分身である犬尻昭男を主人公に、過去と現在を往還する魂の遍歴がユーモアたっぷりに描かれる。書名は主人公が便器の中に消えてゆくラストシーンの擬音「DOVADOVA」からきている。 全編を覆うのは「うんこ」をキーワードにした不思議な叙情性。その筆致はあくまでもアナーキーで破壊的な勢いに満ちている。10代、20代のストリート詩人、作家が逆立ちしても書けないような過激な叙情とユーモアはこの作家の独壇場。数え切れない「うんこ」の字から立ち上る反骨と哄笑のすさまじさはまさに”地獄のユーモリスト”。 ちなみに著者は、私が小学校に入学した年に、同じ小学校に新任教師として赴任してきた。わずか半年で北海道に「出奔」するのだが、そのことはむろん、つい最近知ったこと。「BARABARA」の感想をしたためて、手紙を出したら、偶然にも40年前の北の外れの小学校ですれ違っていたという事実が判明したのだ。40年という時間と800キロの距離がある日一瞬、交錯する。人生ってだから面白い。 |
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「<戦争責任>とは何か〜清算されなかったドイツの過去」木佐芳男著 中公新書 第二次世界大戦おける日本の「戦争責任」についてはさまざまな論議がなされてきたが、最高責任者である天皇が裁かれなかったために、その責任の所在はいまだに「国民総懺悔」のように、曖昧モコとした言葉でごまかれてきた。具体的に誰が戦争を引き起こし、遂行したのかがまったく無視されてきたのだ。 森前首相の「神の国」発言に見られるように、今なお、戦前のファシズム天皇制の呪縛は連綿と続き、そのためにアジア諸国の日本を見る目は厳しい。いくら口で「反省してます」といっても、歴代内閣および、閣僚の舌禍事件が後を絶たないのでは「後ろ向いて舌ペロリの日本人。本当に反省してるのか」のそしりは免れない。 その対極にあるのがドイツだ。「過去の前に目を閉じる者は、現在についても盲目となる」という有名なヴァイツゼッカー大統領の演説に代表されるように、自らの犯した罪を深く反省したと世界から賞賛されている。 が、しかし、果たしてドイツは本当に自分の犯罪を反省してきたのか、というのが本書の主眼。 要約すれば、ドイツが反省したのはナチスの犯罪についてであり、ドイツ国軍およびナチス以外のドイツ人の戦争犯罪には目をつぶってきたのではないかというのだ。 ニュルンベルク国際裁判において提起された戦争犯罪の定義は以下の3つのカテゴリーに分けられる。 a、<平和に対する罪> 侵略戦争を共謀、遂行した罪。 b、<通例の戦争犯罪> 民間人や捕虜の虐待・殺害、略奪、軍事上不必要な都市破壊など。 c、<人道に対する罪> 政治的または宗教的、人種的理由に基づく迫害行為など。 bの通例の戦争犯罪は、19世紀まで、戦争は国家間の決闘とみなされてきたことから、戦争であっても決してやってはいけない国際法違反の戦争犯罪を指す。 日本は3番目の「人種的迫害を行った」とは判定されず、aとbで裁かれた。ドイツはcの人種迫害、つまりユダヤ人の大量虐殺、「種の根絶」を目的としたとされた。このcの犯罪が、ドイツ人のa、bの犯罪に対する意識的な罪悪感の軽減になったというのだ。 つまり、すべての戦争犯罪の責任をヒトラーとナチスに押し付け、その他大勢のドイツ人は善良であったという神話の壁を自己の内面に無意識のうちに作った。 ドイツ人が反省しているのはナチスの犯罪であり、それに国軍は関与していなかったという壮大なゴマカシ。著者はそのドイツ国民の戦後の責任転嫁の意識構造を鋭く衝く。 ヴァイツゼッカー演説は戦争責任転嫁の総仕上げだというのだ。 もちろん、このことによって「ドイツだって反省してないんじゃないか」と日本の戦争犯罪を免罪する危うさがあるが、そうではないだろう。ただ、「日本のほうがドイツより平和教育が進んでいる」という記述もあり、これには違和感をおぼえる。日本のそれは常に綱渡りのようなもの。いつ戦時教育に変わるかわかったものではない。 日独の戦争犯罪への取り組みを単純に比較することは危険性がある。その意味で本書は「日本の戦争責任論」と対になって初めて有効になる「諸刃の剣」的書ともいえる。(2001.07.30) |
