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  Bill Murray
ビル・マーレー




本名 ウィリアム・ジェームス・マーレー
1950年9月21日
イリノイ州ウィルメッテ生まれ
●ビルお誕生日おめでとう 2004.09.21up
●対談・ウェス・アンダーソン「天才マックスの世界」 2005.04.06up
■代表作
「ゴーストバスターズ」(84)ピーター・ベンクマン役
「リトルショップ・オブ・ホラーズ」(86)アーサー・デントン(歯科医に来たマゾの患者)
「恋はデジャ・ブ」(93)フィル・コナーズ役(主役の天気予報士)
「天才マックスの世界」(98)ハーマン・ブルーム役(主人公のマックスと未亡人の教師をとり合う鉄工会社社長)
 他にサタデー・ナイト・ライブ時代の18番として、ナルシストの「ラウンジ歌手ニック」、顔もファッションもダサいくせにガールフレンドに対してやたらと嫉妬深い「ナーズ」のトッド、英語が話せない上に仕事でも異常にトロい「ギリシャレストラン・オリンピア」の店員ニコ、マーティン・シーンがホストの回にやったコッポラの物真似など。ちなみにビルがSNLのレギュラーだったのは全五シーズン続いた第一期のうち、第二シーズンから第五シーズンまで。
■代表作以外でおすすめのビル映画
「キングピン ストライクへの道」(96)。脇役ではあるが、とにかく悪くて下品な役で素晴らしい。間違いなくビルの最高傑作。これを超えるものは恐らく生涯ないだろう。


 ビルの友人たちは彼を評してこう言う。
「中身はまるでお嬢ちゃまさ。頭を縦ロールとかにしてそうなね」
「ビルにはいいビルの時と悪いビルの時がある。で、まあいい時はいいんだけど、悪い時は・・・奴とは目を合わせないのが身のためだね」
 つかみ所のない芸風からは想像しにくいが、ハリウッドでも有数の扱いに困る人間、それがビル・マーレーだ。サタデー・ナイト・ライブの泥沼の人間模様を描いた暴露本、「Saturday Night」の中にあっても舞台裏でのビル・マーレーの人となりの部分は、コールタールをぶちまけたかのように一際黒く輝いている。その凶暴さと嫉妬深さ、そして酒。ろくでなしばかりのパフォーマーたち、ライターたちの中でも、これらに関してビルにかなう者はいなかった(まあ詳しくはうちの同人誌“The Wild and Crazy Guys”を参照のこと)。はっきり言ってビルは人として動物である。

 ビル・マーレーはアイルランド系の両親のもと、五番目の子供として1950年に生まれた。ビルの上には二人の兄と二人の姉がおり、その後、ビルのすぐ下に妹が生まれ、続いて弟が三人生まれた。多すぎ! って感じだが、これは貧乏人の子沢山というのとは違う。カソリックは夫婦間のセックスについて、「夫婦はセックスして子供を産んでナンボ。避妊や中絶なんてしたらバチが当たる。ただし危険日を外してヤる分にはオケー」と(概ね)定義しているからである(例えば『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ男爵家があんなにたくさん子供がいるのは彼らがカソリックだからだ)。要するにビルの両親は信心深い人たちだったのだ。
 ビルの故郷ウィルメッテはシカゴからミシガン湖沿いに北へ約20キロの所に位置し、国内でも有数の高級住宅街として知られている町だが、マーレー家自体は近隣の人々ほど豊かではなかった。ビルは中学・高校と、地元の公立高校ではなくイエズス会系の男子校、ロヨラ学園に通ったのだが、高校時代、自分の自動車を持っていないのは友人たちの中で彼だけだった。

 ビルの父、エドワードは材木会社のセールスマンだったが、ビルが17歳の時に病死。その後、ビルがどういったシステムに頼ったのかは分からないが、彼はコロラド州デンバーにあるレジス・カレッジの医学部に進学した。しかし、入学してからすぐに勉強量に嫌気が差して遊んでばかりいるようになり、やがてマリファナの売買に手を染めるようになった。だが、ある日ブツをオヘア空港に持ち込んだところを見つかって逮捕され、大学もクビになった。もう安かろう悪かろう人生まっしぐらである。
 故郷に戻ったビルはその場仕事で日銭を稼ぐが、やがて、シカゴのコメディ即興劇団セカンド・シティに入っていた次兄ブライアンの影響もあってコメディに興味を示すようになった(当時セカンド・シティのレギュラー団員には、兄ブライアンの他にジョン・ベルーシ、ハロルド・ライミスがいた)。演劇に関してビルは全くの素人だったが、セカンド・シティのワークショップの試験を受けたところなぜか合格。ワークショップと地方巡業を経た後、セカンド・シティのレギュラーとなった。その後、一足先にニューヨークへ進出していたジョン・ベルーシに誘われて「ナショナル・ランプーン・ラジオアワー」のレギュラーに入れられた。

