黒をかぶったあなたと私      1 2                <<小説置き場へ


 なぜだかアルベルトは川辺にいた。いつからここにいたのかは覚えていなかった。自分の足でそこに立っていながら、どこをどう辿って自分が今ここにいるのか、思い出せない。辺りはうっすらと煙草の匂いがしていた。だがこちら側の岸、あちら側の岸、どちらを見渡しても煙草を吸っている人間など見当たらない。それ以前に自分以外の人の気配すらない。目に入ってくるのはすぐ傍で悠々と流れている川と、足元の柔らかい草地ばかりだ。
 わけも分からないままただ立ちつくしていても仕方がないので、取り敢えず広い道を探して帰ろうと思った矢先、まるで見えない何かがアルベルトを引き戻そうとするかのように、彼の中に唐突に記憶が浮かび上がってきた。
(ああ、そうだ。昔一度だけ来たことがあったんだった)
 それだけは分かったが、ここへ来るまでの記憶は依然としてない。
(でも古すぎて帰り道なんて覚えてないな。・・・いや待てよ、近くに家があったはずだ。でもあの家は・・・)
 あの家は誰の家だっただろうか、と考え込みながら反対側の岸に目をやると、何者かがうつ伏せに寝そべっていた。その何者かは、顔の前に本を広げて声を出して読み上げていた。声からすると女のようだった。女は雨が降っているわけでもないのに黒い雨合羽を着ていた。さっきまでは見当たらなかったはずだった。あの女には両手両足がない、とアルベルトは思った。アルベルトのいる所からその女の所までは、単純に直線にしても十メートルくらいの距離があったが、なぜかそれがはっきりと分かった。女は舌でページをめくっていた。異様と言えば異様な光景だったが、アルベルトは何となく納得してしまっていた。普通に考えれば気になる点はいくつあってもいいはずなのに、アルベルトは女がこの天気に雨合羽を着ていることを少し気にしている以外は、ほとんど何一つ気にしていなかった。
 アルベルトは向こう岸にいる何やら普通ではない風体の女から目をそらすわけでもなく、かと言ってその有り様を凝視するわけでもなく、ただ、平然と視界に収めていた。そして、どこかの町で人に道を尋ねるような調子で女に声をかけた。
「何しにそんな所で本を読んでいるんだ?」
 距離から言えば、ある程度大声を出さなければ相手に届きそうになかったのだが、アルベルトは自分のすぐ横にいる人に向かって言っているかのようにぼそりとした声で問いかけた。大声を出す必要などない、とアルベルトは何の根拠もなくそう思っていた。そしてその思い込みの通り、相手は間違いなくアルベルトの声を受け取ったようで、すぐに向こうから返答があった。
「お葬式をしているの」
 相手の声が子供の声に変わっていた。声の勢いはアルベルトと同じようにささやかなものだった。そしてやはり、向こう岸からの声なのにすぐ隣で会話をしているかのように、音がするりと耳に入ってきた。
 何となくアルベルトは女の子が誰かの手助けを必要としているように感じて、向こうに行ってみようかと思った。だがその途端に、気がつけば女の子のすぐ傍に立っていた。一瞬不思議に思ったが、特に気にすることもなくアルベルトは女の子に話しかけた。
「そんな姿勢で苦しくないか? 俺が抱えててやろうか?」
 それにしても年の割には随分大きなものを着ているな、とアルベルトは思った。もし立ち上がって歩いたらさぞかし引きずるに違いなかった。その格好でうつむいているせいもあって、女の子は顔さえ全く見えなかった。
(ああそうか、子供がこんなものを着ているから、てっきり手足のない大人が着ていると思ったんだな。でもさっき見た時は本当に達磨にしか見えなかったんだけどな。どうしてそう見えたんだろう)
 女の子は顔を下に向けたままアルベルトにこう言った。
「腕を貸してくれませんか。汚れた方の手で構いませんから、本をめくって下さい」
 俺の片手が汚れているだって、そんな覚えはないぞと思いながら右手に目をやると、確かに右手は何かがべとべととこびりついていた。顔を近づけると甘い匂いがした。
「ごめんよ、知らない間に変なものをさわっちまったみたいだ。こんなんで君の本にはさわれないよ」
 アルベルトは左の方の手を出したが、そちらの手は泥にまみれた羽毛があちこちにべったりとはりついていた。これもまた、今見て初めて気がついたものだった。アルベルトは気まずい気持ちでこう言った。
「ごめんな、すぐにそこの川で洗ってくるよ」
 すると女の子は、水で濡れた手でさわれては困るの、と言った。汚れた手で本にさわるのは良くて、水で濡れた手でさわるのは悪いと言うのもおかしな話ではあったが、女の子の言うことも一理あるかと、アルベルトはそのまま納得してしまった。それからふと、別のことを思いついたので言った。