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「夜よりほかに聴くものもなし」山田風太郎/光文社文庫 山田風太郎のミステリー傑作選第3弾。昭和30年代に書かれた小説だが、今でもまったく古びない。その1編「目撃者」は、善良なタクシー運転手がある夜、人をひいてしまったことから起こる悲喜劇を描いたもの。死んだ男は麻薬の密売人であり、黒幕によって車道に突き飛ばされたのだったが、「倒れてるのをひいた」と主張する運転手に対し、目撃者の花売り少女は「タクシーが轢いた」と証言する。天使のような花売り娘と中年の運転手。怒りに逆上した顔を新聞社のカメラマンに撮られ、新聞に掲載されたことから、偏見は固定し、ますます運転手は不利になる。子供はいじめられ、妻も世間に気兼ねし、次第に家族はバラバラになっていく。 追い詰めらた男は次第に精神の均衡をなくす。夜の酒場で浴びるほど酒を飲み自暴自棄に陥った男の前に現れたのは麻薬事件の黒幕。問わず語りに事件の真相を男に話す。朦朧とした頭ですべてを理解した男は駅のホームに入ってくる電車に黒幕男を突き飛ばす。そのとき、男の後ろで声がする。天使のような愛らしい声。あの花売り娘だ。 「あたし、あそこで見てたわ。この目でハッキリみたの。今の人、このおじさんが…」 最後のセリフに続く仰天のどんでん返し。うまい! こんなさりげない短編でも名手の腕がさえわたる。やはり風太郎は天才だ。 |
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「月夜に墓地でベルが鳴る」メアリー・H・クラーク/新潮文庫 1年に1冊の”サスペンスの女王”の新刊。日本語タイトルが「子供たちはどこにいる」「誰かが見ている」「 暗夜に過去がよみがえる」という、いつものクラーク調なのがなんとなくおかしい。 主人公マギーはニューヨークで成功している新進の写真家。ボストンで開かれた投資会社経営者リーアムのパーティーで、かつて自分を溺愛した継母ヌアラと22年ぶりに再会する。ヌアラは有名な資産家の未亡人となっていた。ところが、2人の再会パーティーの日、ヌアラは何者かによって殺害される。その直前、ヌアラは高級養老院への入居を撤回する遺言状を新たに作っていた。 誰がヌアラを殺したのか。養老院の老人が次々と「病死」していくナゾ。そして、マギーにも魔の手が…。 リーアム、リーアムの従弟で葬送学を研究するアール、養老院の医師レーン、ヌアラの弁護士夫妻…。錯綜した人間関係がまるで映画のカットバックのようにめまぐるしく描写され、スピーディーに物語が進行する。コーンウェルの「スカーペッタ」を意識したような女性検屍医が登場するのは読者サービスか。 このところ、美男美女が活躍する”ハーレクインロマンス”化していたクラークの作品だが、本書も主人公は美人の写真家。恋人は敏腕の投資会社の顧問と、人もうらやむカップル。しかし、設定はどうあれ、サスペンスとしては相変わらず超一級。ハラハラドキドキで一気に読了。 |
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「審問」パトリシア・コーンウェル著/講談社文庫(上下) 検屍官スカーペッタシリーズ第11作。上下2冊とボリュームたっぷり。前作「警告」の直後から物語は始まっている。もちろん、独立した物語ではあるが、シリーズを通した主要な登場人物の設定、背景を知っておかないと、読み通すのに苦労するだろう。なにせ、「警告」で登場した「狼男」の事件を解決したかに見えて、実は今作ではその「狼男」=シャンドンは逆にスカーペッタを窮地に陥れるのだから。 よくあるミステリーでは犯人を捕らえ、一件落着となるが、今回は「その後」がテーマの一つになっている。つまり、現実社会では、犯人を捕らえただけでは、一件落着とはいかず、起訴、裁判、判決までいって初めて事件にケリがつくわけで、「襲われそうになったので犯人射殺」となった場合、その正否が厳しく問われる。しかも、事件後の被害者の外傷後ストレスなど、問題は残る。 さて、本題。ケイ(スカーペッタ)を襲った”狼男”シャンドンは拘置されているが、意外な反撃を始める。自分はケイを襲ったのではなく、反対にケイによって罠にはめられたと告発するのだ。