 1975年9月、ビルはABCテレビの新番組「サタデー・ナイト・ライブ・ウィズ・ハワード・コッセル」に兄のブライアンや、ラジオアワーで同じくレギュラーだったクリストファー・ゲストらと共に参加するが、番組は1クール余りで打ち切りとなってしまった。しかし、チェビー・チェイスが降板した後のSNLに代わりのレギュラーとして選ばれ、1977年1月から同番組の新レギュラーとして参加。だが当初はチェビーの人気や他のレギュラー陣たちの人気上昇に抑えつけられて、番組中でもミソ扱いだった。ちなみにビルはこの頃についての愚痴を02年に発行されたSNLのインタビュー本「Live From New York」の中で散々垂れているのだが、これとほぼ同じようなことを遥か昔81年のローリングストーン誌8月20日号でも言っている。しつこ・・いやいやよっぽどトラウマだったのだろう。しかしやはりビルはビル、いつまでもくすぶっていたわけではない。参入したシーズンの最終回オンエアで自らの発案による「シャワー・マイク」(後のラウンジ歌手ニックの原型)がヒット。これをきっかけに視聴者から徐々に人気を獲得していった。

 人気は得たものの、自身の気まぐれかつ凶暴な性格のために番組内でビルは同僚らとの衝突が絶えなかった。第三シーズンでホストとしてやってきたチェビー・チェイスに罵詈雑言を浴びせた挙句、大乱闘になったなんてのは氷山の一角である。もっとも、SNLの人間関係はビルを抜きにしても険悪なもので(まあ誰もが人一倍自己主張が強いのだからさもありなんである)、番組末期においては長年続いてきたがゆえの疲弊もあいまって、内実共に崩壊寸前だった。そして1980年、SNLのライターの一人、アル・フランケンが番組の中で当時のNBCテレビの会長、フレッド・シルバーマンを罵倒するギャグを言ったことにより当の会長の逆鱗に触れ、番組プロデューサー、レギュラー・パフォーマー、その他多くのスタッフの契約更新が打ち切られた。こうして、後に「SNL第一期」と呼ばれた時期は終わった。
 なお、このSNL以降でビルがテレビのバラエティ番組やシットコムのレギュラーをつとめたケースは皆無である(SNLのホストとして出たり、トークショーのゲストなど、単発で出たりすることはあるが)。それについてビルはこう語っている。
「だってここ(SNL)以上の番組なんてありっこないだろ」

 SNL降板後、ビルはシカゴのセカンド・シティ時代からのコメディ仲間であるハロルド・ライミスや、ニューヨークの「ナショナル・ランプーン・ショー」で出会ったアイバン・ライトマンらと共に映画に活躍の場を移し、「ボールズ・ボールズ」、「パラダイス・アーミー」といったヒット作を世に出した。その後、ジョン・ベルーシが主演するはずだった「ゴーストバスターズ」の、ジョン・ベルーシの急死によって空いた主役の座にビルが抜擢された。84年に公開された同作品は世界的にヒットするが、その直後に公開された主演と脚本を兼ねたシリアス作品、「剃刀の刃」は大コケ。本人としては相当に力を込めた作品だっただけにショックが激しかったのだろう、しばらくの間ビルは妻子と共にパリに移り住み、フランク・オズ監督の「リトルショップ・オブ・ホラーズ」(86)へのカメオ出演などの小規模な仕事を除いて、ショービジネスとは無縁の暮らしを送った。

 その後88年に「3人のゴースト」でカムバックするも、映画自体は思ったほどのヒットにはならなかった。89年には「ゴーストバスターズ2」、90年には初監督作として「クイック・チェンジ」を世に出したが、いずれもヒットはせず評価も思わしくなかった。もはや落ち目かと思われたが、91年、フランク・オズ監督の「おつむてんてんクリニック」が作品としての規模に比して予想外の当たりをとばし、さらに93年、互いに勝手知ったるハロルド・ライミスと組んだ「恋はデジャ・ブ」が全米で大ヒットしたことにより、ようやく復活を果たした。

 その後ビルにさらなる成功をもたらしたのが98年のウェス・アンダーソン監督による「天才マックスの世界」だった。「天才マックスの世界」は、床屋の父と二人で暮らしているマックスが、お金持ちの子供ばかりが通う名門私立学園、ラシュモア高校で繰り広げる珍妙な青春を描いたコメディである。本作でビルはマックスの友人(?)であり彼と美人女性教師を巡って争うハーマン・ブルームを好演。この一風変わった作品はビルの演技ともども批評家から大絶賛され、アメリカン・コメディ・アワード、ゴールデン・サテライト・アワード、インディペンデント・スピリット・アワード、L.A.映画批評家協会賞、全米映画批評家協会賞、N.Y.映画批評家協会賞で助演男優賞を受賞し、ゴールデン・グローブ賞の助演男優賞にもノミネートされた。「剃刀の刃」から14年、ようやくビルの演技は世間に広く認められたのであった。
 もっともこの後も「チャーリーズ・エンジェル」の現場でルーシー・リューと大喧嘩してルーシー・リューからビンタされたり、2004年に開かれたアカデミー賞で、「ロスト・イン・トランスレーション」で主演男優賞にノミネートされたものの受賞を逃し、挙句式後に暴言を吐いたりと、エエ年になっても相変わらずの困ったちゃんだが、そんな所も含めて好きでならない。これからも頑張って欲しいぞ、ビル!


