偏愛芸人覚書       ダン・エイクロイド   >>ビル・マーレー   >>他にもいろいろ書けたらいいな・・


Dan Aykroyd
ダン・エイクロイド




本名 ダニエル・エドワード・エイクロイド
1952年7月1日
カナダ オンタリオ州オタワ生まれ
■代表作
「ブルース・ブラザース」(80)エルウッド・ブルース役、脚本(ジョン・ランディスと共同)
「ゴーストバスターズ」(84)レイモンド・スタンツ役、脚本(ハロルド・ライミスと共同)
「コーンヘッズ」(93)ベルダー役、脚本(トム・デイビスらと共同)
他にサタデー・ナイト・ライブ時代の18番として、ニクソン大統領の物真似、マシンガントークの宣伝屋、チェコのバカ兄弟(スティーブ・マーチンとの共演)、ダサキモい「男娼フレッド・ガービン」など。
■BBとGB以外でおすすめのダン映画
大逆転(83)、カウチ・トリップ(88)、マイ・ガール(91)、コーンヘッズ(93)


 ダン・エイクロイドは、共にカナダ政府の関係者である両親の間に生まれた。ダン一家はダンが幼い頃にオタワからフランス系のケベック州に移ったのだが、彼らが暮らしたハル(現:ガティノー)には刑務所があり、モントリオールから囚人たちが大勢送られてくる所であった。また、ダンの母方の祖父は農場の経営者である一方、カナダ王立騎馬警官でもあった。一方、父方の祖父母は、ダンの実弟ピーターの語るところによれば霊媒体質であったそうである。この祖父母宅では降霊術の会が頻繁に行われ、父はダンを連れてよくそこへ行っていたそうだ。後に様々なジャンルのマニアとなるダンであるが、それらのうち警察関係と超常現象に対する造詣の深さは、彼がこういった環境で育ったことを考えれば納得できる。

 幼い頃のダンは両親にとってひたすら手のかかる子供であった。喋りたい時は例え授業中でもマシンガンのように喋りまくり、一旦感情が爆発すれば見境なく暴れ・・・、要するに彼は子供の頃から「ダン・エイクロイド」だった。両親はダンを心配して、カウンセラーに診てもらったり、情操のために観劇に連れて行ったりした。また、少しでも真面目さを植えつけようと、父はコネを使ってダンに次から次へと(主に肉体労働系の)アルバイトをやらせた。しかし両親にとっては悲しいことに、ダンは成長すればするほど不良少年になっていった。父が懲罰としてダンをベルトで打つこともしばしであった。矯正も兼ねてダンは中学からカソリック・スクールに入れられるが、それから高等教育を修了するまでの間、彼は素行不良のために何校かの学校を転々とした。何と言うか、もう絵に描いたようなええとこ育ちのドラ息子であったのだった。

 高校卒業後、ダンはオタワのカールトン大学に入学し、自身の趣味に関係した犯罪学と社会学を専攻した。しかしその一方で、友人たちとのバンド活動や、演劇活動(コメディ)に熱中し、やがて後者の方に入れ込むあまり大学は一年ほどで辞めてしまった。ダンはオタワからトロントへ引越し、これまでのバンド活動や演劇活動と並行して、演劇仲間の一人であるヴァルリー・ブロムフィールドというコメディエンヌとコンビを組んで、クラブやバーなどでスケッチ(寸劇。コントのようなもの)をやり始めた。それからしばらく後、トロントの子供向けの芝居に参加したヴァルリー・ブロムフィールドは、共演者の一人としてジョン・キャンディと知り合う。やがてヴァルリー・ブロムフィールドはジョン・キャンディをダンに紹介した。とにかくやかましいダンと違ってジョン・キャンディは内気で恥ずかしがり屋だったが、二人は互いに親友となった。