しかも、シャンドンが関係したとされる女警察副署長ブレイの殺害に関してケイに疑いがかかる。 一方、場末のモーテルで奇怪な殺人死体が発見される。ある捜査のために組織に潜入している囮捜査官らしい。前作に登場したATF捜査官ジェイ・タリー、ケイの恋人で虐殺されたベントンの手紙、ケイを陥れようとする不審な動き。美人の敏腕検事ジェイミー・バーガーの登場……。ケイは審問で身の潔白を晴らせるのか。 シリーズ中、読み通すのにこれほど苦労した巻もない。上巻は事件後のケイの心理と新たな事件の概略を説明するのみで、これといった物語の展開はない。下巻の半分を過ぎた頃から、ケイを取り巻く状況が動き始め、終章の「審問」へとなだれ込むわけだから。初めて読む人はとまどい、投げ出すかもしれない。ただ、「常連」にとっては、人間模様を細部までリアルに描写するコーンウェルの筆致はたまらない魅力。次回作はマリーノの息子で、悪魔的な弁護士ロッキー・カジアーノとの対決になるのだろうか。 |
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新宿鮫Z「灰夜」 大沢在昌著 光文社新書 シリーズ8作目だが、前作が毎日新聞社から出版された「番外編」ということで、これが正統なシリーズ7番目らしい。今回は新宿から離れ、同僚・宮本の七回忌で訪れたある地方都市が舞台。 宮本はある手紙を鮫島に託して自殺した同期のエリートキャリア警察官。その手紙の存在が主人公・鮫島をキャリア警察官でありながら、永遠に「警部」止まりにすることになる。その手紙の内容はまだシリーズに登場しないが、公安警察にかかわる重大な秘密らしい。 それはさておき、七回忌に出席した鮫島は偶然、宮本家を張っていた麻薬取締官・寺澤に接触。北朝鮮から密輸されている特殊な覚醒剤ルートを探ってると聞かされる。法事の席で紹介された宮本の旧友・古山が関与しているらしい。古山は在日朝鮮人二世。が、その夜、鮫島は何者かによって拉致され、郊外の牧場跡に監禁される。寺澤もまた行方不明に。カギを握ると見られる古山もまた拉致される。 古山の愛人である美貌のスナックマママリー、古山の妹・栞、悪徳警官・上原、地元やくざ、「北」からの殺し屋などなどが入り乱れて、事件の深層へと突き進んでいく。相次ぐ警察機構の不祥事が物語の背景にあるが、現実の方が小説よりススンでいるため、上原の描き方など、妙なリアリティーがあったりして…。ページを繰ったら一気呵成に最後まで突っ走るのが「鮫」シリーズの正しい読み方。前作「風化水脈」が新聞連載ということもあってか地味な展開だっただけに、今作のスピーディーさは「鮫」の真骨頂。 |
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ルパンはチンピラ別働隊? 「怪盗ルパン」 モーリス・ルブラン作/榊原晃三訳 岩波少年文庫 760円+税 ルパンシリーズって、今まできちんと読んだことがなかったが、少年文庫版を読んだらこれまで知らなかった事実がわかってびっくり。 まず、ルパンの生い立ち。ルパンは1874年生まれ。父はボクシングと蹴り合い術の名人で、気立ての優しい母と幸せに暮らしていたが、アメリカ旅行中の父が怪事件に巻き込まれ、詐欺罪に問われて獄死。母もまもなく病死してしまう。孤児になったルパンは母の親しい友人に預けられるが、この女性は貧しく、職を転々とする。ルパンも一緒に、家政婦の子供として住み込みを余儀なくされる。 本書は初期ルパンシリーズの第1作だが、「女王の首かざり」と題した章で、ルパン第一の犯罪が描かれている。伯爵夫人の秘宝「女王の首かざり」が何者かによって盗まれた事件が迷宮入りし、その十数年後に一人の紳士が屋敷に現れ、当夜の犯罪を分析し、犯人を言い当てるという趣向。 実はその紳士こそルパンなのだが、彼はまた、当時、屋敷で家政婦をしていた女の「息子」であったことをほのめかす。つまり、ルパン初めての犯罪は義母の窮状を見かねて、屋敷の宝を盗んだというわけだ。もちろん、トリックも子供であることを利用した巧妙さ。 後年、ルパンは最愛の妻クラリスと息子をカリオストロ伯爵夫人との対決で亡くし、悲嘆のあまり怪盗として生きる決意をするのだが、なんとまあ、ルパンは不幸な星の下に生まれてきたことか。 