【その他ビルに関する雑学イロイロ】
■ビルはSNLの最初のオーディションを受けに行ったが、この時は落とされている。演技がまだ未熟だったせいもあるが、ビルのやんちゃっぷりを人づてに聞いて知っていたローン・マイケルズが彼の起用を渋ったのである(まあSNLのレギュラーはほぼ全員問題児だったので、誰の採用についても迷いはつきものだったのだが)。もっともビル自身はすでに「サタデー・ナイト・ライブ・ウィズ・ハワード・コッセル」に採用が決まっていた。

■多くのコメディアンがそうであるように、ビルもまた映画ではセリフのほとんどをアドリブで言う。「だってその時その時正直に浮かんだことを表現しなきゃリアルじゃないだろ」とは本人の弁。いや人間、普通はそんなに中身コロコロ変わらないと思うんですけど。
 もとからアドリブ連発する芸風だったわけなのだが、「トッツィー」(82)で共演したダスティン・ホフマンが脚本を無視してリハのたびに違う演じ方をしていたのを見て一層己の芸風に確信を抱いたようである。ま、でもダスティン・ホフマンっていったら演技に関しちゃとにかく濃ゆい&粘着系の人だからなあ。そんなん見て「これでいいのだ」って思っちゃうのもまずいような気が。

■ビルはエージェントに連絡先を教えない。ハロルド・ライミス曰く、「ビルはよっぽど親しい人からのじゃない限り、絶対に電話はとらない。ちなみに僕もここ最近はチャレンジしていないよ。近頃のビルが誰とどこで話しているのか、見当もつかないね」だそうだ。あんなにたくさん一緒に仕事をしたのに寂しいねえ。
 ビルと仕事をしたい人に向けて、ハロルド・ライミスはこんなアドバイスをしている。
「ビルと仕事をしたいなら、まずスケジュールをかっちり作っちゃったりしないことだ。撮影開始の二、三週間前くらいかな、その辺りからぐんとやる気をだしてくれるから。で、そっから先だったらもう彼は完璧に滅私奉公してくれるよ」
 ちなみにエージェントに連絡先を教えていないことに関してビルはこう言っている。
「ま、普通だったら仕事なくすけどな。でも俺はこれが好きだからそうしてる」

■子供は全部で六人。80年に結婚したシカゴ出身の女性マーガレット・ケリー(愛称ミッキー。後に離婚)との間に二人、97年に再婚したファッションデザイナーのジェニファー・バトラーとの間に四人。ん? ジェニファーとの間に最初に生まれたジャクソン君は93年生まれ。てことは・・・。
 離婚はしても避妊はしない。ビルは立派なカソリック(ちなみに子供は全員男)。

■SNL時代、ビルは同じレギュラーのギルダ・ラドナーとつきあっていた。二人が共演したスケッチを見てみると、どさくさにまぎれてビルがギルダにチューしたり、不自然なまでにねちゃねちゃくっついていたりしているのが多かったりするのはそのせい。レギュラーの一人ジェーン・カーティンは当時、衣装部屋で二人がヤっているのを見たことがあるらしい。
 もっともビルがこういう性格なので蜜月は長続きしなかった。プロデューサーのローン・マイケルズがギルダを事実上特別扱いしていたのも二人の仲に亀裂を入れた(ローンはもちろんビルのことを嫌っていた)。ちなみに振ったのはギルダの方から。ビルの方は未練たらたらだったみたいだが(だったらそれ以前に普段からきちんとしてりゃあいいのに、それができないのがビルのビルたる所以)。

■上に飾ってある写真はサウナ帰りをキャッチ! とかではなく、01年8月7日に開かれたプレミア試写でのもの。ちなみにその映画はビル主演、ファレリー兄弟監督の「バクテリア・ウォーズ」。しかしローレンス・フィッシュバーンとか他の共演者はハリウッドのセレブらしくビシっとした格好で来ているのにビルって奴は・・・。でもビル自身は子連れでやって来ていてゴキゲンだった。だけど子供にとってアノ映画を父親と一緒に見るってのはどうなのだろう。

■信じられないことだが、ああ見えておフランス語がペラペラだったりする。