 ダン・エイクロイド、ヴァルリー・ブロムフィールド、ジョン・キャンディらはその後、シカゴの有名なコメディ即興劇団「セカンド・シティ」トロント支部創設に伴う団員募集のオーディションを受けた。結果は三人とも合格。同時期に合格した者の中には、後にサタデー・ナイト・ライブでダンと共にレギュラーの一員となるギルダ・ラドナーがいた。トロント支部は当初、ずさんな経営のために解散状態となったこともあったが、その後資金集めや宣伝に長けた協力者の出現により持ち直し、やがてトロントでも一目置かれるコメディ劇団に成長していった。なお、当時のトロント支部にはダン・エイクロイド、ギルダ・ラドナー、ジョン・キャンディの他に、ユージーン・レヴィ(『みんなのうた』、『ドッグ・ショウ!』の主役、『アメリカン・パイ』の父親役など)や、キャサリン・オハラ(『ホーム・アローン』の母親役)がいた。劇団の黎明期を支えた彼らは、その後70年代から現在に到るまでのアメリカのコメディ映画で重要な役割を担うこととなる(ちなみにダンがセカンド・シティを抜ける1975年頃に『サボテン・ブラザーズ』のマーティン・ショートや、『ミクロキッズ』のリック・モラニスが入ってきている)。

 ダンがセカンド・シティで活躍し始めた頃、アメリカではジョン・ベルーシがニューヨークで活躍し始めていた。ジョンはもともとシカゴのセカンド・シティのレギュラーだったのだが、若者向けパロディ雑誌「ナショナル・ランプーン」を発行しているランプーン社に誘われ、劇団を退団して、「ナショナル・ランプーン」から派生した舞台やラジオ番組に出演していた。ジョンはそれらにおけるパフォーマンスで一部のニューヨーカーの間ではすでに話題の人となっていた。1974年の秋、それまでパフォーマーとして参加していた「ナショナル・ランプーン・ラジオアワー」でディレクターも兼任することとなったジョンは、新たな出演者を求めてトロントのセカンド・シティへやってきた。その時楽屋で初めて顔を合わせたジョンとダンはすぐに意気投合し、その日は二人でいきなり舞台に出て台本なしで(セカンド・シティのコメディは大半が台本なしではあるが)客に掛け合いを披露した。その日、ジョンはもちろんダンをラジオ番組に誘ったが、ダンはすでに別の仕事と契約していたため、この話は流れた。ダンはその日の晩、自分が無認可で経営しているバーにジョンを招待し、自分が好きなブルースをジョンに聞かせた。シカゴ出身でありながらブルースを全く聞いたことがなかったジョンだったが、ダンによって初めてブルースの魅力に触れ、大いに聞き惚れた。これが後のブルース・ブラザーズ結成のもととなったことは言うまでもない。

 1975年、ジョンから強く求められて10月からの新番組「サタデー・ナイト」(後の『サタデー・ナイト・ライブ』)のオーディションを受けたダンは見事合格し、レギュラーとして参加。ドラッグ、差別、政治腐敗など危ないネタ満載の同番組は爆発的にヒットし、アメリカの国民的番組となったが、シーズンが進むにつれて番組内の人間関係が悪化していった。特に番組プロデューサーのローン・マイケルズとの対立はすさまじく、1979年に番組の第4シーズンが終わると、ジョンとダンは番組を去った。もちろん、新天地はほぼ万全の状態で用意されていた。それが「ブルース・ブラザース」だった。
 ちなみに二人はこれより前、78年の「アニマル・ハウス」で共演する予定だったが、SNLプロデューサーのローン・マイケルズがダンの出演を邪魔したため、ダンはこの作品に参加できなかった。と、こうやって書くとまるでローン・マイケルズが悪い人であるかのようだが、実際悪い人なのでいいのだ。

 「ブルース・ブラザース」は大ヒットしたが、それからわずか二年後、ジョン・ベルーシはドラッグの過剰摂取により33歳の若さで世を去った。SNL時代からジョンのドラッグ癖はその量も種類も並外れており、それによる仕事や人間関係でのトラブルは日常茶飯事だった(そりゃもう昼間から怪物が襲ってきたりするのだから、本人にしてみれば大変なのだが)。ダンもドラッグと全く無縁だったわけではないが、仕事に支障をきたすようなやり方はしなかった。ダンがドラッグ(や、その他いろいろ)のことでジョンに説教したことは一度や二度ではなかったが、何をどう言っても空振りに終わるのが常であった。ジョンの妻、ジュディもジョンにドラッグをやめるよう説得し続けたが、ジョンが彼らからの言葉を実行することはついになかった。そうして訪れたジョンの死であった。