ルパンをモチーフにした江戸川乱歩の「怪人二十面相」。少年探偵団の宿敵である。少年探偵団には正規団のほかに、「孤児、片親の子を集めた」チンピラ別働隊という下部組織があったと寺山修司が言っていた。差別の二重構造というわけだ。 それならば、怪人二十面相(ルパン)は、チンピラ別働隊と共闘して、少年探偵団正規軍+明智小五郎探偵と対決してもよかったのでは!? なお、「ルパン」は本来のフランス語発音からすれば、「怪盗リュパン」と呼ぶべきとか。外国人の日本語表記は難しい。 昔、監督のスタンリー・キューブリックは「スタンリー・カブリック」と表記されていたし、女優のシシー・スペイセクは「シシー・スペイセック」「シシー・スパシック」と目まぐるしく変わったっけ。 |
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まるごと一冊高橋克彦 「開封 高橋克彦」道又力・責任編集(平凡社) 高橋克彦は初期のホラーものが好きだ。「悪魔のトリル」「ドールズ」「闇から覗く顔」。「写楽殺人事件」「北斎殺人事件」もいい。ただ、「総門谷」シリーズは途中で挫折。円盤が登場する歴史SFは荒唐無稽すぎて、引いてしまうんだなあ。 本書はまるごと高橋克彦本ともいうべき一冊。作家としての高橋克彦を多角的にとらえ、その創作の秘密に迫ったもの。 レコード、怪談映画のポスター、ジッポー収集など、オタク的コレクターの顔があることは初めて知った。笑ってしまったのは、高校生の時、弘田三枝子のファンクラブ岩手県支部代表を務め、今でいう追っかけ少年だったということ。「ミコとデイト」なる小説もこの頃書いている。私もそういえば、高校生の時、憧れの天地真理とのデイトを夢想して「真理ちゃんとデイト」なる雑文をノートの切れ端に書き付けて悦に入ったっけ。時代は違うが、地方の高校生の考えることは同じ? 小説に登場するキャラクター辞典、吉田光彦の選ぶ名場面集、小年時代の屈辱的な「のぞき」事件を描いたマンガも収録。高橋ファンは必見。
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少年犯罪への怒り沸々と 「ミレイの囚人」土屋隆夫・著 コーンウエルの「審問」の書き出しがいつになくまだるっこしく、読み進むのに苦労していたら、偶然古本屋で土屋隆夫の新刊を発見。速攻で読了。奥付を見ると2000年12月20日発行。気がつかなかった。 新刊が出たらすぐ読む作家の一人が土屋隆夫。極端な寡作のため、前作から3年ぶりの新作だ。 今まで出た本はすべて読んでいるが、本格派と社会派の中間に位置する土屋の推理小説は職人芸の味わい。土屋が唱えた有名な「割算の文学」は推理小説は解決にあたっての論理に一点の剰余=余りもあってはならないという論。過去の作品の中でも、その論は実践されていて、その構成の妙にはうならされてきた。 しかし、前作の「華やかな喪服」は明らかな失敗作。夫に捨てられた若い妻と見知らぬ男の逃避行は、あまりにも不自然で、”老いたりし土屋”の感をもった。その前の「不安な産声」が80年代の長い沈黙を破って発表された傑作だっただけに、「華やかなーー」の失敗は残念だった。 が、しかし、本作は土屋隆夫の再復活を告げる一編になった。 若い推理作家。江葉章二は、大学時代に家庭教師をしていた白河ミレイと偶然再会。相談があるという彼女の招きで、白河家を訪れる。しかし、彼女の妄想の被害者として、密室に監禁されてしまう。一方、一人の新人作家が何者かによって殺害される。2つの事件をつなぐものは何か。 「不安な産声」では、医学の倫理がテーマ。今回は続発する少年犯罪がテーマとなっている。実情とそぐわなくなっている少年法の不備への怒りを作品中でストレートに吐露する。少年法改正に別の動機を持っている陣営とは同床異夢だと信じるが…。 今回のトリックは常識的には「反則」すれすれだが、伏線がきっちり張られているからよしとしよう。 |
