黒をかぶったあなたと私      1 2                <<小説置き場へ


 それからどのくらいの間そうしていたのかアルベルトには分からなかった。だがある時ふと、ドアの向こうからドタドタと乱雑な足音がした。そしてまもなく足音の主であろう誰かがそっとドアを開けて入ってきた。誰であるかは足音から見当がついていたので、アルベルトはベッドでそのまま横になってじっとしていた。
「おい、起きてっか?」
 ジェットは小さい声でアルベルトに話しかけた。アルベルトは薄目を開けて、ああ一応起きてる、と言った。
「元気ねえなあ。ま、こんな毎ン日毎ン日くそ冷たい雨がザーザー降ってる時にメンテなんざすりゃ、しゃあねえやな。降ってんのが雪だったらもうちょっとましだったのにな。ついてねえよな、せっかく休み取って来たのによう。ま、今は季節の変わり目だからこんなもんだぜ・・・」
 辛いのは天気やメンテナンスのせいばかりじゃない、とアルベルトは口には出さずにジェットに言ったが、ジェットがああ思っているのならそういうことにしておこう、と思った。
 ジェットが自分を励ますために今のように言ったのはアルベルトにも分かっていたが、こいつのことだから半分は単にちょっかいを出したくてここまでやって来たのだろうという予想もしっかりと頭の中心にあった。そこへさらに、ジェットのメンテナンスはアルベルトのものに比べれば毎回ずっと軽いもので済むという事実が被さって、アルベルトの中にジェットに対して普段なら抱かないような悪感情がぐるぐると渦巻いていた。自分の中にいるそういうことを考える自分を、アルベルトは「屑鉄の蝿」と呼んでいた。これは心の中で何度潰しても、月日をおいてやがてまた現れる厄介な虫だった。だが、自分の中の「屑鉄の蝿」が今こうやって分かりやすく姿を現してくれたおかげで、アルベルトはさっきの夢のことや体の具合のことよりも、そちらを追い払う方に気持ちのほとんどを向けることができた。
「で、あのな、フランソワーズがりんごでもすろうかって言ってんだけど」
「・・・いや、それはいい」
 たったそれだけの返答だったが、アルベルトは声を出す時、自分の言葉にどうか嫌な響きが出ないように、と祈るような気持ちでいた。
「なんだそんなに気持ち悪いのかよ。やべえなあ。よしじゃ、バケツと砂持ってきてやらあ」
 ジェットは真顔でそう言った。アルベルトは喉の奥で増すむかつきを必死で散らしながらこう言った。
「ああもう、そっから先は何も言うな。何もするなっ」
「え? いいのか?」
「いいっ。ああそれからフランソワーズにりんごは要らないって言っておいてくれ」
 ジェットは、ああ分かったよと言い、それから「やっぱりなあ」と言った。何かによって気を晴らされたかのような口調だった。アルベルトはその言い方が少し心に引っかかったので、何がやっぱりなんだとジェットに訊ねた。
「お前、りんご嫌いなんだろ」
 アルベルトは「いや、そういうわけじゃないんだが」と言い返したが、ジェットの方は「んな風に言ったって信じねえぞ」と、言い張るばかりだった。
「俺はちゃーんと見たことあるんだぜ。お前、いつだったかどっかの川のすみっこで、水ん中にりんごを何個も捨ててただろ。うわっ、もったいねえって思ったぜ。俺もう、ぶん殴って説教してやろうかって思ったけど、ま、捨てちまったもんが戻ってくるってわけでもねえから、見なかったことにしてやったんだ」
 アルベルトは最初、体から血の気が引くような思いでジェットの言葉を聞いていたが、聞き終わるとかえってほっとした。
 ジェットが見た光景がアルベルト本人にとって何であったのかと言えば、それは、アルベルトの一人儀式であった。しかしそれは何らかの信仰に基づいてやっているものではなかった。その行為は、「川の水を介した果てにその果実が流れ着く先はどこの世界でもなく、自分の心の中でしかない」という念が根底にあってのものだった。だがそんな思いを抱きながらも、アルベルトはそれを年毎に黙々と続けていた。その果実が魂に届くことはなくても、彼女と自分、少なくともその二人のためにはなるとアルベルトは思っている。思っているだけで、そう信じていたわけではない。心の叫びとでも言うような類の、そしてただそれだけのものだった。ジェットは自分が見たものがそのようなものであるとは思ってもいなかった。
 アルベルトは安心したあまり少し緩んだ顔をしてジェットにこう言った。
「分かった、分かった。観念する。お前の言う通りだ。まあなんだ、普段は自分からは絶対買わないんだが、あの時に限って店の奴に無理矢理押しつけられちまったんだ」
「なんだ、そういうことか。ああ、すっきりした。ま、でもあれだよな。りんごなんて普通、嫌いな奴いないからな。食えねえんだよっつっても、何言ってやがるんだって顔されちまうのが落ちだよなあ」
「そういうことだ。俺だって、好きこのんで食べ物を粗末にしたりはしねえんだ」
 ジェットはまあそりゃそうだよな、とアルベルトの言葉を言われた通りに受け取った。
「あ、じゃあ、フランには適当に言っとく。他になんか要るもんとかあるか? 持ってきてやっから」
 ジェットと軽口を叩き合っていたせいでアルベルトは少し気が紛れて、気分も少し良くなっていた。
「そうだな。・・・水が欲しい」