 ジョンの葬儀は「できるだけ愉快に送り出してやろう」というダンとジュディの思いから、ジョン・ベルーシ夫妻の別荘とダンの別荘があるマーサズ・ビンヤード島で、家族・友人・仕事仲間らによって盛大に行われた。ジョンを乗せた霊柩車が教会から墓地までを走る間、ダンはハーレー・ダビッドソンにまたがってそれの先導をした。そうしてジョンはジュディやダン、その他多くの友人たちとの楽しい思い出が詰まったその地へ葬られた。

 ジョンの死後もダンは精力的に映画出演を続けた。原案・出演を兼任した「ゴーストバスターズ」は世界的に大ヒットし、その後もコメディ映画の主役・脇役の両方で活躍した。しかし最近は良作に縁がない。今の彼のぱっとしなさ加減を見ているとつくづく、薬で死んだあの人やこの人(例えばリバー・フェニックスとかね)が生きていたら、と思わずにはいられない。もちろん、どんな映画に出ていてもダンはマーベラスなのだが。最近のインタビューでの発言を要約すると、「今は映画からは退いている身。取り敢えずこれが最後だって思える作品に出たら、もう隠遁するつもり」てな感じである。うえぇ〜んっ、そんなこと言わないでよう。

【この他ダンに関する雑学イロイロ】
■バイク、自動車、自転車など、タイヤがついた乗り物をキチガイのように愛している。家にはパトカーや消防車や救急車まである(どう乗り回しているのだろう)。また、大のスピード狂で時速200キロ出すのは彼の中では普通。でも飛行機は恐い(謎)。

■警察関係のグッズをキチガイのように愛している。バッヂや制帽、制服、警棒、ホルスターなどを多種所有している。もちろん、白バイやパトカーも持っている。

■武器などミリタリー関連物をキチガイ(以下略)。一時期交際していたキャリー・フィッシャーが言うには、「ダンって言えば武器に車に物真似よ」だそうだ。

■ダンはキャリー・フィッシャーとつきあっていた。もともと彼女はジョン・ベルーシの友人で、ジョンがダンとキャリーをぶっつけデートさせたのがきっかけでつきあい始めた。ダンはキャリーにプロポーズまでしたが、なんでか二人は別れてしまった。ジョンが残念がったのは言うまでもない。ちなみにその後、キャリー・フィッシャーは83年8月にポール・サイモンと結婚するが、その年のうちに離婚(謎)。

■ダンは両足とも第二指と第三指がくっついている。合指症(ごうししょう)って奴である。SNLのライターの一人、ニール・レヴィはダンの足を見たことがあった。ニール・レヴィがそれについて聞くと、ダンは「俺はアトミック・ミュータントなんだ」と答えた。ちなみにダンの指は、SNLのライター、マイケル・オドナヒューが79年に作った「MR.MIKE’S MOND VIDEO」で見ることができる。て、まあこの際なので以下に画像を何枚か貼りつけておく。
「MR.MIKE’S MOND VIDEO」より

■「大逆転」、「マイ・ガール」で共演したジェイミー・リー・カーティス曰く、「ダンはベスト“screen kisser”」。

■ダンは「Dr.デトロイトを探せ!」で共演したドナ・ディクソンと1983年に結婚し、彼女との間に現在まで三人の娘が生まれている。で、ドナ・ディクソンが初婚かと思っていたんだが、どうやらそれ以前の1974年にMaureen Lewisなる女性と結婚したことがあり、彼女との間にマーク、ロイド、オスカーという名の三人の息子をなしたものの離婚した、というらしい。IMDbにも「74年にMaureen Lewisと結婚、後離婚。三子あり」というような記述がある。マジ!?
 以前ダンのファンクラブの掲示板で、ノルウェーから「ダンがドナ・ディクソンの前に別の人と結婚してて三人の子供がいるってホント? 誰かプリーズ・アンサー・ミー!!」という書き込みがあった(日付は2003年4月13日)。しばらくして誰かが「そんなものはでっち上げ」とレスをつけていた(同年5月3日)。ダンのファンサイト、† The Dan Aykroyd Experience †のバイオグラフィーでもダンの初婚についての噂は、「どこぞのもんが作った話によれば」などと紹介されていた。私もそう思いたいねえ。でも、もし本当だったらそれはそれでスゴイよな(笑)。