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1万石大名の数奇な「脱藩」人生 「脱藩大名の戊辰戦争」 中村彰彦著・中公新書 「最後の大名」といえば、尾張徳川家の第19代当主、徳川義親(よしちか)侯爵(1886〜1976)と芸州広島藩第12代当主、浅野長勲(ながこと=1842〜1937)が有名だという。 しかし、義親は明治になってから誕生し、家筋は大名でも、自身は大名だったことはない。長勲は確かに広島藩最後の藩主で昭和12年まで生きた。 しかし、真の意味で「最後の大名」にふさわしいのは、本書の主人公、林忠崇にほかならない、と著者は言う。 なぜなら、忠崇ほど、終生、「徳川の大名」を引きずった人生を送った人物はいないからだ。 たまたま手にした本だけど、これはかなり面白かった。こんなドラマチックな人生を送った幕末大名がいたとは! 忠崇は上総請西藩(じょうざいはん=今の千葉・木更津あたり)の藩主。大政奉還の後、徳川270藩の多くが、新政府側に走ったが、彼は徳川三百年の恩顧に報いるべく、これを拒絶、脱藩して旗本御家人たちで組織する「遊撃隊」と合流する。藩主自らが「脱藩」というのは前代未聞のことだが、これは徳川慶喜に迷惑がかからないように、との配慮からだという。現代でも会社に迷惑がかからないように、辞職してから事を起こすのと同じだ。 この後、箱根戦争で官軍と対決。以降、会津、仙台と転戦するが、仙台藩が降伏すると、忠崇もあっさり白旗を揚げる。徳川家再興が約束されたため、戦う目的をなくしたからという。 遊撃隊の仲間、人見勝太郎、伊庭八郎は北海道に渡り、函館戦争を戦うわけだから、このへんの忠崇の降伏嘆願書提出には拍子抜けしてしまう。 だが、一度朝敵として交戦し、仲間を殺された新政府側は忠崇を簡単には許さない。切腹は免れたものの、この後の忠崇は流転の人生を送ることになる。 親戚筋の唐津藩中屋敷(芝愛宕下)で通算2年半の謹慎生活(元の家臣との面会も許されず、朝起きて寝るまで監視つき、ニワトリの世話もしたという)を送り、ようやく赦されたはいいが、その間に家は弟が継ぎ、その家に戻されるも1万石から35石に禄を落とされ、生活は困窮を極める。 その後、下級官吏、農民(なんと自分の元領地に戻り、元大名が野良仕事をしたというのだから屈辱だったろう)、商家の番頭と職を転々とする。 元家臣の子孫の家格再興運動が実り、ようやく名誉回復し、「華族」になったのが明治26年のこと。 この時も「カネがなきゃ華族にしてやらねーぞ」と明治政府に意地悪され、金策に走り回るわけだが、元藩主のために家臣の子孫がとった忠義一途な名誉回復運動には驚かされる。 心情的には遊撃隊で行動を共にした伊庭八郎にひかれる。なんせ、箱根の戦闘で官軍に左手首を切り落とされながら、片手斬りで応戦し、官軍を恐怖させたツワモノ。徳川びいきの江戸ッ子は「伊庭の片手100人斬り」と喝采をおくったとか。さらに、片腕を失いながらも、絶望することなく、片手で扱える新式銃の訓練を積み、その士気いささかも衰えることなく函館に向かう。函館戦争でも果敢に戦うが、被弾し重傷を負い、モルヒネで安楽死を選ぶ。 今も小説などで人気があるのは敗者への「判官びいき」とともに自分の信念を貫き通した男としての壮絶な生き方に共感するからだろう。確か、池上遼一の劇画「男組」に出てくる伊庭というキャラクターはこの伊庭八郎をモデルにしているのではないか。 ともあれ、「最後の大名」の半生は苦渋の連続だったが、華族に復帰してからは、宮内省や日光東照宮の神主、大蔵省印刷局などに勤め、神主時代には、徳川家に正月の兎を献上するという、請西藩の伝統行事を復活させたというエピソードも興味深い。 老齢になってからも、剣道、鎖鎌を近所の子供に教え、94歳で大往生。辞世の句を求められると、「明治元年にやった。今はない」が最後の言葉だった。亡くなる前、同居している娘が忠崇の異変に気づいたのも、いつもは武士のたしなみとして、刺客がやってきても心臓を貫かれないないよう、体の左を下にして寝るのを常としていたのに、その日は仰向けに寝ていたのを不審に思ったから、という。「徳川家再興のために決起した、ただ一人の脱藩大名」の数奇な人生。 志半ばにして倒れた者は伝説となって後世まで生き続けるが、生き残った者は忘れ去られる。忠崇は後者だったのだろうが、この本によってよみがえった、といえなくもない。 |
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