幼児の言語習得方法に潜む学習原理


2000年11月19日 Herr Geige


我々人類が持つ能力は、先天的な能力と後天的な能力に大別することが出来る。 ただし、両者は相互に密接に絡み合っており、厳密に分類することは必ずしも 容易ではない。

例として100m走を考えてみよう。100m走の世界記録は10秒を切っているが、これ を9秒台で走ることは誰にでも出来ることではない。先天的に強靱な筋肉と瞬発 力を作り出す素質を持った人が、後天的に適切な訓練を繰り返して100m走に適し た体に鍛え上げることによって始めて可能になる。いくら先天的な素質を持って いても、それを発揮するための訓練を行わなければ100mを9秒台で走ることは出 来ないし、逆に先天的な素質がなければ、いくら訓練を行っても100mを9秒台で 走ることは出来ないであろう。

一方、現代の大人が持っている様々な能力を考えてみると、後天的な能力が大部 分を占め、先天的な能力はほんの僅かしかない。すなわち、先天的な能力だけで は、有史以前の原始的な人間にしかなり得ないのであり、文明に関係する種々の 能力は、人間が大人に成長する過程で周囲の環境から学び取ったものなのである。 そして、その成長過程でいかに多くの能力を獲得したかによって、その人の能力 が決まるのである。

後天的能力は先天的能力の上に新しい能力を積み重ねることによって獲得される。 子供は最初に親から言葉を習い、日常生活から文化を学び、学校を通じてさらに 多くの能力を獲得していく。最終的にどれだけの能力を獲得できるかは、出発点 となる先天的能力と、新しい能力を積み重ねていく成長過程とに依存する。前者 は遺伝的な能力であり、我々が介入する余地はない。後者は子供が育つ環境であ り、まさに我々が作り上げていくものである。

100m走等のように、極限的な肉体能力が要求される場合は、先天的能力がかなり 重要であることは間違いないであろう。では、知的能力についてはどうであろう か。これについては、最近アメリカ等で研究が始められ、いくつかの報告が発表 され始めたようである。しかし、現時点ではまだ明確な答は出されていない。ま た、日本では伝統的に血縁関係を重視する傾向があり、現在も先天的能力が重要 であるとする考え方が大勢を占めているようである。

知的能力の獲得に先天的能力がより重要であるという考え方は、幼児教育も含め た現在の教育システムがほぼ理想的であり、これ以上改良の余地がないという結 論に繋がる。これに対し、成長過程がより重要であるという考え方は、現在の教育 システムには不備な点が多く残されており、対応の仕方によって成長過程での獲得能力 が大幅に増減し、先天的能力の差などは簡単に吹き飛んでしまうという結論に繋 がる。したがって、子供の能力獲得過程と教育システムの解析を進めていけば、 知的能力の獲得に何が最も重要であるかを解明出来るであろう。

人間が最初に獲得する能力は言葉を理解し、意志疎通を行う能力である。子供が 生まれると、親は子供に言葉を教える。最初に言葉を教えるのは、多くの場合、 母親が担当する。通常は「ママ」と「オッパイ」を最初に教える。一方、生まれ て間もない子供は母親に抱かれ、お腹が空いたらオッパイを飲み、お腹が一杯に なれば眠る。子供にとっては、ママとオッパイが最大の関心事であり、世界その ものなのである。母親はママという言葉を何度も何度も子供に教える。子供は少 しすつ成長し、周囲の状況をある程度認知出来るようになると、ママという声の 響きと母親とが関連していることに気付く。そこで、ある日、母親の声の響きを 真似て自分でもママと言ってみる。すると、母親からとても嬉しそうな雰囲気が 返ってくるのが感じ取れる。だから、母親にママという声の響きを対応させる事 が正しいと感じ取る。ママという言葉を理解出来るようになれば、まもなくオッ パイという言葉も理解できるようになることは言うまでもない。ママという声の 響きを認識する能力は先天的能力であり、母親の気持ちを雰囲気として感じ取る のも先天的能力である。これらの能力の発達には個人差があり、通常、言葉を話 し始める年齢にも個人差がある。一方、ママという声の響き(言葉)と母親とを 結びつけることは後天的能力であろう。このような新しい能力を少しずつ獲得し ながら子供は成長していく。