「でもそうだな、何が手伝えるだろう。そうだなあ、俺が傍で代わりに声出して読んでやろうか。もういい加減君だって疲れただろ」
 女の子は本に視線を落としたまま、こう答えた。
「本の方はいいわ。読んでくれなくてもいいわ。その代わり・・・」
「なんだい?」
「その腕を頂戴。いい匂いがするわ。おいしそう」
 子供らしい声音の中にどこかおずおずとした色がにじんでいた。そのとんでもない要求にも拘わらず、なぜかアルベルトの中にひどく悲しい気持ちが押し寄せてきて、ひとりでに涙がこぼれてきた。年端もいかない子供が自分如きを頼ってくる様に哀れみを覚えたからではなかった。ただ、心の中に不思議な柄杓が現れたかのように、感情が溢れて止まらなかった。
(どんな腕でも、どんな足でもやるさ・・・。お前が欲しいんなら・・・)
 アルベルトは彼女へ向けて右手を差し出した。女の子の頬がそれに触れると、右手は手首の所で綿のように音もなく外れた。地面に落ちたアルベルトの右手に、女の子は頬を摺り寄せた。
「ありがとう、ありがとう。なんて素敵なの。よかったわ、すごく嬉しいの。みんな本当は私が好きなんだわ」
 アルベルトは嬉しそうな表情をしているであろう女の子の顔が見たかったが、その子から伝わってくる空気がとても心地よかったので、何も言わなかった。だがそれでも、これを言わなければ女の子がかえって可哀想になると思ったので、ひとことこう言った。
「なあ、悪いんだけどな。せっかくなんだがそいつは、食べられるようなもんじゃないんだ。申し訳ないんだが・・・」
 しかしアルベルトにそう言われても、女の子の喜びようは少しも変わらず、それどころか、「全部食べたいけど、半分は妹にあげたいの」とさえ言った。目の前のそんな様子を見るにつけ、この子はいつまでもこんな所に一人でいるべきではないだろうとアルベルトは思った。
「かわいいこと言うんだな。そんならもう家へ帰ったらどうだ? いつまでもこんな所にいちゃあ、下手すると病気を拾うぞ。近くにあるのは君の家だろう? 抱えてってやるよ」
 きちんと確認したわけでもないのに、なぜかアルベルトはこの川の近所にあったことを覚えているどこかの家を、女の子の家だと思い込んだ。アルベルトの申し出に女の子はわずかに無言を挟んだ後、こう言った。
「あれは、私の家じゃない」
 そのひとことだけなぜか大人の声をしていた。
 アルベルトは女の子の声が急に変わったことを別に不自然だとも何とも思わなかった。一つだけ確かに感じたことは、この子の中で声だけではなくもっと別の何かが変わってしまったことだった。アルベルトはひどく悪いことをしてしまったように感じた。なぜそうなったのかという理由は見当もつかなかったが、自分が言った何かがこの子に暗いものを植えつけてしまったとしか思えなかった。
 どうすればいいんだろうと内心慌てているうちに、不動の水面に石が投げ込まれたかのように、ふと何の前触れもなく別の所から「なんだこれは夢じゃないか」と言う自分自身の声が響いてきた。すると、自分の中にあったこの奇妙な環境に納得していた気分が、焚き火に落ちた粉雪のように一瞬で蒸発してしまった。例え夢でもこの子をこのままにしておきたくないという気持ちだけは消えないのに、辺りの景色はインスタント写真ができ上がる様を逆回しにしているかのように、見えなくなっていった。
 一瞬激しく体を震わせて、アルベルトはうっすらと目を開けた。背中の下にはベッドがあった。部屋に灯りはついていなかったが、窓で四角く切り取られた外の光が視界に浮かんで見えた。重い雨音がそこから聞こえてくる。時計は昼近くを指していたが、外は分厚い雲が太陽の光を万遍なく吸っているせいで、開けたばかりの目にも柔らかく当たるほどの明るさだった。しかしはっきりと目を開ける気にはなれなかった。ただもう一度眠らせてくれ、という思いだけに憑かれていた。だが彼の意志に反して、体の方は異様な悪寒に抑えつけられ、それが吐きたくなるような覚醒感を催していた。アルベルトは右手を左肩に這わせて強く掴んだ。
 息をするだけでも爬虫類の尾が背中に触れるような感じがした。それでも息をしないわけにはいかない。時折、吐く息と一緒にうめき声のようなものが喉から漏れた。声と一緒に胃液が出てきそうになるのをこらえているうちに、時間だけが音もなく過ぎていった。

 夢だなんて気づかなければよかった。目を開けようなんて思わなければよかった。なぜならあれは間違いなく。



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