 ジェットは、ああ分かったと言って部屋から出ていった。アルベルトは少し姿勢を変えたくなったので、体を起こして背中をベッドの背に当てた。
「ったく、目撃者がバカで助かったぜ・・・」
 アルベルトは溜め息混じりにそう呟いた。
 テレビでスポーツでも観戦しているのか、時折下のキッチンから何人かの声が同時に湧き立つのが聞こえてきた。今はもうさっきの夢も、彼女が奇妙な姿で現れたということ以外に思い出せる部分はなかった。もう一度夢の中に入りたいという気持ちもほとんど掻き消えていた。今や「夢じゃないか」と言った自分の声の方に共感していた。
(まあ、時期が時期だからな。だから目を覚ましだしたんだな・・・)
 やがてジェットがデカンタに入った水を持って上がってきた。ジェットは、
「どうせ喉渇いてんだからこういう奴でこのまんま飲んだ方がいいだろ」
 と言って、取っ手の方をアルベルトに向けて差し出した。アルベルトは少し苦笑しながら「ああ、悪かったな」と言ってそれを受け取った。水を一口飲んだところでアルベルトは、
「さっきみんながワアワア言ってたんだが、ありゃ何だったんだ?」
 とジェットに聞いた。するとジェットは、ああテレビでオリンピックのハイライトやってんだ、とだけ答えた。それから少し間をおいて、「なあおい、ところでなあ」と言った。
「てめえさっき部屋ん中で俺のことバカっつっただろ。聞こえたぜ」
 聞こえないように言ったつもりだったのでアルベルトは少し焦った。何とか適当に、言ってねえよと答えたが、ジェットは引き下がらなかった。
「誤魔化すなっ。お前がバカって言う奴なんざ俺しかいねえ!」
「分かってるじゃねえか。お前頭いいな」
 ジェットは「ったく誤魔化してんじゃねえ」と言ってその後もしばらくぶつぶつと文句を垂れていたが、そのうち黙って溜息をついた。そしてそれからまた別のことを言った。
「・・・けどお前ってメンテの後いつもこんなんだったっけ?」
「そんなことはねえよ。せいぜいちょっとだるくなるだけだ。それもほんの半日ばかしな。今回はたまたま風邪ひいちまっただけだ。・・・でもまあ、例えば最初の頃なんかきつかったこともあったかな」
「よく言うぜ、あんだけ暴れまくってた奴が」
「そういう場所が腐るほどあったからな」
 そうして二人は少し笑った。
 適当な無駄話を一通り終えると、ジェットはアルベルトの部屋を出た。階段を降りていく時のジェットの機嫌はいくらか上々だった。「いくらか」と言ったのは、さっきアルベルトに水を持っていくために部屋を出た時は不機嫌だったからだった。本当の所、最初に部屋に入ってアルベルトの様子を見た瞬間に、ジェットなりに嫌な予感はあった。なんて面してやがる、とうっかり口にしそうになるのをジェットはどうにか抑えたのだった。
(あいつ、俺が部屋に入ってきてからずっと俺にむかついてやがった。俺だって一応は心配になって見にきたのに。・・・まあそりゃ、運良きゃチューぐらいできるかなあ、とか思ってたのも事実だが・・・。どうせあいつはこう思ってやがるんだ。お前なんかに分かるか、お前なんかになんにもしてもらいたくねえって。そりゃその通りだ。でも俺が元気でいるのは俺のせいじゃねえ)
 水を渡すまで、ジェットはそう思っていた。もっとも、水が欲しいと言うまでのアルベルトは、ジェットが感じとった以上に禍々しい気分を装甲の内に溜め込んでいたのだが、それでもジェットの気分を害するには充分だった。しかし、後になっていつもの憎まれ口を叩き始めたアルベルトを目にしてしまうと、何となくどうでもよくなった。部屋を出る頃には、俺も考えすぎてたか、とすら思った。
 ジェットが去ってからしばらくの間、アルベルトはベッドにもたれたまま静かにしていたが、そのうちそうしていることにも飽きたので、少し廊下でも歩こうと部屋の外に出た。
 いくらか落ち着いた気持ちで何歩か廊下を歩いていられたのだが、それから突如、魚が鱗を逆立ててぬめりとした身を胃の内側に激しく叩きつけてきたような感覚に襲われた。アルベルトは焦りながら、あともう少しおとなしくしていろ、とその魚に言った。静かに歩いて洗面所に行くと、アルベルトは倒れこむように膝を折った。口から出てきたのはもちろん魚ではなく、ジェットがさっきくれた水と、透明の胃液だった。蛇口をひねって口をすすぎ、それから水で全てを流させた。これでもう後は楽になる、とアルベルトは自分に言い聞かせた。そうして気が抜けると、何がおかしいわけでもないのに顔がひとりでに笑っていた。さっきのジェットの言い草がいくつか頭の中をよぎった。
「あの野郎、毒でも入れやがったな」
 そうひとりごとを呟くと、もうあいつらに顔を見せてもいいだろうと、アルベルトは立ち上がった。窓を見ると、ガラスに冷たい露が無数に張りついて外の様子を見えなくしていた。そのガラス一枚の向こうでは、雲がまだ冬の凍てつきを全て使い切られずにいるようだった。

 ああ、早く起きなければ。

 時は八十年代の半ばへと入っていた頃だった。ベルリンの壁が崩壊し、アルベルトが眠れるヒルダを覆う黒い衣をその手で掴んでしまうのは、まだ少し先のことである。



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