いったん言葉を覚えると、その言葉によって母親と意志疎通をはかることが出来 ることに気付く。お腹が空いたとき、以前は泣き叫んで母親がオッパイをくれる まで待つしかなかったが、今では「オッパイ」と言うだけで簡単にオッパイにあ りつける。ママと言えば、すぐに振り向いてくれたり抱いてくれたりする。子供 にとってこれは大発見であり、大きな喜びである。子供にとって言葉はとても便 利で興味深いことであり、新しい言葉を覚えることによって自分の世界がどんど ん広がっていく。言葉は自分の生活に密着しており、言葉を使い、新しい言葉を 覚える事ほど楽しいことはないのである。このようにして子供はどんどん言葉を 覚えていき、小学校へ入るまでの6年間でどの子供も例外なく言葉を自由に話せ るようになる。そして、この頃までには先天的能力の差によるスタートの違いは ほとんど判らなくなってしまうのである。

一方、日本では中学、高校で英語を6年間勉強する。生徒はアルファベットを学 び、文法を学ぶことにより非常に整理された形で効率よく英語を学ぶことができ る。また、生徒はすでに日本語を十分に理解しており、英語を勉強する上で必要 なものや概念を簡単に理解する能力を備えている。さらに辞書という強力な道具 も持っている。ところが、高校を卒業した生徒の大半は英語を話すことが出来な い。これはいったいどういうことなのだろう。

生徒が英語を勉強する条件は、幼児が日本語を覚える条件に比べて格段に有利で ある。ところが、英語は生徒の日常生活や関心事とは大きく懸け離れている。英 語を勉強してもそれを使う機会が日常生活の中にはほとんど無い。また、英語を 知らなくても日常生活にはなんの不便もないし、英語を覚えたからといって、特別 有利になることが多くあるわけでもない。強いて言えば、英語でいい成績をとれば周 囲の人に誉められたり喜ばれたりし、悪い成績をとればがっかりされる程度であ る。そして、英語を勉強するにしても、テストで満点をとれる所までであり、何 も考えなくても自然に英語が思い浮かぶ所までは勉強しない。すなわち、生徒は 完全に身に付くまで英語を勉強しようとはせず、いつも中途半端な所でやめてし まうのである。だから、6年間も勉強しても、自由に話せるようにはならないの である。彼らは英語をマスターする能力が無いのではない。彼らは全員、小学校 へ入るまでに日本語をマスターしたという実績を持っている。また、中学生になって、 幼児の頃より学習能力が衰えたと考えるにはあまりにも無理がある。したがって、 彼らの大半が英語をマスターできないのは、英語の学習課程に不備があるためで あると結論せざるを得ない。

ここまでは言語学習について考えてきたが、それ以外についても同様なことが言 える。そして、子供が新しい能力を取得するのに最も重要なことは、次の3つに 要約されるであろう。

(1)自分自身が関心を持っている。
(2)学習内容が自分の生活に密着している。
(3)完全に身に付くまで学習する。

特に(1)と(2)については子供が小さければ小さいほど重要である。就学前 の幼児に何かを教えようとする場合、幼児自身がそのことに関心を示さなかった り幼児の生活と懸け離れたりしていては、なかなか本来の学習能力を発揮しては くれないであろう。小学校を卒業する児童の間で大きな能力の差ができてしまうのは、 各児童の能力の差に由来するのではなく、親が上記の(1)〜(3)を満たすような 家庭環境をどの程度まで作り上げることが出来たかに由来していると 感じるのは私だけであろうか。

以上のように考察を進めた結果、成人の実質的な能力は先天的能力によって 決まるのではなく、成人になるまでの成長過程によって決まると結論付けられるであろう。 子供は本来、世間一般に考えられているよりもはるかに優れた能力を持っている。 小学校に入学する子供が例外なく日常会話をマスターしていることがそれを証明している。 子供の教育方法は子供の理論に基づき子供の視点に立って考えるべきであり、 大人の理論を用いて大人の視点で作り上げてはいけない。子供の能力を最大限に 引き出すためには、その子供が興味を持てるものを与え、それに集中できるような環境を 常に維持することが最も重要なのである。そして、このような環境さえ整えば、 子供は大人の想像を絶するようなすばらしい能力を発揮してくれる。




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